岐阜城下町を発展させた長良川と名物の鵜飼をご案内します。
六十九次 |
岐阜県岐阜市 美濃国 JR東海線岐阜駅下車 |
「長良川と鵜飼物語」の巻は、「長良川鵜飼」、将軍献上鮎鮨と源頼朝、長良川渡し物語、長良川古川と古々川、
鵜匠と宮内庁式部職、長良川役所跡と付問屋跡、鵜飼観覧船造船所、長良川遊覧船事務所、鵜飼観覧船待合所2階で
落語の祖・安楽庵策伝ゆかりの地の無料寄席、「川端康成ゆかりの地」碑、今も残る「小紅の渡し」
鏡島弘法「乙津寺」、「岐阜市内電車」など紹介します。
長良川の鵜飼い
長良川源流から、「鵜飼い」将軍献上「鮎鮨」の由来、「鵜匠」の由来など紹介
長良川の源流は大日岳
幽玄の時代絵巻を闇の中に見せてくれる、鵜飼いの舞台となる長良の源流は奥飛騨か? 違います奥美濃です。 長良川の源は岐阜県の西北部「奥美濃」の郡上郡高鷲村大日岳(標高1,700m)です。 |
信長と鵜飼い その中で何故か長良川の鵜飼いのみ朝廷に保護され廃れることなく伝わったのです。(そのわけは下欄にあります) 岐阜市の上流の関市にも「小瀬(おぜ)鵜飼い」があります。 |
長良川の鵜飼は長良鵜飼と小瀬(おぜ)鵜飼です |
長良橋のたもとの舟溜まり
シーズンに入った長良川の「鵜飼い」は、長良橋袂が出発地点です。 この歴史ある漁法は長良川の漆黒の中に浮かび上がって幽玄の世界に私たちを導いてくれるのです。 そんな昔から連綿と行われきた情緒ある漁法ですが、現在は観光目的のため、毎年5月11日〜10月15日まで連日行われています。 |
川端康成文学碑 |
川端康成「篝火」ゆかりの地 長良川の南岸たもとの一角にある小公園に文豪・川端康成ゆかりの碑があります。 川端康成は大正十年頃三回にわたって友人と岐阜を訪問しています。 その理由は、彼が想いを寄せた「みち子(岐阜市加納新本町1丁目西方寺の養女となった本名は伊藤初代さん)」という女性に会うためでした。 このときの体験を「篝火」「非常」「南方の火」などの短編小説に描がきました。 この小説から彼の淡く切ない思いを胸に、二人の足跡を辿ってみると。 先ずはみち子が東京から移り住んだといわれるJR岐阜駅南の西方寺へ。(美濃加納宿−2に西方寺の詳細あり) ここで川端康成は和尚の壁塗りの手伝いをするみち子の姿をそっとのぞき見したと小説に描かれています。 街中といえど現在も静かな佇まいを見せる西方寺。 この塀越しに、どんな想いで愛しい女性を眺めていたのでしょうか。 次にJR岐阜駅へと足をのばします。 かって駅の構内に架かっていた陸橋からみち子は東京へ行く汽車を飽かず眺めていたという。 現在駅は高架となり陸橋は跡形もなくなっています。 そこから駅の北へ出て、市役所前にある写真館へ。 ここは二人が一緒に写真をとった場所です。(この辺りに古くからある写真館は「瀬古写真館」) そこから北へ、長良川河畔へ。 「篝火」の中では結婚を約束をした幸せな二人はこの長良河畔にある宿の二階から、長良川を下ってくる鵜船を見る様子が描かれています。 その一節を記念して2006年に「川端康成ゆかりの地」の碑が建てられました。 |
小説「篝火」のなかでみち子が東京へ行く汽車を眺めていた岐阜駅の陸橋の画像(中央) | 同じく今でもある市役所前にある「瀬古写真館」。 |
芭蕉の句碑などと一緒に並んでいます。 |
芭蕉の句碑 「おもしろうて やがて悲しき鵜舟かな」の句碑。 この句は有名な「奥の細道」長旅のあと芭蕉が、2回目の紀行、元禄元年(1688年)旅「笈の小文の旅」の終わりに大阪から江戸へ向かう途中、大垣の矢橋木巴亭(明治時代の近代建築が流行したとき、大理石輸入で財をなし、広大な牡丹園を毎年公開して有名)に一泊、その後岐阜、日野中河原の商人「賀嶋鴎歩」方の別邸に1ケ月滞在したときに読んだ句です。 |
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おもしろうて やがて悲しき鵜舟かな 芭蕉 |
鵜匠頭 山下幹司翁碑も並んでいます |
明冶43年に建てられた織田信長の菩提寺・神護山崇福寺まで「従是七丁(これより700m)」の碑 |
斎藤道三公墳・従崇福寺まで従是西約壱丁西北八丁の碑 |
「十八楼別館」 長良橋袂に「十八楼別館」があります。 この「十八楼」の名前の由来は芭蕉が滞在した「賀嶋鴎歩」方の別邸に命名した名前で由緒あるものです。 「此のあたり 目に見ゆるものは 皆涼し」はせを 伊奈波神社 「山かげや身をやしなはむ 瓜ばたけ」(芭蕉) 岐阜公園三重の塔下 「城跡や古井の清水 先とはむ」(芭蕉) 法久寺境内 「夏来ても ただひとつ葉の 一葉かな」(芭蕉) |
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昭和天皇も鵜飼い好き!?
まだお元気な頃、「日野の渡し」付近で、鵜飼いをご覧に成られなした。 |
ふらりと行って鵜飼いが見たい!
長良橋のたもとに「遊覧船事務所」があり、鵜飼い観光の申し込みはここでします。 申し込みは 「岐阜市鵜飼事務所」(長良橋袂) |
川原町 川原町という名は、湊町・玉井町・元浜町一帯の総称として古くから使われてきました。 斎藤道三・信長の時代に市場が開かれ商業の拠点として繁栄し、江戸時代には長良川役所が置かれ、紙問屋や材木商などが軒を連ね、その名残を現在の格子のある町家などに留められています。(岐阜市長) |
鵜飼観覧船待合所で落語を |
渡しの地蔵堂 |
川湊灯台の脇にはいろんな碑が車に挟まれて並んでいます。 |
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湊町から元浜町までの古い家並みは、お店が殆どないので、買い物を楽しめないので閑散としています |
湊町かいわい
「岐阜市鵜飼事務所」(長良橋袂)界隈の「湊町」から西の続く「玉井町」 は戦災にも遭わず、古い家並みが並び、お土産屋さんも少しあります。 |
老舗旅館「十八楼」が曳家 |
鵜匠の衣装は消防士の衣装 頭には篝火の火の粉から髪の毛を守るため、紺麻で出来た風折烏帽子(かざおりえぼし)をかぶり、 作業衣も火の粉に強い紺麻の一重の筒袖で袖口はコハゼで留め、前垂れ風の胸当てをその上にまといます。 胸当てにはポケットがあり、手縄の修理用具などを入れておきます。 腰にはわら製の腰蓑を巻き、素足に半足(つま先だけのわら草履)を履きます。 夏の暑さの残る河原やこけの生えた川底の石にも滑らないためです。(写真の6人が宮内省式部職、「鵜匠」の肩書き) |
鵜匠の衣装 |
やがて夜のとばりも降りると |
鵜匠は最大12羽の鵜を操ります |
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鵜飼い漁法の説明
鵜飼いは5/11〜10/15の満月、増水時以外、毎夜7:30頃から行われます。 鵜匠さんは宮内庁式部職の国家公務員です |
鵜の繋ぎ方 |
「鮎鮨」将軍献上のいわれ |
大宝二年(702年) 公式文献に「鵜飼」の記述が登場するのはの戸籍に長良川近くに「鵜飼」で生活する村の存在があり、それが1,300年の伝統の根拠となっています。 有史前からの漁法で全国で行われていた「鵜飼」が岐阜地方だけ注目されたのは、歴代の権力者に守られてきたからと言われています。 平治元年(1159年)、平治の乱 平治元年(1159年)、源義朝は平治の乱に破れ逃走。 その子頼朝も後に従ったが長良川下流で道に迷い、鵜飼いの家に宿を求めて、もてなしを受けました。 父親義朝は我が子とはぐれ少数の家来とともに知多半島の野間の、かっての家来の家に宿を求め、風呂に入った隙に殺されました。 鎌倉に幕府を開いた頼朝に一夜のもてなしをした縁で鮎鮨が献上されたのが、以降、幕府への献上が恒例となりました。 「鵜匠」の称号 また、「鵜匠」の称号を与えたのは織田信長であり、徳川家康も手厚く保護しました。 家康は、腐りやすい鮨を早く江戸まで運べるよう街道(鮎鮨街道)整備や問屋(運用機関)に御用提灯を許すなどの整備もしました。 明治維新で一度廃れましたが、明治23年に明治天皇の行幸があり鵜飼いをご覧になってから御漁場(岐阜市日野=対岸に大きな碑があります)が設けられ宮内庁の管轄に入りました。 美濃町曽代の「御漁場」の想い出 将軍に鮎鮨を献上するルーツは? 将軍に献上される「鮎鮨」の由来と”源頼朝”
「平治の乱」が縁 後に頼朝が将軍になったのを縁に昔もてなした「鮎鮨」を献上し、以来将軍に献上するのが習いとなったようです。 「織田信長」 「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」 「鮎鮨街道」 |
「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」 東海道が整備され各宿の問屋場がおかれるとシーズン中は腐りやすい「鮎鮨」を月に6回も江戸間で数日で運ばせ、 将軍に献上しました。 それを運ぶ苦労は大変なものだったようですが、尾張家の費用も大変だった様です。 「鮎鮨街道」 岐阜町の「お鮨所」から加納問屋、笠松街道(鮎鮨街道)で笠松問屋、木曽川を渡って一宮問屋、 名古屋と受け継がれて運ばれたようです。 1区間14人の人足が担当したようです。 |
長良川湊付近は長良川の物流を取り締まるため役所を置いていました
長良川役所と 岐阜市御手洗 |
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場所は長良川の近くです |
長良川役所と付問屋 |
当時の絵図 |
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川役所跡(川荷税関) |
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伝統の鵜飼と観光の楽しさを満喫していただくように観覧船を和船で過ごしていただくよう岐阜市は和船の造船所を持っています
鵜飼観覧船造船所 岐阜市御手洗 |
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長良川と金華山の麓の間8岐阜市御手洗)にあります |
見学も自由に出来ます 問い合わせは岐阜市鵜飼観覧船事務所(TEL058−262−0104)です。 |
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岐阜市も長良川鵜飼観光を和船で伝統の世界を楽しんでもらおうと和船の造船に力を入れています | |
和船独特の反りも重要なポイントです |
船材は高野槙 和船といっても貴重な船材「高野槙」を長持ちさせるため表面はFRPでコーティングしてあります |
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完成後長良川まで運搬するのが大変なようです |
ではここで長良川鵜飼をご案内します
ぎふ長良川の鵜飼 |
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観覧船の準備 |
観覧船の受付(17:30〜)
乗船には予約が必要です(インターネットでも申し込めます)
初代の長良橋は「明七橋」 |
昭和29年頃の旧長良橋 大正4年(1915)に架橋され、橋面は板張りで横を車が通ると板が振動し歩いている人はフラフラした記憶があります。 現在、市内の長良川には平成15年開通の「鵜飼い大橋」など11の橋が架かり、岐阜市の南北を結んでいます。 |
鵜飼説明 |
乗船前に中央の台の上で鵜匠が説明します |
説明が終わると順次乗船して川へ出ます |
出 船 |
未だ陽が高いのでゆっくりと各船は上流へ移動します | |
金華山の岐阜城が夕日に輝いていました | 各旅館やホテルに宿泊の人は旅館前から乗船できます |
川風に吹かれて涼しいひと時を過ごします |
鵜を乗せて鵜匠もまわし場(支度する場所)へ向かいます |
まわし場(川岸)に停泊し |
鵜匠は宮内庁式部職 式部職職員は全部で6名です |
風折烏帽子(かざおりえぼし) 手拭ほどの大きさの布を巻いて篝火の火の粉を防ぎます |
足中(あしなか) |
首結いの結び方の説明 鵜が動きやすく大きな魚は胃の中へ入らない様に、腹掛け (腹に結ぶ紐)は鵜匠が操作しやすいように結びます。 |
実際に鮎を呑ませて見せてくれます | 次の観覧船へ説明に向います |
物売り船 |
売店船が時々回ってくれてビールやつまみ花火などを売ってくれます |
夕 食 |
申し込み方法によって違いますが食事は各自で用意したり船が準備してくれたものを食べます | |
トイレ 以前は大変でしたが今は船にトイレが付いているものや、川原にトイレ専用船が停泊しているので安心してビールが飲めます |
川原で夕涼み |
食事もおわり暗くなるまで三々五々川原に下りて花火を上げたり散策したりして夕涼みをします | |
だんだん宵闇が迫ってきました。 |
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狩り下り |
観覧船が鵜船1隻と併走して川を下ります |
鵜船には3人 鵜匠は10羽の鵜を操ります。操船は艫乗(とものり)と中乗りの船頭がします |
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鵜匠の手縄さばきや鵜が鮎を捕らえる様を間近で見ることが出来ます 鵜匠は鵜が鮎をのんだ具合を見定め船べりに上げ鮎を吐かせ、次々と放ちます |
総がらみ |
鵜船6隻が川幅いっぱいに横隊となり、一斉に鮎を浅瀬に追い込む鵜飼のクライマックスです |
あがり(片付け) |
鵜匠は鵜を次々と船べりに上げ手縄をはずし鵜籠に入れます | |
鵜の腹をさすり腹加減を見て摂った鮎を鵜にのませ籠に入れます |
その間ほかの鵜は川中へ行こうと懸命に泳ぎます | この夜はテレビ取材があり鵜匠が忙しく鵜から手縄を外すのが遅くなった鵜もあったようです |
下 船 |
あっという間の幻想的な夜でした。全員が堪能して帰路に付きました |
長良川かいわい |
昭和初年 帆掛け舟 |
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清流”長良川”
40万人都市で県庁所在地の岐阜市の真ん中を流れる川としては清流が、保たれいるのではないでしょうか。 左の写真は長良橋上流から見たもので左岸が市内方面です。 |
もう少し上流の「納涼台」 (無料鵜飼い見物所)今は無くなりました 旅館、ホテル街から対岸を見ますと金華山がそびえています。 右の写真はホテルの駐車場から対岸にある、「納涼台」を見たところです。 左の写真は鮎釣りが水の中に入り「鮎の友釣り」を楽しんでいます。 |
長良橋 | |
大正四年 |
現在 |
長良橋の下流「忠節橋」昨今
忠節橋 |
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明治45年製の細い橋脚の上に明治17年年(1884)に架けられた橋で老朽化が進み、太平洋戦争末期に架け替え工事が進んでいたが戦争で鉄不足となり中断。 完成直後の忠節橋を渡る乗合馬車。 |
昭和23年架け替えられた忠節橋 |
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忠節橋は、昭和23年(1948)、横河橋梁製作所(現横河
ブリッジ)が新忠節橋を建設しました。 長さ266m、幅18mのアーチ型鋼鉄製の橋は敗戦による物資不足の折、よく完成できたと子供心にも印象に残りました。 忠節橋界隈ついては「さよならチンチン電車」をどうぞご覧ください。 |
金華山と忠節橋 |
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大正初年 |
現在 |
長良川の忠節堤防から見た金華山 | |
明冶42年 |
現在 |
長良川渡し物語
長良川の渡し「小紅(おべに)の渡し」「河渡(ごうど)川の戦い」「鏡島(かがしま)弘法」「長良川古川」「古々川」紹介
(最後に長良川「古川、古々川」昨今があります。)
長良川に架かる橋
岐阜市内には写真のように3橋があります。 |
今でも残る「渡し」物語 岐阜市には昭和に入っても11の「渡し」がありました。 岐阜県下にはまだ3つの「渡し」が健在です。(自慢して良いのか、悲しんで良いのか!?) 岐阜市内にあった12の渡し い、「芥見(あくたみ)の渡し」(現在の藍川橋付近) |
岐阜市内にあった12の渡しの内9箇所を図示しました |
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「亀の渡し」 岐阜高校の裏付近で対岸は国道157号線です。 157号線が昔の谷汲街道で、その先の伊自良川の「尻毛(しっけ)の渡し」を渡り「谷汲山」へと大勢の参拝者が向かいました。(今も写真の常夜塔には「谷汲山」の文字が見えます) 「亀の渡しの由来」 由来1 長良川が出水時に智通上人が念仏を、唱えると亀が現れ、その背中に乗って対岸へ渡ったと伝えられ居ます。 由来2 もう一つは、対岸の親孝行の娘が医者を「井ノ口の里」まで迎えに来た帰りに大水になり、渡れずにいると、評判の親孝行娘の心を思い、大亀が現れ医者と娘さんを乗せて対岸まで渡してくれました。 と言う言い伝えのあります。私はこちらの由来の方が好きです。 |
小熊野川湊跡
大縄場大橋下流にあり、かっての荷物の陸揚げ湊の跡です。 陸揚げされた荷物は本郷町通りから若宮町通りへ運ばれ、明治以降も頻繁に利用されました。 |
ぬ、江口の渡し(現在の鏡島大橋付近) る、小紅(おべに)の渡し(現役の渡し) お、河渡の渡し(現在の河渡橋付近) 以上12の「渡し」が岐阜市内にはありました。 |
小紅(おべに)の渡し(現役の渡し) 最近はTVなどでも紹介され、有名になりました。 現在もまだ運行されている市内唯一つの渡しです 県道に接続されているため、県の事業として運営され、渡船料は無料です。 「小紅」の由来 |
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堤防の上の小屋、下の渡船付近では子供が泳いでいました。 | 下流の合渡橋付近も水泳の場所か大勢が水遊び中でした。 遠くは池田山 |
鏡島弘法様「乙津寺」(この近くへお出での時は是非お寺参りしましょう) |
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乙津寺の名前の由来 創設当時は海辺の小島「乙津島」 (なぞ=「乙津島の場所は赤坂明星浜と各務野の七里の中央とあり、岐阜駅付近と思われます。千二百年前までこのあたりは海だったようです)創建は千二百六十年前 瑞甲山乙津寺は奈良時代、聖武天皇 天平十年(738年)に行基菩薩が十一面千手観世音を自ら刻み「乙津島」のお堂に安置されました。 「鏡島」の由来 その後、弘仁四年(813年)に弘法大使が嵯峨天皇の勅命で、現在の地へ移された。 その折り、宝鏡を龍神に手向けると、海はたちまち桑畑となり、そのいわれから、この地を「鏡島」と言う様になりました。 弘仁五年には七堂伽藍、塔頭五ケ寺多数が造営されたと伝えたれています。 |
国宝と空襲 岐阜に空襲があるまでは、鏡島の弘法様は本堂、大師堂、庫裏、宝庫、鐘楼、山門、勅使門が並ぶ壮大な境内でした。 昭和20年7月9日の空襲で一夜にして焼け野原になりました。 国宝を抱いて河原へ 幸い住職が国宝の「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像を持って長良川の河原へ逃げ「国宝」の焼失は免れました。弘法様の命日 今でも毎月21日にはJR岐阜駅からも臨時バスも出て境内は露店も沢山出て「老若男女」で大賑わいします。 関ヶ原合戦と「乙津寺」 |
河渡(ごうど)の渡し
中山道六十九次の内、五十四番目の宿としても栄えた「河渡宿」にある渡しです。(河渡宿は”ここ”をクリックして下さい) 参勤交代にも利用されたため本陣はじめ多くの宿や商家もありにぎやかな渡しでした。 終戦近くまで渡し船は、ありましたが今では立派な橋が架かり渡しの痕跡すら見つけにくいくらいです。 これらの渡しも橋が出来たりして終戦後に順番に姿を消してゆきました。 戦前の渡船料は大体「自転車=5銭(50円)、人=2銭(20円)」と生活に密着した料金のようでした。 |
関ヶ原合戦の前哨戦「河渡川の戦い」 木曽川渡河 一方下流側の渡河地点の起(おこし=尾西市)に到着した福島正則以下一万余の軍勢は、対岸に柵を 印食(いんじき)の織田秀信 織田軍岐阜城へ退却 「河渡川の戦い」 渡河開始 赤坂へ布陣 情報の早さ 池田長政、開運の渡河作戦 岐阜空襲と「野太刀」 |
長良川渡し物語つづき 岐阜市を過ぎると、渡しもまばらになり、伊勢湾の河口までにあと 本郷の渡し 江戸時代は徳川御三家の尾張藩(愛知県)と関ヶ原の戦いで最後まで家康に楯突いた美濃藩(岐阜県)とでは差別もあり、 木曽川の堤防は岐阜県側(美濃藩)の方が愛知県側(尾張藩)より3尺(約1m)低く作られていたと私たち子供時代でも |
長良川本流、古川、古々川の昭和14年以前の写真 |
長良川古川古々川 かっての長良川は、長良橋の下流で三つ(写真奥から古々川、古川、本流)に分かれていたが、北岸地域は毎年のように水害に悩まされてきたため、昭和14年(1939)に古々川と古川の分派口を締め切ると共に、本流の川幅を拡幅し、同時に左岸(北岸)の堤防を強化する工事を行なった。 古川、古々川跡地 この締め切りによって北岸に廃川敷が生まれ、岐阜県総合運動場・長良川競技場・長良川球場、(現在の岐阜メモリアルセンター)や中学校・高校(早田小学校、伊奈波中学校、県立岐商、岐北高、明郷中学)などの公共施設が建設され川の流れのように並びます。 締め切り前の様子は古い写真を見るとよく分かります。 一番手前が現在の長良川、その上が古川、一番奥が古々川です |
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岐阜かいわい-2
「旧岐阜市庁舎」「梅林公園」「柳ケ瀬」(やながせ)「ビトー回し日時計」と河川の仕掛け「伏せ越し」紹介
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鮎料理が 「七両三分」 早田東町に鮎料理が自慢のお店があります。 料理は4千円(7品)から5千円、6千円と3コースあります。2人から予約が出来ます。 |
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岐阜市内のチンチン電車 岐阜市内に残っていた名鉄路面電車の紹介。 |
写真は金沢市電のお古で昭和51年(1976)頃まで活躍しました。 写真には昨年閉鎖した近鉄百貨店が未だ”まるぶつ百貨店”の頃です。 それに木製の線路補修車が昼間から堂々と道路の真ん中で作業をしていたのも、交通が頻繁で無かったのでしょう。 懐かしい風景です。 |
札幌からお嫁入り
札幌市がオリンピックを機会に地下鉄に切替た時も、岐阜市にサッポロから未だ新しい格好いい車両がお嫁入りしてきたのを覚えています。(現在も健在です) |
岐阜市内も昔は沢山の路線がありましたが順次廃線となり今では2路線です。 野口五郎と「うだつ」 |
電圧が違う!? 此の路線開通により関方面から名古屋方面への通勤者は格段に便利になりました。(下の車両は複電圧車両) |
電圧切替の簡単な仕掛け 新岐阜駅から各務原線に乗ると最初の駅が「田神駅」です。 この線路の電圧は1,500Vです。 「田神駅」を過ぎると線路が分岐して「市ノ坪駅」方面へ向かいます。(田神線) 分岐して(田神線に入って)100mくらい過ぎたところに仕掛けがあります。 架線の途中に約30cmの長さの絶縁物が入り架線が一部無くなっています。 絶縁物に続いて張られた架線は無電圧です。 無電圧架線部分(電柱1経間約20m)過ぎるとまた、絶縁物があります。 まつ、続けて架線が続きますが、このからは600Vになります。 電車のモーターは速度を変えるため昔から直流です。 今は電気を効率よく使用するため、抵抗器による速度調整ではなく「コンバーター方式」ですのでモーターへの電圧変更は自動的に出来ます。 電車は約20mの無電圧区間は惰性で走り、電圧が変わると何事もなかったように、走り続けます。 下の写真は架線の絶縁物と運転手に知らせる「標識」と電車が通過する様子です(「関建材」工務店の材料置き場から撮影) |
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新型車両 最近、マニヤには不満かもしれませんが、新柄車両が続々と投入されています。 カラーも見慣れた赤い色からモダンな白色を基調とした物になっています 連結器や昇降用のタラップも市内の場合は地面に直接降ります、郊外では一段高いプラットホームです。 どちらにも昇降出来る機構など珍しい構造ががマニヤにはたまらないらしいです。 |
上は800型と言い、7月から美濃町線(新岐阜〜新関間)で運転される新型車両です。 此の郊外電車もワンマン化され自動化されるそうです。 |
岐阜市内での昇降は車道に緑色のペンキが塗っただけの所に降ります。 時々他府県から来た車両が道路の真ん中に立っている乗客を見てびっくりします。 |
市電はゆっくりのりましょう! 電車に乗るときは電車が来て、停まってドアーが開くまで歩道で待っていて下さい。 信号が変わり車両の流れが停まるまで歩道で待っていても、運転手も車掌さんも待っていてくれます。 そして安全になってから電車に近づいて乗車して下さい。 降りるときも同じです。車道の車両が流れているときはしばらく車内で待って下さい。 みんなそうしています。 岐阜へおいでの時は是非そんな、のんびりした市電に乗って岐阜見物をして下さい。 話題が一つ増えます。 |
今はこの市電も撤去されました。(文章は市電が健在の頃のままです)
また、この岐阜市電廃止直前ついては「さよならチンチン電車」をご覧ください。
わき道へ反れすぎましたので、「中山道」へ戻りましょう
次は「合渡(ごうど)宿」へ
街道コラム
【鮎鮨街道・御鮨街道】長良川でとれた鮎を鮨に調製して江戸幕府へ献上したときに通った道路を「鮎鮨街道」(御鮨街道)と呼びます。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。