岐阜城下町を発展させた長良川と名物の鵜飼をご案内します。

六十九次
のうち
五十四宿
五十五宿間

岐阜県岐阜市

美濃国

JR東海線岐阜駅下車

「長良川と鵜飼物語」の巻は、「長良川鵜飼」、将軍献上鮎鮨と源頼朝、長良川渡し物語、長良川古川と古々川、
鵜匠と宮内庁式部職、長良川役所跡と付問屋跡、鵜飼観覧船造船所、長良川遊覧船事務所、鵜飼観覧船待合所2階で
落語の祖・安楽庵策伝ゆかりの地の無料寄席、「川端康成ゆかりの地」碑、今も残る「小紅の渡し」
鏡島弘法「乙津寺」、「岐阜市内電車」など紹介します。

         

長良川の鵜飼い 

長良川源流から、「鵜飼い」将軍献上「鮎鮨」の由来、「鵜匠」の由来など紹介

長良川の源流は大日岳

 幽玄の時代絵巻を闇の中に見せてくれる、鵜飼いの舞台となる長良の源流は奥飛騨か? 違います奥美濃です。

 長良川の源は岐阜県の西北部「奥美濃」の郡上郡高鷲村大日岳(標高1,700m)です。
 スキーヤーならご存じの「ダイナランドski場」のあるところです。
 大日岳から盆踊りで有名な「郡上八幡」を経て和紙が特産の「美濃市」刃物の町「関市」から岐阜市を流れ、総延長173.5kmの長旅を経て伊勢湾に注ぎます。

信長と鵜飼い
 長良川の鵜飼いの歴史は古く、1,300年目の「大宝二年」に鵜飼いの記述が見られるそうです。
 元々、奈良時代に中国から伝わった、漁法で当時は全国で生活手段として行われていました。

 その中で何故か長良川の鵜飼いのみ朝廷に保護され廃れることなく伝わったのです。(そのわけは下欄にあります)
 特に織田信長はこの漁法が気に入り、鵜匠を保護し、ときの朝廷にも鮎を献上した記録があります。

 岐阜市の上流の関市にも「小瀬(おぜ)鵜飼い」があります。

長良川の鵜飼は長良鵜飼と小瀬(おぜ)鵜飼です

長良橋のたもとの舟溜まり

 シーズンに入った長良川の「鵜飼い」は、長良橋袂が出発地点です。

 この歴史ある漁法は長良川の漆黒の中に浮かび上がって幽玄の世界に私たちを導いてくれるのです。

 そんな昔から連綿と行われきた情緒ある漁法ですが、現在は観光目的のため、毎年5月11日〜10月15日まで連日行われています。

川端康成文学碑
(岐阜市湊町)

         川端康成「篝火」ゆかりの地
 長良川の南岸たもとの一角にある小公園に文豪・川端康成ゆかりの碑があります。
 川端康成は大正十年頃三回にわたって友人と岐阜を訪問しています。
 その理由は、彼が想いを寄せた「みち子(岐阜市加納新本町1丁目西方寺の養女となった本名は伊藤初代さん)」という女性に会うためでした。
 このときの体験を「篝火」「非常」「南方の火」などの短編小説に描がきました。
 この小説から彼の淡く切ない思いを胸に、二人の足跡を辿ってみると。
 先ずはみち子が東京から移り住んだといわれるJR岐阜駅南の西方寺へ。(美濃加納宿−2に西方寺の詳細あり)
 ここで川端康成は和尚の壁塗りの手伝いをするみち子の姿をそっとのぞき見したと小説に描かれています。
 街中といえど現在も静かな佇まいを見せる西方寺。
 この塀越しに、どんな想いで愛しい女性を眺めていたのでしょうか。
 次にJR岐阜駅へと足をのばします。
 かって駅の構内に架かっていた陸橋からみち子は東京へ行く汽車を飽かず眺めていたという。
 現在駅は高架となり陸橋は跡形もなくなっています。
 そこから駅の北へ出て、市役所前にある写真館へ。
 ここは二人が一緒に写真をとった場所です。(この辺りに古くからある写真館は「瀬古写真館」)
 そこから北へ、長良川河畔へ。
 「篝火」の中では結婚を約束をした幸せな二人はこの長良河畔にある宿の二階から、長良川を下ってくる鵜船を見る様子が描かれています。
 その一節を記念して2006年に「川端康成ゆかりの地」の碑が建てられました。
 小説「篝火」のなかでみち子が東京へ行く汽車を眺めていた岐阜駅の陸橋の画像(中央)  同じく今でもある市役所前にある「瀬古写真館」。

芭蕉の句碑などと一緒に並んでいます。

                 芭蕉の句碑
 「おもしろうて やがて悲しき鵜舟かな」の句碑。
 この句は有名な「奥の細道」長旅のあと芭蕉が、2回目の紀行、元禄元年(1688年)旅「笈の小文の旅」の終わりに大阪から江戸へ向かう途中、大垣の矢橋木巴亭(明治時代の近代建築が流行したとき、大理石輸入で財をなし、広大な牡丹園を毎年公開して有名)に一泊、その後岐阜、日野中河原の商人「賀嶋鴎歩」方の別邸に1ケ月滞在したときに読んだ句です。

おもしろうて やがて悲しき鵜舟かな 芭蕉

鵜匠頭 山下幹司翁碑も並んでいます

明冶43年に建てられた織田信長の菩提寺・神護山崇福寺まで「従是七丁(これより700m)」の碑

斎藤道三公墳・従崇福寺まで従是西約壱丁西北八丁の碑
(なお、同寺には斎藤道三の墓は無いと思われます?)

「十八楼別館」
 長良橋袂に「十八楼別館」があります。
 この「十八楼」の名前の由来は芭蕉が滞在した「賀嶋鴎歩」方の別邸に命名した名前で由緒あるものです。
 「此のあたり 目に見ゆるものは 皆涼し」はせを
伊奈波神社

 
「山かげや身をやしなはむ 瓜ばたけ」(芭蕉)
岐阜公園三重の塔下
 
「城跡や古井の清水 先とはむ」(芭蕉)
法久寺境内
 
「夏来ても ただひとつ葉の 一葉かな」(芭蕉)
写真は群生しているところ。(シダ科とされるが?)葉、ひとつが1根の10cmくらいの草

万松館入り口

昭和天皇も鵜飼い好き!?

 まだお元気な頃、「日野の渡し」付近で、鵜飼いをご覧に成られなした。
 その時お泊まりになられた、由緒ある旅館「万松館」が岐阜公園入り口横にあります。
 なかなか、格式が高くて入りづらいのですが、昼弁当を頂けるようですので、1度お試し下さい。
 少々お高くて、4千円と5千円があります。2名以上で数日前までに電話予約して下さい。(TEL 058-262-0039)

   ふらりと行って鵜飼いが見たい!

 長良橋のたもとに「遊覧船事務所」があり、鵜飼い観光の申し込みはここでします。
 「乗合乗船料」は1人3,300円(食事別)です。
 あらかじめ電話などで予約されて食事なども申し込んで置かれると、楽しい鵜飼い見物が出来ると思います。 鵜飼い観覧舟は10人乗りから50人乗りまで54隻用意されています。

 申し込みは 「岐阜市鵜飼事務所」(長良橋袂)
          (岐阜市湊町1−2TEL 058-262-0104)へどうぞ。

                  川原町
 川原町という名は、湊町・玉井町・元浜町一帯の総称として古くから使われてきました。
 斎藤道三・信長の時代に市場が開かれ商業の拠点として繁栄し、江戸時代には長良川役所が置かれ、紙問屋や材木商などが軒を連ね、その名残を現在の格子のある町家などに留められています。(岐阜市長)

  鵜飼観覧船待合所で落語を
 2009年から鵜飼観覧船の待ち時間を退屈させないよう、落語の祖、安楽庵策伝ゆかりの地にちなんで企画された寄席を鵜飼観覧船待合所2階で楽しめるようになりました。
 収容人員は80席で無料、期間は鵜飼シーズンのみ
(鵜飼観覧船待合所は長良橋南袂の遊覧船事務所向かい)

渡しの地蔵堂
昔から渡しの安全を祈った地蔵堂がひっそりと

川湊灯台の脇にはいろんな碑が車に挟まれて並んでいます。

湊町から元浜町までの古い家並みは、お店が殆どないので、買い物を楽しめないので閑散としています
湊町かいわい

 「岐阜市鵜飼事務所」(長良橋袂)界隈の「湊町」から西の続く「玉井町」 は戦災にも遭わず、古い家並みが並び、お土産屋さんも少しあります。
 このありたりは映画のロケに使われたことのある戦前の町並みで
散策にいい場所です。

         老舗旅館「十八楼」が曳家
 長良川原町通りの「十八楼」が創業150周年事業として築100年の蔵を改修して、食事場などに再利用するため、表通りから50mほど奥にあった蔵を表通りまで移動させる曳家作業を実施し、このほど移動が完了した。
                      (中日新聞記事より)

鵜匠衣装消防士衣装
 頭には篝火の火の粉から髪の毛を守るため、紺麻で出来た風折烏帽子(かざおりえぼし)をかぶり、
 作業衣も火の粉に強い紺麻の一重の筒袖で袖口はコハゼで留め、前垂れ風の胸当てをその上にまといます。
 胸当てにはポケットがあり、手縄の修理用具などを入れておきます。
 腰にはわら製の腰蓑を巻き、素足に半足(つま先だけのわら草履)を履きます。
 夏の暑さの残る河原やこけの生えた川底の石にも滑らないためです。(写真の6人が宮内省式部職、「鵜匠」の肩書き)

鵜匠の衣装
頭巾は「風折烏帽子」(あざおりえぼし)と言われ手ぬぐいほどの大きさの布です
漁服(りょうふく)は黒色の筒袖の浴衣のようなものです
胸当(むねあて)は襟元へ火の粉が入らないようにする
腰には藁でできた腰蓑(こしみの)着ける
足には足半(あしなか)といって藁草履の半分くらいの大きさのものを履く

やがて夜のとばりも降りると
 夕闇も迫り、間近にそびえる金華山頂にライトアップされた岐阜城が川面に生える頃上流から6隻の鵜船が、篝火を焚きながら下ってきます。
 そのころは山頂のライトアップも川沿いの街路灯も全部消され、闇一色になります。
 やがて鵜を励ます「ホーイ」「ホーイ」と言う鵜匠の声に混じり船縁をたたく「コン」「コン」と言う音が近づいてきます。
 鵜匠は12羽の鵜を巧みに扱い、鮎をたっぷり飲み込んだ鵜を次から次へと鵜船に上げ、鮎を吐き出させて、漁をします。

鵜匠は最大12羽の鵜を操ります
舳先に篝火を焚き鵜匠が10から2羽の鵜を操ります。中ほど(中梁)に中乗りが乗り、船の後方(艫=とも)には艫乗りの3人
一組で鵜飼を行います

3人と鵜たちで構成される鵜舟

 

鵜飼い漁法の説明

 鵜飼いは5/11〜10/15の満月、増水時以外、毎夜7:30頃から行われます。
 この漁法は鮎が篝火の明かりに集まったところを鵜が素早く追いかけて取るため、月夜や水が濁った時は中止になります。

鵜匠さんは宮内庁式部職の国家公務員です
 5/11から8/31までは、鵜飼い見物に先立ち、鵜匠さんの実演による「鵜飼い教室」が河原であります。
 是非体験してみて下さい。

鵜の繋ぎ方
鵜は首結い(くびゆい)と腹掛けの2ケ所で結わえ
ます。この先に手縄(たなわ)と言われる長さ4m半
ほどの縄で鵜匠に操作されます

「鮎鮨」将軍献上のいわれ

大宝二年(702年) 

 公式文献に「鵜飼」の記述が登場するのはの戸籍に長良川近くに「鵜飼」で生活する村の存在があり、それが1,300年の伝統の根拠となっています。

 有史前からの漁法で全国で行われていた「鵜飼」が岐阜地方だけ注目されたのは、歴代の権力者に守られてきたからと言われています。

平治元年(1159年)、平治の乱

 平治元年(1159年)、源義朝は平治の乱に破れ逃走。

 その子頼朝も後に従ったが長良川下流で道に迷い、鵜飼いの家に宿を求めて、もてなしを受けました。

 父親義朝は我が子とはぐれ少数の家来とともに知多半島の野間の、かっての家来の家に宿を求め、風呂に入った隙に殺されました。

 鎌倉に幕府を開いた頼朝に一夜のもてなしをした縁で鮎鮨が献上されたのが、以降、幕府への献上が恒例となりました。

「鵜匠」の称号

 また、「鵜匠」の称号を与えたのは織田信長であり、徳川家康も手厚く保護しました。

 家康は、腐りやすい鮨を早く江戸まで運べるよう街道(鮎鮨街道)整備や問屋(運用機関)に御用提灯を許すなどの整備もしました。

 明治維新で一度廃れましたが、明治23年に明治天皇の行幸があり鵜飼いをご覧になってから御漁場(岐阜市日野=対岸に大きな碑があります)が設けられ宮内庁の管轄に入りました。

美濃町曽代の「御漁場」の想い出
 「天皇の御漁場」は長良川添いの美濃市曽代にもありました。
 終戦後、疎開で美濃市曽代にいました。 当時は食糧難で毎日食べる物が無く、空腹の連続でした。
 そばを流れる長良川は戦争中は川に入ることさえ禁止されていました。
 私たち子供は夜、こっそりと川辺に立ち川の中に石を投げるとびっくりした鮎が岸辺に逃げてきてピチピチ跳ねたり足の下へ逃げてくるのです。
 長い間誰も川に入ることがなかったので、魚は鮎ばかりでなく沢山いました。
 戦争中にそのような、おおそれた事をすると一家、銃殺にされると聞かされていました。
 当時、周辺の人はそれで飢えを凌いだと言われています。
 そのためか、私は今でも鮎はあまり好きではありません。

将軍に鮎鮨を献上するルーツは?

将軍に献上される「鮎鮨」の由来と”源頼朝”
 江戸時代岐阜町から毎年6月から9月まで月に6回も「鮎鮨」を将軍家に献上した由来は!
 そして「鵜匠」の称号、まで賜ったなぞは?

「平治の乱」が縁
 平治の乱に破れ京から東北へ落ち延びる源義朝、親子は途中はぐれ義朝は知多半島の豪族館で打たれましたが、
子供の頼朝主従は道に迷い長良川河畔の鵜飼いの家に宿をもとめもてなしを受けました。

 後に頼朝が将軍になったのを縁に昔もてなした「鮎鮨」を献上し、以来将軍に献上するのが習いとなったようです。

「織田信長」
 信長が天下を取る前、岐阜にいた頃鵜飼いを好み後に「鵜匠」の称号を与えたようです。

「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」
 江戸時代に東海道が整備され各宿の問屋場がおかれるとシーズン中は腐りやすい
「鮎鮨」を月に6回も江戸間で数日で運ばせ、将軍に献上しました。
 それを運ぶ苦労は大変なものだったようですが、尾張家の費用も大変だった様です。

「鮎鮨街道」
 岐阜町の「お鮨所」から加納問屋、笠松街道(鮎鮨街道)で笠松問屋、
木曽川を渡って一宮問屋、名古屋と受け継がれて運ばれたようです。
 1区間14人の人足が担当したようです。

「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」
 東海道が整備され各宿の問屋場がおかれるとシーズン中は腐りやすい「鮎鮨」を月に6回も江戸間で数日で運ばせ、
 将軍に献上しました。
 それを運ぶ苦労は大変なものだったようですが、尾張家の費用も大変だった様です。
「鮎鮨街道」
 岐阜町の「お鮨所」から加納問屋、笠松街道(鮎鮨街道)で笠松問屋、木曽川を渡って一宮問屋、
名古屋と受け継がれて運ばれたようです。
 1区間14人の人足が担当したようです。

長良川湊付近は長良川の物流を取り締まるため役所を置いていました

長良川役所と
付問屋跡

岐阜市御手洗

北緯

35

26

00.8

東経

136

46

37.7

場所は長良川の近くです

                  長良川役所と付問屋
 ここには長良川役所と付問屋がありました。
 長良川役所は、元和五年(1619年)に尾張藩が美濃に五万石の領地を与えられる以前からあったといわれています。
 寛永十三年(1636年)までは対岸の早田村にありましたが、川の流れが変わるにともなって、ここに移りました。
                               役所の役目
 役目は長良川を下る材木筏と上流から下流へ送られる船荷や荷船(幕府や大名の御用船荷を除く)を管理し、役銀を徴収することでした。
 役所には尾張藩の役人(手代)が二人常駐し、その下には付問屋が置かれ日常業務荷従事しました。
 代々付問屋を勤めた西川家は、付問屋の業務のほかに、材木筏の支配と岐阜町へ揚げる船荷物の荷揚げの支配をしていました。                         (現地説明板より)

当時の絵図
絵図は上下(南北)が反対ですから役所と付問屋は道の向側の建設会社の敷地にあったようです。

               川役所跡(川荷税関)
 江戸時代、長良川の舟運は大変に盛んだった。 ここには中河原湊があり、長良川上流から美濃特産物である美濃和紙をはじめ竹・材木や酒・茶、関からは刃物が運ばれ、各地に販売された。
 こうした積荷に課せられた通行税を徴収するため、寛永十三年(1636)、尾張藩によって長良川役所が設けられた。
  筏乗りや荷揚げ人足などの管理も、川役所の仕事で、藩の国奉行や代官の手代が常駐した。
 また、実務は付問屋の商人が行なった。中河原湊からは、享保八〜十年(1723〜25)の間に、年平均1,700艘の舟が下ったと、川役所の記録に残されている。
                       (岐阜市観光コンベンション課)

伝統の鵜飼と観光の楽しさを満喫していただくように観覧船を和船で過ごしていただくよう岐阜市は和船の造船所を持っています

鵜飼観覧船造船所

岐阜市御手洗

北緯

35

26

03.0

東経

136

46

40.1

長良川と金華山の麓の間8岐阜市御手洗)にあります

見学も自由に出来ます
問い合わせは岐阜市鵜飼観覧船事務所(TEL058−262−0104)です。
岐阜市も長良川鵜飼観光を和船で伝統の世界を楽しんでもらおうと和船の造船に力を入れています
和船独特の反りも重要なポイントです
船材は高野槙
和船といっても貴重な船材「高野槙」を長持ちさせるため表面はFRPでコーティングしてあります
完成後長良川まで運搬するのが大変なようです

ではここで長良川鵜飼をご案内します

ぎふ長良川の鵜飼

北緯

35

26

04.1

東経

136

46

32.1

観覧船の準備

観覧船の受付(17:30〜)
乗船には予約が必要です(インターネットでも申し込めます)

                           初代の長良橋は「明七橋」
 それまで「長良の渡し」と呼ばれる渡しであったが、明治7年(1874年)に舟橋と木橋半々につないだ「明七橋」が民間により架けられ、有料であった。 しかし”渡し舟”より”有料橋”が便利なため渡しは廃止されました。
                           
二代目の「長良橋」は
 二代目は全木橋であったが1891年(明治24年)の濃尾震災で倒壊、1901年(明治34年)に再建された。
                            
三代目は鉄橋となる
 三代目は1915年(大正4年)に鉄橋が架けられました。(それが昭和29年12月まで役目を果たしていました)
                           四代目は現在の長良橋 
                   開通当時は橋の真ん中を市電(名鉄電車)が走っていました。

             昭和29年頃の旧長良橋
 大正4年(1915)に架橋され、橋面は板張りで横を車が通ると板が振動し歩いている人はフラフラした記憶があります。
 現在、市内の長良川には平成15年開通の「鵜飼い大橋」など11の橋が架かり、岐阜市の南北を結んでいます。

鵜飼説明
(17:45頃)

乗船前に中央の台の上で鵜匠が説明します

乗船風景・鵜匠の説明

説明が終わると順次乗船して川へ出ます

出 船
(17:30〜19:15)

未だ陽が高いのでゆっくりと各船は上流へ移動します
金華山の岐阜城が夕日に輝いていました 各旅館やホテルに宿泊の人は旅館前から乗船できます

川風に吹かれて涼しいひと時を過ごします

鵜を乗せて鵜匠もまわし場(支度する場所)へ向かいます

まわし場(川岸)に停泊し
近くの船には再度説明
(〜鵜飼開始までの間)

鵜匠は宮内庁式部職
式部職職員は全部で6名です
風折烏帽子(かざおりえぼし)
手拭ほどの大きさの布を巻いて篝火の火の粉を防ぎます

足中(あしなか)
川底の藻などで滑らないため普通の藁ぞうりの半分ほどの
大きさの履き物の説明

首結いの結び方の説明
鵜が動きやすく大きな魚は胃の中へ入らない様に、腹掛け
(腹に結ぶ紐)は鵜匠が操作しやすいように結びます。
実際に鮎を呑ませて見せてくれます 次の観覧船へ説明に向います

物売り船
(皆が食事を始めた頃)

売店船が時々回ってくれてビールやつまみ花火などを売ってくれます

夕 食
(適宜)

申し込み方法によって違いますが食事は各自で用意したり船が準備してくれたものを食べます
トイレ
以前は大変でしたが今は船にトイレが付いているものや、川原にトイレ専用船が停泊しているので安心してビールが飲めます

川原で夕涼み
(日没時期に合わせて)

食事もおわり暗くなるまで三々五々川原に下りて花火を上げたり散策したりして夕涼みをします

だんだん宵闇が迫ってきました。

狩り下り
(19:45頃から)

観覧船が鵜船1隻と併走して川を下ります
鵜船には3人
鵜匠は10羽の鵜を操ります。操船は艫乗(とものり)と中乗りの船頭がします
鵜匠の手縄さばきや鵜が鮎を捕らえる様を間近で見ることが出来ます
鵜匠は鵜が鮎をのんだ具合を見定め船べりに上げ鮎を吐かせ、次々と放ちます

総がらみ
(20:00頃〜)

鵜船6隻が川幅いっぱいに横隊となり、一斉に鮎を浅瀬に追い込む鵜飼のクライマックスです

あがり(片付け)
(20:30頃)

鵜匠は鵜を次々と船べりに上げ手縄をはずし鵜籠に入れます
鵜の腹をさすり腹加減を見て摂った鮎を鵜にのませ籠に入れます
その間ほかの鵜は川中へ行こうと懸命に泳ぎます この夜はテレビ取材があり鵜匠が忙しく鵜から手縄を外すのが遅くなった鵜もあったようです

下  船
(20:45頃)

あっという間の幻想的な夜でした。全員が堪能して帰路に付きました

 

長良川かいわい

昭和初年 帆掛け舟

長良橋から上流古今(左大正4年カラー写真)
清流”長良川”

 40万人都市で県庁所在地の岐阜市の真ん中を流れる川としては清流が、保たれいるのではないでしょうか。

 左の写真は長良橋上流から見たもので左岸が市内方面です。
 右の写真は同じ場所から上流の対岸を見たもので、山頂には岐阜城が見えます。

   もう少し上流の「納涼台」
  (無料鵜飼い見物所)今は無くなりました

 旅館、ホテル街から対岸を見ますと金華山がそびえています。
 その頂上には岐阜城が見えます。

 右の写真はホテルの駐車場から対岸にある、「納涼台」を見たところです。

 左の写真は鮎釣りが水の中に入り「鮎の友釣り」を楽しんでいます。 
 以上全部が岐阜市内です。

長良橋

       大正四年
 船橋に代えて明冶17年に架けられた木橋(写真左の橋)の横に大正4年に鉄橋が架け替えられた。
 更に昭和29年、現在の橋が架けられた。

現在

長良橋の下流「忠節橋」昨今

忠節橋

  明治45年製の細い橋脚の上に明治17年年(1884)に架けられた橋で老朽化が進み、太平洋戦争末期に架け替え工事が進んでいたが戦争で鉄不足となり中断。  完成直後の忠節橋を渡る乗合馬車。

昭和23年架け替えられた忠節橋

 忠節橋は、昭和23年(1948)、横河橋梁製作所(現横河 ブリッジ)が新忠節橋を建設しました。
 長さ266m、幅18mのアーチ型鋼鉄製の橋は敗戦による物資不足の折、よく完成できたと子供心にも印象に残りました。
 忠節橋界隈ついては「さよならチンチン電車」をどうぞご覧ください。

金華山と忠節橋

大正初年

現在

長良川の忠節堤防から見た金華山

明冶42年

現在

長良川渡し物語

長良川の渡し「小紅(おべに)の渡し」「河渡(ごうど)川の戦い」「鏡島(かがしま)弘法」「長良川古川」「古々川」紹介
最後に長良川「古川、古々川」昨今があります。

長良川に架かる橋

 岐阜市内には写真のように3橋があります。
 下から「忠節橋」(国道157号線)、「金華橋」、「長良橋」(国道256号線)の昔からある三橋です。
 JR岐阜駅を起点に、これらの橋まで北へ伸びる3本の主要道路はそれぞれ「忠節橋通り」、「金華橋通り」、「長良橋通り」と言います。

 この他に岐阜市の上流には千鳥橋、藍川橋、岐関大橋、千疋橋
 下流には大縄場大橋、鏡島大橋、河渡橋、穂積大橋、最下流の長良大橋の12橋が岐阜市内の橋です。

今でも残る「渡し」物語

 岐阜市には昭和に入っても11の「渡し」がありました。
 終戦後、日本の復興とともに道路や橋が整備されて、
 自動車も普及して利用者が無くなり姿を消していきました。

 岐阜県下にはまだ3つの「渡し」が健在です。(自慢して良いのか、悲しんで良いのか!?)
 そのうち1カ所の「渡し」が岐阜市内にあり運行されています。

岐阜市内にあった12の渡し
 昔、あった岐阜市の12の「渡し」を上流から紹介すると、

い、「芥見(あくたみ)の渡し」(現在の藍川橋付近)
ろ、「古津(ふるつ)の渡し」千鳥橋下流で昭和天皇が鵜飼いをご覧になった場所でもあります。)
は、「日野の渡し」(古津の渡しの下流で最近まで、渡し船が運航されていました。) 
に、「長良の渡し」長良橋の場所にあった渡しで、明治7年に舟橋と木橋半々につないだ「明七橋」が
            民間により架けられ、有料であったが”渡し舟”より”有料橋”が便利なため渡しは廃止さ
            れました)
ほ、
「馬場の渡し」金華橋上流あたり)
へ、
「上門の渡し」  金華橋付近)
と、
「四つ屋の渡し」(その下流にありました。この付近は利用客が多く「渡し」も沢山ありました)
ち、
「忠節の渡し」(明治17年に木橋が作られ、その後、半鉄製の忠節橋に掛け替えられ、昭和23年に現在の
            忠節橋となりました。敗戦のすぐあとに、良くあんな立派な橋が出来たと感心します。
            それまでは、橋の中央を馬車などが通ると橋板がガタガタ振動し、子供の足は挟まれそう
            で、
また、橋板の隙間から、下の川が見えて、怖々渡った記憶があります
            
り、
「亀の渡し」忠節橋の下流)

岐阜市内にあった12の渡しの内9箇所を図示しました

堤防の上にポツンと残る常夜灯

「亀の渡し」
 
岐阜高校の裏付近で対岸は国道157号線です。
 157号線が昔の谷汲街道で、その先の伊自良川の「尻毛(しっけ)の渡し」を渡り「谷汲山」へと大勢の参拝者が向かいました。(今も写真の常夜塔には「谷汲山」の文字が見えます)
「亀の渡しの由来」
由来1 長良川が出水時に智通上人が念仏を、唱えると亀が現れ、その背中に乗って対岸へ渡ったと伝えられ居ます。
由来2 もう一つは、対岸の親孝行の娘が医者を「井ノ口の里」まで迎えに来た帰りに大水になり、渡れずにいると、評判の親孝行娘の心を思い、大亀が現れ医者と娘さんを乗せて対岸まで渡してくれました。
 と言う言い伝えのあります。私はこちらの由来の方が好きです。
小熊野川湊跡

 大縄場大橋下流にあり、かっての荷物の陸揚げ湊の跡です。
 対岸からの農産物や岐阜町からの産物がこの湊から川を渡って運ばれました。

 陸揚げされた荷物は本郷町通りから若宮町通りへ運ばれ、明治以降も頻繁に利用されました。
 道路や鉄道が発達しても昔からのルートは、衰えることなく続いたそうです。

 ぬ、江口の渡し(現在の鏡島大橋付近)
 
る、小紅(おべに)の渡し現役の渡し)
 お、河渡の渡し(現在の河渡橋付近)

以上12の「渡し」が岐阜市内にはありました

 小紅(おべに)の渡し(現役の渡し)
 最近はTVなどでも紹介され、有名になりました。
 現在もまだ運行されている市内唯一つの渡しです

 県道に接続されているため、県の事業として運営され、渡船料は無料です。
 市内の対岸側に小屋があるため、市内側から手を振ると、船頭さんが漕いできてくれます。
 元々は対岸の「一日市場」や「曽我屋」、遠くは本巣方面の人々を日本三弘法として有名な鏡島「乙津寺」へ参拝のための重要な渡しで、今でも命日の21日は2艘の舟がフル運行で参詣者を運びます。

「小紅」の由来 
 一日市場の農家などから岐阜町の商家へ花嫁が嫁いでくるとき、川面に顔を映し、紅、白粉をおとし、在所の未練を断ち切って、小さく紅だけを付けて渡ったのがその名の起こりと伝えられています。

今でも現役の「渡し」無料です

 堤防の上の小屋、下の渡船付近では子供が泳いでいました。 下流の合渡橋付近も水泳の場所か大勢が水遊び中でした。 遠くは池田山
鏡島弘法様「乙津寺」(この近くへお出での時は是非お寺参りしましょう)

JR岐阜駅付近は海辺でした。
その海辺の「乙津島」にあったため「乙津寺」

乙津寺の名前の由来
 創設当時は海辺の小島「乙津島」
(なぞ=「乙津島の場所は赤坂明星浜と各務野の七里の中央とあり、岐阜駅付近と思われます。千二百年前までこのあたりは海だったようです)創建は千二百六十年前
 瑞甲山乙津寺は奈良時代、聖武天皇 天平十年(738年)に行基菩薩が十一面千手観世音を自ら刻み「乙津島」のお堂に安置されました。
「鏡島」の由来
 その後、弘仁四年(813年)に弘法大使が嵯峨天皇の勅命で、現在の地へ移された。
 その折り、宝鏡を龍神に手向けると、はたちまち桑畑となり、そのいわれから、この地を「鏡島」と言う様になりました。
 弘仁五年には七堂伽藍、塔頭五ケ寺多数が造営されたと伝えたれています。
国宝と空襲
 岐阜に空襲があるまでは、鏡島の弘法様は本堂、大師堂、庫裏、宝庫、鐘楼、山門、勅使門が並ぶ壮大な境内でした。
 昭和20年7月9日の空襲で一夜にして焼け野原になりました。
国宝を抱いて河原へ 幸い住職が国宝の「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像を持って長良川の河原へ逃げ「国宝」の焼失は免れました。弘法様の命日  今でも毎月21日にはJR岐阜駅からも臨時バスも出て境内は露店も沢山出て「老若男女」で大賑わいします。

関ヶ原合戦と「乙津寺」
 東軍の池田長政など三将の軍が大垣条の石田三成めがけて河渡川(長良川)を渡河しようとしました。
 雨による増水と対岸に銃列を布いて待ち構える西軍に簡単には渡河できませんでした。
 この寺の住職に無事渡河できるよう祈祷と、浅瀬の先導を頼み大群の渡河は成功したため、合戦後、池田長政はこの寺に立ち寄り「野太刀」一振りと「瀬踏開運地蔵画像」を寄進しました。

河渡(ごうど)の渡し
 中山道六十九次の内、五十四番目の宿としても栄えた「河渡宿」にある渡しです。(河渡宿は”ここ”をクリックして下さい)
 参勤交代にも利用されたため本陣はじめ多くの宿や商家もありにぎやかな渡しでした。
 終戦近くまで渡し船は、ありましたが今では立派な橋が架かり渡しの痕跡すら見つけにくいくらいです。
 これらの渡しも橋が出来たりして終戦後に順番に姿を消してゆきました。
  戦前の渡船料は大体「自転車=5銭(50円)、人=2銭(20円)」と生活に密着した料金のようでした。

関ヶ原合戦の前哨戦「河渡川の戦い」

 慶長五年(1,600年)八月二十二日に清洲に集結した徳川軍の先鋒隊、池田輝政、福島正則の一万8千余人は木曽川を河田の渡し(木曽川町で笠松町米野の対岸)付近と尾西市起付近(竹鼻町対岸)から渡河を始め、待ち受ける、織田秀信勢と激戦の末、打ち破り、翌23日には加納清水の住吉神社(名鉄新岐阜駅横)を通り、吉津町付近を通り、常在寺(梶川町)付近にあった、岐阜城の総門まで一気に攻めてきました。

木曽川渡河
  上流側の渡河地点は、木曽川町河田の渡し付近を池田輝政、率いる一万余の軍勢。
  迎え討つは織田軍の猛将、百々家綱(どどいえつな)の2千5百。
  いくら池田軍が多勢とは言え鉄砲で待ちかまえる所へ河を渡って攻めるのですから多くの損害が出た大
 激戦となりました。
  これが世に言う「米野の戦い」で関ヶ原合戦より過酷な戦いだったと伝えられています。

  一方下流側の渡河地点の起(おこし=尾西市)に到着した福島正則以下一万余の軍勢は、対岸に柵を
 作り鉄砲隊を揃えて待ちかまえる織田、石田三成援軍を見て足踏みします。
  しかし、地元民の情報により、少し下流に浅瀬(尾西市加賀野井、現在でも浅瀬のため東海道新幹線 
 橋、名神高速道路橋が架けられています)があることを知りそこから夜の間に渡河してしまいます。

印食(いんじき)の織田秀信
  笠松町米野で激戦の「百々家綱(どどいえつな)」など家来の多くは開戦前に「家康側」に付くことを勧めた
 が織田信秀は、石田三成との密約があり三成側に付く事にしました。
  作戦は前線の笠松米野と竹鼻町正木で渡河してくる池田輝正・福島正則軍を打ち破り、討ち漏らした敵
 を岐南町印食で殲滅するというものでした。
  自分は本陣を岐阜市領下の閻魔堂に置き慶長5年8月22日の朝を迎えました。

織田軍岐阜城へ退却
  総勢9千の軍と2万を越す軍勢ではとてもかないません。
  敗走する織田軍と追撃する池田・福島軍は同じ様な距離で岐阜城をめがけていました。
  しかし、岐阜市内まで来たとき敵味方混在してついに吉津町あたりで織田軍の一部が池田・福島軍に包
 囲され多くの武将が討たれました。
  このとき討たれた武将の塚が岐阜市霞町にあります。

「河渡川の戦い」
 
慶長5年8月23日の岐阜城攻撃に間に合わなかった、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎などが西に転じて河渡川(現在の長良川で当時は江戸=ごうど、や江渡=ごうどなどとも言われていました)を渡河しようとして戦いになりました。
石田三成あわてる
 大垣城にいた石田三成は竹鼻城落城、領下「閻魔堂」陣の織田秀信敗退の報により、大垣城進攻阻止のため
 墨俣に津島維新を送り美濃路をかためさせ、
 岐阜からの黒田長政、田中吉政、藤堂高虎西進には、河渡川右岸に、舞兵庫、森九兵衛、杉江勘兵衛に兵1,000を与え陣を構えさせた。

渡河開始
 しかし、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将は、当日の濃霧を利用して、西軍に銃撃を加え一斉に渡河を始めました。
 三将の軍は広く分散にて渡河を始めため兵力に差のある西軍は防戦一方で、やがて敗退し呂久川(ろく)(現在の揖斐川)まで撤退します。

赤坂へ布陣
 大垣城から石田三成も小西行長を引き連れ、沢渡村(現在の大垣市三城)まで出て陣を布いたが、呂久川も突破した池田ら三将は大きく北を経由して十六条村美江寺を経て赤坂まで進み布陣しました。

情報の早さ
 池田長政ら三将は8月23日に赤坂へ着いた報告を、当時まだ江戸にいた家康の元へ報告し、家康は二十八日に”9月1日に江戸を出る”と返事しています。
 5日間で江戸まで情報を送っていることになります。

池田長政、開運の渡河作戦
 岐阜城攻撃に遅れた池田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将はこの渡河作戦を家康から高く評価され、難儀をした「岐阜城攻撃」の福島正則、池田輝政より加増額が格段によかった。
 池田長政は合戦の帰りに「乙津寺」に寄り、家康から賜った「野太刀」一振りと「瀬踏開運地蔵画像」を寄進しています。
 それは、この渡河作戦成功の報を、いち早く江戸の家康に知らせ、家康に決断をさせた功績のためと思われます。
 大した抵抗もなく渡河し大出世をした池田家の家臣は参勤交代のおりには、わざわざ遠回りして、この寺へお参りしたと言われています。

岐阜空襲と「野太刀」
 家康拝領の「野太刀」は戦災により焼失したようです。

長良川渡し物語つづき

岐阜市を過ぎると、渡しもまばらになり、伊勢湾の河口までにあと

本郷の渡し
十連坊の渡し
大藪渡船など8ヶ所ありました。(詳しくは別の機会に紹介予定)

江戸時代は徳川御三家の尾張藩(愛知県)と関ヶ原の戦いで最後まで家康に楯突いた美濃藩(岐阜県)とでは差別もあり、
行き来もままならないようでしたが、経済を動かす物流を止めることは出来なかったようです。

 木曽川の堤防は岐阜県側(美濃藩)の方が愛知県側(尾張藩)より3尺(約1m)低く作られていたと私たち子供時代でも
語る伝えられていました。 これは大水が出たとき、まず美濃藩に水が流れ込み、尾張藩を守るためだったそうです。

長良川本流、古川、古々川の昭和14年以前の写真

                    長良川古川古々川
 かっての長良川は、長良橋の下流で三つ(写真奥から古々川、古川、本流)に分かれていたが、北岸地域は毎年のように水害に悩まされてきたため、昭和14年(1939)に古々川と古川の分派口を締め切ると共に、本流の川幅を拡幅し、同時に左岸(北岸)の堤防を強化する工事を行なった。
               古川、古々川跡地
 この締め切りによって北岸に廃川敷が生まれ、岐阜県総合運動場・長良川競技場・長良川球場、(現在の岐阜メモリアルセンター)や中学校・高校(早田小学校、伊奈波中学校、県立岐商、岐北高、明郷中学)などの公共施設が建設され川の流れのように並びます。
 締め切り前の様子は古い写真を見るとよく分かります。
 一番手前が現在の長良川、その上が古川、一番奥が古々川です

上の写真と同じ場所からの現在の写真

長良川古川、古々川跡に並ぶ学校群

岐阜かいわい-2

「旧岐阜市庁舎」「梅林公園」「柳ケ瀬」(やながせ)「ビトー回し日時計」と河川の仕掛け「伏せ越し」紹介

堤防から見た「七両三分」
 (TEL 058-232-1819)

鮎料理が
   
「七両三分」

 早田東町に鮎料理が自慢のお店があります。
 屋号の「七両三分」は郡上踊りの「春駒」一節からとっています。

 料理は4千円(7品)から5千円、6千円と3コースあります。2人から予約が出来ます。

「七両三分」から見た長良川と金華山

 

岐阜市内のチンチン電車

  岐阜市内に残っていた名鉄路面電車の紹介。
名鉄路面電車
  行政運営でなく、地元企業の名古屋鉄道の経営なので遅くまで残ったと思います。
 昔は運転手さんが足下の鉄釦を靴で押してベルを叩いて「チンチン」と音を出しましたので、チンチン電車の愛称で呼ばれました。
  全国でも市内に電車の走っているところが少なくなり、珍しい存在でしたが、発展しない地方都市の象徴かもしれません。
市電の展示館みたいな岐阜市電
 専門ではありませんので、詳しいことは分かりませんが、古い車両や他の都市で活躍していた新型車両が走り、全国のマニアが早朝からカメラを構えているのを見かけます

 写真は金沢市電のお古で昭和51年(1976)頃まで活躍しました。
 写真には昨年閉鎖した近鉄百貨店が未だ”まるぶつ百貨店”の頃です。
 それに木製の線路補修車が昼間から堂々と道路の真ん中で作業をしていたのも、交通が頻繁で無かったのでしょう。
 懐かしい風景です。
 札幌からお嫁入り

 札幌市がオリンピックを機会に地下鉄に切替た時も、岐阜市にサッポロから未だ新しい格好いい車両がお嫁入りしてきたのを覚えています。(現在も健在です)


岐阜市内も昔は沢山の路線がありましたが順次廃線となり今では2路線です。
 2路線とも郊外電車につながるなどして市内電車のみでは採算が採れないようです。

野口五郎と「うだつ」
 美濃町線も現在は関市(刃物生産で有名)までで関〜美濃間は廃線されました。
 美濃市は昔、美濃紙で財をなした商家の「うだつ」(隣の火災が移らないようにした、屋根の上の防火壁)で有名です。
”「うだつ」があがった”というのは財をなしたと、言う意味に使われています。
(漢字は税の”ノ木編”のノの無い文字だったと思います)
 他に美濃町は歌手「野口五郎」の生地でも有名です。
 最初の映画「再会」と同名の喫茶店を、ご実家が経営され「ごろちゃん」グッツも売っているはずです。
 全国のフアンは五郎ちゃんも乗った此の電車に乗るのも目的のため一時は乗客も多かったようですが遂に関市〜美濃市は廃線されました。
(「うだつ」は別の機会に紹介します)
 美濃町線は郊外電車ですが電圧が600Vのままです。
 もう一つの市内線の延長の、忠節方面〜揖斐線も郊外電車ですが600Vのままです。
 これは同じ車両を有効に使うためだったのでしょう。
 下の写真の電車は市内から揖斐方面の郡部まで通学通勤者を運ぶ古い車両です。未だ走っているはずです(写真は去年撮りました)

電圧が違う!?
 600V区間の他に美濃町線の終点「柳ケ瀬」(中心地)を直接、岐阜駅まで接続するために途中から田神線を開設して1,500V区間の各務原線と接続したため複電圧車両が投入されました。(1台の電車で600Vと1,500V区間が走れる車両)

 此の路線開通により関方面から名古屋方面への通勤者は格段に便利になりました。(下の車両は複電圧車両)
 また、線路幅の関係か電車の4隅が削ってあるのも面白い構造です。

 
電圧切替の簡単な仕掛け
 新岐阜駅から各務原線に乗ると最初の駅が「田神駅」です。
 この線路の電圧は1,500Vです。
 「田神駅」を過ぎると線路が分岐して「市ノ坪駅」方面へ向かいます。(田神線)
 分岐して(田神線に入って)100mくらい過ぎたところに仕掛けがあります。
 架線の途中に約30cmの長さの絶縁物が入り架線が一部無くなっています。
 絶縁物に続いて張られた架線は無電圧です。
 無電圧架線部分(電柱1経間約20m)過ぎるとまた、絶縁物があります。
 まつ、続けて架線が続きますが、このからは600Vになります。
 電車のモーターは速度を変えるため昔から直流です。
 今は電気を効率よく使用するため、抵抗器による速度調整ではなく「コンバーター方式」ですのでモーターへの電圧変更は自動的に出来ます。
 電車は約20mの無電圧区間は惰性で走り、電圧が変わると何事もなかったように、走り続けます。
 下の写真は架線の絶縁物と運転手に知らせる「標識」と電車が通過する様子です(「関建材」工務店の材料置き場から撮影)
架線の途中に入った絶縁物、右側が1,500V左は無電圧架線
 無電圧区間標識
無電圧区間の全景 
新型車両
 最近、マニヤには不満かもしれませんが、新柄車両が続々と投入されています。
カラーも見慣れた赤い色からモダンな白色を基調とした物になっています
連結器や昇降用のタラップも市内の場合は地面に直接降ります、郊外では一段高いプラットホームです。
どちらにも昇降出来る機構など珍しい構造ががマニヤにはたまらないらしいです。

 上は800型と言い、7月から美濃町線(新岐阜〜新関間)で運転される新型車両です。
 此の郊外電車もワンマン化され自動化されるそうです。
岐阜市内での昇降は車道に緑色のペンキが塗っただけの所に降ります。
 時々他府県から来た車両が道路の真ん中に立っている乗客を見てびっくりします。
市電はゆっくりのりましょう!
 電車に乗るときは電車が来て、停まってドアーが開くまで歩道で待っていて下さい。
 信号が変わり車両の流れが停まるまで歩道で待っていても、運転手も車掌さんも待っていてくれます。
 そして安全になってから電車に近づいて乗車して下さい。
 降りるときも同じです。車道の車両が流れているときはしばらく車内で待って下さい。
 みんなそうしています。
 岐阜へおいでの時は是非そんな、のんびりした市電に乗って岐阜見物をして下さい。
 話題が一つ増えます。

今はこの市電も撤去されました。(文章は市電が健在の頃のままです)
また、この岐阜市電廃止直前ついては「さよならチンチン電車」をご覧ください。

わき道へ反れすぎましたので、「中山道」へ戻りましょう

次は「合渡(ごうど)宿」

街道コラム

【鮎鮨街道・御鮨街道】

長良川でとれた鮎を鮨に調製して江戸幕府へ献上したときに通った道路を「鮎鮨街道」(御鮨街道)と呼びます。
.岐阜町の河崎家,後藤家という鮨所によって調製された鮎鮨等を加納新町岐阜問屋熊田助右衛門方において
宿継ぎをして,八幡町を経て南進し,笠松問屋高島家へ運ばれた.その後東海道を下って江戸へと運ばれました.

         

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。