中山道六十九次のうち五十四宿目で中山道美濃十六宿の十番目の宿「加納宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十四宿

岐阜県岐阜市

美濃国

JR東海線岐阜駅下車

「加納宿ー2」巻は、加納宿本陣跡、加納宿西問屋跡、加納宿脇本陣跡、加納天満宮、もう一つの加納宿脇本陣跡、
亀姫様の墓のある光国寺、奥平信昌夫妻の墓のある盛徳寺、お茶壺道中本陣を断って住職が追放になった「久運寺」、
新撰組に参加した加納藩氏加々爪勝太郎墓のある信浄寺、川端康成の小説舞台の西方寺、ぶたれ坊のある妙泉寺、
加納藩獄屋跡、加納宿西番所跡のある秋葉神社、「往来(ゆきき)の松石碑」のある菊池神社、「加納一里塚跡」
などをGPS位置情報とともに、ご案内します。

        

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道)
加納桜通り横断加納一里塚跡までの1,400mを案内します

「当分本陣」を過ぎると加納桜通りを横断します

「加納桜通り」横断

北緯

35

24

07.8

東経

136

45

43.5

金華山も見えます

道路の向こうに道標があります。

横断し右側(北側)の二軒目が「加納宿本陣跡」です。

加納宿本陣跡

加納桜通り2丁目11番地

北緯

35

24

08.2

東経

136

45

42.8

加納宿の宿制
本陣は松波家,脇本陣は森家,幕末には宮田,三宅家.人馬,物資のつぎたてとして東,西問屋,岐阜問屋が設けられていた.宿役人には宿老,町年寄,町頭,五人組頭が置かれていました.
 

「本陣」
 本陣とはもともと戦場に於いて大将の位置する本営のことを言いました。
 それが武将の宿泊するところを指すようになり、宿場では旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが
宿泊する宿舎の名前となりました。
 本陣を勤める者は、宿役人の問屋や村役人の名主などを兼ねている者が多く、名字帯刀が許された
 門や玄関、上段の間などを設けることが特権のようになっていました。 しかし、原則として一般の者は泊めることが出ず、大名が泊まることも、そう多くなかったので、
江戸後期には経営難に陥るところも少なくありませんでした。
 このため他の仕事も兼業する場合もありました。

(左の画像はH10年頃の画像です)

現在は「青木邸」は歯科を営んでおられました。

皇女和宮の歌碑
仁孝天皇の皇女「和宮親子(ちかこ)親王は将軍家茂(いえもち)との結婚のため、
文久元年(1861年)十月二十六日当地「加納宿本陣」の
松波藤右衛門宅(現在地)に宿泊されました。

その時、自身の心情を詠まれたという歌が伝えられています。

「遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりけり」

この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草」に収められており和宮の直筆である。

本陣の青木邸の一軒置いて隣です

加納宿西問屋場跡

加納本町3丁目

北緯

35

24

08.3

東経

136

45

42.2

「西問屋跡」
西問屋は加納の宿問屋で万治元年(1658年)松波清左衛門が開業しました。
 ここは西は河渡宿から東は鵜沼宿までの人馬の出入りの継ぎ立をしていました。
  現在は同じ場所で子孫の方が医院を開業しておいでです。

加納宿の問屋と町年寄
問屋は元々三宅佐兵衛家であったが、万治元年(1658)松波清左衛門家となり
寛保二年(1742)から松波吉次郎家が加わった。
また岐阜問屋は、熊田助右衛門家で、尾州献上鮎鮨継立ておよび岐阜行き荷物
問屋としての特権を持ち、まくわうり、干し大根などを江戸への継立てを行い、
江戸時代を通じて重きを成していました。
問屋場には、問屋役、張付、馬指、人足支配、定使が置かれていた。

問屋役は、宿老または町年寄の者が月番で小唄に務めた。

宿老
宿老は、宿方取り締りとして、松波、宮田、三宅の三家は、加納宿三宿老として
名高く、町年寄りは一丁目から五丁目と新町を含む六町の中から任ぜられ、
世襲制であった。

 このほかに一般旅行者を相手とする「旅籠屋」「木賃宿」「茶屋」「商店」が立ち並び、
その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげました。

現「松波邸」は医院を営んでおられます。

道標には下記の文章があります。

西問屋は加納の宿問屋でした。
万治元年(1658年)松波清左衛門開業しました。
ここでは、西は河渡宿から、東は鵜沼宿から出入りする
人馬の継ぎ立てをしました。

加納桜道から約130m程の加納天満宮参道の手前北側に「脇本陣跡」があります

加納宿脇本陣跡

加納本町3丁目8番地

北緯

35

24

09.3

東経

136

45

39.6

 

現「森邸」

 本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけでは泊まりきれないとき時とか、 宿場で藩同士が鉢合わせになったとき、格式の低い方の藩の宿として利用されるなど、 本陣に差し支えが生じた場合に利用されました。

 それ以外の時は一般の旅行者の宿泊にも供せれました。

 規模は本陣より小さいのですが、諸式は全て本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めました。

「加納脇本陣跡」の角を北へ曲がると約70m先に加納天満宮があります。

加納天満宮

加納天神町

北緯

35

24

11.1

東経

136

45

39.8

 加納築城以前からまつられていた古社である
慶長年間に現在地に移設された.代々城主の信仰厚く城の鎮護とした。
戦災で焼け残った唯一の拝殿は文化7(1810)年創建で,三十六歌仙,
六歌仙,等の宝物や市文化財指定の山車(鞍馬車)がある.

山車
加納天満宮の山車(だし)は、総高498cm、屋根を大唐破風造とした三層構造で、
二層目高欄間が正面205cm、側面(奥行)323cmの屋根を持つ。

各層と屋根を動物や花の彫刻で装飾し、二層目が後方へ向ってせり上がっていることは、
この山車に変化と美しさを与えている。

 付属するからくり人形の収納箱に墨書があり、これから推定すると、この山車は
濃飛大震災(明治24年)で焼失したものを明治35年前後に再建したものと思われる。

大唐破風や高欄の手法などから、長野県諏訪の立川流と呼ばれる一門の作と推定されてる。

「加納天満宮」の西側に「久運寺」があります。

住職が追放になった
久運寺

岐阜市加納天神町四丁目

北緯

35

24

14.4

東経

136

45

39.6

安土桃山時代に仮名草紙「因果物語」に寺名が
天正年間(1580年頃)作の仮名草紙「因果物語」に不思議な鶏の寺として記されている

江戸時代に堂宇を建立
曹洞宗.文明元(1469)年加納清水に小庵を建立,寛文元(1661)年堂宇建立,その4年後に災難が

住職は「お茶壺道中」の本陣を断り追放 
寛文5(1665)年城主松平光重(藩主戸田光重との記録もあり)より「お茶壺道中」の本陣を命ぜられたが,
権威の横暴に反抗してこれを拒否したため住職の玉葉和尚は追放された。
このためか元禄以降、お茶壺道中は中山道から美濃路(宮の渡し=熱田から清洲・一宮・(宝江の渡し)・笠松・墨俣・
垂井宿)へと変更されました。
(お茶壺道中の詳しいことは巻末の「街道コラム」に記載してあります)

中山道へ戻り約60mほどの右側(北側)にもう一軒の「脇本陣」があります

もう一軒の
加納宿
脇本陣跡

加納本町4丁目

北緯

35

24

10.3

東経

136

45

36.8

最近、脇本陣の小林家が広い敷地を利用してマンション建設計画をしているようです

脇本陣の「小林家」は現在も風格ある
お屋敷です。

(マンション建設計画で取り壊されるようです)

中山道の今

 今は”加納本町通り”と呼ばれる人通りの少ない通りです。
 道には所々に道標があり中山道であったことを偲ばせてくれます。

(しかし、いつまでこの風情が続くでしょうか心配です)

もう一軒の脇本陣から約110mほど四辻を北へ約30m入ると「信浄寺」があります。

新撰組に参加した加納藩士
加々爪勝太郎家の墓のある

信浄寺

岐阜市加納清水町1丁目

北緯

35

24

12.2

東経

136

45

32.9

本堂再建
寛永四(1624)年創建の真宗本願寺派寺院.戦災50年後,平成5年10月31日,本堂再建.

獅子門中建立の芭蕉句碑
境内には芭蕉の「松杉を ほめてや風の かほる音」の句碑が建つ.
寺の景観が松と杉でかもし出していると,安永六(1777)年、獅子門中により建立された
墓所には新撰組に参加して死去した加納藩士加々爪勝太郎家の墓がある.

加納藩士加々爪(かがつめ)勝太郎については新撰組に参加して死去したことのみで詳細は不明

「信浄寺」から更に北へ約60mほど進むと東側に「宝樹院」があります

名号石が亀姫の床下石の
宝樹院

岐阜市加納清水町1丁目

北緯

35

24

15.1

東経

136

45

34.4

行基作の薬師如来
浄土宗.本尊阿弥陀如来.行基作と言われる薬師如来がある.

亀姫の床下石
門前の名号石は亀姫の床下石であったと言われている.

「宝樹院」から中山道へ戻り西へ約60mほど進むと「加納栄町通り」へ出ます

その加納栄町通りを北へ約100mほど進むと東側に「欣浄寺」があります

句碑の      
欣浄寺

岐阜市加納清水町1丁目

北緯

35

24

16.2

東経

136

45

32.8

浄土宗.慶長8(1603)年開基した寺院である.

本堂は未だ小さいまま
厭離穢土,欣救浄土の旗印が寺名になっている.

境内には多くの句碑が立ち,明治,大正,昭和をついで地元加納の俳諧の盛んだったことが偲ばれる.

中山道に戻り「加納栄町通り」を横断します。

「加納栄通り」横断

北緯

35

24

07.8

東経

136

45

43.5

中山道は更に西へ真っ直ぐに続きます

北に見えるのが「JR岐阜駅」

JR(国鉄)高架
 昭和2年に加納町が岐阜市と合併する条件として、鉄道下を地下道で結ぶことでした。
 昭和16年頃、岐阜駅の加納側から地下道工事が始まりましたが、地下水が豊富な地方のため湧水が多く工事は進まず、太平洋戦争が勃発し中断し、その後大きな穴は埋め戻されまた。
 この地方の議員さんが立候補の公約に必ず謳いますが、なかなか実現しませんでした。
 しかし1990年後半からののバブル経済で議員さんの力を借りずに、あっさりとできてしまいました。
合併による町名の混乱
 明治の頃「加納町」と「長良村」が岐阜市と合併しましたが、各町には「天神町」「本町」などがあり混乱するため頭に「加納」「長良」を付け加納本町や長良天神とし岐阜市の本町や天神町はそのままとしました。

     昭和43年(1968)頃の国鉄岐阜駅周辺
 文豪・川端康成の「篝火」に出てくる加納の西方寺のみち子(本名・伊藤初代)がたたずんだ陸橋は駅構内の陸橋か、画面右にある陸橋のことか不明であるが現在は両方ともない。
(西方寺はこの頁のもう少し後に掲載。「川端康成ゆかりの地」碑は美濃・長良川と鵜飼物語に掲載してあります。)

 

ここで中山道から外れ徳川家康の娘亀姫様(地元では加納様)の墓を案内します

岐阜市加納地区に亀姫様の墓が二つある

光国寺(加納西広江町)

盛徳寺(加納奥平町)

徳川家康の長女亀姫の墓は「光国寺」と「盛徳寺」に加納地区に2箇所あります

現在の住宅地図の上に当時の古地図を載せますと
成徳寺は寺社地(薄紫色)ですが回りは
武士屋敷(橙色)だったようです

亀姫様の菩提寺
臨済宗妙心寺派光国寺

加納西広江町2丁目

北緯

35

24

15.9

東経

136

45

48.8

亀姫が自分の菩提のため慶長19年に創建した寺
亀姫死去後,埋葬された五輪塔墓がある.
市指定文化財の亀姫画像を所蔵.信昌,亀姫,秀忠公の書状等古文書,由緒ある屏風を所蔵します
日露戦役戦没者彰忠碑
また境内には日露戦役戦没者名を郡別に刻名した彰忠碑が十数基並立して建っています。

 徳川家康の長女「亀姫」の墓があることで有名なお寺です。
写真の大きな建物は本堂でなく「普照殿」と言う「絹本著色亀姫像}(市重要文化財)が安置してある、
お堂ですが本堂より大きく飾りも立派に造られてます。

三葉葵の紋
 お寺は屋根瓦から、門、お堂の金具まで「葵の紋」だらけ

墓は光国寺の南東角にあります

光国寺は亀姫の化粧用下屋敷
亀姫が西広江の三万一千坪の化粧用下屋敷に自分の菩提寺のために建立した寺で、二代目藩主奥平忠政(信昌の三男)
の戒名を取って光国寺としました。

「松平総守忠啓」寄進の灯籠に見守られる墓

もう一つは加納奥平町にある盛徳寺です

奥平信昌夫妻の墓
臨済宗妙心寺派,盛徳寺

加納奥平町

北緯

35

23

48.8

東経

136

45

30.9

三河の奥平家菩提寺増瑞寺を移した
釈迦如来を本尊とする.前封地の三河にあった奥平家菩提寺増瑞寺を移しました
亀姫没後,盛徳寺と改称しました.
境内には円墳式の墓所2基があり(市指定史跡)向かって右が亀姫,
左が信昌の墓です.当寺住職万元和尚は元禄15(1702)年本朝高僧伝76巻,
延宝伝燈録をあらわし,学に優れていた.同寺の再興をやりとげた.

奥平信昌は家康に従い姉川の合戦で多くの武功をあげました。
 特に長篠の合戦では武田勝頼の大軍を相手に長篠城を守り抜き、以降徳川氏の運命は開かれました。このとき同盟軍だった織田信長から諱(いみな)の「信」の
一字を与えられ貞昌から信昌へ改めました。
さらに信長の取りなしで家康の長女「亀姫」を妻として関ヶ原の合戦後、
十万石の初代加納城主となりました。

奥平信昌夫婦の墓
奥平信昌は徳川家康に従い、姉川の合戦などで数々の戦功を上げた、なかでも長篠の合戦では武田勝頼の大群を相手に長篠城を守り抜き、武田勢に苦しめられていた徳川氏の運命を開きました。

この折織田信長より信の一字を賜わり貞昌から信昌へあらためた。
さらに信長のとりなしで家康の長女「亀姫」を妻に迎えた信昌は慶長六年(1601)家康によって
加納城主に任ぜられ十万石を与えられました。

信昌の妻亀姫は二代将軍「秀忠」、尾張藩祖徳川義範の姉にあたり、母は家康の正室築山殿であります。
亀姫は「加納大夫人」、「加納姫」とあがめられました。

 

以前はお願いすれば、気軽に参拝できましたが現在では門も新築され「参拝お断り」の札が掛けられています

盛徳寺(岐阜市加納奥平町)
 お寺の一番奥に塀に囲まれたところにあり、奥平信昌夫妻の墓が向かいあってます。
 お寺は戦災に遭い丸焼けでした。
 墓は大きな土饅頭が二個並んでます。
  町名も奥平家にちなんで奥平町となっています。
平成の始めの頃は参拝できました   平成19年奥の門も改築され参拝できません

信昌は元和元年(1615年)六十一歳で、
亀姫は寛永二年(1625年)六十六歳で没しました。
夫婦の墓は並んであり、向って右側が信昌、
左が亀姫の墓です。
この久昌山盛徳寺は夫婦の法名にちなんで
改められました。
(現地説明板より)

先ほどの亀姫様の菩提寺「光国寺」の西の名鉄本線ガード西の征夷路下脇にある
謎の石碑の正体が判明しました。

聖火リレー
中継記念碑

加納清水町(大石町?)

北緯

35

24

15.9

東経

136

45

48.8

大きな木の下に、その石碑はあります。

木の根脇に白く見えるのが謎の石碑でした。

苔むし、雑草に埋もれて居た石碑
旧東陸橋と名鉄本線に挟まれてゴミや雑草に埋もれていた石碑が、JR岐阜駅高架化に伴って東陸橋が撤去され道路わきに現れました。
この石碑が岐阜コミュニテイ誌「こるも」に紹介され「東京オリンピック聖火リレー中継記念碑」と判りました。
碑は高さ1メートルの火焔型自然石で「聖火」の文字が彫られています。
聖火は昭和39年(1964)10月1日に三重県から岐阜県入りし、翌日に愛知県へ引き継がれた。
リレーはパトカーに先導されたトーチをかかげた正走者に予備トーチを持った2人の副走者のあと、
日の丸の方旗を持った随走者20人が続いた。
碑のある地点は、36区から約1.2キロ先の茶所までの37区への中継点となった所です。
(岐阜まちの情報誌「こもる」より)

再び中山道に戻ります
JR岐阜駅南口への道「加納栄町通り」を横断し約80mほど進むと、「秋葉神社」(加納本町6丁目)の前を通ります。

加納本町6丁目
秋葉神社

岐阜市加納本町六丁目

北緯

35

24

12.8

東経

136

45

27.8

加納本町6丁目の秋葉神社を30mほど過ぎると南への三叉路へ出ます。

この南への道を70mほど南進すると新本町の大通りへ出ます。
ここに「西方寺」があります。

川端康成の短編小説の舞台
西方寺

加納新本町一丁目

北緯

35

24

10.7

東経

136

45

27.3

 浄土宗,開基は慶長年間.

川端康成の短編小説の舞台
「岐阜名産の雨傘と提灯を作る家の多い田舎町の澄願寺には門がなかった」で
始まる川端康成の短編小説は,大正13(1924)年3月3日「新小説」に発表された.
川端が少女みち子に結婚を申し込むため加納の寺を訪れた.
この寺が西方寺であった.篝火に誓った恋として話題の小説「篝火」として有名.

岐阜市湊町にある川端康成文学碑

           川端康成「篝火」ゆかりの地
 長良川の南岸たもとの一角にある小公園に文豪・川端康成ゆかりの碑があります。
 川端康成は大正十年頃三回にわたって友人と岐阜を訪問しています。
 その理由は、彼が想いを寄せた「みち子(岐阜市加納新本町1丁目西方寺の養女となった本名は伊藤初代さん)」という女性に会うためでした。
 このときの体験を「篝火」「非常」「南方の火」などの短編小説に描がきました。
 この小説から彼の淡く切ない思いを胸に、二人の足跡を辿ってみると。
 先ずはみち子が東京から移り住んだといわれるJR岐阜駅南の西方寺へ。
 ここで川端康成は和尚の壁塗りの手伝いをするみち子の姿をそっとのぞき見したと小説に描かれています。
 街中といえど現在も静かな佇まいを見せる西方寺。
 この塀越しに、どんな想いで愛しい女性を眺めていたのでしょうか。
 次にJR岐阜駅へと足をのばします。
 かって駅の構内に架かっていた陸橋からみち子は東京へ行く汽車を飽かず眺めていたという。
 現在駅は高架となり陸橋は跡形もなくなっています。
 そこから駅の北へ出て、市役所前にある写真館へ。
 ここは二人が一緒に写真をとった場所です。(この辺りに古くからある写真館は「瀬古写真館」)
 そこから北へ、長良川河畔へ。
 「篝火」の中では結婚を約束をした幸せな二人はこの長良河畔にある宿の二階から、長良川を下ってくる鵜船を見る様子が描かれています。
 その一節を記念して2006年に「川端康成ゆかりの地」の碑が建てられました。
(この付近の様子は次々頁の「長良川と鵜飼物語」でご案内します)

芭蕉の句碑などと一緒に並んでいます。

 

 

「西方寺」から中山道へ戻り更に北へ約200mほど進むと西側に「妙泉寺」があります

「ぶたれ坊」のある
妙泉寺

岐阜市加納伏見町

北緯

35

24

19.8

東経

136

45

26.9

お寺さんには見えない構え

○妙寿寺の鏡岩と妙泉寺
日蓮宗,文政の頃,乱暴者だった江戸の相撲取り二代目の鏡岩が,自分の所業を反省し罪を償うため,
天保十二(1841)年、加納八幡町「妙寿寺」に亡父の十三回忌の供養塔を設け,
自分の木像を作って「ぶたれ坊」と名づけ,通行人に棒で打たせて罪ほろぼしを乞うた.
そして茶をふるまったことから加納八幡町付近を「茶所」と呼ぶようになった
その後「妙寿寺」は廃寺となり「ぶたれ坊」はこの寺へ移された。

「ぶたれ坊」は境内の「鬼子母神堂」に安置してあります。

以外に綺麗に保存されいます。

とりあえあず中山道(加納本町)へ戻り先へ50mほど進み十字路へ出ます。

この辺りに獄屋があったそうです

獄屋付近は現在の道とは多少異なり、枡形に作ってあり警戒できるような道野作り方でした。
また現在は名前も残っていない「全久院」は紫色の範囲が寺領であるのでかなり広大な
敷地を有していたようでした。それに引き換え「信浄寺」は当時の寺領はさほど大きくない
のに現在もそのまま残っています。黄緑色は「中問屋敷」 薄赤色は町屋です

加納藩獄屋跡

加納新本町一丁目

北緯

35

24

12.4

東経

136

45

21.3

 獄屋跡には標識はありませんがこの付近と言うことです。
南へ進むと加納新本町通り1丁目の信号に出ます

再び中山道へ戻り西へ約40mほど進むと本町7丁目の秋葉神社があります。

加納本町7丁目
秋葉神社

岐阜市加納本町七丁目

北緯

35

24

14.8

東経

136

45

21.1

更に西へ約310mほど進むと本町八丁目の秋葉神社があり、そこが加納宿の西の入り口の「加納宿西番屋跡」です。

加納宿西番所跡
八幡神社

加納本町八丁目

北緯

35

24

18.9

東経

136

45

09.8

 「加納宿東番所」から約1,200m「加納宿西番所」で加納宿西の入り口となります。

 ここに加納西番所があった.ここを流れる川を番所川と言ったが今は暗渠になっている
ここの北側に文久元(1861)年の石仏があったが,近年新仏につくりかえられた.
石仏には道しるべが刻まれていたそうです.

中山道の南にあります

奥には「愛宕神社」も祀られています

「西番所跡」碑「秋葉神社」境内隅にあります。

更に西へ約210mほど進むと県道151号線を横断します

「県道151号線」横断

加納本町八丁目

北緯

35

24

21.2

東経

136

45

01.3

広い交差点です

北を見るとJR高架が見えます

この交差点を南へ約950mに「永井肥前守殿家臣」顕彰碑があります

穴釜墓地

加納竜興町二丁目

北緯

35

23

48.4

東経

136

45

02.9

○穴釜墓地
 明治45年に水野墓地が廃止されて移転し,約4500坪,1132区画がある.加納宿松波本陣を始め,
地区民の先祖の墓地である.
大正2年2月に墓地完成を記念して,加納町発展功労者の顕彰碑「永井肥前守殿家臣」
として23名の霊仏が収められている.

中山道へもどり県道151号線を横断して約140mほど進むと左側(南側)に阿賀多神社があります

阿賀多神社

岐阜市菊池町一丁目

北緯

35

24

21.2

東経

136

44

55.5

「阿賀多神社」から約50mほどにある四辻を左(南)に曲がり南へ4本目の辻(約210mほど)を
右(西)に曲がると「菊池神社」があります

往来(ゆきき)の松石碑の
菊池神社

岐阜市菊地町

北緯

35

24

15.3

東経

136

44

50.8

この神社にはかって幹回り7m、高さ14M松がありました

この松は江戸初期、加納城主、松平朝臣があまりの立派さに「往来(ゆきき)の松」と名づけたほどでした。

 元禄宝暦年代(1688〜1760)の見事な老大木があり,時の城主松平光永は「往来=ゆききの松」と名付けた.
この松にまつわる和歌が多くの文人等に読まれた文集は,脇本陣森家に伝わる.初代の松は宝暦元年に枯れ,
二代目の松も昭和25年に枯れ果てた.現在境内に「往来の松古跡の碑」が建ち,
明治35年のものと昭和13年のものとが塔のように積み重ねられている.

初代の松は「宝暦(1751〜64年)頃に枯れましたが2代目之松の明治35年建立の碑がありましたが、今はこれも見当たりません3代目の松の横に最近の碑がありました。

再び中山道まで戻り、加納本町通りを西へ約30mほどの一本目の四左路を
南(左)へ曲がるとみぎ((西)に「一里塚跡」石碑があります。

加納一里塚跡

岐阜市松原町

北緯

35

24

20.4

東経

136

44

48.5

道路になった「一里塚」

 現在は道路になって塚は跡形もありません。

 位置は「細畑の一里塚」から3.9kmと正確です。

中山道を少しはずれ南側にあるので道路計画などにより多少位置がずれたのかも知れません

古書によると「北塚は本庄鳥屋村,南塚は三里清村に建っていたが消失した.」とあります

民家のガレージ脇の塀の横にひっそりと立っています

新道と合流して西へ380mほど進むとJR高架の下をくぐります

ここから先は国鉄工事、JR高架工事などにより正確なルートではありません
ここから西へ約3kmで長良川へ出ます。
河渡の渡しで長良川を渡ると対岸が「河渡宿」です。

次のページは「岐阜城と周辺の城址」などをご案内します

中山道は3ページ目から「鏡島弘法」「小紅(おべに)の渡し」などを紹介して「河渡(ごうど)宿」へご案内します

街道コラム

【お茶壺道中-1】

 「ズイズイ ズッコロバシ ゴマミソズイ チャツボニ オワレテ トッピンシャン ヌケタラドンドコショ」この珍しい古くからある茶壷の童謡の歌われ始めたのは不明ですが、中山道のどこかで子供たちがワイワイ騒いで遊んでいるところへお茶壺の通行があり、きつく叱られたところから生まれた童謡でしょう。
 お茶壺道中の始まりは、寛永九年(1632)、京都宇治より第三代将軍家光へ茶を献上した時からと言われています。
それ以来この往来をお茶壺道中といい、毎年江戸より茶道頭一行が茶壷を持って宇治へ行き、上林家で茶を選び、初期には京都の愛宕山で100余日治め、その後中山道を江戸へ向かった。

加納宿でお茶壺騒動
 寛文五年(1665)、加納宿ではお茶壺本陣に指定された久運寺が、玉葉和尚の固辞で大騒動となったが、和尚の交代(実際は幕名で追放)で落着した
  将軍の飲料用のお茶だけに、その通行には厳しい取締りがあった。道路には敷砂をし、朝七ツ時(4時)から通行が終わるまで、煙を出してはならぬ。葬送は禁止。またその任務を持つ茶道頭らの接待も大変であったようです。
 とにかく、お茶壺道中は泣く子も黙るほどで、宿役人も羽織・袴で宿泊所で接待し、丁重に送迎した。関所でも関守は勅使・院使以上に礼を厚くし、諸大名もお茶壺道中に出会ったら駕籠より下りて見送ったようです。

【お茶壺道中-2】

 江戸時代に幕府御用のお茶が宇治から江戸まで送られました。
 この行列を「お茶壺道中」とか「宇治茶壺道中」といいました。
 お茶壺道中の制度が確立したのは寛永十年(1633)で、宇治から茶葉の生育状況の報告を受けて、毎年初夏に幕府の茶壷の行列が江戸を出発しました。
 往路は東海道を通り、復路は茶壷を甲州谷村(やむら=山梨県都留市)で夏を越させるため、中仙道・甲州街道を経由したのでした。
 江戸中期以降、茶壷を江戸城の富士見櫓で保存するようになると、復路も東海道を経由することが多くなりました。
 ただし、お茶は湿気を嫌うことから、「七里の渡し」を避けて美濃路を通行することなど、経路に気を配りました。
 美濃路起宿の記録によると、同宿の最初の茶壷の通行は元禄六年(1693)で、万延元年(1860)の通行では、20か村から助郷人足331人、5ケ村から馬36頭のほか、50艘前後の船の手配が必要でした。
 沿道や通行の人々は、一行の横暴にも将軍家の権威に従わなければならないなど苦労の種でした。
 また尾張藩は、長良川で獲れた鮎を塩と酢に漬けて腹に飯を詰めた鮎鮨を、岐阜〜江戸間を4日間で運んで将軍家に献上しました。
 岐阜から岐阜街道を南下し、四ツ家で美濃路に入り、宮(熱田)宿から東海道を江戸に向かいました。
(美濃路については中山道後編 美濃路ー1〜4で詳しく紹介します。)

        

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。