中山道六十九次のうち五十四宿目で中山道美濃十六宿の十番目の宿「加納宿」をご案内します
六十九次 |
岐阜県岐阜市 美濃国 JR東海線岐阜駅下車 |
「加納宿ー2」巻は、加納宿本陣跡、加納宿西問屋跡、加納宿脇本陣跡、加納天満宮、もう一つの加納宿脇本陣跡、
亀姫様の墓のある光国寺、奥平信昌夫妻の墓のある盛徳寺、お茶壺道中本陣を断って住職が追放になった「久運寺」、
新撰組に参加した加納藩氏加々爪勝太郎墓のある信浄寺、川端康成の小説舞台の西方寺、ぶたれ坊のある妙泉寺、
加納藩獄屋跡、加納宿西番所跡のある秋葉神社、「往来(ゆきき)の松石碑」のある菊池神社、「加納一里塚跡」
などをGPS位置情報とともに、ご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道) |
「当分本陣」を過ぎると加納桜通りを横断します
「加納桜通り」横断 |
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金華山も見えます |
道路の向こうに道標があります。 |
横断し右側(北側)の二軒目が「加納宿本陣跡」です。
加納宿本陣跡 加納桜通り2丁目11番地 |
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加納宿の宿制 本陣は松波家,脇本陣は森家,幕末には宮田,三宅家.人馬,物資のつぎたてとして東,西問屋,岐阜問屋が設けられていた.宿役人には宿老,町年寄,町頭,五人組頭が置かれていました. |
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「本陣」 (左の画像はH10年頃の画像です) |
現在は「青木邸」は歯科を営んでおられました。 皇女和宮の歌碑 その時、自身の心情を詠まれたという歌が伝えられています。 「遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりけり」 この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草」に収められており和宮の直筆である。 |
本陣の青木邸の一軒置いて隣です
加納宿西問屋場跡 加納本町3丁目 |
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「西問屋跡」 |
加納宿の問屋と町年寄 問屋役は、宿老または町年寄の者が月番で小唄に務めた。 宿老 |
このほかに一般旅行者を相手とする「旅籠屋」「木賃宿」「茶屋」「商店」が立ち並び、
その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげました。
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加納桜道から約130m程の加納天満宮参道の手前北側に「脇本陣跡」があります
加納宿脇本陣跡 加納本町3丁目8番地 |
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本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけでは泊まりきれないとき時とか、 宿場で藩同士が鉢合わせになったとき、格式の低い方の藩の宿として利用されるなど、 本陣に差し支えが生じた場合に利用されました。 それ以外の時は一般の旅行者の宿泊にも供せれました。 規模は本陣より小さいのですが、諸式は全て本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めました。 |
「加納脇本陣跡」の角を北へ曲がると約70m先に加納天満宮があります。
加納天満宮 加納天神町 |
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加納築城以前からまつられていた古社である |
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「加納天満宮」の西側に「久運寺」があります。
住職が追放になった 岐阜市加納天神町四丁目 |
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安土桃山時代に仮名草紙「因果物語」に寺名が 天正年間(1580年頃)作の仮名草紙「因果物語」に不思議な鶏の寺として記されている |
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江戸時代に堂宇を建立 |
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住職は「お茶壺道中」の本陣を断り追放 |
中山道へ戻り約60mほどの右側(北側)にもう一軒の「脇本陣」があります
もう一軒の 加納本町4丁目 |
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最近、脇本陣の小林家が広い敷地を利用してマンション建設計画をしているようです |
脇本陣の「小林家」は現在も風格ある (マンション建設計画で取り壊されるようです) |
中山道の今 今は”加納本町通り”と呼ばれる人通りの少ない通りです。 (しかし、いつまでこの風情が続くでしょうか心配です) |
もう一軒の脇本陣から約110mほど四辻を北へ約30m入ると「信浄寺」があります。
新撰組に参加した加納藩士 岐阜市加納清水町1丁目 |
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本堂再建 |
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獅子門中建立の芭蕉句碑 |
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加納藩士加々爪(かがつめ)勝太郎については新撰組に参加して死去したことのみで詳細は不明 |
「信浄寺」から更に北へ約60mほど進むと東側に「宝樹院」があります
名号石が亀姫の床下石の 岐阜市加納清水町1丁目 |
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行基作の薬師如来 浄土宗.本尊阿弥陀如来.行基作と言われる薬師如来がある. |
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亀姫の床下石 |
「宝樹院」から中山道へ戻り西へ約60mほど進むと「加納栄町通り」へ出ます
その加納栄町通りを北へ約100mほど進むと東側に「欣浄寺」があります
句碑の 岐阜市加納清水町1丁目 |
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浄土宗.慶長8(1603)年開基した寺院である. | |
本堂は未だ小さいまま |
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境内には多くの句碑が立ち,明治,大正,昭和をついで地元加納の俳諧の盛んだったことが偲ばれる. |
中山道に戻り「加納栄町通り」を横断します。
「加納栄通り」横断 |
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中山道は更に西へ真っ直ぐに続きます |
北に見えるのが「JR岐阜駅」 |
JR(国鉄)高架 昭和2年に加納町が岐阜市と合併する条件として、鉄道下を地下道で結ぶことでした。 昭和16年頃、岐阜駅の加納側から地下道工事が始まりましたが、地下水が豊富な地方のため湧水が多く工事は進まず、太平洋戦争が勃発し中断し、その後大きな穴は埋め戻されまた。 この地方の議員さんが立候補の公約に必ず謳いますが、なかなか実現しませんでした。 しかし1990年後半からののバブル経済で議員さんの力を借りずに、あっさりとできてしまいました。 合併による町名の混乱 明治の頃「加納町」と「長良村」が岐阜市と合併しましたが、各町には「天神町」「本町」などがあり混乱するため頭に「加納」「長良」を付け加納本町や長良天神とし岐阜市の本町や天神町はそのままとしました。 |
昭和43年(1968)頃の国鉄岐阜駅周辺 |
ここで中山道から外れ徳川家康の娘亀姫様(地元では加納様)の墓を案内します
岐阜市加納地区に亀姫様の墓が二つある |
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徳川家康の長女亀姫の墓は「光国寺」と「盛徳寺」に加納地区に2箇所あります |
現在の住宅地図の上に当時の古地図を載せますと |
亀姫様の菩提寺 加納西広江町2丁目 |
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亀姫が自分の菩提のため慶長19年に創建した寺 |
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徳川家康の長女「亀姫」の墓があることで有名なお寺です。 |
三葉葵の紋 |
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光国寺は亀姫の化粧用下屋敷 |
「松平総守忠啓」寄進の灯籠に見守られる墓 |
もう一つは加納奥平町にある盛徳寺です
奥平信昌夫妻の墓 加納奥平町 |
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三河の奥平家菩提寺増瑞寺を移した |
奥平信昌は家康に従い姉川の合戦で多くの武功をあげました。 |
奥平信昌夫婦の墓 この折織田信長より信の一字を賜わり貞昌から信昌へあらためた。 信昌の妻亀姫は二代将軍「秀忠」、尾張藩祖徳川義範の姉にあたり、母は家康の正室築山殿であります。
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以前はお願いすれば、気軽に参拝できましたが現在では門も新築され「参拝お断り」の札が掛けられています
盛徳寺(岐阜市加納奥平町) お寺の一番奥に塀に囲まれたところにあり、奥平信昌夫妻の墓が向かいあってます。 お寺は戦災に遭い丸焼けでした。 墓は大きな土饅頭が二個並んでます。 町名も奥平家にちなんで奥平町となっています。 |
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平成の始めの頃は参拝できました | 平成19年奥の門も改築され参拝できません |
信昌は元和元年(1615年)六十一歳で、 |
先ほどの亀姫様の菩提寺「光国寺」の西の名鉄本線ガード西の征夷路下脇にある
謎の石碑の正体が判明しました。
聖火リレー 加納清水町(大石町?) |
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大きな木の下に、その石碑はあります。 |
木の根脇に白く見えるのが謎の石碑でした。 |
苔むし、雑草に埋もれて居た石碑 |
再び中山道に戻ります
JR岐阜駅南口への道「加納栄町通り」を横断し約80mほど進むと、「秋葉神社」(加納本町6丁目)の前を通ります。
加納本町6丁目 岐阜市加納本町六丁目 |
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加納本町6丁目の秋葉神社を30mほど過ぎると南への三叉路へ出ます。
この南への道を70mほど南進すると新本町の大通りへ出ます。
ここに「西方寺」があります。
川端康成の短編小説の舞台 加納新本町一丁目 |
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浄土宗,開基は慶長年間. |
川端康成の短編小説の舞台 |
岐阜市湊町にある川端康成文学碑
川端康成「篝火」ゆかりの地 長良川の南岸たもとの一角にある小公園に文豪・川端康成ゆかりの碑があります。 川端康成は大正十年頃三回にわたって友人と岐阜を訪問しています。 その理由は、彼が想いを寄せた「みち子(岐阜市加納新本町1丁目西方寺の養女となった本名は伊藤初代さん)」という女性に会うためでした。 このときの体験を「篝火」「非常」「南方の火」などの短編小説に描がきました。 この小説から彼の淡く切ない思いを胸に、二人の足跡を辿ってみると。 先ずはみち子が東京から移り住んだといわれるJR岐阜駅南の西方寺へ。 ここで川端康成は和尚の壁塗りの手伝いをするみち子の姿をそっとのぞき見したと小説に描かれています。 街中といえど現在も静かな佇まいを見せる西方寺。 この塀越しに、どんな想いで愛しい女性を眺めていたのでしょうか。 次にJR岐阜駅へと足をのばします。 かって駅の構内に架かっていた陸橋からみち子は東京へ行く汽車を飽かず眺めていたという。 現在駅は高架となり陸橋は跡形もなくなっています。 そこから駅の北へ出て、市役所前にある写真館へ。 ここは二人が一緒に写真をとった場所です。(この辺りに古くからある写真館は「瀬古写真館」) そこから北へ、長良川河畔へ。 「篝火」の中では結婚を約束をした幸せな二人はこの長良河畔にある宿の二階から、長良川を下ってくる鵜船を見る様子が描かれています。 その一節を記念して2006年に「川端康成ゆかりの地」の碑が建てられました。 (この付近の様子は次々頁の「長良川と鵜飼物語」でご案内します) |
芭蕉の句碑などと一緒に並んでいます。 |
「西方寺」から中山道へ戻り更に北へ約200mほど進むと西側に「妙泉寺」があります
「ぶたれ坊」のある 岐阜市加納伏見町 |
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お寺さんには見えない構え |
○妙寿寺の鏡岩と妙泉寺 |
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「ぶたれ坊」は境内の「鬼子母神堂」に安置してあります。 |
以外に綺麗に保存されいます。 |
とりあえあず中山道(加納本町)へ戻り先へ50mほど進み十字路へ出ます。
この辺りに獄屋があったそうです
獄屋付近は現在の道とは多少異なり、枡形に作ってあり警戒できるような道野作り方でした。 |
加納藩獄屋跡 加納新本町一丁目 |
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獄屋跡には標識はありませんがこの付近と言うことです。 南へ進むと加納新本町通り1丁目の信号に出ます |
再び中山道へ戻り西へ約40mほど進むと本町7丁目の秋葉神社があります。
加納本町7丁目 岐阜市加納本町七丁目 |
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更に西へ約310mほど進むと本町八丁目の秋葉神社があり、そこが加納宿の西の入り口の「加納宿西番屋跡」です。
加納宿西番所跡 加納本町八丁目 |
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「加納宿東番所」から約1,200mが「加納宿西番所」で加納宿西の入り口となります。 |
ここに加納西番所があった.ここを流れる川を番所川と言ったが今は暗渠になっている |
中山道の南にあります |
奥には「愛宕神社」も祀られています |
「西番所跡」碑は「秋葉神社」境内隅にあります。 |
更に西へ約210mほど進むと県道151号線を横断します
「県道151号線」横断 加納本町八丁目 |
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広い交差点です |
北を見るとJR高架が見えます |
この交差点を南へ約950mに「永井肥前守殿家臣」顕彰碑があります
穴釜墓地 加納竜興町二丁目 |
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○穴釜墓地 |
中山道へもどり県道151号線を横断して約140mほど進むと左側(南側)に阿賀多神社があります
阿賀多神社 岐阜市菊池町一丁目 |
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「阿賀多神社」から約50mほどにある四辻を左(南)に曲がり南へ4本目の辻(約210mほど)を
右(西)に曲がると「菊池神社」があります
往来(ゆきき)の松石碑の 岐阜市菊地町 |
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この神社にはかって幹回り7m、高さ14M松がありました |
この松は江戸初期、加納城主、松平朝臣があまりの立派さに「往来(ゆきき)の松」と名づけたほどでした。 |
初代の松は「宝暦(1751〜64年)頃に枯れましたが2代目之松の明治35年建立の碑がありましたが、今はこれも見当たりません3代目の松の横に最近の碑がありました。 |
再び中山道まで戻り、加納本町通りを西へ約30mほどの一本目の四左路を
南(左)へ曲がるとみぎ((西)に「一里塚跡」石碑があります。
加納一里塚跡 岐阜市松原町 |
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道路になった「一里塚」 現在は道路になって塚は跡形もありません。 位置は「細畑の一里塚」から3.9kmと正確です。 |
中山道を少しはずれ南側にあるので道路計画などにより多少位置がずれたのかも知れません
古書によると「北塚は本庄鳥屋村,南塚は三里清村に建っていたが消失した.」とあります |
民家のガレージ脇の塀の横にひっそりと立っています |
新道と合流して西へ380mほど進むとJR高架の下をくぐります
ここから先は国鉄工事、JR高架工事などにより正確なルートではありません |
次のページは「岐阜城と周辺の城址」などをご案内します。
中山道は3ページ目から「鏡島弘法」や「小紅(おべに)の渡し」などを紹介して「河渡(ごうど)宿」へご案内します
街道コラム
【お茶壺道中-1】 「ズイズイ ズッコロバシ ゴマミソズイ チャツボニ オワレテ トッピンシャン ヌケタラドンドコショ」この珍しい古くからある茶壷の童謡の歌われ始めたのは不明ですが、中山道のどこかで子供たちがワイワイ騒いで遊んでいるところへお茶壺の通行があり、きつく叱られたところから生まれた童謡でしょう。 加納宿でお茶壺騒動 |
【お茶壺道中-2】 江戸時代に幕府御用のお茶が宇治から江戸まで送られました。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。