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江戸に入る前は斎藤道三・織田信長により発展させた岐阜城下町が美濃の物流の中心でした。

六十九次
のうち
五十四宿
五十五宿間

岐阜県岐阜市

美濃国

JR東海線岐阜駅下車

「井ノ口村から岐阜へ」の巻は、岐阜城を中心に岐阜市内にある城址「加納城址」、「川手城址」、「上茜部城址」、
「鷺山城跡」、「黒野城跡」の6城址と市近郊の「伏屋城址」、「松倉城址」の紹介と岐阜城の麓の千畳敷(岐阜公園)にある
織田信長公居館跡や名和昆虫館、かって豪商の庭園であった梅の名所「梅林公園」、岐阜の繁華街「柳ケ瀬」の古今、
市役所・県庁の古今、国登録有形文化財「濃尾震災記念堂」、尾藤氏発明のビトー式回し日時計、岐阜市近郊の
願成寺中将姫誓願桜、高富町戸羽川の「伏越し」などを、GPS位置情報と共に、ご案内します。

        

岐阜城

北緯

35

25

50.7

東経

136

47

05.6

岐阜城の始まり
  鎌倉時代は砦から
建仁元年1201年)  二階堂行政(にかいどうゆきまさ)が金華山の上にを築いたのが始まり         佐藤朝光(さとうともみつ 二階堂行政の女婿)                      伊賀光宗(いがみつむね 佐藤朝光の子)                
稲葉光資(いなばみつすけ 伊賀光宗の弟)              
       稲葉光房(いなばみつふさ)                               
二階堂行藤(にかいどうゆきふじ 行政の孫の子)の後、廃城となる。

  室町時代

応永19年1412年斉藤利永 守護土岐氏の守護代。城を修築して在城
文安2年1445年) 斉藤利永 加納城を築城
大永5年
1525年)、長井長弘(斎藤氏の家臣)と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻
             撃。長井氏の支配下となる。
天文2年1533年)、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。、
永禄7年1564年)、竹中半兵衛重治(斎藤氏の家臣)と安藤守就が造反し、挙兵。
             稲葉山城を攻める。斎藤龍興らは城を捨て、竹中らがしばらく占拠する。
永禄10年1567年)、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により
            稲葉山城を攻略。斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに
          造営したものが岐阜城である。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした

安土桃山時代

天正10年1582年)、織田信忠が、本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤
             利堯が岐阜城を乗っ取る。
             しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、降伏。
天正11年1583年)、羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼
             応し、挙兵。落城する。
             賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。
天正11年1583年)から天正19年(1591年)の間、羽柴氏家臣の池田             元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田
            輝政
)の居城となる。
慶長5年1600年)、秀吉によって13万石の城主に封ぜられていた城主
             織田秀信(幼名・三法師)は石田三成の挙兵に呼
             応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐
             阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻
             められて落城。
慶長6年1601年)、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10
             万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜
             城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移された
             という。家康は時代の変化をとらえ岐阜城が山城で
             あることから加納に平城を築かせた

江戸時代
家康に岐阜城にあった天主、櫓などは加納城築城のため持ち去られ石垣のみ残った。

           明治時代
明治43年1910年) 復興天主建造 
 金華山山頂に残されていた勝手の岐阜城石垣を利用して、明治43年(1910)5月15日に模擬天守が再建され落成しました。
 これは初代の長良橋の廃材を活用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により建てられたもので木造、亜鉛(トタン)葺きのもの(3層3階、高さ15.15m)で映画のセットのようなものであったらしい。

 しかし、この模擬城も終戦2年前に浮浪者の失火により焼失したが、戦局が思わしくなく日常生活も苦しくなり、岐阜市民は夜、燃える岐阜城を見上げる程度でした。

昭和時代
 昭和18年1943年)2月17日早朝に失火のため焼失。なお建築から34年たち老朽化のため建替えの話も出始めていたという。                                      
  昭和30年1955年)6月、再建期成同盟が発足。建設は市民、財界の浄財によると原則で必要な費用2,000万円の募金が行われ、約4ヶ月間で1,800万円が集められた。              
 昭和31年1956年)7月25日、鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成。天守閣の設計は加納城御三
            階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日本土木が施工
             した。なお建築にあたり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が行われた。            

        岐阜城落城物語
歴史的には6回も落城
山城。難攻不落の名城として知られているが、歴史上6回の落城にあっている。
山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には不向きであった。
織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、永禄12年1569年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。

岐阜城についての詳しくは「城郭城址の散歩道」の
”金華山・岐阜城”
をご覧下さい

山頂の展望台からの眺めは最高です

サンセット・ビアーガーデン
 夏期には山頂(標高329m)のレストランでビアーガーデンがオープンします。
 そのためロープウエイも22:00まで営業されます。
 往復運賃も夜間特別割引で18:00から1050円が950円になります。

 また、最近ロープウエイのゴンドラも新しくなり大型になりました。
 運転も年中無休で正月元旦は「初日の出」を拝むため早朝運転されます

 登山道も整備されていて歩いて登っても30分から1時間で上がれます。 岐阜公園の中に「七曲がり口」の標識から登り初めて下さい。
 適当な運動になると思います。

 夕日が伊吹山に落ちる頃から長良、揖斐両河川が黄金色に輝き、やがて岐阜の町が宝石をちりばめたように、輝きだします。
 是非、ご家族で夕涼みがてらにお出かけ下さい。

ここで麓の岐阜公園をご案内する前に、岐阜市内と近郊の城址をご案内します。

岐阜市内の城址

岐阜市内の城址は
加納城址、川手城址、上茜部城址、高桑城址、鏡島城址、長森城址、鷺山城址、黒野城址の八城址です。

まず加納城址からご案内します

加納城跡

加納丸の内

北緯

35

23

46.4

東経

136

45

50.2

16世紀終わりころまで木曽川の本流は「境川」
加納城本丸跡の南は十五〜十六世紀には美濃国の政治と文化の中心でした。
写真の荒田川左岸には、守護土岐氏によって壮大な伽藍を誇る正法寺(正法寺町)、その南には
美濃国守護土岐氏の守護所革手城(光樹町)が築かれ、右岸(西側)には船田城(水主町)、
当時の加納城(加納丸の内)は、守護代斎藤氏の居城でした。

詳しくは「城郭城址の散歩道」の”岐阜城周辺の城址”(製作中)をご覧下さい。

次は加納城址から南南東480mほどの済美女子高校の校庭脇にある川手城址をご案内します。

川手(革手)城跡

岐阜市正法寺町

北緯

35

23

33.7

東経

136

45

56.9

済美女子高校は路を挟んで両側にあります。
路は昼間は歩行者専用になっています

その路の中間辺りに「革手城跡」はあります。

              革手城の由来
 美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族です。
 なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地「土岐」に土着し、「土岐氏」と改め、現在の瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守り神の八幡神社を祀っています。

 そして、美濃国守護職(1189年)となって、鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となりました。
 光衡の子「光行」は、源實朝(みなもとのさねとも)に仕え池田親九郎追討の軍功(1216年)をあげ「左衛門尉」(さえもんのじょう)となり土岐氏浅野に住み東美濃を統一しました。

                    「土岐氏」始祖
 その子「光定」は、土岐惣領を継ぎ、執権「北条貞時」の娘を妻にして、隠岐守となり土岐氏隆盛の基となりました。
 土岐中興の祖となる土岐頼貞は、文武に秀で人物豊かで、その子「頼清」や「頼遠」と共に、元弘の変(1333年)に後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏に従い数多くの軍功をあげ
「土岐絶えば幕府(足利)絶ゆべし」「諸家の頭、筆頭の頭」
と信任を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、減瑞浪市一日市場、元土岐市大富にその居館を構え、十一代続く守護職の初代となりました。

詳しくは「城郭城址の散歩道」の”岐阜城周辺の城址”(製作中)をご覧下さい。

次に川手城址から西南西に860mの国道157号線脇の上茜部城址をご案内します

上茜部城跡
かみあかなべ)

岐阜市茜部(あかなべ)本郷二丁目)

北緯

35

23

17.1

東経

136

45

27.4

豊臣秀吉には無くてはならない人物
近江国の出身といわれている、堀資重により築城される。(時期不明。1550年以前?)

子孫の堀秀政は織田信長、豊臣秀吉に仕える。特に豊臣秀吉の元で様々な武功をあげ、秀吉には無くてはならない人物となる。しかし、小田原攻めの最中、陣中で病死。秀吉は大変嘆いたという。
秀吉は小田原を平定後、関八州を秀政に与える考えがあったようである。

廃城時期は不明であるが、堀秀政が1581年に長浜城城主、1585年に北ノ庄城城主となっている事から、このころに上茜部城は廃城された可能性が高い。

詳しくは「城郭城址の散歩道」の”岐阜城周辺の城址”(製作中)をご覧下さい。

岐阜市の南西隅の柳津町境川堤防脇の善覚寺から50mほど東の堤防上に高桑城址案内板があります。

高桑城址

岐阜市柳津町高桑

北緯

35

21

00.1

東経

136

42

47.5

                 高桑城址
 鎌倉時代初め(1190年代)から永禄七年(1567)まで、ここに高桑城がありました。
 この城は土塁で築かれ、周囲は役400m、その北西には御館様と呼ばれる城主高桑氏の住居がありました。
 城は、大永(たいえい)七年(1527)留守役の武山氏に渡り、永禄七年(1567)織田信長の手によって落城しました。
 今は、堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われいます。
                       (岐阜市文化財審議会)

長森城址は岐阜市長森の中山道沿いにあります。

長森城址

岐阜市切通六丁目

北緯

35

23

44.3

東経

136

47

58.2

長森城由来
文治年間(1185年)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。
延元二年(1337年)美濃国守護二代「土岐頼遠」が土岐郡大富より長森に居を移し、
長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめました。
1353年(文和2年)長森城が手狭になったため、土岐頼康は川手城を築城、本拠地を川手城に移しました。
長森城は土岐氏の土岐直詮が城主とり、土岐氏は以後川手城を本拠地としました。

詳しくは「城郭城址の散歩道」の”岐阜城周辺の城址”(製作中)をご覧下さい。

鷺山城址は国道157号線長良鷺山の山頂にあります。

鷺山城跡

岐阜市長良鷺山

北緯

35

26

47.4

東経

136

45

14.0

小説のお陰で残った「鷺山」(さぎやま)
 40年くらい前昭和36年頃(1961年)の高度成長期の宅地開発が盛んな頃、この歴史的にも有名な小さな山「鷺山」は
宅地造成の埋め立て土や、名神高速道路工事用に使われ約3ヘクタールほど削られてしまいました。
 山を崩し始めた頃、「NHKテレビ」で司馬遼太郎の「国盗り物語」が放映され、それまで悪者の代表だった「斉藤道三」が
全国の脚光を浴び、風前の灯火だった、「鷺山」も崩されずに済みました。
 その上、近くの「道三塚」も整備され、料金を取って見せるほどになりました。(現在は元に戻ってタダ)
 今では、「道三塚」も昔に戻って子供の遊び場です。
火の玉伝説の「道三岩」
 「鷺山」削られた一角に頑として動かない大きな岩が二つありました。
 一つは人間の顔に似ており「人面岩」でしたが、付近で火の玉が現れ、「道三」が首を探し回っているとも言われ
道三岩」と呼ばれるようになりました。

 詳しくは「城郭城址の散歩道」の”岐阜城周辺の城址”(製作中)をご覧下さい。

黒野城址は岐阜大学西1kmにあります。

黒野城跡

(岐阜市黒野)

北緯

35

27

24.6

東経

136

43

37.8

黒野城主「加藤貞泰」の遺恨と義理と見極め
 父、加藤光泰は、はじめ斉藤義竜(道三の義息)に仕えていましたが義竜が織田信長に滅ぼされると、
織田・豊臣氏に仕え甲斐国(山梨県谷村城二十四万石の城主となりましたが、石田三成が時の
関白豊臣秀吉
へ讒言(ざんげん=中傷)により領地を没収されました。
(一説によると朝鮮の役に陣中で没したとも伝えられています)

史跡「黒野城址」碑

十六歳の城主「加藤貞泰」
  「加藤光泰」は甲斐国領地(二十四万石)没収後、息子「左衛門尉貞泰」(十六歳)に家督を譲ることで家系は断絶にならず、美濃国黒野(岐阜市黒野)四万石に減禄移封されました。
領地は厚見郡(あつみ)、方県郡(かたがた)で新封地に着くや、文禄三年(1594年)に十六歳の貞泰黒野城を築き市場制度を取り入れ、城下町の繁栄を図りました。

菖蒲苑となった濠

詳しくは「城郭城址の散歩道」の”岐阜城周辺の城址”(製作中)をご覧下さい。

岐阜市近郊の城址

岐阜市近郊の城址は伏屋城址、松倉城址、伊木山城址、紹介します

伏屋城址は国道21号・156号が交叉する岐南インターから東南東1km程にあります。


伏屋城趾

羽島郡岐南町伏屋三丁目

北緯

35

22

55.8

東経

136

47

48.7

伏屋城趾の写真 伏屋城趾
織田信長が美濃の国を守るために豊臣秀吉に作らせた砦です。伏屋城は、木曽川の上流から材木を筏にして運び、わずかな日数で砦を作ったため「一夜城」とも「太閤城」ともいわれました。現在も土塁の一部が残っています。
伏屋城址は分かりにくい場所です。岐南インター東南東1,120mほどの所です
中部排水路沿いの目印の無い角を南へ入ります

詳しくは「城郭城址の散歩道」の”岐阜城周辺の城址”(製作中)をご覧下さい。

次は木曽川の中州の町川島町にある松倉城址をご案内します

松倉城址

羽島郡川島町松倉町

北緯

35

22

02.5

東経

136

51

16.9

 松倉城は、木曽川を挟んで美濃側への押さえの城として築かれました。
 蜂須賀小六・前野将右衛門らで有名な「川並衆」の拠点の城でもありました。

 現在は、木曽川の治水のため地形は随分変わったものと思われますが、松倉城にあった樫の大木が水上交通の目印になったとか。 
 この樫木を祀った「樫大神」の碑が城址に建てられいます。

城の歴史
 松倉城は、天文16年に織田信秀によって築かれ、坪内頼貞が初代城主となりました。 
 4代利定は、川並衆の一人として信長の美濃攻めの案内役として戦功あげました。 

 天正12年、利定は小牧長久手の合戦に際して徳川家康・織田信雄に組したが、秀吉方の池田恒興の軍勢を前に松倉城と新加納城を自ら焼き岡崎方面へと撤退しました。
 その後利定は、天正18年に徳川家康に仕え、慶長5年の関ヶ原での戦功により6,533石の大身旗本となりました。

詳しくは「城郭城址の散歩道」の
”岐阜城周辺の城址”
(製作中)
をご覧下さい。

岐阜城麓の岐阜公園千畳敷に戻って、現在発掘中の宣教師ルイス・フロイスの著書にも詳しく載せられた
「織田信長公居館跡」をご案内します。

織田信長公居館跡

宣教師ルイス・フロイス
織田信長公居館についてはポルトガルから来た宣教師のルイス・フロイス記述が唯一の資料で、これを参考にして、細々と発掘中です。
宣教師ルイス・フロイス著書「日本史」
イエズス会のポルトガル宣教師フロイスは信長の信用を得て、近畿を中心に日本での布教活動をしていた。
文筆の才能にも恵まれ、著書「日本史」をはじめ、様々な文書で当時の日本を記述。
岐阜城にも訪れており、その客観的かつ詳細な記述は、ここの発掘に大きな手がかりになっています。

このほか岐阜公園をご案内します

岐阜公園かいわい

「板垣死すとも自由は死せず」 
 戦前は必ず親たちが自慢げに説明してくれた板垣退助像もあります。
 明治時代、この地で演説中に暴漢に襲われ有名なせりふを残したと伝えられています。
「加藤栄三・加藤東一記念館」
 岐阜県出身の日本画家で元日展理事「加藤栄三」と前日展理事長の「加藤東一」画伯の記念館もあります。
    岐阜公園で「躍進日本大博覧会」
 昭和11年(1936)の3月から5月にかけて、岐阜公園と長良川畔一帯で開催された市主催の同博覧会のキャッチフレーズは「見よ!堂々の30数館に盛る躍進にほんの強調の万華鏡を!!」でした。
 これをはじめ戦前はたびたび大規模な博覧会が開催されました。

世界的にも貴重な昆虫を集めた「名和昆虫館」と「名和清先生」をご紹介します。

名和昆虫館

岐阜市千畳敷大道西308-1

入場料は大人500円/子供400円です。

北緯

35

25

48.3

東経

136

46

34.2

名和昆虫博物館
大正8年に竣工し、現在岐阜県の「登録有形文化財」ならびに
岐阜市の「都市景観重要建造物」に指定されています。

   記念昆虫博物館
          
標本収納庫)
 岐阜で育った人なら、幼いとき1度は訪れたことのある博物館です。
 幸い戦火からも逃れ明治40年と大正8年に建てられた由緒ある建物 が今も健在です。
 「ギフチョウ」を発見した創設者名和靖先生は昆虫採集ばかりでなく、害虫駆除、益虫保護のために明治27年に「名和昆虫研究所」を開設し、明治37年に現在の地に移り、40年に当時は輸入煉瓦が主流だった時代に日本材を使用して洋館を造り昆虫の殿堂としました。
 その建物は今の昆虫館の奥にひっそりと建っています。
                    名和靖博士
 記念昆虫館は博士が独力で世界旅行をして12,000種類 30万余頭の昆虫を持って帰ったものを展示するために大正8年に建てられた建物です。
 その建物は当時の新進建築家、武田五一氏の設計で煉瓦造り二階建のギリシャ神殿風の切り妻、白煉瓦造りで、玄関と「妻」に特徴があります。
 二階を支える巨木丸柱は、奈良唐招堤寺の解体修理時の古木を寄贈された物。
 約1,200年前のヒノキ材で、白アリ被害木の標本も兼ねています。
 初代館長の名和靖氏の白アリ研究の一環として、その保存も兼ねた利用法です。
 現在は「文化庁指定登録」の有形文化財です。
       明冶42年頃の名和昆虫研究所
 mori@silverも先の戦争末期(当時小学生)に訪れましたが、日常物資も事欠く時代でしたので、展示物は埃におおわれ虫に食われ窓ガラスも割れたままでした。
 岐阜市も米軍のB29による空襲に遭いましたが、幸いにも新旧昆虫館は広い公園の中にあったためか、辛くも戦災から逃れることができました。
 その後も日頃の食料にも事欠く苦難の時代を経てやっと「おおくわがた」が何万円で取引される飽食の時代になりましたが訪れる人はあまり居ません。
 ビックリするような珍しい昆虫が私たちを待っていてくれます。是非訪れてみてください
   名和 靖先生の出生地

 先生は安政4年(1857)に現在の本巣郡巣南町重里に生まれました。
 明治15年(1882)に岐阜県農学校を卒業後、岐阜県尋常師範学校などで教鞭を取るかかたわら昆虫採集と研究に努め、明治27年に名和昆虫研究所を設立しました。
 巣南町の生家には碑が建てられ、その功績をたたえています。
 近くへ行かれたときは是非お立ち寄り下さい。

我が家と岐阜公園の噴水

 我が家は岐阜空襲(昭和20年7月9日)で丸焼けになりました。私が小学校の時でした。
空襲の最中もって逃げた大切な物の中に数枚の写真がありました。
 その中の一枚が下の左の写真です。
 父が出征する前に撮ってくれた大切な写真で、手に持っているのが「森永のキャラメル」です。
昭和15年頃で「キャラメル」は滅多に手に出来ない物で、今でも覚えています。

昭和15年
(幼稚園児の頃)

       昭和33年頃
 古い写真を思い出し、18年後にわざわざ岐阜公園へ行き撮りに行きました この頃に台座の噴水は故障でした
    平成になってから
 最近、撮ってきた噴水。
昔の水の穴が詰まり、今は周りから噴水が出ています。

 私が20歳過ぎに記念に同じ場所で撮ったのが真ん中の写真です。
嬉しいことに、今も同じ噴水が公園を飾っていてくれます。
 我が家にも、いろんなことが、あった思い出の噴水です。

岐阜城周辺の城址を簡単にご案内します。

岐阜市内と近郊の名所案内

柳ケ瀬

        岐阜柳ケ瀬の代表「丸物百貨店」
 左が昭和12年以前の写真で、道路は神田町(長良橋)通り、右手のビルは昭和五年(1930)に開店した丸物百貨店でその後8階まで増設されました。
 その後近鉄百貨店となり昨年閉店しました。70年の灯がまた一つ消えました。
 神田町通りには路面電車(後の名鉄長良線)が走っていました。
 自動車も殆ど走っておらず、歩行者と自転車が行き交っていました。
                           柳ケ瀬電車停留所
         大正〜昭和初期?
 市内電車は明冶44年に開通。徐々に路線を延ばし、大正2年には市外線も架設されました。
 写真は八間道沿いの、柳ケ瀬電車停留所前にあった岐阜菊花園の店舗風景です。
           平成21年
     柳ケ瀬電車停留所はこの辺りにあったのかな?

 

        大正末期の神田町
 左中央は岐阜郵便局。(現市役所庁舎)
柳ケ瀬通り

                          昭和初期の柳ケ瀬通り
 大正期に遊技場が増え始めのをきっかけkに、映画館、飲食店などが相次いで開業され、昭和5年に百貨店開店。 中央右に丸物百貨店、街頭には名物の「すずらん灯」が見えます。

平成21年の柳ケ瀬通り

平成21年の柳ケ瀬通り

     岐阜大空襲後の柳ケ瀬付近
 昭和20年(1945)7月9・12日の岐阜大空襲により岐阜市は丸焼けになりました。
 柳ケ瀬から長良川の堤防が見えました。
 焼失戸数20、427戸。死者863人、負傷515人、罹災者86,197人にのぼりました。
 市役所も丸焼けで、食事の炊き出しなどもありませんでした。
       昭和28〜29年の柳ケ瀬通り
 手前が平和(金華橋)通り、向こうのビルは丸物百貨店
 昭和40年の柳ケ瀬通り
 この頃アーケードもでき柳ケ瀬が全盛期を向かえ、昭和41年には美川憲一の「柳ケ瀬ブルース」が柳ケ瀬で発表されましたがミカン箱のような台の上で披露されましたが50人ほどの人が集まっただけで関心をもたれませんでした。その後有線放送で九州地方から大ヒットし柳ケ瀬も全国的に有名になりました。
    大正10年の岐阜劇場
 大正九年、現在の高島屋辺りで開業した「岐阜劇場」
      現在の「岐阜劇場」跡辺り
 20年位前まで「衆楽館」という映画館があった所が岐阜劇場跡ではなかたかなと思われます。

神田町通り

          昭和33年(1955
 神田町9丁目(名鉄岐阜駅前付近)から北を望む。
 戦後、住宅の復興などさまざまな戦災復興事業が早くから行なわれ、戦災の傷跡も癒えてきた頃の風景
      平成21年の神田町通り
 
長い間市民に親しまれてきた市電も撤去され、アーケードも新しくなり角の地方銀行本店も建て直されましたが、通りにはかっての賑わいはなくなりました。

昭和24年(1949)神田町通り
 神田町9丁目(名鉄岐阜駅前付近)から北を望む。

 

               新岐阜駅(現名鉄岐阜駅)

昭和24年(1949)の新岐阜駅(現名鉄岐阜駅)前

昭和40年の名鉄新岐阜駅前の風景

 昭和32年(1957)には新駅舎が完成し、バスターミナルや商業施設を併設されたが後に建替えられ新岐阜百貨店も併設された。
 その後JR岐阜駅高架化が完成し乗客の流れも変わったことから平成21年には三度、生まれ変わり新生名鉄岐阜駅が発足しました。

平成21年の名鉄岐阜駅

 

市役所 今と昔

                                旧市役所
 大正14年の絵ハガキでカラーです。
 旧市役所は現在地に昭和41年に移転新築なりましたが、その向こうの白い建物は銀行で今でも使われています
 電柱が木柱で碍子の腕木も懐かしい形で装備されています。
 旧市役所は大正八年(1919)、美江寺町に新築されました。
 昭和41年(1966)に取り壊され、跡地は現在美江寺公園になっています。
 奥の建物は当時の商工会議所(大正13年建築)です。

昭和初年の美江寺町の市役所庁舎

          旧岐阜県庁舎
 岐阜市司町に現在は「岐阜総合庁舎」として使用されています。
 エントランスから中2階への大理石の階段にかっての県庁の威厳が残されています。是非覗いてみて下さい。
       昭和42年頃の県庁付近
 昭和41年に市内司町から郊外の市橋地区へ移転した県庁付近は田園のなかにそびえ立つ大建築でした。

最初の岐阜駅は中山道沿いの幸ノ町(こうのまち)の「加納駅」で開業
 明冶20年(1887)に鉄道が開通して開業した加納駅は現在の岐阜駅より東の中山道沿いにありました。
その後大正2年に現在地に移転しました。(駅舎は関西鉄道愛知駅を移転したもの)

大正期から昭和初期の岐阜駅付近

   終戦8年後の岐阜駅前
 昭和20年の空襲で駅舎も焼失した駅舎も23年にバラックながら駅舎も建ち、駅前広場も整備され市電も走り、復興の跡が見えますが、遠くに岐阜ガスのガスホルダーが目立ち、まだ立派な建物はない終戦後の岐阜駅周辺です。

     民衆駅の岐阜駅
 34年には戦後のバラック建ての駅舎から2階に商業施設を併設する民衆岐阜駅となり駅前には高層ビルも立ち並んだ駅周辺

 

             現在の岐阜駅
 平成8年に高架工事も完了し駅舎も開業し、北口・南口駅前広場が完成し県都岐阜市の顔が誕生しました。

岐阜市制120周年を記念して完成した駅前

 

 岐阜の青葉通り
 仙台市の有名な「青葉通り」と同じ様な立派な欅通りが岐阜にもあります。
 「若宮町通り」を西へ向かい「岐阜西通り」へ出るまでにあります。
          昭和63年頃の大洞緑団地
 戦後の住宅用地不足と地価高騰に対応するため、市内では大規模な住宅団地の造成が進められ関市の境の大洞地区に「大洞緑団地も造られました。

願成寺(岐阜市大洞)

中将姫誓願桜

               中将姫誓願桜
 樹齢は1,200年程度とされており、平安時代初期に中将姫が病気の治癒をこの寺で祈り、平癒したためにこの桜を植えたという伝承があり、今でもこの桜に祈ると婦人病に霊験があるといわれています。
                国指定天然記念物
 昭和4年(1929)に国指定天然記念物となりました。
 樹高8.1mで幹径150cm、20〜30弁の花弁を持った淡い桜色の花を咲かせる珍しい桜です。
 種類はヤマザクラの変種で同種の桜は確認されておらず、プルヌス・フロリドラ・ミヨシの学名が与えられています。
         中将姫誓願桜(ちゅうじょうひめせいがんざくら)
 奈良時代、藤原鎌足の曾孫の子である中将姫がこのお寺で病気が全快になったことを喜び、誓願して植えた桜です。
 仁王門を過ぎ境内に入ると、ピンク色から白く葉桜が始まり、桜吹雪が綺麗です。
 桜祭り4月13日ともなれば,観桜会 抹茶の接待、五平餅の販売などで賑わいます。
 中将姫誓願桜は、本来は願成寺境内にあって信仰の対象であり、その保存や拝観者への対応等は、願成寺と「中将姫誓願桜保存会」という、ボランティアの団体によって 行われております。
           【所在地】 〒501-3124 岐阜県岐阜市大洞1-21-2 願成寺

願成寺

「聖武天皇勅願古刹願成寺」

仁王門

仁王尊

仁王門から50mほどで境内へ登る階段があります。

                    願成寺縁起
 岐阜市大洞にある願成寺は真言宗智山派の古刹である。
 寺伝によれば、壬申の乱672)で功績のあった村国男依(おより)の創建と伝えられる。
 天平十七年(745)当山観音の霊験によって日野金丸が東大寺の大仏を鋳造したので、如意山願成寺と勅額を賜わり、七堂伽藍・十二坊を建てたが兵火にかかり焼失したと伝えられる。
 願成寺には鎌倉時代の仏像などが文化財に指定されている。
                              (岐阜市教育委員会)

 壬申の乱:天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱。 天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子           (後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。  (ウイッキペディアより)

 村国男依(おより)村国氏は美濃国各務郡の豪族で、大海人皇子に壬申の乱672)で功績のあったとある。
                 (レファレンス協同データベースより)

 日野金丸 東大寺の大仏鋳造を指揮したのは、今の岐阜市日野に住んでいた金丸という童であるという伝説がある。
        大仏鋳造に成功した日野金丸という少年が、大仏の開眼供養の時に天皇から仏鉢を賜ったとの伝承が紹介され            ている。    (レファレンス協同データベースより)

                   願成寺の伝説
 天平の昔、藤原豊成という貴人の姫に中将姫というとても美しくて賢いお姫様がありましたが、継母に大へん憎まれて殺されそうになりました。
 危うく難を逃れた姫は追っ手を避けて諸国を流浪し、やがて当寺へ辿り着かれました。
 ところが慣れぬ長旅で婦人病を患い、困り果て、ここの観音様に祈られましたところ、病気は忽ち治ってしまいました。
 姫は喜びのあまり、境内に一本の桜を植え、願いこめて祈られました。
 「桜よ、いつまでも私に代わって、ここの観音様をお守りしておくれ。また観音様、この桜の花や葉を大切に持つ婦人があれば、女の身にしか分からない心身の悩みから開放してやってください。」
 姫はこうして九十日もの長い祈りを終えると、大和の当麻寺で織ったのと同じ曼荼羅を蓮の糸で織り記念に当寺へ納められました。
 しかし、の曼荼羅は後に故(ゆえ)あって、愛知県江南市にある飛保の曼荼羅寺へ伝わって行ったと言われています。
                                                         (「現地説明板」より)

 愛知県江南市飛保「日輪山曼陀羅寺」: 西山浄土宗に属する寺院で、通称「飛保の曼陀羅寺」と呼ばれています。
                            西山浄土宗の古刹で尾北地方における最も格式の高い霊場です。
                              (ウイッキペディアより)

           ◎寺の伝説などで「曼荼羅寺」の由来や「曼荼羅」の伝説は見当たりませんでした。(管理者)

                              願成寺の「中将姫誓願桜」について
 この桜が珍しい品種であることが分かったのは、郷土の偉人で昆虫翁と言われた名和靖氏の尽力によるもので、東京帝国大学の三好学博士に調査を依頼したところ、学術的にも未発表の新種であることが確認され全世界に発表されたのです。
 この桜は現在は天然記念物に指定されていますので自由に花を取ったりすることは許されませんから、開花時に百花ほど摘んで安産などのお守りとして当寺より出しています。
                                                          (「現地説明板」より)

境内にはつつじの綺麗なピンクも「中将誓願桜」を引き立てます

        舞踊家岩井友見氏による
            「中将姫誓願桜」にまつわる創作舞踊製作中

 岐阜市からの依頼で現在「中将姫誓願桜」モチーフにした創作舞踊を製作中で2010年3月14日(中将姫の命日)の発表されるとのこと。
 創作にあたって岩井友見氏が桜が満開の時期に現地を訪れられたことがテレビの地方ニュースで放映されました。(岐阜放送より)

 

その他の話題寸描

伊勢湾台風の伊自良川

           台風の爪痕
 昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風、昭和51年(1976)9月の台風17号など、戦後も岐阜市はたびたび自然の猛威にさらされてきた。
 写真は台風17号による集中豪雨で伊自良川が氾濫しし浸水した市北西部。
 被害は死者5人、罹災41,462世帯にのぼりました。
梅の名所「梅林公園」
 広大な敷地は昔「篠田家」の庭園でした。
 明治時代に岐阜市へ寄付されたと聞いています。
 公園入り口横に「篠田家」入り口もあり、立派な入り口なので「ここは公園の入り口ではありません」と立て札があります。
 何故か園内には「D-51」があります。休日には元国鉄職員のボランテアによる手入れが行われています。
岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館(岐阜市大宮町)
 大宝二年(702年)から行われていた中世の鵜飼いは方県郡鵜飼荘でした。
 現在の岐阜市方県(かたがた)
 歴史の遺産が展示されています。

「赤飯」の美味しい店
 何故か美味しいことで評判です。
 岐阜市真砂町(忠節橋坂手前、西野町電停前)「さかえや」さんです。(真ん中の2階建て)

少し郊外に珍しいものを見つけました。

尾藤氏発案
ビトー回し日時計

岐阜市茜部(あかなべ)大野1丁目

北緯

35

23

31.4

東経

136

45

29.3

岐阜城南郵便局の南隣の空き地にあります

精巧な日時計
ビトー回し日時計
  
(岐阜市茜部大野一丁目)

 主要道路(国道157号線)脇にポツンとあります。
 精巧な仕掛けにもかかわらず無傷でよくあるものだと感心します。
 寄贈した「尾藤製作所」は理科教材会社(TEL058-271-8689)で、この近所です。

ビトー回し日時計とは?
 太陽の位置でその地方の時刻が分かります。(明石の標準時ではありません)
 上部の円盤を回し、覗き穴から覗きながら稼働させ反射盤に太陽光が窓の十文字の中心が来るように合わせると地方時間分かります。
 岐阜地方は標準時より7分の差があります。
 この場所は「標高 10m05cm、東経136度45分30秒、北緯35度23分32秒」だそうです。
感心してます!
 こんな精巧な機械が野ざらしでありながら、いたずらされていません。
 目立たないためか、いたずら児童があまり通らないのか、岐阜の子供は礼儀正しいのか?!
 いつまでも壊されなことを祈ります。
 「岐阜南消防署」が目印です。

市外北方面、高富町へ

戸羽川の「伏越し」

高富町高木字戸羽

北緯

35

29

59.4

東経

136

47

15.7

江戸時代の道標が近くにあります。
これを頼りに「蛍の里」を探して下さい。

蛍の里「伏越し」

 岐阜市の近郊「高富町」に蛍が沢山でる山里があります。
 地域の方々も宣伝をしないよう心掛けて、おいでですので、あえて正確な場所はお伝えできませんが、近くに有名な「伏越し」があります。
 濃尾震災(明治24年10月28日)でこのあたり一帯が陥没して沢渡川、三田又川の流れが変わってしまったため、鳥羽川の下にもう一つの川を流した明治時代の大土木事業の成果が「伏越し」です。
(新しい川は新川と呼ばれ鳥羽川の下をくぐり昔の川へ流れています。)

 さも蛍が出そうな川ですがこの鳥羽川には出ません
 ここより伊自良方面へ入って下さい。
 ライトを消して車の窓を開けて走ると蛍が入ってきます。

次は「長良川鵜飼」にお付き合いください

街道コラム

【道中奉行】

 江戸幕府内で道中のことを取り扱う役所は、最初のうちは単独の役所でなく大目塚が兼務していたが、万治二年(1659)に道中奉行が成立した。
 其の主な職掌は、
・朱印状の発行
・駅制(宿役人・問屋場などの取り締まり)
・宿駅の扶助(給米・免地子=めんじこ・拝借金など)
・人馬の取り締まり
・助郷およびその割替
・貫目改め
・街道、並木、橋の管理  などでした。

          

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。