加納宿を出ると中山道は長良川を渡り川渡宿へ入ります
六十九次 |
岐阜県岐阜市 美濃国 JR東海線岐阜駅下車 |
「小紅の渡し」巻は、加納一里塚跡から多罹野立場のへんば餅、鹿島町の天満神社道標、鏡島追分、
鏡島弘法「乙津寺」の元国宝の「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像と関ヶ原合戦と応仁乱と井ノ口里、
今でも無料で渡れる県道173号文殊・茶屋新田線の「小紅の渡し」、関ヶ原合戦の前哨戦「河渡川の戦い」、
合渡宿への「河渡の渡し場跡」などを、GPS位置情報と共に、ご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
松原町の「一里塚跡」を200mほど西へ進むと「南本荘四条通」と合流しさらに西へ進みます。
岐阜市三つ又町3丁目 |
150mほど西へ進むとJR東海道線高架下を通ります。
三ツ又町JR高架下 加納三ツ又町 |
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清本町3丁目、三つ又町3丁目を稲荷町5丁目へ進みます |
高架下を過ぎる西へ曲がり、敷島町6・7丁目の5叉路へ出ます
五叉路を西北西の道が「中山道」です |
中山道を西へ進みます |
本荘辺りまで来ました、この辺りに旅人に人気の「たらり餅」があったそうです
画像調査中 |
多罹野立場 |
「中山道」らしい曲がった道を1,050m進むと「県道92号線」へ出ます。
「県道92号線」横断 |
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「県道92号線」の東を見ると金華山が見えます
「県道92号線」を横断すると右手に「天満神社」があります。
鹿島町天満神社 岐阜市鹿島町8丁目 |
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天満神社の隣は消防署ですので、よく分かります。 |
天満神社は八幡神社と合弊されています。
境内の交差点がわに「道標」があります
天満神社道標 岐阜市鹿島町八丁目 |
昔の街道の四辻跡
「→本荘村を経て加納に至る」 |
「←市橋村を経て墨俣に至る」 |
「←鏡島村を経て美江寺に至る」 |
神社前交差点は昔、美江寺宿、市橋村、日野村への主要な交差点でだったようです
昭和の初め頃に建て直されましたが、それも文字が読みとれなくなっています。
鹿島町の天満神社から中山道を西へ約150mほど進むと「岐阜環状線」へ出ます
「岐阜環状線」横断 岐阜市鏡島(かがしま)三軒屋 |
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「岐阜環状線」の北を見ると「鏡島(かがしま)大橋」が見えます。 |
「岐阜環状線」を横断してさらに西へ約630mほど進むと「旧岐阜町」への追分へ出ます
鏡島追分 岐阜市鏡島(かがしま)中市場 |
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追分には地蔵もなく中山道の追分らしい面影は何もありません。 唯一、「おいわけ屋薬局」と言う薬屋さんが付近にあり、それが名残でしょうか。 |
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正面に「おいわけ屋薬局」が見えてきます |
追分の横には論田川改修記念碑があります |
昔からあるのでしょうか |
追分から振り返ると左が「岐阜道」、右が中山道 |
追分をさらに約90mほど西へ進むと「鏡島(かがしま)弘法」への曲がり道へ来ます
鏡島弘法の曲がり道 岐阜市鏡島古市場 |
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バス停「鏡島(かがしま)弘法前」が目印です |
曲がってからは参道のように両側にお土産などの店が並んでいます
中山道を北(右)へ曲がり約250mほど進むと境内へ |
鏡島(かがしま)弘法様「乙津寺」
地元では「かがしまの弘法さん」と慕われています。
鏡島弘法 岐阜市鏡島古市場 |
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わかりにくい入り口ですが。進行方向右にはいると「弘法様」がありま。
乙津寺縁起 よってこの地を「鏡島」といい、寺を「乙津寺」と名づけ七堂伽藍塔頭五ケ寺鎮守など、多数が造営されました。 |
乙津寺の名前の由来
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創設当時は海辺の小島「乙津島」 (なぞ=「乙津島の場所は赤坂明星浜と各務野の七里の中央」とあり、岐阜駅付近と思われ千二百年前までこのあたりは海だったようです) 創建は千二百六十年前 |
「乙津島」と「乙津寺縁起」の解明
尾張国 養老元年之図 |
当時の七堂伽藍、塔頭五ケ寺は先の大戦の空襲で焼け何も残っていません。
鏡島城主「石河駿河守光清」の墓 境内の堤防側に広い墓地があり、その中央にあります |
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境内の墓地にあります |
墓地のほぼ中央にあります |
元国宝と空襲 岐阜に空襲があるまでは、鏡島の弘法様は本堂、大師堂、庫裏、宝庫、鐘楼、山門、勅使門が並ぶ壮大な境内でした。 昭和20年7月9日の空襲で一夜にして焼け野原になりました。 国宝を抱いて河原へ 幸い住職が国宝の「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像を持って長良川の河原へ逃げ「国宝」の焼失は免れました。 弘法様の命日 今でも毎月21日にはJR岐阜駅からも臨時バスも出て境内は露店も沢山出て「老若男女」で大賑わいします。 |
元国宝 「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像 |
昔は国宝だったようです |
関ヶ原合戦と「乙津寺」 |
池田長政の強行渡河 雨による増水と対岸に銃列を布いて待ち構える西軍に簡単には渡河できませんでした。 この寺の住職に無事渡河できるよう祈祷と、浅瀬の先導を頼み大群の渡河は成功したため、合戦後、 |
関ヶ原合戦の前哨戦「河渡川の戦い」 木曽川渡河 一方下流側の渡河地点の起(おこし=尾西市)に到着した福島正則以下一万余の軍勢は、対岸に柵を 印食(いんじき)の織田秀信 織田軍岐阜城へ退却 「河渡川の戦い」 渡河開始 赤坂へ布陣 情報の早さ 池田長政、開運の渡河作戦
岐阜空襲と「野太刀」 |
境内には「応仁の乱」で美濃へ逃れてきていた京都の公家達の歴史が残っています
応仁の乱と乙津寺 |
「一条兼良正室、東後方墓」 室町時代の終わりごろ、京都を中心として 文明五年(1473年)五月、前関白太政大臣で、 それより先の同年五月正月に、東御方は斎藤妙春を 一条兼良は同年五月二十日に奈良へ帰りましたが、 小林寺(正法寺塔頭)で盛大な宗祇が行われ、 |
鏡島弘法の裏の堤防から「小紅の渡し」が無料で対岸まで渡してくれます。
これはこの渡しが県道173号文殊・茶屋新電線の一部となっている珍しい渡しのためです。
小紅(おべに)の渡し 岐阜市鏡島東湊 |
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「小紅」の由来 |
境内を通って堤防の方へ進みます |
堤防へ上がる階段があるので、これを登ります |
草原の中に渡しまでの道がありますので辿ります |
今でも生活の道として活躍している「小紅の渡し」 |
堤防の上から弘法様の方を振り返る |
長良川にはかっては17カ所があったとされ、そのうち岐阜市内にあった12ケ所の渡しを紹介します
岐阜市内の渡し物語 |
岐阜市内の長良川には昭和初期まで12の渡しがありました。 そのうち1カ所の「渡し」が岐阜市内にあり運行されています。(小紅の渡しで県道のため無料です) また、岐阜県下にはまだ3つの「渡し」が健在です。(自慢して良いのか、悲しんで良いのか!?) |
岐阜市内にあった12の渡し
昔、あった岐阜市の12の「渡し」を上流から紹介すると、
「芥見(あくたみ)の渡し」(現在の藍川橋付近) 「古津(ふるつ)の渡し」(千鳥橋下流で昭和天皇が鵜飼いをご覧になった場所でもあります。) 「日野の渡し」(古津の渡しの下流で最近まで、渡し船が運航されていました。) 「長良の渡し」(長良橋の場所にあった渡しで、明治7年に舟橋と木橋半々につないだ「明七橋」が 民間により架けられ、有料であったが”渡し舟”より”有料橋”が便利なため渡しは廃止されました) |
「馬場の渡し」(金華橋上流あたり) 「上門の渡し」 (金華橋付近) 「四つ屋の渡し」(その下流にありました。この付近は利用客が多く「渡し」も沢山ありました) 「忠節の渡し」(明治17年に木橋が作られ、その後、半鉄製の忠節橋に掛け替えられ、昭和23年に現在の 忠節橋となりました。敗戦のすぐあとに、良くあんな立派な橋が出来たと感心します。 それまでは、橋の中央を馬車などが通ると橋板がガタガタ振動し、子供の足は挟まれそう で、また、橋板の隙間から、下の川が見えて、怖々渡った記憶があります) 「亀の渡し」(忠節橋の下流) |
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「亀の渡し」 岐阜高校の裏付近で対岸は国道157号線です。 157号線が昔の谷汲街道で、その先の伊自良川の「尻毛(しっけ)の渡し」を渡り「谷汲山」へと大勢の参拝者が向かいました。(今も写真の常夜塔には「谷汲山」の文字が見えます) 「亀の渡しの由来」 由来1 長良川が出水時に智通上人が念仏を、唱えると亀が現れ、その背中に乗って対岸へ渡ったと伝えられ居ます。 由来2 もう一つは、対岸の親孝行の娘が医者を「井ノ口の里」まで迎えに来た帰りに大水になり、渡れずにいると、評判の親孝行娘の心を思い、大亀が現れ医者と娘さんを乗せて対岸まで渡してくれました。 と言う言い伝えのあります。私はこちらの由来の方が好きです。 |
小熊野川湊跡
大縄場大橋下流にあり、かっての荷物の陸揚げ湊の跡です。 陸揚げされた荷物は本郷町通りから若宮町通りへ運ばれ、明治以降も頻繁に利用されました。 |
小紅(おべに)の渡し(現役の渡し)
最近はTVなどでも紹介され、有名になりました。 現在もまだ運行されている市内唯一つの渡しです 県道に接続されているため、県の事業として運営され、渡船料は無料です。 「小紅」の由来 |
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堤防の上の小屋、下の渡船付近では子供が泳いでいました。 | 下流の合渡橋付近も水泳の場所か大勢が水遊び中でした。 遠くは池田山 |
「小紅の渡し」から再び中山道へ戻り西へ進みます。
神明社までの途中にそばの美味い店がありましたが最近へ閉店したようです
そば屋「木毎庵」(きごとあん) このあたりは、毎月21日の弘法様命日で臨時バスが出るほど賑わうので、食事をするところは沢山あります。 その中で”蕎麦屋”さんを紹介します。 「木毎庵」(岐阜市鏡島1276-1 TEL 058-251-9328)です。 残念ですが此の蕎麦屋さんは最近なくなりました |
中山道を西へ約530mほど進むと右側に神明社があります。
神明社 岐阜市鏡島古川原畑 |
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神明社を更に西へ向かいます
神明社から約320mほど進むと右側に北野神社参道があります
北野神社 岐阜市鏡島北野町 |
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裏は直ぐに堤防です |
昭和7年頃の鏡島の町並み |
北野神社から360m程で河渡橋たもとの信号へ出ます。更に260mほどの堤防がだったと思われます。
河渡の渡し場跡 岐阜市江崎1丁目 |
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河渡(ごうど)の渡し場跡 |
河渡(ごうど)の渡し
中山道六十九次の内、五十四番目の宿としても栄えた「河渡宿」にある渡しです。 参勤交代にも利用されたため本陣はじめ多くの宿や商家もありにぎやかな渡しでした。 終戦近くまで渡し船は、ありましたが今では立派な橋が架かり渡しの痕跡すら見つけにくいくらいです。 これらの渡しも橋が出来たりして終戦後に順番に姿を消してゆきました。 戦前の渡船料は大体「自転車=5銭(50円)、人=2銭(20円)」と生活に密着した料金のようでした。 |
河渡の渡し場 川止め |
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長良川 川幅は50間(約90m)あqり、出水時は150間(約270m)にもなった。 渡船は2艘と定められており、船頭1人、水主(かこ)27人がいた。平日は10人が詰め、一艘に3人が交代で乗った。 渡し賃(寛政十三年) 商人荷物・駄馬とも十八文、旅人は六文で、武士は無料であった。 利用者の多い時は、鏡島・江崎・一日(ひと)市場・江口・菅生など近在10カ村に要請し舟を出させた。 |
長良川を渡り河渡宿から美江寺宿へと中山道はすすみます。
以降は中山道美濃十六宿後編に進みます
街道コラム
【中山道と美濃路・加納宿】江戸初期に宿駅伝馬制が定められ,板橋宿から守山宿に至る120里の間に67の宿場が設けられた. |
次は美濃路中山道後編「河渡宿」へ向かいます
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。