加納宿を出ると中山道は長良川を渡り川渡宿へ入ります

六十九次
のうち
五十四宿
五十五宿間

岐阜県岐阜市

美濃国

JR東海線岐阜駅下車

「小紅の渡し」巻は、加納一里塚跡から多罹野立場のへんば餅、鹿島町の天満神社道標、鏡島追分、
鏡島弘法「乙津寺」の元国宝の「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像と関ヶ原合戦と応仁乱と井ノ口里、
今でも無料で渡れる県道173号文殊・茶屋新田線の「小紅の渡し」、関ヶ原合戦の前哨戦「河渡川の戦い」、
合渡宿への「河渡の渡し場跡」などを、GPS位置情報と共に、ご案内します。





美濃路中山道
「後編」へ

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
「加納の一里塚」河渡(ごうど)の渡し跡までの4,020mを案内します

松原町の「一里塚跡」を200mほど西へ進むと「南本荘四条通」と合流しさらに西へ進みます。

岐阜市三つ又町3丁目

150mほど西へ進むとJR東海道線高架下を通ります。

三ツ又町JR高架下

加納三ツ又町

北緯

35

24

26.8

東経

136

44

34.7

清本町3丁目、三つ又町3丁目を稲荷町5丁目へ進みます 

高架下を過ぎる西へ曲がり、敷島町6・7丁目の5叉路へ出ます

五叉路を西北西の道が「中山道」です

中山道を西へ進みます
この付近は空襲で丸焼けのため中山道の名残はありません

本荘辺りまで来ました、この辺りに旅人に人気の「たらり餅」があったそうです

画像調査中

  多罹野立場
本庄へ入ると宿場の間にある立場があり、ここの茶店で「たらり餅」が売られていました。
普通の”あんころ餅”でしたが旅人には人気でした。 大正初期に廃業しました.
 「行こうか河渡へ かえろか加納へ ここが思案のたらり餅」

「中山道」らしい曲がった道を1,050m進むと「県道92号線」へ出ます。

「県道92号線」横断

北緯

35

24

33.3

東経

136

43

54.4

「県道92号線」の東を見ると金華山が見えます

「県道92号線」を横断すると右手に「天満神社」があります。

鹿島町天満神社

岐阜市鹿島町8丁目

北緯

35

24

34.0

東経

136

43

54.4

天満神社の隣は消防署ですので、よく分かります。

天満神社は八幡神社と合弊されています。

境内の交差点がわに「道標」があります

天満神社道標

岐阜市鹿島町八丁目

昔の街道の四辻跡

「→本荘村を経て加納に至る」

「←市橋村を経て墨俣に至る」

「←鏡島村を経て美江寺に至る」

 神社前交差点は昔、美江寺宿、市橋村、日野村への主要な交差点でだったようです
 昭和の初め頃に建て直されましたが、それも文字が読みとれなくなっています。

鹿島町の天満神社から中山道を西へ約150mほど進むと「岐阜環状線」へ出ます

「岐阜環状線」横断

岐阜市鏡島(かがしま)三軒屋

北緯

35

24

35.7

東経

136

43

49.4

「岐阜環状線」の北を見ると「鏡島(かがしま)大橋」が見えます。

「岐阜環状線」を横断してさらに西へ630mほど進むと「旧岐阜町」への追分へ出ます

鏡島追分

岐阜市鏡島(かがしま)中市場

北緯

35

24

38.6

東経

136

43

24.3

追分には地蔵もなく中山道の追分らしい面影は何もありません。
 唯一、「おいわけ屋薬局」と言う薬屋さんが付近にあり、それが名残でしょうか。

正面に「おいわけ屋薬局」が見えてきます

追分の横には論田川改修記念碑があります

昔からあるのでしょうか
「おいわけ屋」薬局

追分から振り返ると左が「岐阜道」、右が中山道

追分をさらに約90mほど西へ進むと「鏡島(かがしま)弘法」への曲がり道へ来ます

鏡島弘法の曲がり道

岐阜市鏡島古市場

北緯

35

24

36.9

東経

136

43

20.7

バス停「鏡島(かがしま)弘法前」が目印です
わかりにくい入り口ですが。バス停前を右へ曲がります。

曲がってからは参道のように両側にお土産などの店が並んでいます

中山道を北(右)へ曲がり約250mほど進むと境内へ

鏡島(かがしま)弘法様「乙津寺」

地元では「かがしまの弘法さん」と慕われています。

鏡島弘法

岐阜市鏡島古市場

北緯

35

24

42.4

東経

136

43

17.9

わかりにくい入り口ですが。進行方向右にはいると「弘法様」がありま。

乙津寺縁起
奈良時代、738年、行基菩薩が乙津寺に着船され、此処を仏法縁由の地と定め、
自ら十一面千手観音像を刻み草庵に安置されました。
813年弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の勅命を受け、当地で秘法を尽くして天に誓いを地に伏し祈願すること三十七日間
行い宝鏡を龍神に手向けると忽ち滄海変して桑田となりました。

よってこの地を「鏡島」といい、寺を「乙津寺」と名づけ七堂伽藍塔頭五ケ寺鎮守など、多数が造営されました。
大師は開山堂前に梅の杖を上下逆にして挿し「仏法この地に栄えば枝葉も栄ゆべし」と仰せられると、すると不思議にも
杖に枝葉が生じ花をつけましたので、「梅寺」とも呼ばれています。
893年宇多天皇より下賜された「霊梅場」の額を楼門に掲示していました。
その時の「下乗」の石標が現在もあります。

乙津寺の名前の由来

JR岐阜駅付近は海辺でした。
その海辺の「乙津島」にあったため「乙津寺」

 創設当時は海辺の小島「乙津島」
(なぞ=「乙津島の場所は赤坂明星浜と各務野の七里の中央」とあり、岐阜駅付近と思われ千二百年前までこのあたりは海だったようです)

創建は千二百六十年前
 瑞甲山乙津寺は奈良時代、聖武天皇 天平十年(738年)に行基菩薩が十一面千手観世音を自ら刻み「乙津島」のお堂に安置されました。
「鏡島」の由来
 その後、弘仁四年(813年)に弘法大使が嵯峨天皇の勅命で、現在の地へ移された。
 その折り、宝鏡を龍神に手向けると、はたちまち桑畑となり、そのいわれから、この地を「鏡島」と言う様になりました。
 弘仁五年には七堂伽藍、塔頭五ケ寺多数が造営されたと伝えたれています。

「乙津島」と「乙津寺縁起」の解明

                         尾張国 養老元年之図
   養老元年は西暦717年で今から約1290年も前の地図である。
  当時の地図は地形が正確でないが土地の名前は現在とほぼ同じである。
 @養老年間は西暦717〜724年の7年間
 A弘法大師は西暦774〜831年で享年52歳で没
 以上の二条件から勘案すると鏡島弘法付近は当時海に近く、海から「鏡」を拾い上げたとか、
 「鏡」をかざしたら海が桑畑になったなどの「縁起」は符合するところが多いと思われる。
 また当時「乙津島」に行基(後に菩薩)が草庵を作り「十一面観音」を安置したのが「乙津寺」の始まりと言われるのも上の地図からうなずける。

当時の七堂伽藍、塔頭五ケ寺は先の大戦の空襲で焼け何も残っていません。

鏡島城主「石河駿河守光清」の墓
境内の堤防側に広い墓地があり、その中央にあります

境内の墓地にあります

墓地のほぼ中央にあります

元国宝と空襲

 岐阜に空襲があるまでは、鏡島の弘法様は本堂、大師堂、庫裏、宝庫、鐘楼、山門、勅使門が並ぶ壮大な境内でした。

 昭和20年7月9日の空襲で一夜にして焼け野原になりました。

 国宝を抱いて河原へ 幸い住職が国宝の「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像を持って長良川の河原へ逃げ「国宝」の焼失は免れました。

 弘法様の命日  今でも毎月21日にはJR岐阜駅からも臨時バスも出て境内は露店も沢山出て「老若男女」で大賑わいします。

元国宝

「十一面千手観世音」「毘沙門天」「韋駄天」像

昔は国宝だったようです

関ヶ原合戦と「乙津寺」

池田長政の強行渡河 
東軍の池田長政など三将の軍が大垣条の石田三成めがけて河渡川(長良川)を渡河しようとしました。

 雨による増水と対岸に銃列を布いて待ち構える西軍に簡単には渡河できませんでした。

 この寺の住職に無事渡河できるよう祈祷と、浅瀬の先導を頼み大群の渡河は成功したため、合戦後、
池田長政はこの寺に立ち寄り「野太刀」一振りと「瀬踏開運地蔵画像」を寄進しました。

関ヶ原合戦の前哨戦「河渡川の戦い」

 慶長五年(1,600年)八月二十二日に清洲に集結した徳川軍の先鋒隊、池田輝政、福島正則の一万8千余人は木曽川を
 河田の渡し(木曽川町で笠松町米野の対岸)付近と尾西市起付近(竹鼻町対岸)から渡河を始め、待ち受ける、織田秀信勢 と激戦の末、打ち破り、翌23日には加納清水の住吉神社(名鉄新岐阜駅横)を通り、吉津町付近を通り、常在寺(梶川町)付近にあった、岐阜城の総門まで一気に攻めてきました。

木曽川渡河
  上流側の渡河地点は、木曽川町河田の渡し付近を池田輝政、率いる一万余の軍勢。
  迎え討つは織田軍の猛将、百々家綱(どどいえつな)の2千5百。
  いくら池田軍が多勢とは言え鉄砲で待ちかまえる所へ河を渡って攻めるのですから多くの損害が出た大
 激戦となりました。
  これが世に言う「米野の戦い」で関ヶ原合戦より過酷な戦いだったと伝えられています。

  一方下流側の渡河地点の起(おこし=尾西市)に到着した福島正則以下一万余の軍勢は、対岸に柵を
 作り鉄砲隊を揃えて待ちかまえる織田、石田三成援軍を見て足踏みします。
  しかし、地元民の情報により、少し下流に浅瀬(尾西市加賀野井、現在でも浅瀬のため東海道新幹線 
 橋、名神高速道路橋が架けられています)があることを知りそこから夜の間に渡河してしまいます。

印食(いんじき)の織田秀信
  笠松町米野で激戦の「百々家綱(どどいえつな)」など家来の多くは開戦前に「家康側」に付くことを勧めた
 が織田信秀は、石田三成との密約があり三成側に付く事にしました。
  作戦は前線の笠松米野と竹鼻町正木で渡河してくる池田輝正・福島正則軍を打ち破り、討ち漏らした敵
 を岐南町印食で殲滅するというものでした。
  自分は本陣を岐阜市領下の閻魔堂に置き慶長5年8月22日の朝を迎えました。

織田軍岐阜城へ退却
  総勢9千の軍と2万を越す軍勢ではとてもかないません。
  敗走する織田軍と追撃する池田・福島軍は同じ様な距離で岐阜城をめがけていました。
  しかし、岐阜市内まで来たとき敵味方混在してついに吉津町あたりで織田軍の一部が池田・福島軍に包
 囲され多くの武将が討たれました。

「河渡川の戦い」
 
慶長5年8月23日の岐阜城攻撃に間に合わなかった、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎などが西に転じて河渡川(現在の長良川で当時は江戸=ごうど、や江渡=ごうどなどとも言われていました)を渡河しようとして戦いになりました。
石田三成あわてる
 大垣城にいた石田三成は竹鼻城落城、領下「閻魔堂」陣の織田秀信敗退の報により、大垣城進攻阻止のため
 墨俣に津島維新を送り美濃路をかためさせ、
 岐阜からの黒田長政、田中吉政、藤堂高虎西進には、河渡川右岸に、舞兵庫、森九兵衛、杉江勘兵衛に兵1,000を与え陣を構えさせた。

渡河開始
 しかし、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将は、当日の濃霧を利用して、西軍に銃撃を加え一斉に渡河を始めました。
 三将の軍は広く分散にて渡河を始めため兵力に差のある西軍は防戦一方で、やがて敗退し呂久川(ろく)(現在の揖斐川)まで撤退します。

赤坂へ布陣
 大垣城から石田三成も小西行長を引き連れ、沢渡村(現在の大垣市三城)まで出て陣を布いたが、呂久川も突破した池田ら三将は大きく北を経由して十六条村美江寺を経て赤坂まで進み布陣しました。

情報の早さ
 黒田長政ら三将は8月23日に赤坂へ着いた報告を、当時まだ江戸にいた家康の元へ報告し、家康は二十八日に”9月1日に江戸を出る”と返事しています。
 5日間で江戸まで情報を送っていることになります。

池田長政、開運の渡河作戦
 岐阜城攻撃に遅れた黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将はこの渡河作戦を家康から高く評価され、難儀をした「岐阜城攻撃」の福島正則、池田輝政より加増額が格段によかった。
 黒田長政は合戦の帰りに「乙津寺」に寄り、家康から賜った「野太刀」一振りと「瀬踏開運地蔵画像」を寄進しています。
 それは、この渡河作戦成功の報を、いち早く江戸の家康に知らせ、家康に決断をさせた功績のためと思われます。
 大した抵抗もなく渡河し大出世をした黒田家の家臣は参勤交代のおりには、わざわざ遠回りして、この寺へお参りしたと言われています。

黒田柳
慶長五年(1600)八月二三日、西軍方の岐阜城攻めが行われ、この合戦に間に合わなかった黒田長政・藤堂高虎らの東軍は西進を開始、鏡島地内の長良川まで来た。
対岸の河渡には西軍の石田・島津が布陣していた。
長良川は増水していたが東軍は敵前渡河を強行、西軍側の陣地を強襲した。
黒田軍は現在の河渡橋上流の上河渡を目指し渡河を開始した。しかし、西軍の防戦にはばまれ、右堤防に取り付けなかった。
黒田長政は岸に生えていいた柳の老木に槍をあてて、這い上がり勝機をつくったと言われています。
明治の頃まであった
以後、福島藩士らは参勤交代の折などに回り道をしてここに立ち寄り藩主ゆかりの柳の枝を折り土産にしたそうです。
「黒田柳」とよばれ、明治の頃まで枯死寸前の老木が右岸寄りの川原にあったといわれています。

岐阜空襲と「野太刀」
 家康拝領の「野太刀」は戦災により焼失したようです。

 

境内には「応仁の乱」で美濃へ逃れてきていた京都の公家達の歴史が残っています

応仁の乱と乙津寺

「一条兼良正室、東後方墓」
「東御方}一条兼良の正室・権中納言御門宣俊の女、
十五人の子女あり。

室町時代の終わりごろ、京都を中心として
応仁の乱が起きました。
多くの公家たち戦を避けて地方へ落ちのびます。

文明五年(1473年)五月、前関白太政大臣で、
当代随一の文化人といわれた一条兼良も、
美濃国守護代・斎藤妙春の招待により、
革手(現岐阜市川手)を訪れ、長良川で鵜飼を見て
鮎を賞味したり、革手の正法寺でご馳走を振舞われて
大歓迎を受けています。

それより先の同年五月正月に、東御方は斎藤妙春を
頼って美濃へ下向し、鏡島にある乙津寺(鏡島弘法)に
庵居しました。
このとき、末子の梅津是心院了高尼も同行しています。

一条兼良は同年五月二十日に奈良へ帰りましたが、
東御方葉夫に同行しないで、鏡島にとどまりました。
しかし、同年の冬に至って病を生じ、十一月十八日に
鏡島で死去しました。享年六十九歳でした。

小林寺(正法寺塔頭)で盛大な宗祇が行われ、
諡(おくりな)は小林寺殿、法名浄貞、道号を松室
といいます。
乙津寺では、この墓(宝筐印塔・貴人の墓)は東御方のものと伝えられており、現在まで大切に供養されてきました。

鏡島弘法の裏の堤防から「小紅の渡し」が無料で対岸まで渡してくれます。
これはこの渡しが県道173号文殊・茶屋新電線の一部となっている珍しい渡しのためです。

小紅(おべに)の渡し

岐阜市鏡島東湊

北緯

35

24

47.0

東経

136

43

09.3

         「小紅」の由来 
 一日市場(ひといちば)の農家などから岐阜町の商家へ花嫁が嫁いでくるとき、花嫁は長良川の川面に顔を映し、紅、白粉をおとし、在所の未練を断ち切って、小さく紅だけを付けて渡ったのがその名の起こりと伝えられています。
         小紅の渡しの始まり

 加納藩主だった戸田氏が、本巣郡下の分家(文殊・北方の両戸田家)との連絡のため開設したのが始まりとされています。
 その後大正八年(1919)に公布された旧道路法で道路とみなされ、県道に指定されたのは大正十二年(1923)だそうです。

境内を通って堤防の方へ進みます

堤防へ上がる階段があるので、これを登ります

草原の中に渡しまでの道がありますので辿ります

            今でも生活の道として活躍している「小紅の渡し」
 渡し場まで来ると川の向こうに小屋があります。 
 手を振ると船頭さん(公務員=この渡しは県道になっています)が船を漕いで来てくれます。
 もちろん無料です。 今でも川向こうの年寄りたちは21日の弘法さんの命日はこの渡しでお参りに来ます。
 弘法大師の命日には3百〜5百人が利用するそうです。(2008年度には8,374人が利用したそうです)

堤防の上から弘法様の方を振り返る

長良川にはかっては17カ所があったとされ、そのうち岐阜市内にあった12ケ所の渡しを紹介します

岐阜市内の渡し物語

岐阜市内の長良川には昭和初期まで12の渡しがありました。
そのうち1カ所の「渡し」が岐阜市内にあり運行されています。(小紅の渡しで県道のため無料です)
また、岐阜県下にはまだ3つの「渡し」が健在です。(自慢して良いのか、悲しんで良いのか!?)

岐阜市内にあった12の渡し
 昔、あった岐阜市の12の「渡し」を上流から紹介すると、

 「芥見(あくたみ)の渡し」(現在の藍川橋付近)
 「古津(ふるつ)の渡し」千鳥橋下流で昭和天皇が鵜飼いをご覧になった場所でもあります。)
 「日野の渡し」
(古津の渡しの下流で最近まで、渡し船が運航されていました。) 
 「長良の渡し」長良橋の場所にあった渡しで、明治7年に舟橋と木橋半々につないだ「明七橋」が
            民間により架けられ、有料であったが”渡し舟”より”有料橋”が便利なため渡しは廃止されました)
 「馬場の渡し」金華橋上流あたり)
 
「上門の渡し」  金華橋付近)
 
「四つ屋の渡し」(その下流にありました。この付近は利用客が多く「渡し」も沢山ありました)
 
「忠節の渡し」(明治17年に木橋が作られ、その後、半鉄製の忠節橋に掛け替えられ、昭和23年に現在の
            忠節橋となりました。敗戦のすぐあとに、良くあんな立派な橋が出来たと感心します。
            それまでは、橋の中央を馬車などが通ると橋板がガタガタ振動し、子供の足は挟まれそう
            で、
また、橋板の隙間から、下の川が見えて、怖々渡った記憶があります
            
 
「亀の渡し」忠節橋の下流)

堤防の上にポツンと残る常夜灯

「亀の渡し」
 
岐阜高校の裏付近で対岸は国道157号線です。
 157号線が昔の谷汲街道で、その先の伊自良川の「尻毛(しっけ)の渡し」を渡り「谷汲山」へと大勢の参拝者が向かいました。(今も写真の常夜塔には「谷汲山」の文字が見えます)
「亀の渡しの由来」
由来1 長良川が出水時に智通上人が念仏を、唱えると亀が現れ、その背中に乗って対岸へ渡ったと伝えられ居ます。
由来2 もう一つは、対岸の親孝行の娘が医者を「井ノ口の里」まで迎えに来た帰りに大水になり、渡れずにいると、評判の親孝行娘の心を思い、大亀が現れ医者と娘さんを乗せて対岸まで渡してくれました。
 と言う言い伝えのあります。私はこちらの由来の方が好きです。
小熊野川湊跡

 大縄場大橋下流にあり、かっての荷物の陸揚げ湊の跡です。
 対岸からの農産物や岐阜町からの産物がこの湊から川を渡って運ばれました。

 陸揚げされた荷物は本郷町通りから若宮町通りへ運ばれ、明治以降も頻繁に利用されました。
 道路や鉄道が発達しても昔からのルートは、衰えることなく続いたそうです。

小紅(おべに)の渡し(現役の渡し)

 最近はTVなどでも紹介され、有名になりました。
 現在もまだ運行されている市内唯一つの渡しです

 県道に接続されているため、県の事業として運営され、渡船料は無料です。
 市内の対岸側に小屋があるため、市内側から手を振ると、船頭さんが漕いできてくれます。
 元々は対岸の「一日市場」や「曽我屋」、遠くは本巣方面の人々を日本三弘法として有名な鏡島「乙津寺」へ参拝のための重要な渡しで、今でも命日の21日は2艘の舟がフル運行で参詣者を運びます。

「小紅」の由来 
 一日市場の農家などから岐阜町の商家へ花嫁が嫁いでくるとき、川面に顔を映し、紅、白粉をおとし、在所の未練を断ち切って、小さく紅だけを付けて渡ったのがその名の起こりと伝えられています。

今でも現役の「渡し」無料です

 堤防の上の小屋、下の渡船付近では子供が泳いでいました。 下流の合渡橋付近も水泳の場所か大勢が水遊び中でした。 遠くは池田山

「小紅の渡し」から再び中山道へ戻り西へ進みます。

神明社までの途中にそばの美味い店がありましたが最近へ閉店したようです

そば屋「木毎庵」(きごとあん) 
 このあたりは、毎月21日の弘法様命日で臨時バスが出るほど賑わうので、食事をするところは沢山あります。
 その中で”蕎麦屋”さんを紹介します。
「木毎庵」(岐阜市鏡島1276-1 TEL 058-251-9328)です。

残念ですが此の蕎麦屋さんは最近なくなりました

中山道を西へ約530mほど進むと右側に神明社があります。

神明社

岐阜市鏡島古川原畑

北緯

35

24

26.5

東経

136

43

04.6

神明社を更に西へ向かいます

神明社から約320mほど進むと右側に北野神社参道があります

北野神社

岐阜市鏡島北野町

北緯

35

24

24.5

東経

136

42

45.0

裏は直ぐに堤防です

昭和7年頃の鏡島の町並み
(手前に渡し場のあった)

北野神社から360m程で河渡橋たもとの信号へ出ます。更に260mほどの堤防がだったと思われます。

河渡の渡し場跡

岐阜市江崎1丁目

北緯

35

24

14.8

東経

136

42

31.8

河渡(ごうど)の渡し場跡  
  鏡島弘法を過ぎて長良川堤防に沿って下ると、渡し場跡あたりに出ます。

河渡(ごうど)の渡し
 中山道六十九次の内、五十四番目の宿としても栄えた「河渡宿」にある渡しです。
 参勤交代にも利用されたため本陣はじめ多くの宿や商家もありにぎやかな渡しでした。
 終戦近くまで渡し船は、ありましたが今では立派な橋が架かり渡しの痕跡すら見つけにくいくらいです。
 これらの渡しも橋が出来たりして終戦後に順番に姿を消してゆきました。
  戦前の渡船料は大体「自転車=5銭(50円)、人=2銭(20円)」と生活に密着した料金のようでした。

河渡の渡し場
 河渡橋下流ですが岐阜側は何の面影もありません

 川止め
河向こうの「河渡宿」には茶屋や旅籠があり大水が出て「川止め」になっても、
休憩したり宿泊することが出来ますが、川のこちら側は何もありません
ので出水で「川止め」の場合は”川止めのおふれ”が加納宿に出て、
旅人は加納宿で待った様です。

長良川
川幅は50間(約90m)あqり、出水時は150間(約270m)にもなった。
渡船は2艘と定められており、船頭1人、水主(かこ)27人がいた。平日は10人が詰め、一艘に3人が交代で乗った。
渡し賃(寛政十三年)
商人荷物・駄馬とも十八文、旅人は六文で、武士は無料であった。
利用者の多い時は、鏡島・江崎・一日(ひと)市場・江口・菅生など近在10カ村に要請し舟を出させた。

長良川を渡り河渡宿から美江寺宿へと中山道はすすみます。
以降は中山道美濃十六宿後編に進みます

街道コラム

【中山道と美濃路・加納宿】

江戸初期に宿駅伝馬制が定められ,板橋宿から守山宿に至る120里の間に67の宿場が設けられた.
守山宿から東海道の草津宿を経て京都三条大橋に至ると69宿となる.「木曽路69次」とも言われる.
美濃路には16宿が設けられ,加納宿はそのうち最大の宿場(東西2.3km).

次は美濃路中山道後編「河渡宿」へ向かいます





美濃路中山道
「後編」へ

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。