中山道六十九次のうち五十四宿目で中山道美濃十六宿の十番目の宿「加納宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十四宿

岐阜県岐阜市

美濃国

JR東海線岐阜駅下車

「加納宿−1」の巻は、加納宿入り口の茶所からぶたれ坊、加納城鬼門除け八幡神社、加納大橋、谷汲・岐阜町新道分岐道標、
加納宿東番所跡、柳町秋葉三尺坊、信長の制札を持つ専福寺、岐阜問屋場跡、岐阜町分岐秋葉神社、加納宿高札場跡、
加納宿北番所跡と岐阜町木戸口跡、亀姫侍女十二相祠堂跡、加納城大手門跡、加納城中大手門跡、加納城南大手門跡、
加納城二の丸東北隅櫓跡、川手(革手)城址、船田合戦、正法寺跡、上茜部城址、うなぎと左甚五郎欄間の二文字屋、
加納宿当分本陣跡までをGPS位置情報と共にご案内します。

          

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 青線:鮎鮨街道)
鮎鮨街道分岐のぶたれ坊国道157号線横断までの1,150mを案内します

まず加納宿の概要から説明します。

加納宿

宿場の概要

加納藩領、 宿高 五百五十五石、 人口 2,750人、 家数 805軒、 

旅籠 三十五軒、 本陣 一軒、 脇本陣 二軒、           

鵜沼宿から 四里八丁(山の前一里塚、六軒一里塚、新加納一里塚、細畑一里塚)

合渡宿まで 一里半加納本町一里塚)

「岐蘇路安見絵図」による当時の加納宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

加納

ぎふ道、ぎふへ一り有。信長公の居城也し。
(岐阜道=現在の岐阜市加納北広江町から=、岐阜へ一里。信長公の居城なりし)

今も富る商人多く、賑わしき所也。(今も富める商人多くて、賑わしいところなり)

加納より西は平田にて、野原なし。此故に馬の丱なし。
(加納より西は田んぼにて草の生えた野はない。このため馬の草はなし)

田畠にれんげ花といふ草を植て、馬の草とす。又田のこやしとす。
(田畑に「れんげ花」と言う草を植えて、馬の草としている。そして田の肥やしともなります)

かゞ島、干大根つくり出す。(鏡島=岐阜市鏡島、干し大根の産地)

合渡川、舟わたし。(合渡川=長良川=舟の渡し。現在も県営の「お紅の渡し」として現存します。渡舟料無料)

合渡川、深き川也。 鰷(はや、はえ)多し。江戸へも献す。
(合渡川、深い川なり、はや、はえは同じ魚、多分鮎のこと?江戸へ献上する鮎鮨のことではないでしょうか)

此川、すのまた川の川上也。(この川は墨俣川=穂積町墨俣=長良川のこと)

                                                (当時は同じ川でも地域によって呼び名を変えたようです)

加納宿の宿制と宿役人
加納宿には本陣1、脇本陣(二の本陣)1、幕末には当分本陣2が設けられ、問屋場は東、
西問屋と岐阜問屋(新町問屋)が置かれ、人馬、物資の継立てが行われた。

宿役として、宿老、町年寄、問屋役、町頭、五人組頭が任ぜられました。

本陣は本町二丁目の松波藤佐衛門家で一七〇坪の建坪を有し、
二の本陣は、森与次右衛門家であったが、延享二年(1745)森孫作家が脇本陣となり、
一三〇坪の建坪を有していた。幕末には宮田五左衛門家、三宅佐兵衛家が当分本陣を勤めた。

加納宿の問屋と町年寄
問屋は元々三宅佐兵衛家であったが、万治元年(1658)松波清左衛門家となり
寛保二年(1742)から松波吉次郎家が加わった。
また岐阜問屋は、熊田助右衛門家で、尾州献上鮎鮨継立ておよび岐阜行き荷物
問屋としての特権を持ち、まくわうり、干し大根などを江戸への継立てを行い、
江戸時代を通じて重きを成していました。
問屋場には、問屋役、張付、馬指、人足支配、定使が置かれていた。
問屋役は、宿老または町年寄の者が月番で小唄に務めた。

宿老
宿老は、宿方取り締りとして、松波、宮田、三宅の三家は、加納宿三宿老として
名高く、町年寄りは一丁目から五丁目と新町を含む六町の中から任ぜられ、
世襲制であった。

岐阜市茶所あたりから見た加納城とおもわれます。

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 加納」(大判錦絵)
     岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                                                             説  明
 鵜沼から四里余りで加納に達する。 加納宿は現在のJR岐阜駅の南側に位置する。 そして美濃十六宿の中で唯一の城下町であった。 右奥に見えているのが加納城で、ここは関ヶ原の合戦後、戦略的価値を認めた徳川家康が、その女婿を城主に据えて設置した城である。                           
 本図は、恐らく加納城から出た城主の行列を、宿場の入口辺りから見て描いたものであろう。 威儀を正して整然と進む大名行列の姿がそのまま描かれているのは、広重の作品の中では珍しいことである。      
 行列の先頭付近は、通りかかった人が、座って行列の通貨を待っている。 なだらかな地形が続き、はるか遠方まで広々と見渡すことが出来る。                                          

加納宿の伝馬と助郷
中山道は定法で五十人、五十疋の伝馬と助郷であったが、加納宿は人足二十五人、
馬二十五疋で勤めてきました。
しかし、鵜沼宿まで四里八丁と長丁場で、潰(つぶれ)人馬も多く出て、急用として天保年間から五人五疋を御用囲い(幕府持ち)とし、宿持ちは二十人二十疋と軽減し、それで足りない時は助郷(周りの村)より人馬を差し出させていました。
ところが、領下(りょうげ)、上印食(いんじき)、下印食の三村から、天保十二年(1841)後定法通り執行するよう江戸表へ訴訟を起し、嘉永元年(1848)より、人足33人六分、馬三十疋の勤めとなり宿の負担経費は増大した。
助郷は当初五十九か村と定められていましたが、元禄七年(1692)には十一か村となり、加助郷として十一か村が加えられた。
天保六年(1835)には、助郷のうち七か村が困窮を訴えて半免され、新たに二十か村が加助郷に定められた。

加納宿入口六つの枡形
中山道美濃十六宿で唯一城下町です。
このため加納宿の東の入り口には六つもの枡形が設けられていました。

江戸時代の古図

中山道分間延絵図(東京国立博物館蔵)
この絵図から見ると現在の名鉄茶所駅踏切北側に「高札」があったようです

前頁の「ぶたれ坊」から紹介を始めます。

ぶたれ坊
(妙寿寺)

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

57.4

東経

136

46

17.0

「ぶたれ坊」は茶所薬局の隣家の軒下にあります。

「ぶたれ坊」の基壇脇の道標には

 「天保十二年辛丑十一月 鏡岩濱之助内建立」
と他の面には
 東海道いせ路  なごや、きよす、みや、加○○末川
 
江戸木曽路  みのぶさん、いぬやま、ぜんこうじ、うぬま
 
京都 大坂 西国道 下の文字は読めない

笠松街道
 ここを南に進む道が笠松街道です。

中山道の枡形に入る手前にある「ぶたれ坊」

上には「鏡」 台座には「鏡岩濱之助」

「ぶたれ坊」と茶所
この、「ぶたれ坊」と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで力士になりましたが、土俵の外での素行が悪かったことを改心して
寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて、罪滅ぼしをしました。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。その故事からこの付近を「茶所」と呼びます

現在は加納伏見町の「妙泉寺」にあります
現在では、歴史的な町並みと地名などに当時の様子を伝えたいますが、ここにあった「妙寿寺」は廃寺となり、
「ぶたれ坊」の像は岐阜市南口に近い加納伏見町の「妙泉寺」に移されています。
「妙泉寺」「加納宿ー2」(次のページ)でご案内します

「だんごや」から「加納城大手門跡」までの六つの枡形を地図上で詳しく示します

時に「加納宿東番所跡」から「善徳寺」辺りまでは現地で迷いやすいと思われます。

「ぶたれ坊」角を西へ約40mほど進むと三叉路があり角に「だんごや」があります

だんごや

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

59.7

東経

136

46

15.3

 「景観重要建造物」の向かいに「中山道加納宿」道標があります。


(N点)

 「名鉄茶所」の踏切を渡ると右側にその名も「だんごや」と言うお店があります。
 中山道はこれを右に折れます。
 「だんごや」さんの裏には「八幡宮」があります。

「だんごや」と言う団子屋さん

団子も売っている「だんごや」

「だんごや」の隣に説明板があります。

中山道「加納宿」入り口の”一つ目の枡形”

 加納宿「茶所」まではほとんど一直線ですが、そのまま進むと加納城大手門へ直行するので手前の「荒田川」と清水川を利用して複雑な「枡形」が作ってありました。

加納城大手門前までに枡形は6つあります。

中山道は角のだんごやを北へ曲がります。
西へ真っ直ぐに進むと加納城鬼門除け八幡神社があります

「だんごや」から50mほどで八幡神社があります

加納城「鬼門除け」
八幡宮

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

58.7

東経

136

46

13.3

ピンク色町屋(中山道沿いに建てこんでいます)
薄紫色は寺社領です。当時の加納八幡神社の字領はかなり広かったようです

 創建不詳

 慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦後、徳川家康は岐阜城を廃城とし加納城へ移築しました。

 その際、敷地内に祀られていた八幡様を加納城の東北の此の地に「鬼門除け」と「守護神」として遷座し奉りました。

(もう一つの説 祭神は応神天皇.慶長年間に奥平信昌侯が加納城の鬼門として建立した.代々の城主の崇敬厚く祭祀をおこたらなかった)

 境内には大きな楠が茂っています。

「八幡神社」の文字の上に「加納城鬼門除」の文字が

中山道は「だんごや」を北に曲がり約50mほど進むと加納大橋に差し掛かります

加納大橋

岐阜市加納安良(かのうあら)町

北緯

35

24

00.1

東経

136

46

15.4

加納大橋を渡り70mほど進むと中山道と岐阜道(安良田新道)の分岐へ出ます

谷汲・岐阜町新道
分岐道標

岐阜市加納安良(かのうあら)町

北緯

35

24

03.2

東経

136

46

15.1

分岐には明治の頃の道標があります
稲葉郡川手方面と中心部の連絡を便利にするため,中山道安良町と
上加納村字吉田町を結ぶ新道が,明治11年8月12日,地元地主の私財により
建設されました.この新道を安良田町通りと名付け.この通りと中山道の
交差点に明治18年8月,上加納村の後藤松助が還暦の記念に
「右 岐阜,谷汲」「左 西京」の自然石の道標を建てました.

下半分が黒いのは道路の舗装工事で
コールタールがかかったため
右 岐阜 谷汲(たにぐみ)
左 西京(江戸が東京になったので
京都は西京と呼んだのでしょう)
明治十八年八月
上加納 後藤松助 六十一才

「左 西京」(当時は新しい東京に対し、
昔からある京都を西京と区別したようです)

現在はここも岐阜ですが
「右 岐阜・谷汲」数十年前まで岐阜町と加納
町は別の行政でした。後から岐阜市に合併し
た加納にも本町や天神町があり、岐阜の町名
と区別するため加納の町名には「加納本町」や
「加納天神町」などと加納を付けて区別した
ようです

道路標識の「谷汲・岐阜道」
明治11(1878)年の明治天皇行幸の際つくられた新道です

道標を過ぎた地点から前後を見ると。

加納宿入り口から「東番屋跡」を見る


 やっと「加納宿」入り口にたどり着きました。
 昔はここで通行手形など見せて宿の中へ入ったのでしょう。
 「枡形」を4回繰り返して「加納城大手門」へたどり着きます。

(P点)の道標から西の「東番屋跡」

道標から約70m「秋葉神社」があります。

安良町秋葉神社

岐阜市加納安良町(あらたまち)

北緯

35

24

03.1

東経

136

46

12.7

今も昔も火事が怖かったようです。
町内ごとに秋葉様はお祭りしてあったようです。

秋葉神社から約60mほどで県道 岐阜・稲沢線を横断します

県道 岐阜・稲沢線横断

岐阜市加納安良町(あらまち)

北緯

35

24

03.1

東経

136

46

11.7

 

「県道岐阜稲沢線」の北を見ると「名鉄本線竜田町踏切」の
向こうに金華山が見えます

「県道 岐阜・稲沢線」横断から約40mで加納宿東番所跡があります

加納宿東番所跡

岐阜市加納安良町(あらたまち)

北緯

35

24

04.5

東経

136

46

08.6

画面右側の柳の木の下に碑があります
城下町の「加納宿」には
番所が三つありました
 加納宿の東入口に「東番所」、西入口に「西番所」
岐阜町への北入口には「北番所」がありました。

「東番所跡」

 ここで通行手形など見せて宿に入ったのでしょう。

 岐阜町へ行く人は、番所を通るのが面倒なので、先の道標から「谷汲街道」で岐阜町へ入ったことでしょう。
 

加納宿東番所跡の前の交叉点を南へ曲がります。

約40mほどの正面に善徳寺山門があります。

善徳寺

岐阜市加納安良町(あらたまち)

北緯

35

24

03.2

東経

136

46

07.4

「東番所」を南へ向かうと「善徳寺」が見えます。

道標説明文
この辺りは、加納宿の中でも、中仙道が最もカギ状に曲がりくねっている所です。
河渡宿方面「西方」は大通りを横切り、鵜沼宿方面(東方)は善徳寺を直進し、
安良町(あらたまち)を経て加納宿東入口の八幡町へ続きます。

「善徳寺」の前を西へ曲がります。

約40mほどで加納上本町通りの広い道を斜め横断します

「中山道加納宿」石碑

岐阜市加納柳町

北緯

35

24

04.2

東経

136

46

06.5

いずれ古い町屋は無くなる(改築)かも知れませんが石碑は残るでしょう

県道を横断すると柳町秋葉三尺坊があります。

中山道加納宿標識
柳町秋葉三尺坊

岐阜市加納加納柳町

北緯

35

24

04.6

東経

136

46

05.3

   
広い道路の手前左に「中山道加納宿」の標識があります
標識の奥の方に「柳町秋葉三尺坊」があります

さらに約30mほど進むと「専福寺文書」をもつ専福寺があります

岐阜市指定重要文化
「専福寺文書」

(岐阜市加納新町)

北緯

35

24

04.1

東経

136

46

04.3

信長の石山本願寺攻めに参戦
 真宗大谷派,親鸞上人ゆかりの寺院で,古くは旧河野門徒として浄土真宗の
名刹である.天正4(1576)年信長の石山本願寺攻めのとき,時の住職忍悟は
門徒を引き連れて参戦,門徒37人とともに討ち死にした.子,忍勝は寛永12
(1635)年に加納新町に一宇を建立,住職として活躍.寺宝として信長,秀吉,
輝政等の文書(市指定重要文化財)を所蔵.

真では立派ですが、鉄骨で支えた寺です。

 戦国時代の文書が多数残っているお寺です。

 その中で織田信長の朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状の三通が指定文化財です。

 元亀三年(1572年)石山合戦に際し、石山本願寺は各地の末寺に教書を送り蜂起を促したが、信長は荷担を禁ずる朱印状を出しました。

 当時は勢力のあったお寺だったのでしょう。

前回まであった「市重要文化財 専福寺文書」碑(自転車横)が朽ちたのか枠だけが残っていました。
専福寺文書(せんぷくじもんじょ)
専福寺には、戦国期を中心とした文書が多く残されています。
その内、織田信長朱印状・豊臣秀吉朱印状とつたえられる三通が岐阜市重要文化財に指定されています。
織田信長の朱印状は、元亀三年(1572年)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出された物とされています。

元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、
本願寺法主「顕如」(けんにょ)は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を促がしましした。
美濃においても多くの寺院がそれに呼応しています。

三年、専福寺の僧「忍悟」(にんご)が、石山合戦で戦死し、顕如より追悼の御書を給わったと伝えられています。
本寺に伝えられる信長の朱印状は、その際、専福寺及びその門末が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっています。
本状の信長発給については検討の余地があるものの、石山合戦当時の緊張状態を伝える内容となっています。

その他、豊臣秀吉・池田長政の発給とされる文書も伝えられますが、
何れも本寺と、当時の政治権力との関係を考える上で重要な文書です。

専福寺文書
専福寺には、戦国期を中心とした文書が多数残されています。 その内、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状
池田輝政
制札状と伝えられている三通が岐阜市重要文化財に指定されています。
信長朱印状の内容
織田信長の朱印状は、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出されたものとされています。
元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、本願寺法主顕如は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を
促しました。美濃に於いても多くの寺院がそれに呼応していました。
同三年、専福寺の僧忍悟が、石山合戦で戦死し顕如より追悼の御書を給わったと伝えられる本寺に信長朱印状は、
その際、専福寺およびその門徒が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっています。
その他、豊臣秀吉・池田輝政の発給とされる文書も伝えられますが、いずれも本寺と、当時の政治権力の関係を
考える上で重要であります。

専福寺から約30mほど進むと秋葉神社があります

加納新町秋葉神社

岐阜市加納新町

北緯

35

24

08.1

東経

136

45

59.3

   

秋葉神社から約30mほど進むと右側の民家の軒下に岐阜問屋跡の説明板があります

岐阜問屋場跡

(岐阜市加納新町)

北緯

35

24

07.9

東経

136

45

57.1

 

かっての問屋場(岐阜問屋)跡付近

問屋場跡

 此の付近で笠松街道から木曽川を下って名古屋城下へ。

 岐阜から長良川で上流の郡上へ。

 京都から、木曽からの集積場でした。

 今は面影もなく民家の軒下に、それを説明する説明板があるのみです。

 普通に歩けばほとんど見落とします

民家の軒にある見落としてしまいそうな説明板(クーラーの屋外機の上が説明板)

権力があった問屋場

 江戸時代、宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締とも言われましたが、今の問屋さんとは
違い宿場に1軒だけ許された名誉ある家柄でした。(今須宿では荷役が多く七軒も許可されたそうです)

 業務は人馬の出入りや賃銭などの「帳付役」、人馬に荷物を分担させる「馬指」、などとそれをまとめる助役の「年寄」、などです。

 岐阜問屋跡
加納新町の熊田家は、土岐・斎藤時代からこの辺りの有力者で、
信長が岐阜にあったころには加納の問屋役をつとめていました。

江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける「荷物問屋」に力を注ぐようになりました。

岐阜問屋は岐阜の名産品であり尾張藩が将軍に献上する「鮎鮨」(あゆずし)
の継立て
をしており御用提灯を許されていました。

 献上「鮎鮨」は岐阜町の「御鮨所」を出発し、岐阜問屋を経て”御鮨街道”と呼ばれた現在の”加納八幡町”から
名古屋へ向かう道を通り笠松問屋まで届けられました。

 この岐阜問屋の特権は献上鮎鮨が手厚く保護されていたためでしょう。

江戸時代の絵図で現在の町と比較してみましょう

本陣の両側に脇本陣2軒や問屋があります

絵図の枡形からご案内を続けます

岐阜町への岐阜道の分岐

加納南広江町

北緯

35

24

09.2

東経

136

45

56.2

岐阜道分岐の枡形

 問屋場の説明板を過ぎると、正面の「薬屋」さんの軒下に「中山道」の道標がります

 往時を偲ばせるものは、何もありません

 右に曲がると岐阜町への道となります。

 途中に北番屋があります

この道標は享保元年の頃 
中山道と岐阜道の交差点(南広江)にある道標は,「壬戌(じんじゅつ)紀行」(享和2(1802)年3月26日)に太田南畝が記録
している古いものです. この道標が設置されたのは,享保元(1716)年「仙」を「山」の字を書くべしの触書がでた
直後に建立されたものと思われる.

「太田薬局」前の道標と説明板
この道標は、江戸中期(1750年頃)加納新町と南広江の交わる四つ辻に立てられ
中仙道を往来する道案内の役目を果たしてきました。

最初は「左 中仙道」「右 ぎふ道」の道標でしたが、
明治初期に、「左 西京道」「右 東京道」の標識が加わりました。

この四つ辻はは中仙道岐阜道(鮎鮨街道)の分岐点で、かっては交通の要衝でありました。

左:西京道 左:中山道 右:ぎふ道 右:東京道

四辻から岐阜道(鮎鮨街道)を見ると名鉄電車の踏切が、また右に秋葉神社が見えます

前項の「鮎鮨街道」で詳しく「御案内しましたが再度岐阜町へ向けて少し入ってみましょう
秋葉神社を北へ曲がり岐阜道約210mほど進むと左側に「亀姫侍女十二相祠堂跡」の石碑があります

亀姫侍女
十二相祠堂跡

加納北広江町36
(山田昭二宅)

北緯

35

24

17.0

東経

136

45

55.2

亀姫様の侍女十二人の堂宇でした
山田昭二宅の北側に碑があります

個人宅の裏庭に
慶長12年8月12日,亀姫の侍女12人が咎にあったという.山田さん宅に12人の霊が祀られている。
昭和初期までは水商売の参拝客が絶えなかったという。

亀姫様の侍女12人が一度に
唯一の記録は加納藩田辺見聞録に残された
「慶長十二丁未年(1607)加納様(奥平信昌夫人 亀姫、徳川家康公嫡女也)の侍女、十二人一時に咎めに逢い、
元和四戌午年(1618)この地に設社」とあり、なぜ咎を受けたのか?咎とは処刑されたのか?など全く不明です。
戦前までは立派な堂宇も
山田家の文書によると大東亜戦争の空襲までは、この家の屋敷も大きく屋敷の真ん中に堂宇があり参道が道路まであり、
光国寺(近くの亀姫菩提寺)の寺守も居たそうです。光国寺の慶長19年の古図に「十二相」の堂宇が既に記されているそうです
咎の推測
慶長十二年といえば関ヶ原の合戦より7年目、江戸に幕府が開かれて4年目、加納城の築城も慶長六年におこなわれ、
大阪夏冬の決戦前七年、徳川幕府につくか、豊臣家の恩顧につくか、全国の大名、小名達が、肉親同士で対立、疑心暗鬼に
明け暮れした時代です。西の構えとしての加納城下も隠密あり、密使あり、徳川方と、豊臣方の虚々実々のスパイ合戦。
加納様(亀姫)の乱心か、西方の間者として闇から闇へと葬られたのか?十二相事件の現場が加納城中か、加納様の
下屋敷か、一度に12人の侍女が殺されたのか、何処の氏素性なのか、連座で12人が処刑されたのか・・・・・
事件の数年後に光国寺裏山(此の場所)に堂宇を建てられたのですから、単なる加納様の乱心ではなかったのでしょう。

さらに約80mほど進むとJR東海道線の高架下へ出ます。

高架下手前の交差点を右に折れると「北番所跡」碑があります。

加納宿北番屋跡
岐阜町木戸口跡

加納北広江町

北緯

35

24

19.7

東経

136

45

55.9

 現在の加納愛宕町の「秋葉神社」がその跡です。

 「吉野屋」八百屋さんのすぐ脇に見えるのが標識です。

  ここには「岐阜町」の木戸もあり、加納宿と岐阜町の往来をいちいちチェックしていたようです。

 以前は東海道線の踏切がありましたが、今は高架になり何の面影もありません。

青色軽トラの左が碑

番所跡は「秋葉神社」です


現在は引き抜かれて道標はなし

「岐阜道」は、ここまでとして もう一度「中山道」へ戻ります

中山道合流点を過ぎて約50mほどの「ひろいはし」手前に三叉路があります

三叉路を西へ約50m程の右に「水薬師寺」があります。

水薬師寺

加納南広江町

北緯

35

24

08.2

東経

136

45

54.8

清水川で黄金仏を拾い上げる 
臨済宗妙心寺派,本尊薬師如来.
慶長17年6月21日の夏に伊三郎という若者が清水川にて遊泳中、足に触れた異物を拾い上げたら黄金の薬師像で、
これを光国寺に奉納しました.
藩主奥平忠政と亀姫はこれを慶び清水川に川中に二間四方の浮見堂を建て安置しました。以来水薬師または乳薬師と呼ばれ,
乳がよくでる仏として親しまれています.7月20,21日には清水川の灯籠流しが盛大に行われています.

清水町の由来
大正時代まで清水川は川幅70mほどあり「ガマ」と呼ばれる地価湧水がいたる所にあり清水町の由来でもあった。

「水薬師」から中山道へ戻り「ひろいはし」の南東の袂に「高札場」の案内板があります。

加納宿高札場跡

加納南広江町

北緯

35

24

06.9

東経

136

45

55.5

清水川脇にあった「高札場」

高札場跡
 村や宿場の入り口や中心の目立つ場所に幕府からの禁制や通達などを記した高札を掲げた場所です。
 幕府の権威の象徴ですので、移転はもとより高札の文字が不鮮明になっても領主の許可なく墨入れもできませんでした。

宿場の5点セット
 高札場は石積などの土手の上に木柵で囲い、何枚もの高札が掲げられていました。
 宿場制度確立により、宿場の中には「本陣」「脇本陣」「問屋場」「木戸または番屋」と「高札場」の5点がセットされて機能していました。

清水川に架かる橋の名前は「ひろいはし」

加納宿高札場跡
ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。

高札場とは藩が領民に法度(はっと=法律)や触(知らせ)を知らせるために
人通りの多い辻や市場に立てた板で作った立て札を掲げる場所のことです。

加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で
宿御高札場(よどごこうさつば)と呼ばれていました。

この高札場は加納藩の中で最も大きく、
石積みの上に高さ3.5m、巾6.5m奥行2.2mもあるものでした。

正徳元年(1711年)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治になるまで、
何枚もの高札が掲げられました。

岐阜教育委員会資料によると「高札場」から「大手門」までは道幅が今よりも広く
「広小路」と呼ばれていたようです。
「水薬師寺」と「専福寺」の寺領は今よりも広く薄紫色の部分でした。
橙色は士族屋敷で ピンク色は町屋

「高札場」跡を南へ約45mほど進むと「加納城大手門跡」へ出ます

加納城大手門跡

岐阜市加納大手町

北緯

35

24

04.8

東経

136

45

54.1

手前が「高札場跡」方向、真っ直ぐが「加納城址」右が「中山道加納宿」中心町方向

ここが加納城大手門前でした

 明治維新までは、ここに立派加納城の大手門があっと思われます。
 今は”上本町1”交差点の真ん中になっています。
 江戸幕府の京への守りとして重要な位置を占めた「加納城」は初代城主に「奥平信昌」と言うより家康の長女「亀姫」の夫に”十万石”を与え、この地を守らせました。

 しかし、”社長の娘”と結婚した”平社員”信昌”は亀姫の我が儘に手をやいたようです。

 二人の墓はここから数百mの加納奥平町の「盛徳寺」に仲良く並んでいます。(次ページで紹介)

その後の奥平家

 家康に大抜擢された、奥平家も子供、孫とも病弱でわずか三代17年で衰退し、以降四氏13代が城主となり、永井氏6代目の「永井尚服」(なおこと)の時に明治維新を迎えています

加納城大手門の記念碑は,昭和62(1987)年
3月21日に建立.門前には「広小路」があり,
広井橋の東側には「高札場」が立っていた

碑は「30km」の交通標識の横にあります。
交差点の向こうは今は「付属小・中学校」「聾学校」「加納小学校」などが
本丸跡まで続いています。

加納宿へ入ってから六つ目の枡形がここ「大手門跡」です。
あとは宿場内を真っ直ぐに西へ向かって「西番所跡」まで中山道は延びています。

加納宿
六つ目の枡形

岐阜市加納大手町

北緯

35

24

04.4

東経

136

45

54.1

古い宿場図
 此の地方では有名な宿場図があります。
 此の地図に先ほどのポイントを入れてみました。
 古図には当時の城下町と宿場の様子が描かれていますが、現在とちゃんと合致します。
 ここが「広小路」といわれ今の3倍ほどの道幅がありました。
加納城下町と宿場町
加納の町は,侍屋敷と宿場町から成り立っていた.侍屋敷は加納城周辺(丸の内,東西の丸,長刀堀等),
宿場町は本町一丁目〜九丁目,天神町,広江,新町,柳町,安良町,八幡町等22町からなる.

少し中山道から外れ加納城址を案内しましょう

加納城跡

加納丸の内

北緯

35

23

46.4

東経

136

45

50.2

明治政府に敵視された「加納城」
 
写真、大手門あとで今は交差点になっています。
  此の奥が加納城本丸跡です。
 その間
約700mに岐阜大學付属小学校、同中学校、市立加納小学校、聾学校などが並びます。
加納城盛衰
 徳川家康が「関ヶ原の戦」直後に織田信長自慢の岐阜城を廃し、岐阜城の木材から石垣まで持ってこさせて、本格的な近代な平城を「徳川四天王、本田忠正」に作らせ、長女「亀姫の婿奥平昌正」を城主とした加納城は明治政府も目障りなのか、徹底的に壊し堀も埋めてしまい、石垣のみとしてしまいました。
 今城跡では細々と発掘調査が行われています。

現在の住宅地図に、かっての加納城を合わせると
下図の様になります。 青色がお濠

加納城搦め手門(裏門)跡

加納城搦め手門
 以前は自衛隊岐阜駐屯地でした。今は往時をを偲ばせるのは石垣だけです。
 門は搦め手(裏門)で南側にあり自衛隊駐屯時代の名残のコンクリート門です。

 正面の門は面影もありません。

(右の写真)
 見ずらい画像ですが加納城の平面図です。

国史跡 加納城跡
徳川家康は、慶長五年(1601年)三月、娘婿の奥平信昌を加納城主として十万石を与え、
また亀姫の粧田として二千石を給した。

築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築しました。
本丸、二の丸、三の丸、厩曲輪、南曲輪(大藪曲輪)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城郭でした。

加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えました。
明治二年加納城第十六代城主、永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納藩は同年七月十四日に廃藩に至りました。

加納城址は、この本丸のほかは二の丸北側の石垣を僅かに残しているのみです。

 慶長5(1600)年11月関ヶ原合戦後,家康は西方の脅威に備え,交通の要衝を理由に加納城の
築城を命じた.加納城はかって守護代斉藤氏の城跡を利用し築城された.初代城主に奥平信昌が
任ぜられた.奥平,大久保,戸田,安藤,永井の各氏が藩主となり,
明治維新の廃藩置県まで治世をつかさどった.明治5年解体.

本丸大手門跡発掘
 本丸は、江戸初期に多く見られる「出枡形」といわれる凸型の
構造をしている。突き出した部分は櫓門・高麗門・土塁で囲わ
ており、敵が攻め込んでくると門や土塁の上から迎撃する。今
回の発掘調査で櫓門の大きさが南北約11b、東西約6・6b
とほぼ特定された。北・西側の三カ所で見つかった石垣の位
置や形状から、高麗門から櫓門へ続く迎撃スペースの平坦
地の広さは東西約18b、南北約30bであることがわかり、枡
形の構造がほぼ把握できた。(岐阜新聞2008年11月21日より)

最近は簡単な案内板が設置され多少城跡らしい雰囲気が出来ました。

16世紀終わりころまで木曽川の本流は「境川」
加納城本丸跡の南は十五〜十六世紀には美濃国の政治と文化の中心でした。
写真の荒田川左岸には、守護土岐氏によって壮大な伽藍を誇る正法寺(正法寺町)、その南には
美濃国守護土岐氏の守護所革手城(光樹町)が築かれ、右岸(西側)には船田城(水主町)、
当時の加納城(加納丸の内)は、守護代斎藤氏の居城でした。

加納城の歴史
1601年(慶長六年) 奥平信昌加納領主となる                  
1602年(慶長七年) 加納城築城開始                       
1696年(元禄九年) 城下の大火により大手門、侍屋敷、町屋など焼く    
1728年(享保13年) 大火により城下の大半を焼失(二の丸・侍屋敷炎上) 
1782年(天明二年) 大風雨により城の石垣崩れ、堤防が決壊        
1798年(寛政十年) 大洪水により加納城下大被害(加納藩 農民一揆発生)
1802年(享和二年) 二の丸御殿新築 お城高塀普請             
1871年(明治四年) 加納藩を廃止、加納県設置                
1872年(明治五年) 城門・隅櫓・多聞櫓・売却され、堀埋め立て       

              史跡「加納城址」本丸の石垣
 本丸北面の石垣は岐阜市近傍の山で産するチャートといういしを材料に積み上げられています。
 石はほとんど自然石のまま積み上げられ、石と石の間には川原石が詰められています。
 手前のグランドは濠が埋められたあとです。

                    本丸跡
 本丸付近も、ただ広場になっていて近所の人が犬の散歩に来る程度です。
 昭和58年,国の史跡に指定され,現在は芝生が植えられ市民の憩いの場となっている.戦前は師範学校の運動場,陸軍航空隊が使用し,戦後は駐留軍や自衛隊が使用していました.

裏門(搦め手)も戦後自衛隊が駐屯していた当時のままです

加納城石垣
この石垣は岐阜市近傍の山で産出するチャートといわれる石を材料に積み上げられています。
角の石以外は加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められる「野面積み」です

濠も埋められて駐車場になっています

城下町であった加納町を散策すると江戸時代の名残の町名のほかに城下の遺構らしきものが見当たります。

加納城址付近の遺構
 地元不動産広告を利用して加納城址周辺の遺構図を作ってみました。

加納城中大手門

加納沓井町

北緯

35

24

00.2

東経

136

45

50.8

最近 駐車場隅にあった標識がなくなっています。地図を参考にして下さい

 二之丸と三之丸の間にあった中大手門跡で現在は、加納沓井町の民間の駐車場となっています。

 関ヶ原合戦後まだ豊臣方の残党が巻き返しを狙っている最中の築城で堅固な上にも政治の中心としても機能を果たす必要があったと思われます。

 また、城下町として加納宿の発展も必要であるため、解放性と防御性には苦労した城下町構造になっていたとおもわれます。

由緒ある町名
 加納城近くは「西丸町」「鉄砲町」「矢場町」「長刀堀町」「鷹匠町」「御車町」など由緒ある町名が続きます。

加納城南大手門

加納西丸町1丁目

(中野茂一 宅ガレージ角)

北緯

35

23

53.2

東経

136

45

45.3

分かり難い場所ですので参考にして下さい。

加納城址北西角から数十mの私宅の隅に標識が立てられています

新荒田川沿いの加納小学校と岐阜地方気象台の境の石垣です

加納城
二の丸東北隅櫓跡

加納二の丸

北緯

35

23

54.2

東経

136

45

57.3

岐阜地方気象台と二の丸東北隅櫓 
 加納城二の丸跡にあり現在は岐阜地方気象台が建っています。

 家康は関ヶ原の合戦後、鉄砲や大筒(大砲)の発達に伴い、山城建築で優雅な天守閣様式を確立した、織田信長の城造りを発展させ、周囲に堀をめぐらせた本格的な平城を、ここ加納城に集約しました。
 そして、家康は長女「亀姫」の夫である奥平信昌に十万石の領地を与え、此の城の城主としました。
 このことから、当時の加納城が軍事上重要な役割を担っていたことが伺えます。
 (右写真) 岐阜気象台は二の丸跡にあり、御殿があった場所です。

加納小運動場は昔は濠でした。

岐阜地方気象台
二の丸跡の所謂「御三階櫓」跡に大正6年に建設された.自然災害から郷土を守るため大自然の気象,
地象,水象を観測する重要な業務を行っている.岐阜地方気象台と称し,明治14年岐阜町に岐阜測候所
が設立されて以来,120年の歴史がある.

                           加納城址(二の丸・三の丸)
 加納城は、慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦の後、徳川家康が豊臣方の巻き返しに備えて築いたものです。
 本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪(うまやぐるわ)・大藪曲輪(おおやぶぐるわ)などを備え、周囲に堀を巡らした平城(ひらじろ)でした。
 家康は、長女の亀姫の夫である奥平信昌に10万石の領地を与え、この城の城主としました。
 このことから、当地の加納城が軍事上重要な役割を担っていたことがうかがえます。 
 二の丸には御殿、三の丸には役所がありました。
この場所は二の丸と三の丸を隔てる堀にあたります。
 巾は23〜24mもあり、隣りの荒田川から水を引いていました。
            二の丸の東北隅櫓は岐阜城の天主(三層櫓)
 右手の石垣は二の丸の東北隅櫓のもので、岐阜城の天主(三層櫓)が移築されましが、享保三年(1728年)の火災で焼失しました。

           加納城下の大火で東北隅櫓類焼
 享保三年(1728)二月十六日夜中、家中屋敷四丁目(現永井町)榎田新八方から出火、当夜の強風のため瞬く間に家中屋敷六十二軒を含め焼失家屋百四十二軒の大火となった。 本丸は残ったものの東北隅櫓「御三階」は類焼
                         御用金割り当て
 藩では、城下町復興のため、村高100石につき五両づつの御用金を割り当て、3700両を徴収した。
 このため農民は暮らしは益々困窮した。

現在の二の丸、三の丸跡、と現在の「荒田川」

             金華山山頂から石垣も移築
 関ヶ原戦い後、豊臣方の巻き返しを恐れ、加納城の建設工期を急いだため、当時の運搬技術では考えられない金華山山頂からわざわざ、櫓などの木材ばかりでなく石垣の石までも運び下ろし工期短縮をはかりました。
 上の写真の二之丸の石垣と明治維新で無くなってしまった櫓も織田信長が築城した岐阜城の天守(三階楼)を移築したものでした。
                     千畳敷の信長居城は?
 ポルトガ宣教師ルイス・フロイスが感嘆し、帰国後その著書にも「荘厳華麗」と紹介した信長の居城も家康はちゃっかりと赤坂宿に移築し「将軍専用宿舎」にしてしまいました。
 しかし、明治維新となり徳川幕府が倒れると、明治政府は資金難から地元豪商「矢橋家」に払い下げ「花屋敷」と呼ばれ現存します。
 (詳しくはこの後の「赤坂宿」で紹介します)
                     お濠と三之丸跡は校庭
 フエンスの部分は加納小学校校庭ですが昔は23〜24mの堀があり、水は横を流れるの荒田川から引いていました。その右は三の丸で城役所がありました。

このほかに加納城裏門を移設したと伝えられている門が岐阜県有形文化財に指定されたと
2008年12月13日の中日新聞に記事がありましたので紹介します。
しかし、加納城下での裏門跡の場所は判明していません。

加納城裏門

(岐阜県各務原市蘇原伊吹町 小林家)

北緯

35

 

 

東経

136

 

 

加納城裏門を移築したと
伝えられる小林家住宅門

 各務原市蘇原伊吹町の小林家住宅主門は1881年に
造られた加納城の裏門を移設したと伝えられる。
 間口約3bで、馬が通れる大きさ。
 装飾はないが柱などは古く、城門らしいつくりと言える。

 

 

 

加納城址西側の長刀掘跡を紹介します。

加納城外濠
長刀堀跡

岐阜市加納長刀町3丁目

北緯

35

23

49.2

東経

136

45

43.1

加納城内堀・外濠と現在の住宅地図

加納藩屋敷跡
加納城外濠の「長刀堀」の西側数丁には江戸時代二十石から1千石の加納藩家臣の屋敷がありました。
元禄八年(1695)頃作成された絵図「加納藩家中之図」を見ますと、この辺りは一千五区の家臣の屋敷がありました。
写真の道のすぐ東側は「長刀堀」でした。「長刀堀」は明治四年(1912)に埋め立てられました。
道の西側の家々の石垣を見てください。この石垣は江戸時代、加納藩の家臣建った家の石垣です。
以前は、この辺りのあちらこちらで、このような石垣を見ることができましたが、現在ではこの辺りの加納長刀堀3丁目の一角だけとなりました。(岐阜教育委員会)
岐阜城・加納城址の石垣と同じチャート石で組まれています。

この近くの城跡を案内します。 

川手(革手)城跡

岐阜市正法寺町

北緯

35

23

33.7

東経

136

45

56.9

船田合戦で消える
 築城は南北朝時代(1300年代)土岐頼遠が長森に府城を
築いたあと,その後を継いで美濃守護に任ぜられた頼康が
長森城が狭いので治世上不便のため,川手に新城を構築
した.以後約200年間,府城として室町時代には美濃,
伊勢,尾張の三国の守護を兼ねた本拠地として繁栄した.
しかし船田合戦のため敗退.のち関ヶ原合戦のあと,
石垣等は加納城へ移され,今は城跡はなにもない.
氏寺正法寺も消失した.

川手城(革手とも云います)跡は岐阜市正法寺町の
済美女子高校の校門脇にあります。

済美女子高校は路を挟んで両側にあります。
路は昼間は歩行者専用になっています

その路の中間辺りに「革手城跡」はあります。

革手城の由来
美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族です。
なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地「土岐」に土着し、「土岐氏」と改め、
現在の瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守り神の八幡神社を祀っています。

そして、美濃国守護職(1189年)となって、鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となりました。
光衡の子「光行」は、源實朝(みなもとのさねとも)に仕え池田親九郎追討の軍功(1216年)をあげ
「左衛門尉」(さえもんのじょう)となり土岐氏浅野に住み東美濃を統一しました。

「土岐氏」始祖
その子「光定」は、土岐惣領を継ぎ、執権「北条貞時」の娘を妻にして、隠岐守となり土岐氏隆盛の基となりました。
土岐中興の祖となる土岐頼貞は、文武に秀で人物豊かで、その子「頼清」や「頼遠」と共に、元弘の変(1333年)
後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏に従い数多くの軍功をあげ
「土岐絶えば幕府(足利)絶ゆべし」「諸家の頭、筆頭の頭」
と信任を深くし、
西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、減瑞浪市一日市場、元土岐市大富にその居館を構え、
十一代続く守護職の初代となりました。

二代目は斬殺
第二代守護職「土岐頼遠」は、父「頼貞」と共に足利尊氏に従って数々の軍功をあげ、元土岐市大富に住みしましたが、
辺地なればと現岐阜市南長森に「長森城」を築き居住。
「頼遠」は功に募り傲慢となり、1342年「持明院」(後光巌上皇)に無礼を働き断罪されました。

三代目が「革手城」を
第三代守護職「土岐頼康」は、「土岐頼遠」の跡を継いで土岐の惣領となりました。
足利尊氏の命により信州(信濃)・予州(伊予)の平定、その軍功により美濃・尾張・伊勢の三ケ国の守護職となります。
長森城は所狭きをもって1353年6月現岐阜市川手に革手城を築きこれに移りました。 別名「革手府」。
土岐源氏の名声と実力は再興に至ったときです。

この城は、旧木曽川と現荒田川を改修し、天然の地の利を生かした広大な城地で、
七堂伽藍を持つ「霊薬山正法寺」・源氏の守護神「八幡神社」をはじめ、社寺仏閣、
数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったと推定されます。

四方を学校に囲まれて城址は公園になっています。

広大な屋敷に御殿風建物が
有ったと伝えられています

京文化の花咲く革手城
「革手城」が都風となって繁栄し賑わったのは、建武の新政の失敗と「応仁の乱」によるものでした。
都を追われた公家・百官・天上人が地方の守護職を頼って寄宿しことにあります。

これらの人々を受け入れるだけの余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の「土岐氏」(革手)でした。
これらの人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽など、都文化の花を咲かせなました。
当時「革手」付近は「柳に桜をこきまぜて」錦を飾る京洛中の態に異ならざる盛んな有り様でありました。

こうして築かれた川革手府文化は、1494年「船田の乱」によって3日3晩、
燃え続ける戦乱によって灰燼に帰しました。

徳川家康が土砂まで持ち去る
斎藤道三は岐阜城に本拠を持ち革手城は廃城となりました。
その上、徳川家康は加納城築城に土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなりました。
当地は城郭のほぼ北隅の地と推察します。

以降400年間、あちこちの集落に残された宮後は、
鎮守の森として村の善男善女に守られ受け継がれてきました。
明治時代以降、現神明神社に合社(九社)されています。

  美濃源氏の一族の土岐氏の第3代守護職、土岐頼康は、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となる。
 手狭となった長森城(岐阜市切通六丁目 中山道中編、細畑一里塚に詳しく案内あり)に代わり、1353年(文和2年)、川手城を築城する。 以降第11代土岐頼芸までの本拠地となる。

 旧木曽川(現境川)と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれた城郭であった。城郭といっても、広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。

 1467年(応仁元年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われた。

 しかし1494年(明応2年)、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失する。後に再建されるが、1530年(享禄3年)、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移した事により廃城となる。城下町である川手(現岐阜市上川手、下川手)は廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師等がその繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。

 廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われてしまった。

船田合戦

明応四(1495)年

 応仁の乱後の文明九(1477)年に、守護土岐成頼が足利義視・義材(後の十代将軍)父子を伴い革手城へ帰国し、
足利父子は南に位置する茜部(あかなべ)荘に滞在しました。
 栄華を誇った川手、加納地区でしたが長くは続かず、美濃国を二分し、周辺大名をも巻き込んだ1495(明応四)年
の船田合戦によって革手城の建物は焼失し、壮大な伽藍を誇る正法寺も三日三晩燃え続け荒廃しました。

革手城址の1本南側の道に七堂伽藍を有した「正法寺跡」があります。

正法寺跡

岐阜市正法寺町

北緯

35

23

30.7

東経

136

45

53.9

広大な境内も住宅街の一隅となっています。

応仁の乱で都を逃れて来た文化人を迎えたお寺も
度重なる兵火に焼きつくされました。

「加納城」を造る時、荒れた境内から
石から土まで持っていったそうです。

小さな「薬師堂」で子供が蝉取りをしていました。

岐阜市指定史跡「正法寺跡」
霊薬山「正法寺」は十四世紀中ごろ、美濃の守護「土岐頼康」によって、革手城の北に建立されました。
禅宗法燈派の寺院です。 開山は、法燈派のひと嫩桂正栄(どんけいしょうえい)です。
十五世紀の中頃には、諸山(五山派において五山・十刹につぐ寺格)であったことが確認され、
多くの塔頭とともに、広壮な規模を誇りました。

応仁文明の乱(1467〜1477年)により、一条兼良・雪舟等楊(せっしゅうとうよう)・足利義視(あしかがよしみ)などの
当代一流の文化人や有力者が多くこの地を訪れ、文化の花が開きました。

明応四年(1495年)船田合戦が始まると、正法寺は戦場となり、被害を受けました。
その後、永禄四年(1561年)兵火にかかって焼亡し、慶長年間(1600年頃)には、
加納城築城のため、寺地内の土石が採取されたと伝えられます。

このように正法寺は、土岐氏の衰退と共に衰徴し、現在は「薬師堂」が往時を偲ばせるだけだあります。

斎藤丹波守利光生涯

 石丸氏は尾張出身で斎藤氏の家宰を務めた家柄とされている。利光も斎藤妙椿に仕えたが、文明12年2月21日(1480年4月1日))に主君・妙椿が亡くなると、妙椿の後を継いだ斎藤利国(妙純)を奉じて、美濃守護代の斎藤利藤を近江へと追放する(美濃文明の乱)。

 だが、次第に同じ家宰の西尾直教の讒言によって妙純に疎んじられるようになると、主家の斎藤氏にとって代わることを考えるようになった。折しも、妙純に不満を抱いていた美濃守護・土岐成頼(宗安)と美濃に復帰した利藤が利光を味方に引き入れる事を画策した。利光もこれに応じて利藤から許しを得て「斎藤丹波守利光」と名乗ったといわれている。

 明応3年(1494年)12月、妙純を暗殺しよう企てるが、直教が妙純に「利光謀反」を讒言している事を知り、計画の露呈を危惧してやむを得ず取り止める。そこで、居城の美濃船田城に兵を集い、妙純の居城の美濃加納城を攻めるが、成頼の進言で、直教を追放する形で一時的に和解するが、成頼から嫡男の政房を廃嫡し、元頼を後継者にするために協力してくれと頼まれたため、これを承諾し、政房が守護に相応しいと考えていた妙純と次第に対立していき、土岐氏の家督争いに発展した。

 明応4年(1495年)6月、成頼の末子・元頼と利藤の末子・毘沙童を擁立して、船田合戦を起こす。斎藤氏に恨みを抱いていた清洲織田家の織田敏定の子織田寛定に娘を嫁がせ、敏定を味方に付け、尾張を巻き込んだ。

 同年6月19日、同族の石丸利定、弟の秀道らが斎藤方の西尾氏を破り、勢いをつけ、加納城を囲むが、反撃に遭い、戦死する。同年7月、斎藤方が味方の古田氏を攻めたので、同族の石丸正信、馬場氏、国枝氏ら援軍を送るが、敗れたため、利光は船田城を焼き捨て、近江の六角氏の許へ逃れた。同年9月に成頼は渋々政房に家督を継がせた。

 だが、斎藤方が尾張に布陣し、石丸方に味方した利光の娘婿織田寛定を攻めていた斎藤方の隙を付き、明応5年(1496年)3月20日、子の利高が細川氏、六角氏、北畠氏らの後援で、南近江で兵を集い伊勢方面を経て美濃へ進行した。元頼を総大将、毘沙童を副将として二軍に別けて進軍したが、戦況の変化から子の利高の進軍を止めさせようとするが、利高はこれを拒んだため、止むを得ず、尾張の津島から竹鼻を通り、墨俣で出迎えていた斎藤軍を破り、隠居していた成頼の居城・城田寺城に向かった。

 当初、成頼は拒否したが、元頼も一緒だと知ると城内へ招き入れられ、城田寺城に篭城するが、斎藤方の織田寛広と妙親の娘婿朝倉貞景らに城田寺城を囲まれ、援軍として駆けつけた六角氏も斎藤方の京極氏に破れ、落城寸前のため、子の利元が開戦を唱えるのを宥め、成頼と毘沙童の助命を条件に降伏したが、同年5月30日に斎藤軍の奇襲に合い、子の利元とともに自害した。岐阜県岐阜市城田寺の舎衛寺に「船田合戦終焉之地」の碑がある。

中山道から少し離れた場所ですが

上茜部城跡
かみあかなべ)

岐阜市茜部(あかなべ)本郷二丁目)

北緯

35

23

17.1

東経

136

45

27.4

豊臣秀吉には無くてはならない人物
近江国の出身といわれている、堀資重により築城される。(時期不明。1550年以前?)

子孫の堀秀政は織田信長、豊臣秀吉に仕える。特に豊臣秀吉の元で様々な武功をあげ、秀吉には無くてはならない人物となる。しかし、小田原攻めの最中、陣中で病死。秀吉は大変嘆いたという。
秀吉は小田原を平定後、関八州を秀政に与える考えがあったようである。

廃城時期は不明であるが、堀秀政が1581年に長浜城城主、1585年に北ノ庄城城主となっている事から、このころに上茜部城は廃城された可能性が高い。

 

上茜部城跡 堀秀政 生誕の地
上茜部城は、戦国時代「堀秀政」の祖先が本郷の地に築き、
天正年間(1570年)秀政の居城でした。
秀政は天文二十二年(1553年)堀秀重の嫡男として生まれ
幼名「菊千代」、長じて「久太郎」と称し十三歳にして信長に
仕え数多くの武勲をたて、天正九年(1581年)に長浜城を、
翌十年には本能寺の変後「秀吉」の先鋒として光秀を
山崎に討って、その知勇をめで、羽柴の称号を賜わる。

その後「賎ケ岳の合戦」に功をたて佐和山城主に、
長久手の合戦、紀伊根四国征伐の功のより
「従四位下侍從左衛門督」となる。

その後天正十三年(1585年)に北ノ庄城主として十八万八百石
余を拝領し、同十五年(1587年)に秀吉に従い九州島津征伐、
同18年(1590年)には秀吉の「小田原城攻め」には一方の大将として参戦中に陣中で病死す。享年三十八歳。

元の中山道にもどり案内します

加納城大手門跡から西へ向かい約40mほど進むと左側に古い洋館があります

加納町役場
中山道案内板

加納本町1丁目

北緯

35

24

04.7

東経

136

45

52.9

大手門跡横の不気味な建物
加納町役場

 戦後は進駐軍(米占領軍)に接収されていた建造物で、そのほかにも歴史的な建造物です。
 米軍に接収されたのは、そんな理由でなく、当時は岐阜中が焼け野原で雨露がしのげる建物は此の建物くらいだった、ためです。

 旧加納町役場は1926年(大正15年)に完成、鉄筋コンクリート二階建てで、関西の建築家の父と言われる建築家「武田五一」氏が設計しました。

 この役場は、岐阜市との合併により1940年(昭和15年)に岐阜市役所加納支所に。
 その後支所が廃止となり、1985年(昭和60年)から市学校給食会
が現在も使っています。 

 色の黒いのは空襲を避けるため黒く塗られていたのがはげただけです。

中山道案内板はこの旧加納町役場の駐車場にあります。

関ヶ原合戦までは岐阜町の方が大きな町でした。

中山道 「加納宿」版画

 遠くにお城が見える街道沿いは「細畑の一里塚」から「茶所」へ入る少し手前くらいではないでしょうか。

 

版画と同じの場所から。
アーチの向こうが加納城あたり。
利益の上がらない宿場と幕府からの特典

 宿場には公用人馬継立のため、定められた人馬を常備し、不足の時は周囲の村に「助郷」を徴するようでした。
 また、公武の宿泊、休息のため本陣、脇本陣、問屋場などが置かれました。
 しかし、これらの公用のための労役、業務については利益を上げることが難しかったので、幕府は地租免除、各種給米の支給、拝領金貸与、などいろいろの得点を与えることによって宿場育成に努めたようでした。

更に西へ約100mほど進むと左側に

左甚五郎のウサギの欄間で有名な
うなぎ料理の二文字屋

加納本町2丁目

北緯

35

24

06.4

東経

136

45

47.6

今でも残る当時からの”ウナギ料理屋”の「二文字屋」
  左甚五郎作の「川原で餅をつくウサギ」の欄間

 初代「上野長七郎」が旅籠「二文字屋」を始めたのが創業で、今から三百七十年前の元和六年だそうです。

 この料理屋の商標である”月夜に川原で餅をつくウサギ”は有名な「左甚五郎」作の欄間で、火事の時に欄間の川原から水が噴き出し、一瞬のうちに火を消したと伝えられています。

 現在は十二代目で美味しいウナギ料理で有名です。
 岐阜市加納本町2丁目17番地(TEL 058-271-7843)

左甚五郎とうさぎの欄間
昔、当店の辺りは中仙道加納宿で御座いました。
当店の初代上の長七郎画この場所で旅籠「二文字屋」を始めましたのが元和六年、今から375年程前のことでございます。
月夜に川原で餅をつくウサギはご存知、左甚五郎が二文字屋に泊まり彫ってくれた欄まで御座います。

火事の時、欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられています。

宿賃の変わりの「左甚五郎」が彫ったと伝えられるウサギがトレードマーク

中仙道加納宿と二文字屋
東海道と共に江戸時代の五街道の一つ中仙道はその前の東山道と呼ばれ古代から中世にかけて
西国と東国とを結ぶ重要な街道でした。

正徳六年(1716年)四月触書に五畿七道の中に中山道、山陰道、山陽道の何れも山の道を「セン」と
呼び申し候故、東山道之中筋の道候故に中仙道と申事に候と説明しています。

このな中仙道加納宿は江戸板橋より大津までの六十九次の一つ、
江戸時代には東海道とともに江戸と京都を結ぶ重要な幹線宿場町として賑わいました。

また、東海道の鈴鹿の山道、桑名の渡しや、川留めの多い大井川など水による
困難の少ない中山道は女性道中に愛用されました。

家並みこそ戦災で失われましたが加納宿の道幅と二文字屋の屋号は今も昔も名残を留めています。

二文字屋から約80mほどで「当分本陣跡」へ来ます

当分本陣跡

加納桜通り2丁目1番地

北緯

35

24

07.7

東経

136

45

44.0

現在は広い屋敷が残るのみで豪壮な建物はありません

現「宮田低」は広い屋敷のお家です。

 

「当分本陣跡」からすぐに加納桜道を横断し西へ向かいます

「加納桜通り」横断

北緯

35

24

07.8

東経

136

45

43.5

北を見ると金華山が見えます

道路の向こうに道標があります。

次の「加納宿ー2」「加納宿本陣跡」から「加納一里塚跡」までをご案内します。

街道コラム

【加納宿の新設と中山道の付替え】

 加納宿付近の中山道は、当初鵜沼宿から川手を経て長良川を渡り河渡(ごうど)宿に達する道であった。
それが加納城下を通るようになったのはしばらく後のことである。

 家康は、美濃国と中山道西国の押さえとして、加納城を急ぎ作らせ(岐阜城の礎石や楼閣などを移築)、慶長六年(1601)には女婿の奥平信昌を加納城十万石に入城させた。

 美濃国最大の大名となった奥平氏は、築城と同時に城下町と宿場の整備にかかった。
まず加納上築城を手伝った豪氏を宿役人とし、藩関係と深い土豪や縁者で町並みを形成し、寛永十一年(1634)、従来の中山道である岐阜街道を通行止め、加納城下を通る道を中山道に変更した。
 そして、寛文五年(1665)、幕府から「中山道伝馬条目」が下されて、中山道可能宿が成立した。

          

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。