中山道六十九次のうち五十四宿目で中山道美濃十六宿の十番目の宿「加納宿」をご案内します
六十九次 |
岐阜県岐阜市 美濃国 JR東海線岐阜駅下車 |
「加納宿−1」の巻は、加納宿入り口の茶所からぶたれ坊、加納城鬼門除け八幡神社、加納大橋、谷汲・岐阜町新道分岐道標、
加納宿東番所跡、柳町秋葉三尺坊、信長の制札を持つ専福寺、岐阜問屋場跡、岐阜町分岐秋葉神社、加納宿高札場跡、
加納宿北番所跡と岐阜町木戸口跡、亀姫侍女十二相祠堂跡、加納城大手門跡、加納城中大手門跡、加納城南大手門跡、
加納城二の丸東北隅櫓跡、川手(革手)城址、船田合戦、正法寺跡、上茜部城址、うなぎと左甚五郎欄間の二文字屋、
加納宿当分本陣跡までをGPS位置情報と共にご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
青線:鮎鮨街道) |
まず加納宿の概要から説明します。
加納宿 |
宿場の概要 加納藩領、 宿高 五百五十五石、 人口 2,750人、 家数 805軒、 旅籠 三十五軒、 本陣 一軒、 脇本陣 二軒、 鵜沼宿から 四里八丁(山の前一里塚、六軒一里塚、新加納一里塚、細畑一里塚) 合渡宿まで 一里半(加納本町一里塚) |
「岐蘇路安見絵図」による当時の加納宿の解説は
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加納
ぎふ道、ぎふへ一り有。信長公の居城也し。 今も富る商人多く、賑わしき所也。(今も富める商人多くて、賑わしいところなり) 加納より西は平田にて、野原なし。此故に馬の丱なし。 田畠にれんげ花といふ草を植て、馬の草とす。又田のこやしとす。 かゞ島、干大根つくり出す。(鏡島=岐阜市鏡島、干し大根の産地) 合渡川、舟わたし。(合渡川=長良川=舟の渡し。現在も県営の「お紅の渡し」として現存します。渡舟料無料) 合渡川、深き川也。 鰷(はや、はえ)多し。江戸へも献す。 此川、すのまた川の川上也。(この川は墨俣川=穂積町墨俣=長良川のこと) (当時は同じ川でも地域によって呼び名を変えたようです) |
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加納宿の宿制と宿役人 宿役として、宿老、町年寄、問屋役、町頭、五人組頭が任ぜられました。 本陣は本町二丁目の松波藤佐衛門家で一七〇坪の建坪を有し、 加納宿の問屋と町年寄 宿老 |
岐阜市茶所あたりから見た加納城とおもわれます。
歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 加納」(大判錦絵) |
加納宿の伝馬と助郷 |
加納宿入口六つの枡形 |
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江戸時代の古図 |
中山道分間延絵図(東京国立博物館蔵) |
前頁の「ぶたれ坊」から紹介を始めます。
ぶたれ坊 岐阜市加納八幡町 |
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「ぶたれ坊」は茶所薬局の隣家の軒下にあります。
「ぶたれ坊」の基壇脇の道標には 「天保十二年辛丑十一月 鏡岩濱之助内建立」 笠松街道 |
中山道の枡形に入る手前にある「ぶたれ坊」 |
上には「鏡」 台座には「鏡岩濱之助」 |
「ぶたれ坊」と茶所 現在は加納伏見町の「妙泉寺」にあります |
「だんごや」から「加納城大手門跡」までの六つの枡形を地図上で詳しく示します
時に「加納宿東番所跡」から「善徳寺」辺りまでは現地で迷いやすいと思われます。 |
「ぶたれ坊」角を西へ約40mほど進むと三叉路があり角に「だんごや」があります
だんごや 岐阜市加納八幡町 |
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「名鉄茶所」の踏切を渡ると右側にその名も「だんごや」と言うお店があります。 |
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団子も売っている「だんごや」 |
「だんごや」の隣に説明板があります。 |
中山道「加納宿」入り口の”一つ目の枡形”
加納宿「茶所」まではほとんど一直線ですが、そのまま進むと加納城大手門へ直行するので手前の「荒田川」と清水川を利用して複雑な「枡形」が作ってありました。 加納城大手門前までに枡形は6つあります。 |
中山道は角のだんごやを北へ曲がります。 |
「だんごや」から50mほどで八幡神社があります
加納城「鬼門除け」 岐阜市加納八幡町 |
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ピンク色は町屋(中山道沿いに建てこんでいます) |
創建不詳 慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦後、徳川家康は岐阜城を廃城とし加納城へ移築しました。 その際、敷地内に祀られていた八幡様を加納城の東北の此の地に「鬼門除け」と「守護神」として遷座し奉りました。 (もう一つの説 祭神は応神天皇.慶長年間に奥平信昌侯が加納城の鬼門として建立した.代々の城主の崇敬厚く祭祀をおこたらなかった) |
境内には大きな楠が茂っています。 |
「八幡神社」の文字の上に「加納城鬼門除」の文字が |
中山道は「だんごや」を北に曲がり約50mほど進むと加納大橋に差し掛かります
加納大橋 岐阜市加納安良(かのうあら)町 |
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加納大橋を渡り70mほど進むと中山道と岐阜道(安良田新道)の分岐へ出ます
谷汲・岐阜町新道 岐阜市加納安良(かのうあら)町 |
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分岐には明治の頃の道標があります |
下半分が黒いのは道路の舗装工事で コールタールがかかったため |
右 岐阜 谷汲(たにぐみ) |
左 西京(江戸が東京になったので 京都は西京と呼んだのでしょう) |
明治十八年八月 上加納 後藤松助 六十一才 |
「左 西京」(当時は新しい東京に対し、 |
現在はここも岐阜ですが |
道路標識の「谷汲・岐阜道」 |
道標を過ぎた地点から前後を見ると。
加納宿入り口から「東番屋跡」を見る
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道標から約70mに「秋葉神社」があります。
安良町秋葉神社 岐阜市加納安良町(あらたまち) |
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今も昔も火事が怖かったようです。 |
秋葉神社から約60mほどで県道 岐阜・稲沢線を横断します
県道 岐阜・稲沢線横断 岐阜市加納安良町(あらまち) |
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「県道岐阜稲沢線」の北を見ると「名鉄本線竜田町踏切」の |
「県道 岐阜・稲沢線」横断から約40mで加納宿東番所跡があります
加納宿東番所跡 岐阜市加納安良町(あらたまち) |
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画面右側の柳の木の下に碑があります |
「東番所跡」 ここで通行手形など見せて宿に入ったのでしょう。 岐阜町へ行く人は、番所を通るのが面倒なので、先の道標から「谷汲街道」で岐阜町へ入ったことでしょう。 |
加納宿東番所跡の前の交叉点を南へ曲がります。
約40mほどの正面に善徳寺山門があります。
善徳寺 岐阜市加納安良町(あらたまち) |
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「東番所」を南へ向かうと「善徳寺」が見えます。 |
道標説明文 |
「善徳寺」の前を西へ曲がります。
約40mほどで加納上本町通りの広い道を斜め横断します
「中山道加納宿」石碑 岐阜市加納柳町 |
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いずれ古い町屋は無くなる(改築)かも知れませんが石碑は残るでしょう |
県道を横断すると柳町秋葉三尺坊があります。
中山道加納宿標識 岐阜市加納加納柳町 |
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広い道路の手前左に「中山道加納宿」の標識があります | |
標識の奥の方に「柳町秋葉三尺坊」があります |
さらに約30mほど進むと「専福寺文書」をもつ専福寺があります
岐阜市指定重要文化 (岐阜市加納新町) |
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信長の石山本願寺攻めに参戦 |
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戦国時代の文書が多数残っているお寺です。
その中で織田信長の朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状の三通が指定文化財です。 元亀三年(1572年)石山合戦に際し、石山本願寺は各地の末寺に教書を送り蜂起を促したが、信長は荷担を禁ずる朱印状を出しました。 当時は勢力のあったお寺だったのでしょう。 |
前回まであった「市重要文化財 専福寺文書」碑(自転車横)が朽ちたのか枠だけが残っていました。 元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、 同三年、専福寺の僧「忍悟」(にんご)が、石山合戦で戦死し、顕如より追悼の御書を給わったと伝えられています。 その他、豊臣秀吉・池田長政の発給とされる文書も伝えられますが、 |
専福寺文書 専福寺には、戦国期を中心とした文書が多数残されています。 その内、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、 池田輝政制札状と伝えられている三通が岐阜市重要文化財に指定されています。 信長朱印状の内容 織田信長の朱印状は、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出されたものとされています。 元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、本願寺法主顕如は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を 促しました。美濃に於いても多くの寺院がそれに呼応していました。 同三年、専福寺の僧忍悟が、石山合戦で戦死し顕如より追悼の御書を給わったと伝えられる本寺に信長朱印状は、 その際、専福寺およびその門徒が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっています。 その他、豊臣秀吉・池田輝政の発給とされる文書も伝えられますが、いずれも本寺と、当時の政治権力の関係を 考える上で重要であります。 |
専福寺から約30mほど進むと秋葉神社があります
加納新町秋葉神社 岐阜市加納新町 |
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秋葉神社から約30mほど進むと右側の民家の軒下に岐阜問屋跡の説明板があります
岐阜問屋場跡 (岐阜市加納新町) |
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問屋場跡
此の付近で笠松街道から木曽川を下って名古屋城下へ。 岐阜から長良川で上流の郡上へ。 京都から、木曽からの集積場でした。 今は面影もなく民家の軒下に、それを説明する説明板があるのみです。 普通に歩けばほとんど見落とします。 |
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権力があった問屋場 江戸時代、宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締とも言われましたが、今の問屋さんとは 業務は人馬の出入りや賃銭などの「帳付役」、人馬に荷物を分担させる「馬指」、などとそれをまとめる助役の「年寄」、などです。 岐阜問屋跡 江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける「荷物問屋」に力を注ぐようになりました。 岐阜問屋は岐阜の名産品であり尾張藩が将軍に献上する「鮎鮨」(あゆずし) 献上「鮎鮨」は岐阜町の「御鮨所」を出発し、岐阜問屋を経て”御鮨街道”と呼ばれた現在の”加納八幡町”から この岐阜問屋の特権は献上鮎鮨が手厚く保護されていたためでしょう。 |
江戸時代の絵図で現在の町と比較してみましょう
本陣の両側に脇本陣2軒や問屋があります |
絵図の枡形からご案内を続けます
岐阜町への岐阜道の分岐 加納南広江町 |
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岐阜道分岐の枡形
問屋場の説明板を過ぎると、正面の「薬屋」さんの軒下に「中山道」の道標がります 往時を偲ばせるものは、何もありません 右に曲がると岐阜町への道となります。 途中に北番屋があります |
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この道標は享保元年の頃 中山道と岐阜道の交差点(南広江)にある道標は,「壬戌(じんじゅつ)紀行」(享和2(1802)年3月26日)に太田南畝が記録 している古いものです. この道標が設置されたのは,享保元(1716)年「仙」を「山」の字を書くべしの触書がでた 直後に建立されたものと思われる. |
「太田薬局」前の道標と説明板 最初は「左 中仙道」「右 ぎふ道」の道標でしたが、 この四つ辻はは中仙道と岐阜道(鮎鮨街道)の分岐点で、かっては交通の要衝でありました。 |
左:西京道 左:中山道 | 右:ぎふ道 右:東京道 |
四辻から岐阜道(鮎鮨街道)を見ると名鉄電車の踏切が、また右に秋葉神社が見えます
前項の「鮎鮨街道」で詳しく「御案内しましたが再度岐阜町へ向けて少し入ってみましょう
秋葉神社を北へ曲がり岐阜道を約210mほど進むと左側に「亀姫侍女十二相祠堂跡」の石碑があります
亀姫侍女 加納北広江町36 |
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亀姫様の侍女十二人の堂宇でした |
個人宅の裏庭に |
亀姫様の侍女12人が一度に 唯一の記録は加納藩田辺見聞録に残された 「慶長十二丁未年(1607)加納様(奥平信昌夫人 亀姫、徳川家康公嫡女也)の侍女、十二人一時に咎めに逢い、 元和四戌午年(1618)この地に設社」とあり、なぜ咎を受けたのか?咎とは処刑されたのか?など全く不明です。 戦前までは立派な堂宇も 山田家の文書によると大東亜戦争の空襲までは、この家の屋敷も大きく屋敷の真ん中に堂宇があり参道が道路まであり、 光国寺(近くの亀姫菩提寺)の寺守も居たそうです。光国寺の慶長19年の古図に「十二相」の堂宇が既に記されているそうです 咎の推測 慶長十二年といえば関ヶ原の合戦より7年目、江戸に幕府が開かれて4年目、加納城の築城も慶長六年におこなわれ、 大阪夏冬の決戦前七年、徳川幕府につくか、豊臣家の恩顧につくか、全国の大名、小名達が、肉親同士で対立、疑心暗鬼に 明け暮れした時代です。西の構えとしての加納城下も隠密あり、密使あり、徳川方と、豊臣方の虚々実々のスパイ合戦。 加納様(亀姫)の乱心か、西方の間者として闇から闇へと葬られたのか?十二相事件の現場が加納城中か、加納様の 下屋敷か、一度に12人の侍女が殺されたのか、何処の氏素性なのか、連座で12人が処刑されたのか・・・・・ 事件の数年後に光国寺裏山(此の場所)に堂宇を建てられたのですから、単なる加納様の乱心ではなかったのでしょう。 |
さらに約80mほど進むとJR東海道線の高架下へ出ます。
高架下手前の交差点を右に折れると「北番所跡」碑があります。
加納宿北番屋跡 加納北広江町 |
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現在の加納愛宕町の「秋葉神社」がその跡です。
「吉野屋」八百屋さんのすぐ脇に見えるのが標識です。 ここには「岐阜町」の木戸もあり、加納宿と岐阜町の往来をいちいちチェックしていたようです。 以前は東海道線の踏切がありましたが、今は高架になり何の面影もありません。 |
青色軽トラの左が碑 |
番所跡は「秋葉神社」です |
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「岐阜道」は、ここまでとして もう一度「中山道」へ戻ります
中山道合流点を過ぎて約50mほどの「ひろいはし」手前に三叉路があります |
三叉路を西へ約50m程の右に「水薬師寺」があります。
水薬師寺 加納南広江町 |
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清水川で黄金仏を拾い上げる 臨済宗妙心寺派,本尊薬師如来. 慶長17年6月21日の夏に伊三郎という若者が清水川にて遊泳中、足に触れた異物を拾い上げたら黄金の薬師像で、 これを光国寺に奉納しました. 藩主奥平忠政と亀姫はこれを慶び清水川に川中に二間四方の浮見堂を建て安置しました。以来水薬師または乳薬師と呼ばれ, 乳がよくでる仏として親しまれています.7月20,21日には清水川の灯籠流しが盛大に行われています. |
清水町の由来 |
「水薬師」から中山道へ戻り「ひろいはし」の南東の袂に「高札場」の案内板があります。
加納宿高札場跡 加納南広江町 |
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高札場跡 宿場の5点セット |
清水川に架かる橋の名前は「ひろいはし」 加納宿高札場跡 高札場とは藩が領民に法度(はっと=法律)や触(知らせ)を知らせるために 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で この高札場は加納藩の中で最も大きく、 正徳元年(1711年)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治になるまで、 |
岐阜教育委員会資料によると「高札場」から「大手門」までは道幅が今よりも広く |
「高札場」跡を南へ約45mほど進むと「加納城大手門跡」へ出ます
加納城大手門跡 岐阜市加納大手町 |
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手前が「高札場跡」方向、真っ直ぐが「加納城址」右が「中山道加納宿」中心町方向 |
ここが加納城大手門前でした 明治維新までは、ここに立派加納城の大手門があっと思われます。 しかし、”社長の娘”と結婚した”平社員”信昌”は亀姫の我が儘に手をやいたようです。 二人の墓はここから数百mの加納奥平町の「盛徳寺」に仲良く並んでいます。(次ページで紹介) その後の奥平家 家康に大抜擢された、奥平家も子供、孫とも病弱でわずか三代17年で衰退し、以降四氏13代が城主となり、永井氏6代目の「永井尚服」(なおこと)の時に明治維新を迎えています |
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加納城大手門の記念碑は,昭和62(1987)年 3月21日に建立.門前には「広小路」があり, 広井橋の東側には「高札場」が立っていた |
碑は「30km」の交通標識の横にあります。 |
加納宿へ入ってから六つ目の枡形がここ「大手門跡」です。
あとは宿場内を真っ直ぐに西へ向かって「西番所跡」まで中山道は延びています。
加納宿 岐阜市加納大手町 |
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古い宿場図 此の地方では有名な宿場図があります。 此の地図に先ほどのポイントを入れてみました。 |
古図には当時の城下町と宿場の様子が描かれていますが、現在とちゃんと合致します。 ここが「広小路」といわれ今の3倍ほどの道幅がありました。 |
加納城下町と宿場町 加納の町は,侍屋敷と宿場町から成り立っていた.侍屋敷は加納城周辺(丸の内,東西の丸,長刀堀等), 宿場町は本町一丁目〜九丁目,天神町,広江,新町,柳町,安良町,八幡町等22町からなる. |
少し中山道から外れ加納城址を案内しましょう
加納城跡 加納丸の内 |
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明治政府に敵視された「加納城」 写真、大手門あとで今は交差点になっています。 此の奥が加納城本丸跡です。 その間約700mに岐阜大學付属小学校、同中学校、市立加納小学校、聾学校などが並びます。 加納城盛衰 徳川家康が「関ヶ原の戦」直後に織田信長自慢の岐阜城を廃し、岐阜城の木材から石垣まで持ってこさせて、本格的な近代な平城を「徳川四天王、本田忠正」に作らせ、長女「亀姫の婿奥平昌正」を城主とした加納城は明治政府も目障りなのか、徹底的に壊し堀も埋めてしまい、石垣のみとしてしまいました。 今城跡では細々と発掘調査が行われています。 |
現在の住宅地図に、かっての加納城を合わせると |
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加納城搦め手門 以前は自衛隊岐阜駐屯地でした。今は往時をを偲ばせるのは石垣だけです。 門は搦め手(裏門)で南側にあり自衛隊駐屯時代の名残のコンクリート門です。 正面の門は面影もありません。 (右の写真) |
国史跡 加納城跡 築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築しました。 加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えました。 加納城址は、この本丸のほかは二の丸北側の石垣を僅かに残しているのみです。 |
慶長5(1600)年11月関ヶ原合戦後,家康は西方の脅威に備え,交通の要衝を理由に加納城の |
本丸大手門跡発掘 |
最近は簡単な案内板が設置され多少城跡らしい雰囲気が出来ました。 |
16世紀終わりころまで木曽川の本流は「境川」 |
加納城の歴史 |
史跡「加納城址」本丸の石垣 |
本丸跡 |
裏門(搦め手)も戦後自衛隊が駐屯していた当時のままです |
加納城石垣 この石垣は岐阜市近傍の山で産出するチャートといわれる石を材料に積み上げられています。 角の石以外は加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められる「野面積み」です |
濠も埋められて駐車場になっています |
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城下町であった加納町を散策すると江戸時代の名残の町名のほかに城下の遺構らしきものが見当たります。
加納城址付近の遺構 |
加納城中大手門跡 加納沓井町 |
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最近 駐車場隅にあった標識がなくなっています。地図を参考にして下さい |
二之丸と三之丸の間にあった中大手門跡で現在は、加納沓井町の民間の駐車場となっています。
関ヶ原合戦後まだ豊臣方の残党が巻き返しを狙っている最中の築城で堅固な上にも政治の中心としても機能を果たす必要があったと思われます。 また、城下町として加納宿の発展も必要であるため、解放性と防御性には苦労した城下町構造になっていたとおもわれます。 |
由緒ある町名
加納城近くは「西丸町」「鉄砲町」「矢場町」「長刀堀町」「鷹匠町」「御車町」など由緒ある町名が続きます。
加納城南大手門跡 加納西丸町1丁目 (中野茂一 宅ガレージ角) |
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分かり難い場所ですので参考にして下さい。 |
加納城址北西角から数十mの私宅の隅に標識が立てられています |
新荒田川沿いの加納小学校と岐阜地方気象台の境の石垣です
加納城 加納二の丸 |
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岐阜地方気象台と二の丸東北隅櫓 加納城二の丸跡にあり現在は岐阜地方気象台が建っています。 家康は関ヶ原の合戦後、鉄砲や大筒(大砲)の発達に伴い、山城建築で優雅な天守閣様式を確立した、織田信長の城造りを発展させ、周囲に堀をめぐらせた本格的な平城を、ここ加納城に集約しました。 |
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岐阜地方気象台 二の丸跡の所謂「御三階櫓」跡に大正6年に建設された.自然災害から郷土を守るため大自然の気象, 地象,水象を観測する重要な業務を行っている.岐阜地方気象台と称し,明治14年岐阜町に岐阜測候所 が設立されて以来,120年の歴史がある. |
加納城址(二の丸・三の丸) |
加納城下の大火で東北隅櫓類焼 |
現在の二の丸、三の丸跡、と現在の「荒田川」 |
金華山山頂から石垣も移築 |
このほかに加納城裏門を移設したと伝えられている門が岐阜県有形文化財に指定されたと
2008年12月13日の中日新聞に記事がありましたので紹介します。
しかし、加納城下での裏門跡の場所は判明していません。
加納城裏門 (岐阜県各務原市蘇原伊吹町 小林家) |
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加納城裏門を移築したと 各務原市蘇原伊吹町の小林家住宅主門は1881年に
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加納城址西側の長刀掘跡を紹介します。
加納城外濠 岐阜市加納長刀町3丁目 |
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加納城内堀・外濠と現在の住宅地図 |
加納藩屋敷跡 加納城外濠の「長刀堀」の西側数丁には江戸時代二十石から1千石の加納藩家臣の屋敷がありました。 元禄八年(1695)頃作成された絵図「加納藩家中之図」を見ますと、この辺りは一千五区の家臣の屋敷がありました。 写真の道のすぐ東側は「長刀堀」でした。「長刀堀」は明治四年(1912)に埋め立てられました。 道の西側の家々の石垣を見てください。この石垣は江戸時代、加納藩の家臣建った家の石垣です。 以前は、この辺りのあちらこちらで、このような石垣を見ることができましたが、現在ではこの辺りの加納長刀堀3丁目の一角だけとなりました。(岐阜教育委員会) |
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岐阜城・加納城址の石垣と同じチャート石で組まれています。 |
この近くの城跡を案内します。
川手(革手)城跡 岐阜市正法寺町 |
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船田合戦で消える |
川手城(革手とも云います)跡は岐阜市正法寺町の |
済美女子高校は路を挟んで両側にあります。 |
その路の中間辺りに「革手城跡」はあります。 |
革手城の由来 美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族です。 なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地「土岐」に土着し、「土岐氏」と改め、 現在の瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守り神の八幡神社を祀っています。 そして、美濃国守護職(1189年)となって、鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となりました。 |
二代目は斬殺
第二代守護職「土岐頼遠」は、父「頼貞」と共に足利尊氏に従って数々の軍功をあげ、元土岐市大富に住みしましたが、
辺地なればと現岐阜市南長森に「長森城」を築き居住。
「頼遠」は功に募り傲慢となり、1342年「持明院」(後光巌上皇)に無礼を働き断罪されました。
三代目が「革手城」を
第三代守護職「土岐頼康」は、「土岐頼遠」の跡を継いで土岐の惣領となりました。
足利尊氏の命により信州(信濃)・予州(伊予)の平定、その軍功により美濃・尾張・伊勢の三ケ国の守護職となります。
長森城は所狭きをもって1353年6月現岐阜市川手に革手城を築きこれに移りました。 別名「革手府」。
土岐源氏の名声と実力は再興に至ったときです。
この城は、旧木曽川と現荒田川を改修し、天然の地の利を生かした広大な城地で、
七堂伽藍を持つ「霊薬山正法寺」・源氏の守護神「八幡神社」をはじめ、社寺仏閣、
数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったと推定されます。
四方を学校に囲まれて城址は公園になっています。 |
広大な屋敷に御殿風建物が |
京文化の花咲く革手城 「革手城」が都風となって繁栄し賑わったのは、建武の新政の失敗と「応仁の乱」によるものでした。 都を追われた公家・百官・天上人が地方の守護職を頼って寄宿しことにあります。 これらの人々を受け入れるだけの余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の「土岐氏」(革手)でした。 こうして築かれた川革手府文化は、1494年の「船田の乱」によって3日3晩、 徳川家康が土砂まで持ち去る 以降400年間、あちこちの集落に残された宮後は、 |
美濃源氏の一族の土岐氏の第3代守護職、土岐頼康は、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となる。 旧木曽川(現境川)と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれた城郭であった。城郭といっても、広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。 1467年(応仁元年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われた。 しかし1494年(明応2年)、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失する。後に再建されるが、1530年(享禄3年)、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移した事により廃城となる。城下町である川手(現岐阜市上川手、下川手)は廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師等がその繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。 廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われてしまった。 |
船田合戦 明応四(1495)年 |
応仁の乱後の文明九(1477)年に、守護土岐成頼が足利義視・義材(後の十代将軍)父子を伴い革手城へ帰国し、 足利父子は南に位置する茜部(あかなべ)荘に滞在しました。 栄華を誇った川手、加納地区でしたが長くは続かず、美濃国を二分し、周辺大名をも巻き込んだ1495(明応四)年 の船田合戦によって革手城の建物は焼失し、壮大な伽藍を誇る正法寺も三日三晩燃え続け荒廃しました。 |
革手城址の1本南側の道に七堂伽藍を有した「正法寺跡」があります。
正法寺跡 岐阜市正法寺町 |
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広大な境内も住宅街の一隅となっています。 |
応仁の乱で都を逃れて来た文化人を迎えたお寺も |
「加納城」を造る時、荒れた境内から |
小さな「薬師堂」で子供が蝉取りをしていました。 |
岐阜市指定史跡「正法寺跡」 応仁文明の乱(1467〜1477年)により、一条兼良・雪舟等楊(せっしゅうとうよう)・足利義視(あしかがよしみ)などの 明応四年(1495年)船田合戦が始まると、正法寺は戦場となり、被害を受けました。 このように正法寺は、土岐氏の衰退と共に衰徴し、現在は「薬師堂」が往時を偲ばせるだけだあります。 |
斎藤丹波守利光の生涯石丸氏は尾張出身で斎藤氏の家宰を務めた家柄とされている。利光も斎藤妙椿に仕えたが、文明12年2月21日(1480年4月1日))に主君・妙椿が亡くなると、妙椿の後を継いだ斎藤利国(妙純)を奉じて、美濃守護代の斎藤利藤を近江へと追放する(美濃文明の乱)。 だが、次第に同じ家宰の西尾直教の讒言によって妙純に疎んじられるようになると、主家の斎藤氏にとって代わることを考えるようになった。折しも、妙純に不満を抱いていた美濃守護・土岐成頼(宗安)と美濃に復帰した利藤が利光を味方に引き入れる事を画策した。利光もこれに応じて利藤から許しを得て「斎藤丹波守利光」と名乗ったといわれている。 明応3年(1494年)12月、妙純を暗殺しよう企てるが、直教が妙純に「利光謀反」を讒言している事を知り、計画の露呈を危惧してやむを得ず取り止める。そこで、居城の美濃船田城に兵を集い、妙純の居城の美濃加納城を攻めるが、成頼の進言で、直教を追放する形で一時的に和解するが、成頼から嫡男の政房を廃嫡し、元頼を後継者にするために協力してくれと頼まれたため、これを承諾し、政房が守護に相応しいと考えていた妙純と次第に対立していき、土岐氏の家督争いに発展した。 明応4年(1495年)6月、成頼の末子・元頼と利藤の末子・毘沙童を擁立して、船田合戦を起こす。斎藤氏に恨みを抱いていた清洲織田家の織田敏定の子織田寛定に娘を嫁がせ、敏定を味方に付け、尾張を巻き込んだ。 同年6月19日、同族の石丸利定、弟の秀道らが斎藤方の西尾氏を破り、勢いをつけ、加納城を囲むが、反撃に遭い、戦死する。同年7月、斎藤方が味方の古田氏を攻めたので、同族の石丸正信、馬場氏、国枝氏ら援軍を送るが、敗れたため、利光は船田城を焼き捨て、近江の六角氏の許へ逃れた。同年9月に成頼は渋々政房に家督を継がせた。 だが、斎藤方が尾張に布陣し、石丸方に味方した利光の娘婿織田寛定を攻めていた斎藤方の隙を付き、明応5年(1496年)3月20日、子の利高が細川氏、六角氏、北畠氏らの後援で、南近江で兵を集い伊勢方面を経て美濃へ進行した。元頼を総大将、毘沙童を副将として二軍に別けて進軍したが、戦況の変化から子の利高の進軍を止めさせようとするが、利高はこれを拒んだため、止むを得ず、尾張の津島から竹鼻を通り、墨俣で出迎えていた斎藤軍を破り、隠居していた成頼の居城・城田寺城に向かった。 当初、成頼は拒否したが、元頼も一緒だと知ると城内へ招き入れられ、城田寺城に篭城するが、斎藤方の織田寛広と妙親の娘婿朝倉貞景らに城田寺城を囲まれ、援軍として駆けつけた六角氏も斎藤方の京極氏に破れ、落城寸前のため、子の利元が開戦を唱えるのを宥め、成頼と毘沙童の助命を条件に降伏したが、同年5月30日に斎藤軍の奇襲に合い、子の利元とともに自害した。岐阜県岐阜市城田寺の舎衛寺に「船田合戦終焉之地」の碑がある。 |
中山道から少し離れた場所ですが
上茜部城跡 岐阜市茜部(あかなべ)本郷二丁目) |
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豊臣秀吉には無くてはならない人物 子孫の堀秀政は織田信長、豊臣秀吉に仕える。特に豊臣秀吉の元で様々な武功をあげ、秀吉には無くてはならない人物となる。しかし、小田原攻めの最中、陣中で病死。秀吉は大変嘆いたという。 廃城時期は不明であるが、堀秀政が1581年に長浜城城主、1585年に北ノ庄城城主となっている事から、このころに上茜部城は廃城された可能性が高い。 |
上茜部城跡 堀秀政 生誕の地 その後「賎ケ岳の合戦」に功をたて佐和山城主に、 その後天正十三年(1585年)に北ノ庄城主として十八万八百石 |
元の中山道にもどり案内します
加納城大手門跡から西へ向かい約40mほど進むと左側に古い洋館があります
旧加納町役場 加納本町1丁目 |
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大手門跡横の不気味な建物 戦後は進駐軍(米占領軍)に接収されていた建造物で、そのほかにも歴史的な建造物です。 旧加納町役場は1926年(大正15年)に完成、鉄筋コンクリート二階建てで、関西の建築家の父と言われる建築家「武田五一」氏が設計しました。 この役場は、岐阜市との合併により1940年(昭和15年)に岐阜市役所加納支所に。 |
中山道案内板はこの旧加納町役場の駐車場にあります。
関ヶ原合戦までは岐阜町の方が大きな町でした。
中山道 「加納宿」版画
遠くにお城が見える街道沿いは「細畑の一里塚」から「茶所」へ入る少し手前くらいではないでしょうか。
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利益の上がらない宿場と幕府からの特典
宿場には公用人馬継立のため、定められた人馬を常備し、不足の時は周囲の村に「助郷」を徴するようでした。 |
更に西へ約100mほど進むと左側に
左甚五郎のウサギの欄間で有名な 加納本町2丁目 |
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今でも残る当時からの”ウナギ料理屋”の「二文字屋」の |
初代「上野長七郎」が旅籠「二文字屋」を始めたのが創業で、今から三百七十年前の元和六年だそうです。 この料理屋の商標である”月夜に川原で餅をつくウサギ”は有名な「左甚五郎」作の欄間で、火事の時に欄間の川原から水が噴き出し、一瞬のうちに火を消したと伝えられています。 現在は十二代目で美味しいウナギ料理で有名です。 |
左甚五郎とうさぎの欄間 火事の時、欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられています。 |
宿賃の変わりの「左甚五郎」が彫ったと伝えられるウサギがトレードマーク 中仙道加納宿と二文字屋 正徳六年(1716年)四月触書に五畿七道の中に中山道、山陰道、山陽道の何れも山の道を「セン」と このな中仙道加納宿は江戸板橋より大津までの六十九次の一つ、 また、東海道の鈴鹿の山道、桑名の渡しや、川留めの多い大井川など水による 家並みこそ戦災で失われましたが加納宿の道幅と二文字屋の屋号は今も昔も名残を留めています。 |
二文字屋から約80mほどで「当分本陣跡」へ来ます
当分本陣跡 加納桜通り2丁目1番地 |
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現在は広い屋敷が残るのみで豪壮な建物はありません |
現「宮田低」は広い屋敷のお家です。 |
「当分本陣跡」からすぐに加納桜道を横断し西へ向かいます
「加納桜通り」横断 |
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北を見ると金華山が見えます |
道路の向こうに道標があります。 |
次の「加納宿ー2」は「加納宿本陣跡」から「加納一里塚跡」までをご案内します。
街道コラム
【加納宿の新設と中山道の付替え】 加納宿付近の中山道は、当初鵜沼宿から川手を経て長良川を渡り河渡(ごうど)宿に達する道であった。 家康は、美濃国と中山道西国の押さえとして、加納城を急ぎ作らせ(岐阜城の礎石や楼閣などを移築)、慶長六年(1601)には女婿の奥平信昌を加納城十万石に入城させた。 美濃国最大の大名となった奥平氏は、築城と同時に城下町と宿場の整備にかかった。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。