木曽川が幾筋にも分かれ、どれが本流か分からなかった頃、
水との戦いに難儀した羽島郡印食(いんじき)・川島町をご案内します
六十九次 |
岐阜県羽島郡岐南町 美濃国 名鉄各務原線細畑駅下車 |
「領下(りょうげ)・印食(いんじき)・川島町の巻」は木曽川の洪水から尾張領を守る「お囲い堤」跡、
もう一つの一夜城「伏屋城址」、南朝の忠臣村上彦四郎義光一族の墓(専光寺)、有形文化財の宮川家と焼け残った円空仏、
珍しい名前の「九所神社」「者言知神社」、近現代の大家横山大観・上村松園ら日本画500点楽焼の始祖「長次郎」の茶わん
千点を集めた大松美術館、各務原市川島町では薬のエーザイの「くすり博物館」、松倉城址、松倉城鬼門除け「神明神社」、
木曽川河川敷下の少林寺跡、松倉渡船場跡、伊入島水没遺跡、昔の街道などをご案内します。
羽島郡岐南町印食 |
印食(いんじき岐阜県羽島郡岐南町)中山道から外れていますが関ヶ原の合戦
前哨戦の木曽川渡河戦などで歴史的に中山道と縁のある地域です
長生きの記録「八百比久尼」(やおびくに)
細畑交差点から南へ数百m進むと岐南インターチエンジへ出ます。 |
むかし、此の村(現在の岐南町印食)に与四郎という大金持ちが住んでいました。 ところが何故か、愛馬が与四郎の命令通りに動かず、濁流にのまれて行方知れずになってしまいました。 三年後の三回忌の法事の時、読経が流れる村人の前に、与四郎と馬が帰って皆を仰天させました。 それから何年かのち、木曽川一帯に大雨が降り、洪水にとなり、この「印食」の村を襲い、家や人々を全部流してしまいましたが、「人魚」の背に乗って、その洪水を逃れた娘だけが生き残りました。 娘は村人を弔うために、全国を巡礼行脚して、再びこの地に住みましたが八百歳まで生きて”八百比久尼”と呼ばれるようになったと伝えられています。 岐阜方面へ来られて、このインターチエンジを通られると「印食」と言う文字が見えますので、此の「八百比久尼」伝説を思い出して下さい。 |
「八百比丘尼」その2 石川県珠洲市にも同じような「八百比丘尼」伝説があります。 珠洲市上戸町の真言宗高照寺の境内に「倒(さかさ)スギ」があります。 このスギは一見、大きな幹と小さな幹が集合して一本の杉になっているように見えますが、小さな部分は地面に向かって延びた枝です。 幹は枝の重さに耐えかねたのか、不思議なすがたですがこの杉にまつわる話が「八百比丘尼」伝説です。 その云われは、人魚の肉を誤って食べたため、永遠の命と若さを持ってしまった娘が、八百歳も長生きをし、知り合いはすべて亡くなり、村人に疎まれる仕儀となった。 娘は「八百比丘(やおびくに)」となって諸国行脚する途上、眼病を治すため立ち寄った高照寺で、スギ箸を逆さにさして念仏を唱えた。その後に杉が育って今の形になったと伝承されています。 いずれの伝説も八百歳まで生きた事や、諸国行脚などが共通しています。 |
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岐南町の歴史をご案内します
岐南町でご案内する所は下図の場所です |
尾張領特権 羽島郡岐南町野中三丁目45 |
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尾張領特権「お囲い堤」
松原正彦氏宅の東側に一部堤が残っています。 |
お囲い堤の場所 |
お囲い堤 |
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堤は松原家の塀を兼ねているようです
本来の「お囲い堤」 美濃側に残るお囲い堤 当時、この高道は、幕府領や尾張藩の領地成光(なるみつ)・伏屋(ふせや)・徳田(とくだ)・薬師寺(やくしじ)など)にとって、 |
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お囲い堤とエノキ お囲い堤をめぐる争い 役目を終えたお囲い堤 |
領主と治水 |
木曽三川の水害 |
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南方上空からみる大垣市 |
明治29年の大垣の大水害 1896年。降り続いた豪雨で堤防が決壊、大垣市内にも濁流が流れ込み、これまでにない大洪水に見舞われた。 写真は現在も残る大垣城の洪水を示す水位線と当時の大垣城の写真(写真提供/岐阜地方気象台) |
輪中(わじゅう)堤 |
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水屋の建築 |
切割(きりわり) |
近くの伏屋城址をご案内します。
伏屋城趾 羽島郡岐南町伏屋三丁目 |
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伏屋城趾 織田信長が美濃の国を守るために豊臣秀吉に作らせた砦です。伏屋城は、木曽川の上流から材木を筏にして運び、わずかな日数で砦を作ったため「一夜城」とも「太閤城」ともいわれました。現在も土塁の一部が残っています。 |
伏屋城址は分かりにくい場所です。岐南インター東北1,120mほどの所です |
中部排水路沿いの目印の無い角を南へ入ります |
もう一つの「一夜城」 織田信長が美濃を攻めるため、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じて築かせた城と伝えられています。 古書によると、秀吉は、木曽川周辺に勢力をもつ土豪らの助けを借り、材木を集めて筏を組み、木曽川を利用して この伏屋に運び込み、砦のような城を築いたとあります。凍れが「伏屋城」で、短期間に作られたことから「一夜城」とも呼ばれています 永禄年間(1558〜1569)ころ築かれたと考えられます。 |
小牧・長久手の戦い |
羽島郡岐南町八剣三丁目11 |
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村上彦四郎義光・妻岩根女一族の墓 南朝の後醍醐天皇の子、護良親王の忠臣でであった義光は、信濃から吉野へ転戦する途中、現在の岐南町印食に住んでいた乳母に妻を預けました。後に、西海寺に義光とこの地で亡くなった妻の一族の供養塔が立てられ、そこから今の専光寺に移されたものと思われます。 岐南町専光寺 |
場所は岐阜市寄りの県道から少し入った場所です |
村上彦四郎義光・妻岩根女一族の墓 |
親王の身代わりとなって果てる 大激戦の末、義光は、護良親王のお召し物をまとい身代わりとなって最期(さいご)を 遂げました。 才海寺は江戸時代に廃寺となり、その墓は専光寺に移されたと 伝えられています |
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一般の墓の中に混じってぽつんと建っていました。 |
旧宮川家住宅・宮川家円空仏・九所神社・者言知神社の詳細図です |
旧宮川家住宅 羽島郡岐南町平成七丁目 |
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旧宮川家住宅 県重要有形民俗文化財に指定されており、わら打ち石、かまど、風呂などが往時のままに保存されています。 典型的な農家建築で、明治時代の町内及び周辺地域の生活様式を窺うことができます。 |
敷地内に他から移築された「辻門」があります
辻門 岐南町伏屋の伏屋郁朗氏の旧住宅正門を移築したものです。 明治中期の建造で100余年が経ています。地方によって呼び名が違いますが四脚門は辻門といわれています |
同じく敷地内には岐南町歴史民族資料館もあります
岐南町歴史民俗資料館 昔の生活を偲ばせる農業を中心とする資料2,300点を 収蔵展示され、特に養蚕に関する資料は豊富です。 |
宮川家の円空仏 羽島郡岐南町徳田六丁目232 |
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燃やされた円空仏
それより庄屋だった同家に旅の僧「円空」が道中の宿を求め、 |
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円空仏より立派な家の方に見とれます |
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民族資料館の旧宮川家は、この本宅を建て替えられるとき |
宮川家の裏にあるなんと読んでいいのか分からない神社です。
者言知神社 羽島郡岐南町徳田六丁目 |
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お社も小さな神社です。 | |
宮川家の近くにある珍しい名前の神社です。
九所神社 羽島郡岐南町徳田町六丁目 |
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岐阜プラスチック鰍フ社長宅の美術館です
大松(おおまつ)美術館 羽島郡岐南町みやまち四丁目 |
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此の地方では有名な”リスのマーク”の「岐阜プラスチック工業」の社長で故大松幸栄氏のコレクション美術館です。 毎週月曜日が休館日でAM10:00〜PM5:00まで。 |
大松美術館惜しまれて閉館
2009年3月末で閉館 岐阜プラスチック工業株式会社の創業者である、故大松幸栄が蒐集した近代日本画と茶道具を中心に展示する美術館でした。 故人は生前、多忙極まる業務のかたわらこれらのコレクションを鑑賞することを無上の喜びとし、心のやすらぎとされ、同時に蒐集した美術品を広く一般に公開し、少しでも多くの方々とその喜びを共有したいと願っておられました。 その故人の遺志にしたがって、未亡人大松節子を初代館長として設立された小さな美術館ですが、社会的に貢献できる様な美術館活動を目指し、運営してこられましたが、館長の節子さんが高齢で運営を続けるのが難しくなり、このたび閉館を決断されました。 |
このほか印食城址も調査の上掲載予定です。
木曽川の中州の町川島町をご案内します。
羽島郡川島町 |
川島町の御案内する場所です |
内藤記念 羽島郡川島町竹早町 |
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岐南町から木曽川を越えて 内藤記念くすり博物館 くすりの「エーザイ株」の内藤社長を記念した博物館です。 川島町は木曽川の愛知県寄りの中州にありますが岐阜県です。 |
川島町内へ入るといたるところに案内があるので迷わずいけると思います。 |
門を入ると広い駐車場があるので安心です。 |
薬草温室には熱帯薬用植物が植えられています。 |
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これが薬用かとビックリします。 |
薬用植物園には600種類の薬草 |
本館の両脇は図書館と展示館です |
受付を済ませると薬の歴史に浸ることが出来ます。 |
人車製薬機(江戸時代) |
江戸時代から現代に至るまでの資料が2・3階に集められています |
ビデオやDVDなどで勉強もできます。 |
各種の体験コーナーも充実しています |
西洋医学関連 シーボルトの持ち物と言われる薬箱のほか、江戸時代の医学者山脇東洋が記した日本初の解剖書「蔵志」があり、日本の医学の発展ぶりを知ることが出来ます。 |
富山の薬売り |
明治時代の薬屋 |
学校の夏休みの宿題などに最適な施設です。 |
岐阜県消防学校 羽島郡川島町小網町 |
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岐阜県消防学校 |
少林寺跡の目印は岐阜県消防学校よこの堤防脇
少林寺跡 羽島郡川島町小網町 |
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壮大な伽藍 |
大洪水により廃寺 |
松倉城址 羽島郡川島町松倉町 |
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松倉城は、木曽川を挟んで美濃側への押さえの城として築かれました。 城の歴史 |
実際の城址は木曽川の河川敷きだそうです。 |
松倉城があったと思われる木曽川河川敷 |
この地(松倉上ノ島)は、坪内氏の古城あとである。 |
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樫大神 戦国時代の終わりの頃(天正年間)、この地、川島に松倉城が築かれていました。 当時この地、小網島と松倉上ノ島との境に、樫の大木が高くそびえていました。 この樫の大木は、四方から眺められ水陸の交通の目印になっていたといわれています。 この樫の木の下に、松倉城主坪内氏の墓があり、長い間守り続けられてきました。 そして、明治43年8月、当時の守役であった小島清太郎さんが、 この樫のことを忘れ去られることがないようにと碑を建立したといわれています。 現在の碑の位置は、木曽川の改修工事のため7・80mほど南に移動しています。 工事の時墓の跡からたくさんの土器や人骨が見つかりました。 此の時の土器は川島町の「ふるさと史料館」に保管されています。 |
松倉城鬼門除け 羽島郡川島町松倉町 |
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祭神は天照大神ですが創立縁由は不詳です 延喜式神名帳(平安時代)に記されており、松倉村はじめ近郷十四ケ村に氏子を有していたと伝えられています。 永禄年間(戦国時代)坪内美濃守の産土神(うぶすながみ)で、松倉城築城の際、鬼門に相対する神社として拝まれました。 |
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境内の灯篭・太鼓橋など立派で大きくビックリさせられます。 |
羽島郡川島町松倉 |
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松倉渡船場は、別名牛子渡船という。 |
羽島郡川島町松倉 |
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弥生時代の遺跡 弥生時代(凡そ1800年前)の農耕地跡と推定される遺跡で、この地点から北約100m (面積約2000平方米)の木曽川河川敷にあります。 そのほか古代井戸(野井戸)、道跡砂礫の間に発見された |
河田渡河戦 羽島郡川島町松倉町 |
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河田渡河戦
慶長五年(1600年)関ヶ原合戦の前哨戦というべき岐阜城攻撃の緒戦が
この木曽川を挟んで開始され、現在の川島町はその決戦場となりました。
東軍(徳川家康軍)の池田輝政を先鋒とする浅野幸長・山内一豊・一柳直盛など一万八千余の一隊は、
木曽川の河田を渡り越え、新加納を経て岐阜に向う策戦をたてました。
一方、西軍(豊臣方)に属する岐阜城主織田信秀は、戦いの先鋒にたち、
木造具政・百々綱家・川瀬左馬助など三千三百人を新加納と、米野の間に配置し、敵を待ち伏せました。
八月二十二日、東軍の池田輝政は前進命令を下し、中洲「小屋場島」に陣を張りました。
(里伝えに、池田輝政が通行人の小屋から敵情をうかがい、旗を立てたということから
「旗たて松」名付けられた老木があったが、今は数本しかありません。)
敵兵の小勢を知った東軍は、未だ夜の明けない内に一柳直盛を先頭に渡河戦を展開し激戦を交わした。
(河田渡河戦といいます)付近一帯は阿修羅場と化しました。
西軍岐阜城兵は、鉄砲隊の奇襲策戦によく奮戦しましたが、遂に敗退、
勢いに乗った東軍は明くる二十三日、
岐阜城を陥落させました。
県道180号線「川島大橋」南袂にあります |
木曽川が沢山の分流に別れて居たのを |
「米野の戦い跡」と対岸の川島町「河田渡河戦跡」の近くに「梅ノ木街道」と呼ばれる街道があります
昔の街道 羽島郡川島町笠田町2丁目 |
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街道のほとんどは失われ新しい道路に変わっています。
岐阜県川島町笠田地内の県道93号線沿いに |
案内板の前が昔の街道です。 |
木曽川の聖牛 羽島郡川島町 |
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武田信玄の考案 |
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材質はコンクリート製。高さは地表に出ている部分だけで4mくらいある。 |
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コンクリートブロックで護岸するのに比べて、聖牛は植物を維持することができ川岸の生物相が豊かになると言われている。 |
三井街道 各務原市上中野町 |
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県道178号線を米野から各務原方面へ進むと「三井街道」の表示があります。 |
芭蕉踊りゆかりの 羽島郡笠松町円城寺字東栗屋 |
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県道178号線の堤防道路にあります |
円城寺芭蕉踊り(雨乞い踊り) また、この踊りは、その昔谷汲に伝わる「雨乞い踊り」を見習い、 |
この他に矢板城址・米田城址・米田館跡・下麻生城址・柳御殿跡などを調査して掲載予定です。
では、中山道の続きを「美濃中山道
後編」で紹介します。
(「美濃中山道 中編」はこの頁で終わります)
街道コラム
【宿場と文化人】 宿場町の本陣家は公家、宗教家など文化人が泊まることが多かった上、生活に余裕があって教養を高める機会が多かったので、宿場の文化的中心地であった。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。