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木曽川が幾筋にも分かれ、どれが本流か分からなかった頃、
水との戦いに難儀した羽島郡印食(いんじき)・川島町をご案内します

六十九次
のうち
五十三宿
五十四宿間

岐阜県羽島郡岐南町

美濃国

名鉄各務原線細畑駅下車

「領下(りょうげ)・印食(いんじき)・川島町の巻」は木曽川の洪水から尾張領を守る「お囲い堤」跡、
もう一つの一夜城「伏屋城址」、南朝の忠臣村上彦四郎義光一族の墓(専光寺)、有形文化財の宮川家と焼け残った円空仏、
珍しい名前の「九所神社」「者言知神社」、近現代の大家横山大観・上村松園ら日本画500点楽焼の始祖「長次郎」の茶わん
千点を集めた大松美術館、各務原市川島町では薬のエーザイの「くすり博物館」、松倉城址、松倉城鬼門除け「神明神社」、
木曽川河川敷下の少林寺跡、松倉渡船場跡、伊入島水没遺跡、昔の街道などをご案内します。

          

羽島郡岐南町印食
                 (いんじき)

印食(いんじき岐阜県羽島郡岐南町)中山道から外れていますが関ヶ原の合戦
前哨戦の木曽川渡河戦などで歴史的に中山道と縁のある地域です

長生きの記録「八百比久尼」(やおびくに)

 細畑交差点から南へ数百m進むと岐南インターチエンジへ出ます。
 付近は「印食(いんじき)」と言います。
 この地に竜宮城と浦島太郎にまつわる話がやや形を変えて伝わっています。

 むかし、此の村(現在の岐南町印食)に与四郎という大金持ちが住んでいました。
無類の馬好きで、暇さえあれば馬の背にまたがり、方々を駆け回っていました。
ある時、愛馬にまたまま、流れのはやい木曽川を渡ろうとこころみました。

 ところが何故か、愛馬が与四郎の命令通りに動かず、濁流にのまれて行方知れずになってしまいました。
村人は死体もあがらぬまま、葬式を出して、ねんごろに弔いました。

 三年後の三回忌の法事の時、読経が流れる村人の前に、与四郎と馬が帰って皆を仰天させました。
村人は、幽霊ではないかと思いましたが、与四郎は竜宮へ行って来たと言い、一人娘に「人魚」を与えました

 それから何年かのち、木曽川一帯に大雨が降り、洪水にとなり、この「印食」の村を襲い、家や人々を全部流してしまいましたが、「人魚」の背に乗って、その洪水を逃れた娘だけが生き残りました。

 娘は村人を弔うために、全国を巡礼行脚して、再びこの地に住みましたが八百歳まで生きて”八百比久尼”と呼ばれるようになったと伝えられています。

 岐阜方面へ来られて、このインターチエンジを通られると「印食」と言う文字が見えますので、此の「八百比久尼」伝説を思い出して下さい。

  「八百比丘尼」その2
 石川県珠洲市にも同じような「八百比丘尼」伝説があります。
 珠洲市上戸町の真言宗高照寺の境内に「倒(さかさ)スギ」があります。
 このスギは一見、大きな幹と小さな幹が集合して一本の杉になっているように見えますが、小さな部分は地面に向かって延びた枝です。 幹は枝の重さに耐えかねたのか、不思議なすがたですがこの杉にまつわる話が「八百比丘尼」伝説です。
 その云われは、人魚の肉を誤って食べたため、永遠の命と若さを持ってしまった娘が、八百歳も長生きをし、知り合いはすべて亡くなり、村人に疎まれる仕儀となった。
 娘は「八百比丘(やおびくに)」となって諸国行脚する途上、眼病を治すため立ち寄った高照寺で、スギ箸を逆さにさして念仏を唱えた。その後に杉が育って今の形になったと伝承されています。

 いずれの伝説も八百歳まで生きた事や、諸国行脚などが共通しています。

岐南町の歴史をご案内します

岐南町でご案内する所は下図の場所です

尾張領特権
お囲い堤

羽島郡岐南町野中三丁目45
(松原正彦宅)

北緯

35

22

51.1

東経

136

51

36.0

尾張領特権「お囲い堤」

 松原正彦氏宅の東側に一部堤が残っています。
昭和35年から土地改良事業によってほとんどの堤が削られて田圃や道路になりました。
 お囲い堤は野中村、平島村、米野村の間にあった道で「高道」とも呼ばれ村境の兼ねていました。
 領主が領地と村民を守るために築いたもので、野中村は当時、尾張藩の領地でした。
 このため、上流や下流の美濃藩の村から「堤が高すぎる」等論争がたびたび、起きたということです。

お囲い堤の場所

お囲い堤
野中は、江戸時代の初め(元和年間頃)から尾張藩の領地となり、寛文元年(1661年)には、成瀬豊前家の知行地
となりました。それ以降、境川の氾濫や各務原台地からの流を防ぐため、野中と平島・米野の間のかつての高道を
かさ上げして堤を築きました。この堤を「お囲い堤」と呼んでいます。

堤は松原家の塀を兼ねているようです

本来の「お囲い堤」
慶長13(1608)から14(1609)にかけて、犬山から弥富まで木曽川左岸(尾張藩側)に全長12里(約48キロメートル)に
及ぶお囲い堤が、尾張藩によって築かれたことは有名ですが、実は美濃側(木曽川右岸)にも、お囲い堤が残されています。
この堤は、現在の岐南町野中・平島と笠松町米野の境にあり、高道(たかみち村堤)と呼ばれ、輪中のような役割でした。

美濃側に残るお囲い堤
お囲い堤とは 安政7年(1860)に幕府の役人が、堤などの調査をした御見分(ごけんぶん)には「野中村の堤は、寛文年中(1661?1673)以前からあり、尾張藩が自費で土木工事を続けてきた。 高さ、幅とも約2メートル、長さはおよそ1200メートル
ある」という記録があります。
 洪水から自分の領地を守るため、領主が築いた堤のことで、水よけ堤、掛かけ廻まわし堤とも呼ばれていました。

当時、この高道は、幕府領や尾張藩の領地成光(なるみつ)・伏屋(ふせや)・徳田(とくだ)・薬師寺(やくしじ)など)にとって、
木曽川の洪水から村を守るのに都合が良く、何度かかさ上げされ、お囲い堤と呼ばれるようになりました。

 

お囲い堤とエノキ
江戸時代初期に、当時の領主が自分の土地を境川(木曽川)の氾濫や、各務原台地からの水の流れから守るために設けた堤です。堤の上に植えられたエノキは樹齢約160年、旧村の地形を証明する史跡となっています。

お囲い堤をめぐる争い
 野中村より川上に位置する平島村(現岐南町)東中島村(現岐阜市)、大野村(現各務原市)などは旗本坪内氏の領地であり、
徳川御三家の尾張藩の領地である野中村などに、普段は遠慮していました。しかし、いつも遠慮していたわけではないようです。  古文書には、川上と川下の村々が天明3年
(1782)と寛政7年(1795)に、北方代官(現愛知県一宮市)に「堤を低くせよ」   
「堤を高くせよ」と訴える「お囲い堤論争」の記録が残されています。 
日照りの時に水が欲しい川下の村は、お囲い堤に圦いりという水門を作り、そこから田畑に用水するようになりました。
一方、川が増水した時には圦を開け、川上の村が水に沈まないようにしました。

役目を終えたお囲い堤
 昭和30年代、羽島郡東部土地改良事業が始まり、羽島用水路の完成などで、お囲い堤はその必要がなくなりました。現在は、
 岐南町野中の松原正彦氏宅内東(右写真)にわずかに残り、昭和
53
(1978)岐南町指定文化財(史跡)に指定されています。

領主と治水

木曽三川の水害
 木曽川河畔のお囲い堤のように、この地方では木曽川・長良川・揖斐川・杭瀬川の氾濫に頭を悩ませた。    
 この中で特筆されるのは大垣藩主の戸田氏鉄である。  多くの川が流れる西美濃地方は、古くから洪水対策に歴代為政者の水との闘いを治世の大きな課題としてきた。 戸田氏鉄はこの問題に一区切りをつける輪中(わじゅう)堤の建設や、その土を採ったクリーク(掘り潰れ)は田舟で行き来して、鰻・鮒・鯉などの漁業も奨励し低湿地は盛り土をして耕作地「堀田」とし地域の活性化を図った。                               

南方上空からみる大垣市
大垣市は東(右)に揖斐川、市内に水門川、杭瀬川が流れる低湿地帯のため、洪水対策は重要な課題だった

明治29年の大垣の大水害
1896年。降り続いた豪雨で堤防が決壊、大垣市内にも濁流が流れ込み、これまでにない大洪水に見舞われた。
写真は現在も残る大垣城の洪水を示す水位線と当時の大垣城の写真(写真提供/岐阜地方気象台)

輪中(わじゅう)堤
大垣藩初代戸田家の氏鉄は家康の近習を勤めていたが攝津尼崎五万石を領していたころに、河川改修や大阪城の修築で公崎を認められ、1635年(寛永12)60歳で大垣10万石の藩主に栄進した。 大垣地方を流れる大小河川はしばしば洪水を起こし、1650年(慶安3)の洪水では1100人余りの死者が出た。 この大洪水ののち、氏鉄は大規模な水門の建設を始めた。 川口村に設置された水門は、国内で最も優れた水門であったとされる。 また氏鉄は揖斐川・杭瀬川に囲まれた東西5km、南北13kmの地帯に囲い堤をめぐらした。この大輪中の中に、上流からの流と下流からの逆流を防ぐ輪状の堤をもつ小輪中が築かれていく。 明治初年には、大垣輪中をはじめ輪中の数は80か所余りにもおよんだ。 (写真提供/岐阜気象台)

水屋の建築
 洪水から命や財産・家屋を守るため、低湿地帯の輪中集落では生まれた独特の建築形態で、比較的豊かな農家に見られる。 日常生活する母屋とは別棟で、土盛や石垣の上に建てられた。普段は倉庫や客室に用いられ、洪水のときは水屋に起居し、備え付けの小舟で移動した。この小舟は「上げ舟」といい水屋の軒に吊るし、仏壇を滑車で2階へ上げる「上げ仏壇」を持つ家も見られた。

切割(きりわり)
 輪中堤も自動車の利用が盛んになると、堤防は交通の
障害となった。堤防を切り崩して道路を通したが、いざと言う時には締め切られる。 切割りには防水工事が施され、締め切り用の資材置き場を近くに設置する。        

近くの伏屋城址をご案内します。

伏屋城趾

羽島郡岐南町伏屋三丁目

北緯

35

22

55.8

東経

136

47

48.7

伏屋城趾
織田信長が美濃の国を守るために豊臣秀吉に作らせた砦です。伏屋城は、木曽川の上流から材木を筏にして運び、わずかな日数で砦を作ったため「一夜城」とも「太閤城」ともいわれました。現在も土塁の一部が残っています。

伏屋城址は分かりにくい場所です。岐南インター東北1,120mほどの所です 

中部排水路沿いの目印の無い角を南へ入ります
もう一つの「一夜城」
織田信長が美濃を攻めるため、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じて築かせた城と伝えられています。
古書によると、秀吉は、木曽川周辺に勢力をもつ土豪らの助けを借り、材木を集めて筏を組み、木曽川を利用して
この伏屋に運び込み、砦のような城を築いたとあります。凍れが「伏屋城」で、短期間に作られたことから「一夜城」とも呼ばれています
永禄年間(1558〜1569)ころ築かれたと考えられます。

小牧・長久手の戦い
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、秀吉は最北端の砦として、この伏屋城を伏屋市兵衛に守らせました。

 


村上彦四郎義光・  
妻岩根女一族の墓
(専光寺)

羽島郡岐南町八剣三丁目11

北緯

35

23

27.5

東経

136

46

54.8

村上彦四郎義光・妻岩根女一族の墓の写真 村上彦四郎義光・妻岩根女一族の墓
南朝の後醍醐天皇の子、護良親王の忠臣でであった義光は、信濃から吉野へ転戦する途中、現在の岐南町印食に住んでいた乳母に妻を預けました。後に、西海寺に義光とこの地で亡くなった妻の一族の供養塔が立てられ、そこから今の専光寺に移されたものと思われます。

岐南町専光寺

場所は岐阜市寄りの県道から少し入った場所です

村上彦四郎義光・妻岩根女一族の墓
村上彦四郎義光は、南朝の護良親王(もりながしんのう)の忠臣。義光は護良親王
(大塔宮だいとうのみや)のお召しにより信濃の国から中山道を通り、印食(いんじき)
の乳母(うば)のいる才海(さいかい)寺に妻の岩根女を預けて吉野に出ました。
元弘(げんこう)三年(1333)一月十六日、二階堂出羽入道道蘊(どううん)が六万の
大軍を以って、吉野に立てこもっていた護良親王を攻めました。

親王の身代わりとなって果てる
大激戦の末、義光は、護良親王のお召し物をまとい身代わりとなって最期(さいご)を
遂げました。 才海寺は江戸時代に廃寺となり、その墓は専光寺に移されたと
伝えられています
一般の墓の中に混じってぽつんと建っていました。

 

旧宮川家住宅・宮川家円空仏・九所神社・者言知神社の詳細図です

旧宮川家住宅

羽島郡岐南町平成七丁目

北緯

35

22

43.5

東経

136

47

03.5

旧宮川家住宅
県重要有形民俗文化財に指定されており、わら打ち石、かまど、風呂などが往時のままに保存されています。
典型的な農家建築で、明治時代の町内及び周辺地域の生活様式を窺うことができます。

敷地内に他から移築された「辻門」があります

辻門
岐南町伏屋の伏屋郁朗氏の旧住宅正門を移築したものです。
明治中期の建造で100余年が経ています。地方によって呼び名が違いますが四脚門は辻門といわれています

同じく敷地内には岐南町歴史民族資料館もあります

岐南町歴史民俗資料館内の写真 岐南町歴史民俗資料館
 昔の生活を偲ばせる農業を中心とする資料2,300点を
収蔵展示され、特に養蚕に関する資料は豊富です。

 

宮川家の円空仏

羽島郡岐南町徳田六丁目232

北緯

35

22

40.6

東経

136

46

22.2

燃やされた円空仏

 それより庄屋だった同家に旅の僧「円空」が道中の宿を求め、
宿賃代わりに刻んだ十数体の「円空仏」があったそうです。

 昭和20年頃8cmの小さな仏像を除き、仏壇と一緒に焼却されてしまったそうです。
 まだ「円空仏」の研究がされていなかった時代で、
敗戦という大きなショックもあったためでしょう。

残った「大日如来像」

円空仏より立派な家の方に見とれます

 

民族資料館の旧宮川家は、この本宅を建て替えられるとき
町に寄贈され移築されたものです。

宮川家の裏にあるなんと読んでいいのか分からない神社です。

者言知神社

羽島郡岐南町徳田六丁目

北緯

35

22

40.9

東経

136

46

20.9

お社も小さな神社です。

宮川家の近くにある珍しい名前の神社です。

九所神社

羽島郡岐南町徳田町六丁目

北緯

35

22

43.3

東経

136

46

23.7

 

岐阜プラスチック鰍フ社長宅の美術館です

大松(おおまつ)美術館

羽島郡岐南町みやまち四丁目

北緯

35

23

16.7

東経

136

46

33.2

隣の「松翠庵」で美味しい抹茶(500円)も頂けます。

 此の地方では有名な”リスのマーク”の「岐阜プラスチック工業」の社長で故大松幸栄氏のコレクション美術館です。
 横山大観、上村松園、奥村土牛、前田青邨、河合玉堂などの近現代の巨匠の日本画約500点をはじめ、楽焼の始祖「長次郎」の茶わんなど約千点 目玉は「利休の茶杓」です。
 数千万円とも言われる、名品です。
 年に何度か入れ替えがありま、展示してない場合がありますので、確認してから、お出かけ下さい。(TEL 058-276-6111)

 毎週月曜日が休館日でAM10:00〜PM5:00まで。
 入場料は700円です。(駐車場完備)

大松美術館惜しまれて閉館

  2009年3月末で閉館
 岐阜プラスチック工業株式会社の創業者である、故大松幸栄が蒐集した近代日本画と茶道具を中心に展示する美術館でした。
 故人は生前、多忙極まる業務のかたわらこれらのコレクションを鑑賞することを無上の喜びとし、心のやすらぎとされ、同時に蒐集した美術品を広く一般に公開し、少しでも多くの方々とその喜びを共有したいと願っておられました。
 その故人の遺志にしたがって、未亡人大松節子を初代館長として設立された小さな美術館ですが、社会的に貢献できる様な美術館活動を目指し、運営してこられましたが、館長の節子さんが高齢で運営を続けるのが難しくなり、このたび閉館を決断されました。

このほか印食城址も調査の上掲載予定です。

木曽川の中州の町川島町をご案内します。

羽島郡川島町

川島町の御案内する場所です

内藤記念
くすり博物館

羽島郡川島町竹早町

北緯

35

21

37.7

東経

136

50

51.0

岐南町から木曽川を越えて
 内藤記念くすり博物館

 くすり「エーザイ株」の内藤社長を記念した博物館です。
 4万5千点の薬に関する資料と5万冊に及ぶ蔵書六百種の薬草園が広い園内に広がります。
 我が国、唯一の規模の薬草の博物館です。
 入場料 無料 月曜日休み(TEL058689-2101)

 川島町は木曽川の愛知県寄りの中州にありますが岐阜県です。

川島町内へ入るといたるところに案内があるので迷わずいけると思います。

門を入ると広い駐車場があるので安心です。

薬草温室には熱帯薬用植物が植えられています。

これが薬用かとビックリします。

薬用植物園には600種類の薬草
ひろい薬草園には全ての薬草に説明があり、これもビックリするような草が薬用なので参考になります。

本館の両脇は図書館と展示館です

受付を済ませると薬の歴史に浸ることが出来ます。

人車製薬機(江戸時代)
大きな輪の中に人が2人入って足踏みして輪を廻すと歯車が
連動して石臼が廻って薬草を粉にしました。高さ4mあります。

江戸時代から現代に至るまでの資料が2・3階に集められています

ビデオやDVDなどで勉強もできます。

各種の体験コーナーも充実しています

西洋医学関連
 シーボルトの持ち物と言われる薬箱のほか、江戸時代の医学者山脇東洋が記した日本初の解剖書「蔵志」があり、日本の医学の発展ぶりを知ることが出来ます。 

富山の薬売り
 有名な、配置売薬の歴史も紹介されています。薬売りが運び
歩いたソロバンやお客リストである「懸場帳(かけばちょう)」、景
品として配った紙風船などが展示されています。         

明治時代の薬屋
 復元された明治時代の薬屋には当時の薬の商品の置き看板
や生薬を仕分けて入れたタンス「百味箪笥(ひゃくみたんす)」や
カビよけのための天井からつるされた薬袋などが並びます。

学校の夏休みの宿題などに最適な施設です。
広い園内は薬草園と薬木園に分けられ薬草が植えられています

 

岐阜県消防学校

羽島郡川島町小網町

北緯

35

21

59.0

東経

136

51

36.0

岐阜県消防学校

 

少林寺跡の目印は岐阜県消防学校よこの堤防脇

少林寺跡

羽島郡川島町小網町

北緯

35

22

01.4

東経

136

51

37.6

壮大な伽藍
鎌倉時代の應長元年(1311年)この地に、竜慶山少林寺が
建立された、ここは臨済宗南禅寺派に属し無学祖元の流れ
を汲む夢窓国師疎石の開山になるものである。

大洪水により廃寺
広壮な伽藍も200年後の木曽川の大洪水により廃寺。
寺郭の大部分は木曽川の本流の河床となっている。

 

松倉城址

羽島郡川島町松倉町

北緯

35

22

02.5

東経

136

51

16.9

 松倉城は、木曽川を挟んで美濃側への押さえの城として築かれました。
蜂須賀小六・前野将右衛門らで有名な「川並衆」の拠点の城でもありました。

 現在は、木曽川の治水のため地形は随分変わったものと思われますが、
松倉城にあった樫の大木が水上交通の目印になったとか。 
この樫木を祀った「樫大神」の碑が城址に建てられいます。

城の歴史
松倉城は、天文16年に織田信秀によって築かれ、坪内頼貞が初代城主となりました。 
4代利定は、川並衆の一人として信長の美濃攻めの案内役として戦功あげました。 

 天正12年、利定は小牧長久手の合戦に際して徳川家康・織田信雄に組したが、
秀吉方の池田恒興の軍勢を前に松倉城と新加納城を自ら焼き岡崎方面へと撤退しました。
 その後利定は、天正18年に徳川家康に仕え、慶長5年の関ヶ原での戦功により
6,533石の大身旗本となりました。

実際の城址は木曽川の河川敷きだそうです。

松倉城があったと思われる木曽川河川敷

この地(松倉上ノ島)は、坪内氏の古城あとである。
戦国の頃、加賀国(現石川県)の富樫の庶流坪内内藤左衛門尉頼定が尾張に来て、犬山城主織田信康(信長の叔父)に
仕えた後、天文十六年(1547)に、初代松倉城主となり松倉を領地とした。
四代目城主坪内(喜太郎)玄蕃頭利定は、織田信長に従いたびたびの合戦に臨み、武功を輝かせた。
しかし信長没後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と不和になり本領を離れ、一時、金山(現益田郡金山町)に退くことになる。
たまたま天正十八年(1590)徳川家康に迎えられことになり、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦には井伊直政の軍に属し
抜群の戦功をたてた。その功により家康から直々に感状を贈り、翌年、葉栗・各務両郡において六千五百三十三石を
賜ることになった。
その後、坪内氏は旗本を仰せつかり、坪内宗家は江戸に出府し、幕府の組織の重要な地位を占めた。

樫大神
戦国時代の終わりの頃(天正年間)、この地、川島に松倉城が築かれていました。
当時この地、小網島と松倉上ノ島との境に、樫の大木が高くそびえていました。
この樫の大木は、四方から眺められ水陸の交通の目印になっていたといわれています。
この樫の木の下に、松倉城主坪内氏の墓があり、長い間守り続けられてきました。
そして、明治43年8月、当時の守役であった小島清太郎さんが、
この樫のことを忘れ去られることがないようにと碑を建立したといわれています。
現在の碑の位置は、木曽川の改修工事のため7・80mほど南に移動しています。
工事の時墓の跡からたくさんの土器や人骨が見つかりました。
此の時の土器は川島町の「ふるさと史料館」に保管されています。

 

松倉城鬼門除け      
神明神社

羽島郡川島町松倉町

北緯

35

21

53.5

東経

136

50

32.2

祭神は天照大神ですが創立縁由は不詳です
延喜式神名帳(平安時代)に記されており、松倉村はじめ近郷十四ケ村に氏子を有していたと伝えられています。
永禄年間(戦国時代)坪内美濃守の産土神(うぶすながみ)で、松倉城築城の際、鬼門に相対する神社として拝まれました。
境内の灯篭・太鼓橋など立派で大きくビックリさせられます。

 


木曽川松倉渡船場跡

羽島郡川島町松倉

北緯

35

21

59.1

東経

136

50

10.6

 

松倉渡船場は、別名牛子渡船という。
下中屋村あ(現各務原市)に至る。昔 牛子村(松倉)は、美濃古市場から大井の渡し(三井の渡し)
を経て、尾張一宮に至る大井海道(大炊海道ともいう)に沿い、古くから栄えた。
鎌倉・室町の時代には、真宗開祖 親鸞聖人並びに蓮如上人の巡錫に際し、この海道を用いられた
という。 また、永禄の頃(1558〜1569)には、旗本坪内の祖、坪内利定を城主とする松倉城がこの
上流800mのところにあった。
今から焼く四百年前、天正十四年(1586)六月、木曽川に未曾有の大洪水があり、河道は一変、
本流が松倉郷を流れるに至り、時の領主旗本坪内公は、美濃との往来にこの渡船を開いたと
伝えられている。後、享保の年間(1727)尾張一宮村に三八市が開市せらるや人馬の往来が盛んと
なり、物資の交易にも多く利用されるに至った。
しかし、昭和時代の訪れとともに交通の近代化は、渡船の衰退をきたし、更に昭和37年「川島大橋」が
出来上がるとともに遂に廃止となった。
かってこの渡船場には大きな杉の木があり石畳を敷いた坂道があって
弘法堂と共に年月の流れを刻んできた

   

 


松倉伊八島水没遺跡

羽島郡川島町松倉

北緯

35

21

57.7

東経

136

50

23.1

弥生時代の遺跡
弥生時代(凡そ1800年前)の農耕地跡と推定される遺跡で、この地点から北約100m
(面積約2000平方米)の木曽川河川敷にあります。
そのほか古代井戸(野井戸)、道跡砂礫の間に発見された

 

河田渡河戦

羽島郡川島町松倉町

北緯

35

21

52.9

東経

136

49

41.0

河田渡河戦
慶長五年(1600年)関ヶ原合戦の前哨戦というべき岐阜城攻撃の緒戦が
この木曽川を挟んで開始され、現在の川島町はその決戦場となりました。

東軍(徳川家康軍)の池田輝政を先鋒とする浅野幸長・山内一豊・一柳直盛など一万八千余の一隊は、
木曽川の河田を渡り越え、新加納を経て岐阜に向う策戦をたてました。
一方、西軍(豊臣方)に属する岐阜城主織田信秀は、戦いの先鋒にたち、
木造具政・百々綱家・川瀬左馬助など三千三百人を新加納と、米野の間に配置し、敵を待ち伏せました。

八月二十二日、東軍の池田輝政は前進命令を下し、中洲「小屋場島」に陣を張りました。

(里伝えに、池田輝政が通行人の小屋から敵情をうかがい、旗を立てたということから
「旗たて松」名付けられた老木があったが、今は数本しかありません。)

敵兵の小勢を知った東軍は、未だ夜の明けない内に一柳直盛を先頭に渡河戦を展開し激戦を交わした。
(河田渡河戦といいます)付近一帯は阿修羅場と化しました。

西軍岐阜城兵は、鉄砲隊の奇襲策戦によく奮戦しましたが、遂に敗退、
勢いに乗った東軍は明くる二十三日、
岐阜城を陥落させました。

県道180号線「川島大橋」南袂にあります

木曽川が沢山の分流に別れて居たのを
整備した碑の近くにあります。

「米野の戦い跡」と対岸の川島町「河田渡河戦跡」の近くに「梅ノ木街道」と呼ばれる街道があります

昔の街道

羽島郡川島町笠田町2丁目

北緯

35

22

06.7

東経

136

49

16.5

街道のほとんどは失われ新しい道路に変わっています。

岐阜県川島町笠田地内の県道93号線沿いに
あります。

案内板の前が昔の街道です。

 

木曽川の聖牛

羽島郡川島町

北緯

35

.7

東経

136

.0

武田信玄の考案 
聖牛は武田信玄が考案したと言われる
伝統的な治水手法で、中部〜東海の河川で見ることができるという。

 材質はコンクリート製。高さは地表に出ている部分だけで4mくらいある。
扠首(ハの字型の柱)は2列ある。
下部の大部分は土砂に埋めてあるようです。

コンクリートブロックで護岸するのに比べて、聖牛は植物を維持することができ川岸の生物相が豊かになると言われている。

 

三井街道

各務原市上中野町

北緯

35

.7

東経

136

.0

県道178号線を米野から各務原方面へ進むと「三井街道」の表示があります。
この街道もいずれ別の機会に紹介したいと思います。

 

芭蕉踊りゆかりの   
富士神社

羽島郡笠松町円城寺字東栗屋

北緯

35

22

10.4

東経

136

47

40.9

県道178号線の堤防道路にあります

円城寺芭蕉踊り(雨乞い踊り)
この踊りの由来ついては、いろいろな説がありますが、
一説には、約700年前の弘長二年の木曽川大洪水後、長い干ばつが続いた際に、村をあげて神のご加護を願って踊りを奉納したことに
始まったと伝えられています。

また、この踊りは、その昔谷汲に伝わる「雨乞い踊り」を見習い、
この地方独特のものに変わったものだとも伝えられています。

この他に矢板城址・米田城址・米田館跡・下麻生城址・柳御殿跡などを調査して掲載予定です。

では、中山道の続きを「美濃中山道 後編」で紹介します。
(「美濃中山道 中編」はこの頁で終わります)

街道コラム

【宿場と文化人】

 宿場町の本陣家は公家、宗教家など文化人が泊まることが多かった上、生活に余裕があって教養を高める機会が多かったので、宿場の文化的中心地であった。
 関ヶ原宿の本陣合川家からは将軍も帰依した無難禅師が出たし、垂井宿本陣は大儒学者で泗水(しすい)庵を開いた檪原踅斉(れきはらそせい)がおり、美江寺宿本陣山本友左坊は美濃派第九世の俳人加納宿脇本陣の森桂園も俳人であり漢文学者、中津川宿本陣の市岡正蔵は国文学者であった。

         

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。