「鮎鮨街道」は岐阜町を出ると、加納城下へ入り、一路笠松湊を目指します。
六十九次 |
岐阜県羽島郡笠松町 美濃国 名鉄名古屋本線笠松駅下車 |
「鮎鮨街道と笠松湊」巻は、岐阜町御鮨所から運ばれた鮎鮨が加納宿北番所を経て中山道へ、加納宿岐阜問屋で
中継ぎしを東へ、柳町秋葉三尺坊、中山道加納宿東番屋を通り、ぶたれ坊から南へ笠松の鮎鮨中継所の笠松問屋で継ぎ
笠松湊まで、ここから木曽川の宝江の渡しで尾張領へ、までの鮎鮨街道を中心に加納停車場跡、谷汲・岐阜町と中山道分岐道標、
鮎鮨起源の平治の乱と源頼朝や織田信長と鵜匠、徳川将軍と献上鮎鮨、岐阜県の始まり笠松県庁跡と美濃郡代笠松陣屋跡
、笠松隕石、奈良津堤の桜、魂生大明神とへそ塚、宝江渡船場跡、なごや・津しま・越(おこし)追分道標などを、ご案内します。
鮎鮨街道は岐阜市元町二丁目の分岐点から左(東)方の道を辿ります。
元町2丁目の 岐阜市元町2丁目 |
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次の区間は「元町二丁目分岐点」〜「中山道出合・秋葉神社」まで案内します。
「鮎鮨街道」案内図(4) |
赤線が鮎鮨街道です 「元町二丁目分岐点」から「中山道出合い・秋葉神社」まで約1250mの案内図 |
元町二丁目の分岐点から約450m南進すると長住町1丁目交差点へ出ます。
交差点のすぐ東に溝旗神社があります
溝旗神社 岐阜市溝旗町4丁目 |
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溝旗神社御事歴 当社の創建は用明天皇二年といわれています。この年、この里に悪疫が流行し里人挙げて素戔鳴尊に祈願したところ 霊験あらたかにより悪疫が退散。里人は報賽のため社殿を創立し素戔鳴尊を奉祀したとあります。 明治42年に岐阜県へ神饌幣帛料を供進して境内1,198坪、準境内1,200余坪が認められました。 |
永代常夜灯奉納記 | |
文化十四丁丑(ひのとうし=1817)年六月 篠田一族が常夜灯2塔と常夜灯を灯す油料として「南組字田中」にある畑二畝四歩(約60坪=200u)を寄進する。 この畑で収穫できる菜種油は二斗三升六合(約42.5ℓ)あるのでこれで毎晩、灯してくれと灯篭に彫ってありました。 |
改築前は銅製? |
溝旗神社のすぐ前が鮎鮨街道の名鉄各務原線横断踏切です
名鉄各務原線 岐阜市長住町1丁目 |
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この踏切付近は明治時代鉄道線路が走っていた場所です
踏切を越えて 岐阜市安良田(あらた)町1丁目 |
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踏み切りを渡り2本目の右折(西へ)の道が鮎鮨街道です |
現在は住宅の中の鉄道跡から察すると踏切付近が加納停車場? |
かっての鉄道の名残を探しましょう
明治の頃、鉄道が米原から東進して加納まで敷かれたのが明冶20年。
同年、名古屋まで開通すると、加納が岐阜の玄関口となりました。
そして、岐阜駅は大正2年、現在地に移転しました。
加納停車場跡 岐阜市幸ノ(こうの)町 |
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加納停車場跡と思われるマンションの付近 |
大正から昭和初期の岐阜駅 明冶20年に鉄道が開業した加納駅(幸ノ町)から、大正2年(1913)には現在地(橋本町)に移転し駅舎も洋風で道には大八車が見られ自動車も無く人陰もまばらの岐阜駅前 |
加納駅から岐阜駅に移転して路線のルートも変更され、旧線路跡は今も名残が残っています。
昔の鉄道線路跡 岐阜市田生越(たしょうごえ)町 |
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現在も残る鉄道跡の道です (安良田(あらた)町1丁目と田生越(たしょうごえ)町の境の道) |
元の鮎鮨街道へ戻り西へ約80m進み四叉路へ出ます。ここを南へ(左折)
幸ノ町(こうのまち) 岐阜市幸ノ町1丁目 |
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画面の道を左(南)へ曲がります |
南へ真っ直ぐ約140m進みます
遠くの正面にJRの高架橋が見えます。 |
鮎鮨街道はJRの高架橋まで来たら西(右)へ曲がります
JR高架橋近く 岐阜市高砂(たかさご)町 |
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ここから「加納宿北番所跡」までの間は鉄道事業など |
西へ90mほど進むと交叉路へ出ます。
この交差路を南(左)へ曲がります。 |
約80mほど南へ進みJR高架下を通り交差路へ出ます |
北広江交差路 岐阜市北広江町 |
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この交差路の左(東)10m程の北側に「加納宿北番所跡」があります。
加納宿北番所跡 岐阜市加納北広江町 |
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今は秋葉神社です(碑は青色軽トラの横) |
H20現在標識は |
鮎鮨街道を南へ約80mほど進むと西側(右側)に「亀姫侍女十二相祠堂跡」があります
亀姫侍女 加納北広江町36 |
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亀姫様の侍女十二人の堂宇でした |
個人宅の裏庭に |
亀姫様の侍女12人が一度に 唯一の記録は加納藩田辺見聞録に残された 「慶長十二丁未年(1607)加納様(奥平信昌夫人 亀姫、徳川家康公嫡女也)の侍女、十二人一時に咎めに逢い、 元和四戌午年(1618)この地に設社」とあり、なぜ咎を受けたのか?咎とは処刑されたのか?など全く不明です。 戦前までは立派な堂宇も 山田家の文書によると大東亜戦争の空襲までは、この家の屋敷も大きく屋敷の真ん中に堂宇があり参道が道路まであり、 光国寺(近くの亀姫菩提寺)の寺守も居たそうです。光国寺の慶長19年の古図に「十二相」の堂宇が既に記されているそうです 咎の推測 慶長十二年といえば関ヶ原の合戦より7年目、江戸に幕府が開かれて4年目、加納城の築城も慶長六年におこなわれ、 大阪夏冬の決戦前七年、徳川幕府につくか、豊臣家の恩顧につくか、全国の大名、小名達が、肉親同士で対立、疑心暗鬼に 明け暮れした時代です。西の構えとしての加納城下も隠密あり、密使あり、徳川方と、豊臣方の虚々実々のスパイ合戦。 加納様(亀姫)の乱心か、西方の間者として闇から闇へと葬られたのか?十二相事件の現場が加納城中か、加納様の 下屋敷か、一度に12人の侍女が殺されたのか、何処の氏素性なのか、連座で12人が処刑されたのか・・・・・ 事件の数年後に光国寺裏山(此の場所)に堂宇を建てられたのですから、単なる加納様の乱心ではなかったのでしょう。 |
街道に戻り更に南へ進むと道巾が狭くなります
250mほどで名鉄本線南広江踏切へ出ます。
名鉄本線南広江踏切 岐阜市加納南広江町 |
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踏切を渡ると30mほどで中仙道と出合います
中山道出合 岐阜市南広江町 |
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画面の左が秋葉神社です |
次の区間は「中山道出合・秋葉神社」〜「ぶたれ坊」まで案内します。
「鮎鮨街道」案内図(5) |
赤線が鮎鮨街道です 「中山道の出合」いから「ぶたれ坊」まで約800mの案内図 |
中山道出合を東へ曲がり30mほど進むと左側の民家の壁に「岐阜問屋跡」の説明版があります。
岐阜問屋跡 岐阜市加納新町 |
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茶色の壁に説明板があります |
岐阜問屋 献上鮎鮨 そのため岐阜問屋には各種の特権が与えられていました |
権力があった問屋場 江戸時代、宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締とも言われましたが、今の問 業務は人馬の出入りや賃銭などの「帳付役」、人馬に荷物を分担させる「馬指」、などとそれをまとめる助役の「年寄」、 |
「岐阜問屋跡」の説明板から150mほど東へ進むと右側に専福寺があります。
専福寺 岐阜市加納新町 |
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専福寺文書 専福寺には、戦国期を中心とした文書が多数残されています。 その内、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、 池田輝政制札状と伝えられている三通が岐阜市重要文化財に指定されています。 信長朱印状の内容 織田信長の朱印状は、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出されたものとされています。 元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、本願寺法主顕如は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を 促しました。美濃に於いても多くの寺院がそれに呼応していました。 同三年、専福寺の僧忍悟が、石山合戦で戦死し顕如より追悼の御書を給わったと伝えられる本寺に信長朱印状は、 その際、専福寺およびその門徒が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっています。 その他、豊臣秀吉・池田輝政の発給とされる文書も伝えられますが、いずれも本寺と、当時の政治権力の関係を 考える上で重要であります。 |
専福寺から80mほど進むと広い道路を斜めに横断する交差点へ出ます。
その左に「中山道加納宿」の標識があり、その奥に「柳町秋葉三尺坊」があります。
中山道加納宿標識 岐阜市加納加納柳町 |
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広い道路の手前左に「中山道加納宿」の標識があります | |
標識の奥の方に「柳町秋葉三尺坊」があります |
道路を斜めに横断すると古い町屋の向いに「中山道加納宿」の石碑があります
「中山道加納宿」石碑 岐阜市加納柳町 |
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いずれ古い町屋は無くなる(改築)かも知れませんが石碑は残るでしょう |
道路を横断してから60m程の右に善徳寺があります
善徳寺 岐阜市加納柳町 |
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善徳寺の手前に「中山道加納宿 加納柳町」の標識があります |
善徳寺の前を左へ曲がり50mほど進むと広い道の手前に「中山道加納宿東番所跡」の碑があります
中山道加納宿 岐阜市加納安良町 |
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広い道路が明治以降に出来たため中山道の枡形にあった番所跡は狭い敷地に碑が建っています |
東番所跡を東に曲がり50mほど進むと「主要地方道岐阜・稲沢線」を横断します
主要地方道 岐阜市加納安良町 |
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中山道は真っ直ぐに進みます |
主要地方道を横断して50mほど進むと左側に秋葉神社があります
加納安良町秋葉神社 岐阜市加納安良町 |
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江戸時代は宿の町単位に秋葉神社はありました。 |
秋版神社を過ぎて70mほど進むと「細畑一里塚」編で紹介した「加納安良町道標」へ出ます
谷汲・岐阜町分岐 岐阜市加納安良(かのうあら)町 |
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左が谷汲・岐阜道 右が中山道 |
左 西京(東京に対して西の京) 右 岐阜(岐阜町)、谷汲 |
明治十八年八月 上加納 後藤松助 六十一才 |
道路標識を南へ曲がり80mほど進むと加納大橋を渡ります
加納大橋 岐阜市渋谷町 |
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加納大橋 |
橋の南袂に石碑があります |
加納大橋を渡り50mほど進むと「だんごや」角へ出ます
中山道だんごや角 岐阜市加納八幡町 |
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右角に「だんごや」があります。この道を左(東)へ。 |
江戸時代からあったわけでは無いでしょうが中山道にピッタシ! |
東へ曲がり40m進むみ三叉路を南へ
中山道と分岐 岐阜市加納八幡町 |
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真っ直ぐ(東)は中山道。右(南)は鮎鮨街道 |
中山道から南へ曲がると直ぐに「ぶたれ坊」があります
ぶたれ坊道標 岐阜市加納八幡町 |
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基壇脇の道標には (詳しくは前の頁で紹介してあります) |
ぶたれ坊と茶所 |
次の区間は「ぶたれ坊」〜「鮎鮨街道追分地蔵堂」まで案内します。
「鮎鮨街道」案内図(6) |
赤線が鮎鮨街道です 「ぶたれ坊」から「鮎鮨街道追分地蔵堂」まで約960mの案内図 「鮎鮨街道追分地蔵堂」から「中山道追分地蔵堂」まで約1450mの案内図 |
「ぶたれ坊」から南へ工場地帯を進みますが「鮎鮨街道下川手往還追分」まで説明するものはありません
「ぶたれ坊」から580mほど進むと県道1号線(芋島・六条線)横断交差点へ出ます
左側に名鉄名古屋本線の踏切があります |
更に南へ380mほど進むと「下川手往還」との追分へ来ます。
下川手往還追分 岐阜市村里町 |
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ここは2頁前に中山道領下(りょうげ)で鮎鮨街道との追分地蔵からの近道の合流点です
左は「ぶたれ坊」から来た鮎鮨街道。 右は「下川手往還」からの道 |
次の区間は「鮎鮨街道追分地蔵堂」〜「県道14号線合流点」まで案内します。
「鮎鮨街道」案内図(7) |
赤線が鮎鮨街道です 「鮎鮨街道追分地蔵堂」から「県道14号線合流点」 まで約1180mの案内図 |
追分地蔵堂から鮎鮨街道を南へ50mほど進むと右側に順勝寺があります。
順勝寺 岐阜市村里町 |
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未調査 |
順勝寺を過ぎて150mほどで広い空き地に出ます。ここにはかって大きな舟問屋がりました。
舟問屋跡 岐阜市下川手 |
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街道沿いに流れる「境川」を利用した川運送業の豪勢な倉付きの家が目立ちました。
以前の風景 |
裏に流れる現在の境川 |
家の裏(左)
階段で舟付き場まで |
大きな家が無くなり、今では広い空き地になっています。 |
向かいには、まだ大きな屋敷があります |
舟問屋跡を過ぎ140mほどで「馬頭観世音菩薩堂」が左(東)にあります。
馬頭観世音菩薩堂 岐阜市東川手2丁目 |
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かっては樹木が茂りひなびた感じが残っていましたが、今は建てかえられたようです。 |
馬頭観世音菩薩石碑は昔のままでした。 |
鮎鮨街道から西に外れ210mほどの所に正福寺があります。
制札を2枚も持つ正福寺 岐阜市東川手1丁目 |
岐阜市指定重要文化財「禁制制札」 正福寺には、二枚の制札が伝わっています。 一枚は、天正十年(1582年)十一月付けで、江戸時代の著書「諸国高札」にも掲載されており、織田信孝が下付したものです。 制札自体には書名がなく御判とあることから、元来文書で下されたものを寺院側で書いて制札としたものと考えられます。 信孝は、天正十年六月の清洲会議に於いて、美濃を領土とされたことから、 それにともなう支配体制確立の一環として、出されたものと考えられます。 |
他の一枚は、天正十年十二月付けであり、これは、文字の判読が出来ないほど磨耗していますが、 先の制札を出した信孝は、天正十年十月、柴田勝家と結び、豊臣秀吉と対立するが、翌年降伏し自害しました。 |
余計な心配 この近辺は現在も堀を巡らした大きな家が有ります。 掃除や屋敷内の草引きはどうしてるか?税金は幾らくらいか? |
馬頭観音から南に170mほど進むとは右側(西側)に愛宕神社がります。
愛宕神社 岐阜市東川手1丁目 |
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愛宕神社から街道を南へ180mほど進むと鮎鮨街道は「国道21号線」に分断されています。
鮎鮨街道分断 岐阜市東川手2・4丁目 |
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「鮎鮨街道」は左へ迂回して国道21号線の下を通ります。 |
国道21号線を横断すると笠松街道は一路南へ笠松を目指して延びています。
この辺りの街道は境川の堤防も兼ねてか一段と高いところを通っています。
鮎鮨街道分断点から480mほど進むと県道14号線と合流します
県道14号線合流点 岐阜市東川手2・4丁目 |
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最近また道路工事が行われ様子が違ってきました。 |
次の区間は「県道14号線合流点」〜「宝江渡し跡」まで案内します。
「鮎鮨街道」案内図(8) |
赤線が鮎鮨街道です 「県道14号線合流点」から「宝江渡し跡」 まで約2000mの案内図 |
合流点から250mほど進んだところ辺りから鮎鮨街道は左へ(東)反れ笠松町へ入りましたが
境川がたびたび氾濫しいまは河川改修で街道はなくなっており、更に150mほど進み境川を渡ります。
「鮎鮨街道」案内図(8の1) |
案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します |
県道14号線分離点 岐阜市西川手10丁目 |
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橋を渡って 最初の三叉路を左(東)へ曲がります。 |
県道14号線分離点から75mほどで道に突き当たります。
ここを右(南)へ曲がり120mほどで川跡を横断します
ここが岐阜市と笠松町の境です
岐阜市と笠松町境 笠松町松栄町 |
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笠松町へ入ります |
市町境は右(西)に小さな社が目印です。 |
行政境から240mほど進むと羽島用水に架かる「三つ目橋」を渡ります
三つ目橋 笠松町松栄町 |
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「鮎鮨街道」案内図(8の2) |
案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します |
三つ目橋から更に240mほど進むと右(西)に「春日神社」があります
春日神社 笠松町春日町 |
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道の右(西)にありますが建物の隙間のようなところにあるので見落としそうです。 |
春日神社から110mほどで名鉄竹鼻線の踏切です。
名鉄竹鼻線踏切 笠松町上新町 |
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踏切を渡ると古い町屋が並んでいます |
踏切をを渡ると45mほどの右(西)に「真教寺」があります
真教寺 笠松町上新町 |
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寺標には「高野山 高野派 六師教会笠松支部」とあります。 |
「真教寺」から120m程の左(東)に「大銀杏がある秋葉神社」があります
大銀杏と秋葉神社 笠松町上新町 |
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消火栓 火の幸を恵み、悪火を鎮め、火を司り給う神様である秋葉神社に消火栓があるのも因縁でしょうか。 |
秋葉神社から約270m進むと鮎鮨中継地の笠松問屋場跡があります。
鮎鮨の中継地 笠松町下新町73 |
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笠松問屋跡 長良川鵜飼の鮎鮨を慶長八年(1603年)に将軍徳川家康、秀忠に「鮎鮨」を献上以来、毎年六月から九月に掛けて、毎月6回江戸城へ届けられました。 岐阜町の「お鮨所」から”加納問屋”を経て”笠松問屋”に受け継がれ、木曽川を渡って”一宮問屋”へ、そして名古屋へ送られました。 時期的に腐りやすい「鮎鮨」を送る労苦は大変だったようで、主に農家の人が1回にに14人がかりで運んだそうです。 旧笠松街道沿いに道中の安全を祈願した神社とともに、記念碑が建てられています。 |
笠松問屋跡 現在は「みそ・たまり(醤油のこと)わた久」(高島久右エ門=笠松湊の道標建立者) |
鮎鮨談議 |
鮎ずしが徳川幕府に献上 された際に着用された上着 (河崎太郎さん蔵) |
有栖川宮家に献上ずしを 運んだ櫃 (川出孝治さん蔵) |
有栖川宮家に献上したすしについて書かれている記録 (川出孝治さん蔵) |
平安時代に作られていた美濃の鮎ずし |
寿司の起源は「なれずし」? 現在分かっている文献のなかで日本で最初に「すし」について書かれているのは、 延喜式とは法令の施行細目が書かれているもので、各地からの貢納品が記されているのですが、 鎌倉から室町の時代になると、美濃の「鮎ずし」についての記述も数多く見られるようになります。 その後の幕府政所代であった蜷川親元(にながわちかもと)の記した『親元記』なる書物には、 そのほかにも、『山科家礼記』や『実隆(さねたか)日記』、『お湯殿の上の日記』などに、 |
◎献上鮎ずしを作る様子を伝える『長良川鮎鮨図巻』(岐阜市歴史博物館蔵) |
徳川幕府に献上された鮎ずし |
このように、名を馳せた美濃の「鮎ずし」は、江戸時代になると徳川将軍家への献上品として 江戸幕府に「すし」を献上していたのは10数藩はありましたが、献上回数も量もわずかなものでした。 そもそも鮎ずしが将軍家へどうして献上されるようになったのか、2つのエピソードが残されています。 |
エピソード1 |
ひとつは、元和元年(1615年)のこと、家康・秀忠の親子が大坂夏の陣から江戸へ帰る途中、 岐阜の鵜飼見物に立ち寄った際、当時、美濃郡代であった岡田将監(しょうげん)のもと、 河崎喜右衛門によって「鮎ずし」を献じられたという説。 |
エピソード2 |
もうひとつは、慶長3年(1603)、郡代・大久保長安に命じらた河崎喜右衛門が献上したというものです。 |
moriy@シルバーの説 |
将軍に献上される「鮎鮨」の由来と”源頼朝” 江戸時代岐阜町から毎年6月から9月まで月に6回も「鮎鮨」を将軍家に献上した由来は! 「平治の乱」が縁 後に頼朝が将軍になったのを縁に昔もてなした「鮎鮨」を献上し、以来将軍に献上するのが習いとなったようです。
「織田信長」と鵜匠 「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」 以上が「moriy@silver」が気に入った「将軍に鮎鮨献上」の逸話です。 |
鮎鮨の作り方 献上品というだけあって鮎ずしづくりは厳しい定めのもと行われていました。 鮎は2日2晩または3日3晩にわたって塩漬けし、そのあと水で洗って塩出しして腹にご飯を詰めます。 鮎ずしづくりは、代官所の立ち会いのもと、身を清めたものだけが行っていました。 このとき岐阜町から笠松湊へと運ぶときに使われた道は、「御鮨街道」と呼ばれるようになりました。 江戸時代、すべての将軍に供された鮎ずしの献上も、徳川幕府の崩壊とともに廃止されることとなりました。 明治初年の記録によると、そのなかに「ちまきずし」という名前が出てきます。 |
◎岐阜から江戸までの輸送時刻の確認書『御用鮎鮨宿次申付状』(河崎太郎さん蔵) |
笠松問屋跡をから約40mほどで右(西)へ曲がる道があります。
その奥に善光寺があります
浄土宗西山禅林寺派 笠松町下新町42 |
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善光寺があるこの場所は、以前、笠松陣屋の牢屋があり、罪人の処刑場で、 |
笠松のお寺は道路から奥まったところに多くあります。 その両側は立派な商家が連なっています。 |
「鮎鮨街道」案内図(8の3) |
案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します |
もとの鮎鮨街道へもどり南へ約75mほど進むと突き当たり(枡形ー1)に出ます
枡形ー1 笠松町新町 |
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この三叉路を左(東)へ曲がります |
東へ約110mほど進むと四差路へでます。
枡形ー2 笠松町上本町 |
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鮎鮨街道はここを右(南)へ曲がります。 |
鮎鮨街道へ行かず左へ曲がり約60m進むと左側(西側)に「連国寺」があります。
連国寺 笠松町八幡町 |
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芭蕉の「野さらし紀行」 |
更に北へ約70mほど進むと八幡神社へ出ます
八幡神社 笠松町八幡町 |
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大きな境内を持つ八幡様 |
笠松商家 笠松にはいると、至る所に昔の風の
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八幡神社前の変形四差路を東へ曲がり約50mほど進むと右(南)に
「廃藩置県」で岐阜県に最初に県庁(笠松県)が置かれたが代官所跡があります。
笠松県庁跡 笠松町県町 |
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岐阜県は「笠松県」でした! |
笠松陣屋・県庁の跡 陣屋は笠松県庁になるまでの二百年間、美濃国内の幕府領の支配と治水を行なう役所として 慶応四年(1858)一月、笠松陣屋は朝廷の命を受けた竹澤寛三郎が「天朝御用所」と改め、 更に同月「笠松県」の県庁となり、県知事には「長谷部如連」が任命されました。 |
大政奉還と王政復古と竹沢寛三郎 慶応三年(1867)十月十四日、徳川十五代将軍慶喜(よしのぶ)は大政を奉還し、二十四日に将軍職を辞した。 同年十二月九日には、朝廷より王政復古の大号令が発せられ、政治の大権は幕府から天皇に移った。政治の大権を握った新政府は、財政基盤の確立を図るため、これまで幕府の財政を支えてきた幕府領を収公して朝廷の御料とすることとし、翌1868年1月4日の廟議でこれを決定した。以後、この収公は新政府の最重要事業となるが、一国がすべて幕府の直轄領であった飛騨国や、総高の44%が幕府直轄領であった美濃国は、重要な土地であり、その接収に当たったのが竹沢寛三郎である。 竹沢は、1829(文政十二)年に阿波国に生まれ若い頃から勤王の志を持ち、諸国を巡り歩いた。 美濃・飛騨接収を建白 幕府討伐が決定されると、機先を制して美濃笠松と飛騨高山の郡代所を第一に接収することの必要性を建白した。これを受け入れられて、東山道筋の平定に当たる東山道鎮撫総督軍の洗髪を命ぜられた。岩倉具視に会い各種条件を要求したが叶わず、自費で門人を引き連れ出発した。 あっけない美濃笠松郡代所の接収 1868(明治元)年1月雪深い飛騨を避け笠松から接収を始めた。18日に笠松の役人を宿に呼び説得に当たった。笠松郡代は前年に就任したばかりでまだ着任しておらず、手付けらはすぐさま支配地の返上を申し出て、陣屋を退去てしまった。竹沢は21日に陣屋に入り、笠松村が朝廷の御料となった旨の高札を建て、当年の年貢半減などの措置を執ることを伝えた。 飛騨高山接収に 飛騨へは、23日に書状を出して発向する旨を伝えた。飛騨は混乱に陥り、郡代が御用伺いのためとして江戸へ引き上げてしまった。竹沢は、25日に笠松を発ち、郡上藩と尾張藩が援兵を派遣した。途中、飛騨郡代所の地役人や郡中総代たちが面会に訪れ、勤王に尽くす旨の誓詞を差し出した。2月4日、高山陣屋に入った竹沢は、7日に郡中総代を呼んで当年の年貢を半減することなどを告げ、陣屋の前に天朝御用所の高札を建て接収は完了した。 無血接収するも捕縛される しかし、飛騨の取締は水戸の浪士梅村速水となり3月に総督府によって竹沢は捕縛された。理由は接収中に支持に背いたというのがことであるが、半年間の幽閉の後許され姓を新田と改め活躍した。 (岐阜新聞「濃飛歴史人物伝」より) |
八幡神社の東脇の道を北へ約130m進み、八幡神社縁石の終わるところから堤防へ上がると「奈良津堤の桜」があります
奈良津堤の桜 笠松町八幡町 |
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笠松湊からの街道にもなっていた堤には「奈良津堤の桜」並木があります |
この桜のトンネルを北へ約100mほど進むと魂生大明神があります。
魂生大明神 笠松町八幡町 |
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御神体は? 花柳界にご利益が高いとの噂が広まる |
その魂生大明神の鳥居の手前に「へそ塚」があります。
へそ塚 羽島郡笠松町八幡町 |
へそ塚は、生命の源、愛情の源として日本全国から「へその緒」を預かり、心身の健康を祈ろうとするものです |
八幡神社へ曲がった四差路へ戻り南へ約120mほど進むと愛宕神社と「常行山法伝寺」があります
常行山法伝寺 笠松町上本町 |
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「常行山法伝寺」の石碑の前の道を東へ進むと堤防下に「福證寺」があります
福證寺 笠松町司町 |
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聖徳太子の作られた本尊があると言われるお寺です。 |
堤防近くになります |
ふたたび鮎鮨街道へ戻り南へ約80mほど進むと右側に笠松歴史民族史料館があります
笠松歴史民族資料館 笠松町下本町 |
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笠松町本町通りにあります |
陣屋の模型 |
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千石舟 昭和30年頃まで使われていた。 |
天領を知らせる札 |
笠松隕石 笠松町新町7丁目 蓑浦久之氏 |
笠松隕石
昭和13年3月31日(1938年)午後3時頃笠松町新町7丁目蓑浦久之氏方の屋根を突き抜けて握り拳くらいの隕石が落下してきました。 |
民族資料館から南へ約20mほ四差路を西(右)へ曲がり約140mほど進むと盛泉寺があります
盛泉寺 笠松町西町 |
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境内には天然記念物の大銀杏の木が有名です。 |
鮎鮨街道へ戻り約60mほどすすむと有形文化財「杉山邸」があります
有形文化財「杉山邸」 笠松町下本町 |
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笠松の八人衆の十五代目「杉山銓二郎邸」 |
「杉山銓二郎邸」から約30mほど進むと変則四差路にある「木戸跡」へ出ます。
木戸跡 笠松町柳原町 |
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「木戸跡」 笠松宿の出口に「木戸」があり通行人を調べていました。 左は「名古屋街道」へ行く笠松湊。 右は「伊勢路」、木曽川に沿って南下、そして桑名へ出る。 伊勢、京都への近道でもありました。 |
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笠松の本町通りを南へ進むと突き当たりにあります。 |
木戸跡を左に堤上にあがると視界が広がって、木曽川河畔に出ます。
笠松湊跡に出ました。
笠松湊跡 笠松町港町 |
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笠松港発展の歴史 |
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笠松湊渡船場跡(笠松丁港町) 笠松は木曽川沿岸最大の川港として、鉄道や自動車が登場するまでは、交通運輸の重要な拠点でありました。 江戸時代笠松と桑名を結ぶ10里の水運は産業発展のために大いに役立ちました。 その後明治になっても水運は衰えることなく明治18年には約13,800艘もの船が笠松港に機能した記録が残っています。 その面影を残す笠松港公園に、江戸情緒を伝える川灯台が建てられ、面影を残しています。 また、湊までの道は荷揚げ用の大八車が地面に食い込まないよう敷き詰められた「石畳」が今でも残っています。 |
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以前の石畳は数十mのみであとはタール舗装でした | 最近改修工事中にもっと下の方までの石畳が発見されされました |
御成り街道 |
川灯台 |
上の現地の看板を分かりやすく説明すると |
笠松湊の有利な地勢(笠松町沿革誌) |
いせ、なごや京道の道標 |
いせ、なごや京道 昭和の始め、坂道を広める時、役場の庭へ移しました。
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笠松湊跡から少し離れた地蔵堂が昔を語っていました。(最近訪れた時見当たりませんでした?)
笠松と松尾芭蕉の「野ざらし紀行」 |
対岸の尾張藩(一宮市北方町宝江)宝江渡船場跡 |
尾張藩熱田までの名古屋街道(鮎鮨街道)は別の項で紹介しますが
とりあえず、対岸の「宝江渡船場跡」まで行って見ましょう。
「鮎鮨街道」案内図(9) |
「笠松湊」から「愛知県一宮市北方中島」までの約1600mを案内します |
「笠松湊」から下流へ約200mほど進むと木曽川橋に歩行者専用橋が架かっています
木曽川橋口 笠松町田代町 |
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笠松湊のすぐ下流にある「木曽川橋」の歩行者用橋を渡ります |
木曽川橋は約500mです
木曽川橋の途中から見た笠松湊跡です。石畳の道が川へ下っています。 |
同じく対岸の「宝江渡船場跡」を見ますが渡船場跡らしきものは見えません |
木曽川橋を渡り切り、左へ曲がり約150mほど進むと「高橋源左衛門旧居跡」の説明板があります。
これが唯一の「宝江渡船場跡」らしいだけで、何の名残もありません。
宝江渡船場跡 一宮市北方町木曽川 |
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堤上にはの小さな「高橋源左衛門旧居跡」の |
振り返ると、先ほど渡ってきた「木曽川橋」が見えます |
「宝江渡し」 |
「高橋源左衛門旧居跡」 |
少し名古屋方面へ入ってみましょう
堤上道から東南へ進みます |
約100mほど進むと変則四差路へ出ます
なごや・津しま起追分 一宮市北方町木曽川 |
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変則四差路 | 四差路の片隅に古い道標があります |
左:なごや道 右:津しま・起(おこし)道 | 文政十二年己丑(つちのとうし)四月(1829年と比較的新しい) |
交差点の反対側に「宝江渡跡」の碑 |
尾張藩から見た「岐阜街道」(鮎鮨街道) 岐阜街道は、中島郡井之口村四ツ家で美濃路から分かれ一宮 ・黒田を経て宝江の渡しより笠松・中山道加納宿から岐阜に 至る道である。関ヶ原の合戦後、美濃の一部が尾張藩領となり 岐阜の町も支配下に入るに及び藩政上重要な街道となる。 |
更に約400mほど堤上から街道を下ると信号のある交差点へ出ます。
南無妙法蓮華経碑 一宮市北方中島町 |
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昔から街道の安全を祈り建てられたものでしょう。 |
安政三丙辰(ひのえたつ)年(1856年) |
鮎鮨街道は今回、ここまでの紹介とします。頁を変えて名古屋・熱田までの紹介をしたいと思います。
では次ページで中山道と縁のある領下(りょうげ)・印食(いんじき)と川島町の紹介をします。
そののちに中山道加納宿案内へ戻りたいと思います。
街道コラム
【宿役人と問屋場】宿場で宿役人が詰めて人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、。 宿役人 通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていました。 問屋場 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。