「鮎鮨街道」は岐阜町を出ると、加納城下へ入り、一路笠松湊を目指します。

六十九次
のうち
五十三宿
五十四宿間

岐阜県羽島郡笠松町

美濃国

名鉄名古屋本線笠松駅下車

「鮎鮨街道と笠松湊」巻は、岐阜町御鮨所から運ばれた鮎鮨が加納宿北番所を経て中山道へ、加納宿岐阜問屋で
中継ぎしを東へ、柳町秋葉三尺坊、中山道加納宿東番屋を通り、ぶたれ坊から南へ笠松の鮎鮨中継所の笠松問屋で継ぎ
笠松湊まで、ここから木曽川の宝江の渡しで尾張領へ、までの鮎鮨街道を中心に加納停車場跡、谷汲・岐阜町と中山道分岐道標、
鮎鮨起源の平治の乱と源頼朝や織田信長と鵜匠、徳川将軍と献上鮎鮨、岐阜県の始まり笠松県庁跡と美濃郡代笠松陣屋跡
、笠松隕石、奈良津堤の桜、魂生大明神とへそ塚、宝江渡船場跡、なごや・津しま・越(おこし)追分道標などを、ご案内します。

                 

鮎鮨街道は岐阜市元町二丁目の分岐点から左(東)方の道を辿ります。

元町2丁目の
分岐点

岐阜市元町2丁目

北緯

35

24

46.7

東経

136

45

54.8

次の区間は「元町二丁目分岐点」〜「中山道出合・秋葉神社」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(4)

赤線鮎鮨街道です
元町二丁目分岐点」から「中山道出合い・秋葉神社」まで約1250mの案内図

元町二丁目の分岐点から約450m南進すると長住町1丁目交差点へ出ます。
交差点のすぐ東に溝旗神社があります

溝旗神社

岐阜市溝旗町4丁目

北緯

35

24

31.6

東経

136

46

01.2

溝旗神社御事歴
当社の創建は用明天皇二年といわれています。この年、この里に悪疫が流行し里人挙げて素戔鳴尊に祈願したところ
霊験あらたかにより悪疫が退散。里人は報賽のため社殿を創立し素戔鳴尊を奉祀したとあります。
明治42年に岐阜県へ神饌幣帛料を供進して境内1,198坪、準境内1,200余坪が認められました。
永代常夜灯奉納記
文化十四丁丑(ひのうし=1817)年六月
篠田一族が常夜灯2塔と常夜灯を灯す油料として「南組字田中」にある畑二畝四歩(約60坪=200u)を寄進する。
この畑で収穫できる菜種油は二斗三升六合(約42.5ℓ)あるのでこれで毎晩、灯してくれと灯篭に彫ってありました。

改築前は銅製?
寄進された灯篭は古くなって昭和51年に改築されました。
(以前の灯篭は確か銅製と記憶しています。
いずれにせよ灯篭を撮影しておけばと残念に思います)

溝旗神社のすぐ前が鮎鮨街道の名鉄各務原線横断踏切です

名鉄各務原線
踏切

岐阜市長住町1丁目

北緯

35

24

30.9

東経

136

46

00.4

 

この踏切付近は明治時代鉄道線路が走っていた場所です

踏切を越えて
2本目の右折路

岐阜市安良田(あらた)町1丁目

北緯

35

24

29.6

東経

136

46

01.0

踏み切りを渡り2本目の右折(西へ)の道が鮎鮨街道です
真っ直ぐの道は明治天皇の行幸に際して作られた安良田新道です
中山道、安良町道標へ出ます。

現在は住宅の中の鉄道跡から察すると踏切付近が加納停車場?

かっての鉄道の名残を探しましょう

明治の頃、鉄道が米原から東進して加納まで敷かれたのが明冶20年。
同年、名古屋まで開通すると、加納が岐阜の玄関口となりました。
そして、岐阜駅は大正2年、現在地に移転しました。

加納停車場跡

岐阜市幸ノ(こうの)町

北緯

35

24

30.6

東経

136

45

59.4

加納停車場跡と思われるマンションの付近
「鮎鮨街道」はマンション前(南)の道です。
50mほど西へ進んで左折(南へ)します。

     大正から昭和初期の岐阜駅
 明冶20年に鉄道が開業した加納駅(幸ノ町)から、大正2年(1913)には現在地(橋本町)に移転し駅舎も洋風で道には大八車が見られ自動車も無く人陰もまばらの岐阜駅前

加納駅から岐阜駅に移転して路線のルートも変更され、旧線路跡は今も名残が残っています。

昔の鉄道線路跡

岐阜市田生越(たしょうごえ)町

北緯

35

24

27.3

東経

136

46

03.8

現在も残る鉄道跡の道です (安良田(あらた)町1丁目と田生越(たしょうごえ)町の境の道)

元の鮎鮨街道へ戻り西へ約80m進み四叉路へ出ます。ここを南へ(左折)

幸ノ町(こうのまち)

岐阜市幸ノ町1丁目

北緯

35

24

28.2

東経

136

45

58.2

画面の道を左(南)へ曲がります

南へ真っ直ぐ約140m進みます

遠くの正面にJRの高架橋が見えます。

鮎鮨街道はJRの高架橋まで来たら西(右)へ曲がります

JR高架橋近く

岐阜市高砂(たかさご)町

北緯

35

24

21.4

東経

136

45

59.4

ここから「加納宿北番所跡」までの間は鉄道事業など
により鮎鮨街道の道筋ははっきりしません。
(案内図4にも点線で示してあります)

西へ90mほど進むと交叉路へ出ます。

この交差路を南(左)へ曲がります。

80mほど南へ進みJR高架下を通り交差路へ出ます

北広江交差路

岐阜市北広江町

北緯

35

24

19.6

東経

136

45

55.0

この交差路の左(東)10m程の北側に「加納宿北番所跡」があります。

加納宿北番所跡

岐阜市加納北広江町

北緯

35

24

19.6

東経

136

45

55.5

今は秋葉神社です(碑は青色軽トラの横)

H20現在標識は
壊されてありません

鮎鮨街道を南へ約80mほど進むと西側(右側)に「亀姫侍女十二相祠堂跡」があります

亀姫侍女
十二相祠堂跡

加納北広江町36
(山田昭二宅)

北緯

35

24

17.0

東経

136

45

55.2

亀姫様の侍女十二人の堂宇でした
山田昭二宅の北側に碑があります

個人宅の裏庭に
慶長12年8月12日,亀姫の侍女12人が咎にあったという.山田さん宅に12人の霊が祀られている。
昭和初期までは水商売の参拝客が絶えなかったという。

亀姫様の侍女12人が一度に
唯一の記録は加納藩田辺見聞録に残された
「慶長十二丁未年(1607)加納様(奥平信昌夫人 亀姫、徳川家康公嫡女也)の侍女、十二人一時に咎めに逢い、
元和四戌午年(1618)この地に設社」とあり、なぜ咎を受けたのか?咎とは処刑されたのか?など全く不明です。
戦前までは立派な堂宇も
山田家の文書によると大東亜戦争の空襲までは、この家の屋敷も大きく屋敷の真ん中に堂宇があり参道が道路まであり、
光国寺(近くの亀姫菩提寺)の寺守も居たそうです。光国寺の慶長19年の古図に「十二相」の堂宇が既に記されているそうです
咎の推測
慶長十二年といえば関ヶ原の合戦より7年目、江戸に幕府が開かれて4年目、加納城の築城も慶長六年におこなわれ、
大阪夏冬の決戦前七年、徳川幕府につくか、豊臣家の恩顧につくか、全国の大名、小名達が、肉親同士で対立、疑心暗鬼に
明け暮れした時代です。西の構えとしての加納城下も隠密あり、密使あり、徳川方と、豊臣方の虚々実々のスパイ合戦。
加納様(亀姫)の乱心か、西方の間者として闇から闇へと葬られたのか?十二相事件の現場が加納城中か、加納様の
下屋敷か、一度に12人の侍女が殺されたのか、何処の氏素性なのか、連座で12人が処刑されたのか・・・・・
事件の数年後に光国寺裏山(此の場所)に堂宇を建てられたのですから、単なる加納様の乱心ではなかったのでしょう。

街道に戻り更に南へ進むと道巾が狭くなります

 
 

250mほどで名鉄本線南広江踏切へ出ます。

名鉄本線南広江踏切

岐阜市加納南広江町

北緯

35

24

10.6

東経

136

45

56.2

 

踏切を渡ると30mほどで中仙道と出合います

中山道出合
秋葉神社

岐阜市南広江町

北緯

35

24

09.6

東経

136

45

56.2

画面の左が秋葉神社です

次の区間は「中山道出合・秋葉神社」〜「ぶたれ坊」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(5)

赤線鮎鮨街道です
「中山道の出合」いから「ぶたれ坊」まで約800mの案内図

中山道出合を東へ曲がり30mほど進むと左側の民家の壁に「岐阜問屋跡」の説明版があります。

岐阜問屋跡

岐阜市加納新町

北緯

35

24

09.1

東経

136

45

57.4

茶色の壁に説明板があります

 

岐阜問屋
 当時はここ(加納新町)に熊田家があり、土岐・斉藤時代か
ら、この辺りの有力者でした。信長が岐阜にあった頃には
加納の問屋役をつとめていました。 江戸時代に入ると、
全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物を引き受け
る荷物問屋に力を入れ、「岐阜問屋」と呼ばれるありました
 江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将
軍家へ献上する「鮎鮨」の継ぎ立てをしており、御用提灯
の使用を認められていました。                

献上鮎鮨
 献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経由し
御鮨街道を加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松
問屋まで届けられ、更に江戸まで届けられました。     

そのため岐阜問屋には各種の特権が与えられていました

権力があった問屋場

 江戸時代、宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締とも言われましたが、今の問
 屋とは違い宿場に1軒だけ許された名誉ある家柄でした。(今須宿では荷役が多く七軒も許可されたそうです)

 業務は人馬の出入りや賃銭などの「帳付役」、人馬に荷物を分担させる「馬指」、などとそれをまとめる助役の「年寄」、
 などです。

「岐阜問屋跡」の説明板から150mほど東へ進むと右側に専福寺があります。

専福寺

岐阜市加納新町

北緯

35

24

06.3

東経

136

46

02.4

専福寺文書
専福寺には、戦国期を中心とした文書が多数残されています。 その内、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状
池田輝政
制札状と伝えられている三通が岐阜市重要文化財に指定されています。
信長朱印状の内容
織田信長の朱印状は、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出されたものとされています。
元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、本願寺法主顕如は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を
促しました。美濃に於いても多くの寺院がそれに呼応していました。
同三年、専福寺の僧忍悟が、石山合戦で戦死し顕如より追悼の御書を給わったと伝えられる本寺に信長朱印状は、
その際、専福寺およびその門徒が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっています。
その他、豊臣秀吉・池田輝政の発給とされる文書も伝えられますが、いずれも本寺と、当時の政治権力の関係を
考える上で重要であります。

専福寺から80mほど進むと広い道路を斜めに横断する交差点へ出ます。
その左に「中山道加納宿」の標識があり、その奥に「柳町秋葉三尺坊」があります。

中山道加納宿標識
柳町秋葉三尺坊

岐阜市加納加納柳町

北緯

35

24

04.6

東経

136

46

05.3

広い道路の手前左に「中山道加納宿」の標識があります
標識の奥の方に「柳町秋葉三尺坊」があります

道路を斜めに横断すると古い町屋の向いに「中山道加納宿」の石碑があります

「中山道加納宿」石碑

岐阜市加納柳町

北緯

35

24

04.2

東経

136

46

06.5

いずれ古い町屋は無くなる(改築)かも知れませんが石碑は残るでしょう

道路を横断してから60m程の右に善徳寺があります

善徳寺

岐阜市加納柳町

北緯

35

24

03.3

東経

136

46

07.3

善徳寺の手前に「中山道加納宿 加納柳町」の標識があります
 

善徳寺の前を左へ曲がり50mほど進むと広い道の手前に「中山道加納宿東番所跡」の碑があります

中山道加納宿
東番所跡

岐阜市加納安良町

北緯

35

24

04.4

東経

136

46

09.2

広い道路が明治以降に出来たため中山道の枡形にあった番所跡は狭い敷地に碑が建っています

東番所跡を東に曲がり50mほど進むと「主要地方道岐阜・稲沢線」を横断します

主要地方道
岐阜・稲沢線横断

岐阜市加納安良町

北緯

35

24

03.7

東経

136

46

11.3

中山道は真っ直ぐに進みます

主要地方道を横断して50mほど進むと左側に秋葉神社があります

加納安良町秋葉神社

岐阜市加納安良町

北緯

35

24

03.4

東経

136

46

13.2

江戸時代は宿の町単位に秋葉神社はありました。

秋版神社を過ぎて70mほど進むと「細畑一里塚」編で紹介した「加納安良町道標」へ出ます

谷汲・岐阜町分岐
道標

岐阜市加納安良(かのうあら)町

北緯

35

24

09.9

東経

136

46

15.6

左が谷汲・岐阜道  右が中山道

左 西京(東京に対して西の京)
右 岐阜(岐阜町)、谷汲    
明治十八年八月 上加納 後藤松助 六十一才

道路標識を南へ曲がり80mほど進むと加納大橋を渡ります

加納大橋

岐阜市渋谷町

北緯

35

24

00.0

東経

136

46

15.7

加納大橋

橋の南袂に石碑があります

加納大橋を渡り50mほど進むと「だんごや」角へ出ます

中山道だんごや角

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

58.1

東経

136

46

15.4

右角に「だんごや」があります。この道を左(東)へ。

江戸時代からあったわけでは無いでしょうが中山道にピッタシ!

東へ曲がり40m進むみ三叉路を南へ

中山道と分岐

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

57.8

東経

136

46

17.0

真っ直ぐ(東)は中山道。右(南)は鮎鮨街道

中山道から南へ曲がると直ぐに「ぶたれ坊」があります

ぶたれ坊道標

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

57.3

東経

136

46

16.9


関取「鏡岩濱之助」建立の「ぶたれ坊」

基壇脇の道標には
「天保十二年辛丑十一月 鏡岩濱之助内建立」
と他の面には
 東海道いせ路 なごや、きよす、みや、加○○末川
 
江戸木曽路 みのぶさん、いぬやま、ぜんこうじ、うぬま
 
京都 大坂 西国道 下の文字は読めない

(詳しくは前の頁で紹介してあります)

ぶたれ坊と茶所
江戸時代の力士「鏡岩浜之介」は父を継いで力士になりましたが、土俵外での行いが悪かったことを
改心して寺院を建て、ぶたれる為に自分の木造を置いて罪滅ぼしをしました。
また茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。
現在は
ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は加納伏見町の妙泉寺に移されています。

次の区間は「ぶたれ坊」〜「鮎鮨街道追分地蔵堂」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(6)

赤線鮎鮨街道です
「ぶたれ坊」から「鮎鮨街道追分地蔵堂」まで約960mの案内図
「鮎鮨街道追分地蔵堂」から「中山道追分地蔵堂」まで約1450mの案内図

「ぶたれ坊」から南へ工場地帯を進みますが「鮎鮨街道下川手往還追分」まで説明するものはありません

   

「ぶたれ坊」から580mほど進むと県道1号線(芋島・六条線)横断交差点へ出ます

左側に名鉄名古屋本線の踏切があります

更に南へ380mほど進むと「下川手往還」との追分へ来ます。

下川手往還追分
地蔵堂

岐阜市村里町

北緯

35

23

26.0

東経

136

46

18.0

ここは2頁前に中山道領下(りょうげ)で鮎鮨街道との追分地蔵からの近道の合流点です

「ぶたれ坊」から来た鮎鮨街道。 「下川手往還」からの道

次の区間は「鮎鮨街道追分地蔵堂」〜「県道14号線合流点」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(7)

赤線鮎鮨街道です
「鮎鮨街道追分地蔵堂」から「県道14号線合流点」
まで約1180mの案内図

追分地蔵堂から鮎鮨街道を南へ50mほど進むと右側に順勝寺があります。

順勝寺

岐阜市村里町

北緯

35

23

23.8

東経

136

46

16.7

未調査

順勝寺を過ぎて150mほどで広い空き地に出ます。ここにはかって大きな舟問屋がりました。

舟問屋跡

岐阜市下川手

北緯

35

23

20.2

東経

136

46

14.9

 街道沿いに流れる「境川」を利用した川運送業の豪勢な倉付きの家が目立ちました。

以前の風景

裏に流れる現在の境川
天正十四年(1586年)の大地震と洪水で木曽川の本流が境川から現在の流路に移りましたが、
それまでは物流の大動脈でした。しかし本流が変わっても残った流路を使い便利な船便は江戸時代も
残り活躍しました。そのため中山道をテクテク歩くより、ここから船で下り笠松湊を経て、桑名あたりから
杭瀬川を遡り赤坂湊へ到達する船旅が出来たのです。

家の裏(左)

 階段で舟付き場まで
 下りられるように
 なっています。

大きな家が無くなり、今では広い空き地になっています。

向かいには、まだ大きな屋敷があります

舟問屋跡を過ぎ140mほどで「馬頭観世音菩薩堂」が左(東)にあります。

馬頭観世音菩薩堂

岐阜市東川手2丁目

北緯

35

23

14.5

東経

136

46

13.1

かっては樹木が茂りひなびた感じが残っていましたが、今は建てかえられたようです。
馬頭観世音菩薩石碑は昔のままでした。

鮎鮨街道から西に外れ210mほどの所に正福寺があります。

制札を2枚も持つ正福寺

岐阜市東川手1丁目

岐阜市指定重要文化財「禁制制札」
正福寺には、二枚の制札が伝わっています。
一枚は、天正十年(1582年)十一月付けで、江戸時代の著書「諸国高札」にも掲載されており、織田信孝が下付したものです。
制札自体には書名がなく御判とあることから、元来文書で下されたものを寺院側で書いて制札としたものと考えられます。
信孝は、天正十年六月の清洲会議に於いて、美濃を領土とされたことから、
それにともなう支配体制確立の一環として、出されたものと考えられます。

他の一枚は、天正十年十二月付けであり、これは、文字の判読が出来ないほど磨耗していますが、
これも「諸国高札」に掲載されています。
同月付けの制札が「立政寺」に所蔵されており、文面もほとんど同文です。
これには、織田信雄(のぶかつ)の花押であることから、本制札は信雄のものである可能性が高いといわれています。

先の制札を出した信孝は、天正十年十月、柴田勝家と結び、豊臣秀吉と対立するが、翌年降伏し自害しました。
この高札は、その混乱の中で織田信雄により出されたものであります。

余計な心配

 この近辺は現在も堀を巡らした大きな家が有ります。

 掃除や屋敷内の草引きはどうしてるか?税金は幾らくらいか?
 心配です。

馬頭観音から南に170mほど進むとは右側(西側)に愛宕神社がります。

愛宕神社

岐阜市東川手1丁目

北緯

35

23

11.1

東経

136

46

09.3

愛宕神社から街道を南へ180mほど進むと鮎鮨街道は「国道21号線」に分断されています。

鮎鮨街道分断

岐阜市東川手2・4丁目

北緯

35

23

05.0

東経

136

46

05.9

「鮎鮨街道」は左へ迂回して国道21号線の下を通ります。

国道21号線を横断すると笠松街道は一路南へ笠松を目指して延びています。

この辺りの街道は境川の堤防も兼ねてか一段と高いところを通っています。

鮎鮨街道分断点から480mほど進むと県道14号線と合流します

県道14号線合流点

岐阜市東川手2・4丁目

北緯

35

23

05.0

東経

136

46

05.9

最近また道路工事が行われ様子が違ってきました。

次の区間は「県道14号線合流点」〜「宝江渡し跡」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(8)

赤線鮎鮨街道です
「県道14号線合流点」から「宝江渡し跡」
まで約2000mの案内図

合流点から250mほど進んだところ辺りから鮎鮨街道は左へ(東)反れ笠松町へ入りましたが
境川がたびたび氾濫しいまは河川改修で街道はなくなっており、更に150mほど進み境川を渡ります。

「鮎鮨街道」案内図(8の1)

案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します

県道14号線分離点

岐阜市西川手10丁目

北緯

35

22

35.9

東経

136

45

55.3

橋を渡って 最初の三叉路を左(東)へ曲がります。

県道14号線分離点から75mほどで道に突き当たります。

ここを右(南)へ曲がり120mほどで川跡を横断します
ここが岐阜市と笠松町の境です

岐阜市と笠松町境

笠松町松栄町

北緯

35

22

31.7

東経

136

45

57.2

笠松町へ入ります

市町境は右(西)に小さな社が目印です。

行政境から240mほど進むと羽島用水に架かる「三つ目橋」を渡ります

三つ目橋

笠松町松栄町

北緯

35

22

23.3

東経

136

45

56.2

「鮎鮨街道」案内図(8の2)

案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します

三つ目橋から更に240mほど進むと右(西)に「春日神社」があります

春日神社

笠松町春日町

北緯

35

22

16.1

東経

136

45

53.7

道の右(西)にありますが建物の隙間のようなところにあるので見落としそうです。

春日神社から110mほどで名鉄竹鼻線の踏切です。

名鉄竹鼻線踏切

笠松町上新町

北緯

35

22

10.9

東経

136

45

53.2

踏切を渡ると古い町屋が並んでいます

踏切をを渡ると45mほどの右(西)に「真教寺」があります

真教寺

笠松町上新町

北緯

35

22

10.9

東経

136

45

53.2

寺標には「高野山 高野派 六師教会笠松支部」とあります。

「真教寺」から120m程の左(東)に「大銀杏がある秋葉神社」があります

大銀杏と秋葉神社

笠松町上新町

北緯

35

22

07.5

東経

136

45

52.8

消火栓
火の幸を恵み、悪火を鎮め、火を司り給う神様である秋葉神社に消火栓があるのも因縁でしょうか。

秋葉神社から約270m進むと鮎鮨中継地の笠松問屋場跡があります。

鮎鮨の中継地
笠松問屋跡

笠松町下新町73
(みそ・たまり、わた久 高島久右衛門殿前)

北緯

35

22

07.5

東経

136

45

52.8

笠松問屋跡
 長良川鵜飼の鮎鮨を慶長八年(1603年)に将軍徳川家康、秀忠に「鮎鮨」を献上以来、毎年六月から九月に掛けて、毎月6回江戸城へ届けられました。
 岐阜町の「お鮨所」から”加納問屋”を経て”笠松問屋”に受け継がれ、木曽川を渡って”一宮問屋”へ、そして名古屋へ送られました。
 時期的に腐りやすい「鮎鮨」を送る労苦は大変だったようで、主に農家の人が1回にに14人がかりで運んだそうです。
 旧笠松街道沿いに道中の安全を祈願した神社とともに、記念碑が建てられています。
笠松問屋跡
現在は「みそ・たまり(醤油のこと)わた久」(高島久右エ門=笠松湊の道標建立者)

鮎鮨談議

鮎ずしが徳川幕府に献上
された際に着用された上着
(河崎太郎さん蔵)
有栖川宮家に献上ずしを
運んだ櫃
(川出孝治さん蔵)
有栖川宮家に献上したすしについて書かれている記録
(川出孝治さん蔵)

平安時代に作られていた美濃の鮎ずし

寿司の起源は「なれずし」? 
「なれずし」
が日本に伝わってきたのは弥生時代だという説もありますが、その是非は定かではありません。

 現在分かっている文献のなかで日本で最初に「すし」について書かれているのは、
奈良時代、養老2年(718年)の『養老令』という法令です。
平安時代の寿司は貢納品
ここには租税品目として「すし」の項目が列記されています。
 岐阜と「すし」とのかかわりが初めて分かるのが、平安時代に定められた『延喜式』(927年)です。

 延喜式とは法令の施行細目が書かれているもので、各地からの貢納品が記されているのですが、
そのなかに美濃の「鮎ずし」が諸国の「献上ずし」のひとつとして出てきます。

 鎌倉から室町の時代になると、美濃の「鮎ずし」についての記述も数多く見られるようになります。
この頃には、「鮎ずし」は美濃を代表する名産として、すいぶんもてはやされていたようです。

 その後の幕府政所代であった蜷川親元(にながわちかもと)の記した『親元記』なる書物には、
寛正6年(1465年)の7月初旬、美濃の守護の土岐成頼と守護代の斎藤帯刀(たてわき)から
時を前後して「鮎ずし」を贈られたことが書かれています。

 そのほかにも、『山科家礼記』や『実隆(さねたか)日記』、『お湯殿の上の日記』などに、
美濃の「鮎ずし」のことが書かれており、美濃名物・「鮎ずし」の名は京の都でも評判が高かったようです。

◎献上鮎ずしを作る様子を伝える『長良川鮎鮨図巻』(岐阜市歴史博物館蔵)

徳川幕府に献上された鮎ずし

このように、名を馳せた美濃の「鮎ずし」は、江戸時代になると徳川将軍家への献上品として
京ではなく江戸に上ることになりました。

 江戸幕府に「すし」を献上していたのは10数藩はありましたが、献上回数も量もわずかなものでした。
しかし、長良川でとれる美濃の「鮎ずし」は4月から8月にかけて10回前後も献上され、
そのすし桶の数も他藩と比べものにならないほどだったようです。

 そもそも鮎ずしが将軍家へどうして献上されるようになったのか、2つのエピソードが残されています。

エピソード1

 ひとつは、元和元年(1615年)のこと、家康・秀忠の親子が大坂夏の陣から江戸へ帰る途中、
岐阜の鵜飼見物に立ち寄った際、当時、美濃郡代であった岡田将監(しょうげん)のもと、
河崎喜右衛門によって「鮎ずし」を献じられたという説。

エピソード2

もうひとつは、慶長3年(1603)、郡代・大久保長安に命じらた河崎喜右衛門が献上したというものです。

moriy@シルバー

将軍に献上される「鮎鮨」の由来と”源頼朝”

 江戸時代岐阜町から毎年6月から9月まで月に6回も「鮎鮨」を将軍家に献上した由来は!
 そして「鵜匠」の称号、まで賜った理由は?

「平治の乱」が縁
平治の乱(平治元(1159)年の源氏と平氏の戦い)に破れ京から東北へ落ち延びる源義朝、親子は途中はぐれ義朝は
知多半島の豪族館で打たれたが、子の頼朝主従は道に迷い長良川河畔の鵜飼いの家に宿をもとめもてなしを受けました。

 後に頼朝が将軍になったのを縁に昔もてなした「鮎鮨」を献上し、以来将軍に献上するのが習いとなったようです。

「織田信長」と鵜匠
 信長が天下を取る前、岐阜にいた頃(永禄十二(1569)年頃)
鵜飼いを好み後に「鵜匠」の称号を与えたようです。

「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」
天下を統一した徳川家康は「征夷大将軍」に献上されていた長良川の鮎鮨を故事に倣い江戸へ献上させたようです。 
東海道が整備され各宿の問屋場がおかれるとシーズン中は腐りやすい「鮎鮨」を月に6回も江戸間で数日で運ばせ、
将軍に献上しました。それを運ぶ苦労は大変なものだったようですが、それより尾張家の費用も大変だった様です。

以上が「moriy@silver」が気に入った「将軍に鮎鮨献上」の逸話です。

鮎鮨の作り方 
こうして将軍家へ献上されるようになった鮎ずしは、御鮨所という調整所で作られていました。
御鮨所は御鮎元とか御鮎屋とも言われており、現在の岐阜市の益屋町あたりにあったということです。

 献上品というだけあって鮎ずしづくりは厳しい定めのもと行われていました。
作られる時期は初夏から夏、使われる鮎は長良川の鵜飼でとれたものに限られます。

 鮎は2日2晩または3日3晩にわたって塩漬けし、そのあと水で洗って塩出しして腹にご飯を詰めます。
これを桶に詰め、ふたを万力で強く押し込み、そのままの状態で縛り、江戸へと運ばれたのです。

 鮎ずしづくりは、代官所の立ち会いのもと、身を清めたものだけが行っていました。
そして岐阜から尾張、江戸に至るまで5日間という決められた日程で搬送されていったのです。

 このとき岐阜町から笠松湊へと運ぶときに使われた道は、「御鮨街道」と呼ばれるようになりました。
それほどに、鮎ずしは江戸時代にあって特別の地位をもっていたといえるでしょう。

 江戸時代、すべての将軍に供された鮎ずしの献上も、徳川幕府の崩壊とともに廃止されることとなりました。
世は明治の時代となり、岐阜の鮎ずしは新たな献上先を皇族に移し、
有栖川(ありすがわ)宮家に鮎ずしを贈ることになります。

 明治初年の記録によると、そのなかに「ちまきずし」という名前が出てきます。
これが岐阜の地に伝わり続けた伝統の献上鮎ずしの最後だと思われるのです。

◎岐阜から江戸までの輸送時刻の確認書『御用鮎鮨宿次申付状』(河崎太郎さん蔵)

笠松問屋跡をから約40mほどで右(西)へ曲がる道があります。
その奥に善光寺があります

浄土宗西山禅林寺派
恵能山
善光寺

笠松町下新町42

北緯

35

21

58.4

東経

136

45

48.8

善光寺があるこの場所は、以前、笠松陣屋の牢屋があり、罪人の処刑場で、
この辺りを今も牢屋敷というのはこのためです。
斬罪された亡者の霊に対して誰一人これを弔う者がいないのを見て、元文元年(1736年)
恵澄居士・恵教尼夫妻が敷地560余坪を寄進、一宇を建立し、無縁の亡霊を弔うこととしました。

笠松のお寺は道路から奥まったところに多くあります。
その両側は立派な商家が連なっています。

「鮎鮨街道」案内図(8の3)

案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します

もとの鮎鮨街道へもどり南へ約75mほど進むと突き当たり(枡形ー1)に出ます

枡形ー1

笠松町新町

北緯

35

21

54.2

東経

136

45

50.8

この三叉路を左(東)へ曲がります

東へ約110mほど進むと四差路へでます。

枡形ー2

笠松町上本町

北緯

35

21

52.5

東経

136

45

55.2

鮎鮨街道はここを右(南)へ曲がります。
鮎鮨街道は枡形(ますがた=クランク)になっています。

鮎鮨街道へ行かず左へ曲がり約60m進むと左側(西側)に「連国寺」があります。

連国寺

笠松町八幡町

北緯

35

21

55.9

東経

136

45

53.1

芭蕉の「野さらし紀行」
芭蕉は郷里で越年すべく十二月二十一日ころ熱田を発つとき、「笠松へ着日」と詠み、
美濃に入り笠松に一泊しました。この蓮国禅寺に「木槿塚」があります。

更に北へ約70mほど進むと八幡神社へ出ます

八幡神社

笠松町八幡町

北緯

35

21

56.8

東経

136

45

56.8

大きな境内を持つ八幡様

笠松商家

 笠松にはいると、至る所に昔の風の
 立派な家が目立ちます。

 

八幡神社前の変形四差路を東へ曲がり約50mほど進むと右(南)に
「廃藩置県」で岐阜県に最初に県庁(笠松県)が置かれたが代官所跡があります。

笠松県庁跡
美濃郡代笠松陣屋跡

笠松町県町

北緯

35

21

56.5

東経

136

45

57.8

岐阜県は「笠松県」でした!
 
 寛文二年(1662)美濃と尾張の国境にある笠松は交通の要衝として
美濃郡代「笠松陣屋」が置かれ幕府や治水の仕事を行っていました。
 明治維新により慶応四年(1868)笠松陣屋に県庁が置かれ
「笠松県」が誕生しました。
 その後、廃藩置県制により明治4年に岐阜県が誕生し、
明治6年に県庁が岐阜市に移り、岐阜県の中心は岐阜市となりましたが、
短い間でしたが、ここが岐阜県の始まりの場所ででした。
  町名は今でも「県町」です。

笠松陣屋・県庁の跡
笠松陣屋は美濃郡代「名取半左衛門長知」が、江戸時代の初めの寛文二年
「笠町」(かさまち)を「笠松村」と改め、この地におきました。

陣屋は笠松県庁になるまでの二百年間、美濃国内の幕府領の支配と治水を行なう役所として
天下に重き位置を占めていました。

慶応四年(1858)一月、笠松陣屋は朝廷の命を受けた竹澤寛三郎が「天朝御用所」と改め、
同年四月、笠松裁判所となりました。(詳しくは下記参照)

更に同月「笠松県」の県庁となり、県知事には「長谷部如連」が任命されました。
明治四年(1871)、笠松は「岐阜県庁」の誕生の地となり、岐阜町に移るまで県政の中心になっていました。

大政奉還と王政復古と竹沢寛三郎
 慶応三年(1867)十月十四日、徳川十五代将軍慶喜(よしのぶ)は大政を奉還し、二十四日に将軍職を辞した。 同年十二月九日には、朝廷より王政復古の大号令が発せられ、政治の大権は幕府から天皇に移った。政治の大権を握った新政府は、財政基盤の確立を図るため、これまで幕府の財政を支えてきた幕府領を収公して朝廷の御料とすることとし、翌1868年1月4日の廟議でこれを決定した。以後、この収公は新政府の最重要事業となるが、一国がすべて幕府の直轄領であった飛騨国や、総高の44%が幕府直轄領であった美濃国は、重要な土地であり、その接収に当たったのが竹沢寛三郎である。 竹沢は、1829(文政十二)年に阿波国に生まれ若い頃から勤王の志を持ち、諸国を巡り歩いた。                                     
美濃・飛騨接収を建白
 幕府討伐が決定されると、機先を制して美濃笠松と飛騨高山の郡代所を第一に接収することの必要性を建白した。これを受け入れられて、東山道筋の平定に当たる東山道鎮撫総督軍の洗髪を命ぜられた。岩倉具視に会い各種条件を要求したが叶わず、自費で門人を引き連れ出発した。
あっけない美濃笠松郡代所の接収
 1868(明治元)年1月雪深い飛騨を避け笠松から接収を始めた。18日に笠松の役人を宿に呼び説得に当たった。笠松郡代は前年に就任したばかりでまだ着任しておらず、手付けらはすぐさま支配地の返上を申し出て、陣屋を退去てしまった。竹沢は21日に陣屋に入り、笠松村が朝廷の御料となった旨の高札を建て、当年の年貢半減などの措置を執ることを伝えた。            
飛騨高山接収に
 飛騨へは、23日に書状を出して発向する旨を伝えた。飛騨は混乱に陥り、郡代が御用伺いのためとして江戸へ引き上げてしまった。竹沢は、25日に笠松を発ち、郡上藩と尾張藩が援兵を派遣した。途中、飛騨郡代所の地役人や郡中総代たちが面会に訪れ、勤王に尽くす旨の誓詞を差し出した。2月4日、高山陣屋に入った竹沢は、7日に郡中総代を呼んで当年の年貢を半減することなどを告げ、陣屋の前に天朝御用所の高札を建て接収は完了した。                   
無血接収するも捕縛される
しかし、飛騨の取締は水戸の浪士梅村速水となり3月に総督府によって竹沢は捕縛された。理由は接収中に支持に背いたというのがことであるが、半年間の幽閉の後許され姓を新田と改め活躍した。  (岐阜新聞「濃飛歴史人物伝」より)                            

八幡神社の東脇の道を北へ約130m進み、八幡神社縁石の終わるところから堤防へ上がると「奈良津堤の桜」があります

奈良津堤の桜

笠松町八幡町

北緯

35

22

01.3

東経

136

46

00.5

笠松湊からの街道にもなっていた堤には「奈良津堤の桜」並木があります

この桜のトンネルを北へ約100mほど進むと魂生大明神があります。

魂生大明神
(こんせいだいみょうじん)

笠松町八幡町

北緯

35

22

02.6

東経

136

46

02.0

御神体は?
魂生大明神
(こんせいだいみょうじん)の御神体は男性器の陰茎をかたちどった物で、
花柳界にご利益が高いとの噂がある。
いわれ
創建時期は江戸時代中期と言われており、美濃郡代が娘の縁談がないのを心配して、陸奥国から男根の形をした石を
取り寄せ笠松陣屋の傍らに祠を設けて祀ったのが始まりと言われています。
明治の初めに現在の位置に埋める
その後、笠松陣屋の建物を笠松学校に使用することとなり、教育上相応しくないという理由で、魂生大明神の祠は
取り壊されれ御神体は地中に埋められてしまいました。しかし、この御神体を埋めた人物は程なく病死してしまいました。
このことから、御神体の祟りという噂が流れたといいます。

花柳界にご利益が高いとの噂が広まる
明治5年頃、この噂を聞いた電信工夫が、「そんなの迷信だ」と、その御神体を地中から掘り出し、
赤色の染料をかけてしまいました。 すると、工夫は病に伏せてしまいました。
工夫は「祟りに違いない」と考え、御神体についた赤い染料を取り除こうとしたが取れなかったといます。
そこで石工に頼み、染料の部分を削り取ってもらいますが、程なくして工夫と石工は病死したという。
しかし、花柳界にご利益が高いとの噂が広まり、現在も水商売関係者のお参りが絶えないそうです。

その魂生大明神の鳥居の手前に「へそ塚」があります。

へそ塚

羽島郡笠松町八幡町

へそ塚は、生命の源、愛情の源として日本全国から「へその緒」を預かり、心身の健康を祈ろうとするものです

八幡神社へ曲がった四差路へ戻り南へ約120mほど進むと愛宕神社と「常行山法伝寺」があります

常行山法伝寺

笠松町上本町

北緯

35

21

49.2

東経

136

45

53.5

 

「常行山法伝寺」の石碑の前の道を東へ進むと堤防下に「福證寺」があります

福證寺

笠松町司町

北緯

35

21

48.8

東経

136

45

59.0

聖徳太子の作られた本尊があると言われるお寺です。

堤防近くになります

ふたたび鮎鮨街道へ戻り南へ約80mほど進むと右側に笠松歴史民族史料館があります

笠松歴史民族資料館

笠松町下本町

北緯

35

21

46.6

東経

136

45

53.5

笠松町本町通りにあります

 

陣屋の模型

 

千石舟 昭和30年頃まで使われていた。
学校から遠足で潮干狩りに桑名あたりまで行きました。

天領を知らせる札

笠松隕石

笠松町新町7丁目 蓑浦久之氏

笠松隕石

昭和13年3月31日(1938年)午後3時頃笠松町新町7丁目蓑浦久之氏方の屋根を突き抜けて握り拳くらいの隕石が落下してきました。
 重さ721g、大きさ10.8×6.8×6.2cm、比重3.57で表面は黒色。
 調査の結果「古銅輝石カンラン石球粒隕石」で約50億年前の物で宇宙を50億年遊泳して笠松町に落下した物と判明しました。
 笠松町指定文化財となっています。

民族資料館から南へ約20mほ四差路を西(右)へ曲がり約140mほど進むと盛泉寺があります

盛泉寺

笠松町西町

北緯

35

21

44.9

東経

136

45

47.6

境内には天然記念物の大銀杏の木が有名です。

鮎鮨街道へ戻り約60mほどすすむと有形文化財「杉山邸」があります

有形文化財「杉山邸」

笠松町下本町

北緯

35

21

43.9

東経

136

45

53.3

笠松の八人衆の十五代目「杉山銓二郎邸」

「杉山銓二郎邸」から約30mほど進むと変則四差路にある「木戸跡」へ出ます。

木戸跡

笠松町柳原町

北緯

35

21

42.8

東経

136

45

53.0

「木戸跡」

 笠松宿の出口に「木戸」があり通行人を調べていました。

 左は「名古屋街道」へ行く笠松湊。

 右は「伊勢路」、木曽川に沿って南下、そして桑名へ出る。

 伊勢、京都への近道でもありました。

川下への道は桑名への「伊勢道」です

笠松の本町通りを南へ進むと突き当たりにあります。
木戸跡の木標を左に曲がると笠松湊への登り坂があります。

木戸跡を左に堤上にあがると視界が広がって、木曽川河畔に出ます。
笠松湊跡に出ました。

松湊跡

笠松町港町

北緯

35

21

39.4

東経

136

45

56.1

             笠松港発展の歴史
 ここに木曽川が出来たのは天正十四年(1586年)の大洪水によるといいます。
(それまでは、川の流れがまとまらず、沢山の支流でどれが本流か分からない川でした)              笠松港の最初
 慶安三年(1650年)美濃郡代「岡田将監善政」が、「枝広の大洪水」による木曽川堤の復旧に便利な「笠町」(今の笠松)に休息所を置き、寛文二年(1662年)郡代「名取半兵衛長知」によって陣屋が此処に移されましたので、地方行政の中心地、地方物資の集積地となり、川港と渡船場のまわりにできた集落---港町も次第に大きく広がり、栄えていきました。
             明治時代の笠松港
  陸上交通が未だ発達していなかった明治時代には木曽川の水運を利用して伊勢方面との交流が盛んで、伊勢神宮の御神木川下げの御小休みの地でもあり、笠松港は木曽川最大の川港でありました。
              笠松港の終わり
 大正から昭和初期には、ポンポン船と呼ばれる大型発動機船の時代となりましたが、近年鉄道の普及、自動車の発達により笠松港の繁栄は次第に衰え役割は終わりました。

川灯台

笠松湊渡船場跡(笠松丁港町)
 笠松は木曽川沿岸最大の川港として、鉄道や自動車が登場するまでは、交通運輸の重要な拠点でありました。
 江戸時代笠松と桑名を結ぶ10里の水運は産業発展のために大いに役立ちました。
 その後明治になっても水運は衰えることなく明治18年には約13,800艘もの船が笠松港に機能した記録が残っています。
 その面影を残す笠松港公園に、江戸情緒を伝える川灯台が建てられ、面影を残しています。
 また、湊までの道は荷揚げ用の大八車が地面に食い込まないよう敷き詰められた「石畳」が今でも残っています。

渡船場跡石畳

以前の石畳は数十mのみであとはタール舗装でした 最近改修工事中にもっと下の方までの石畳が発見されされました

御成り街道
家康が関ヶ原の合戦に向かった道を、その後縁起を
担いで尾張藩主はその後も「御成り街道」として残し
使いました。そのために両岸に番屋を置いていました

川灯台

上の現地の看板を分かりやすく説明すると

         笠松湊の有利な地勢(笠松町沿革誌)
 羽島郡笠松町に木曽川筋最大の賑わいを見せた河港で、江戸時代から明治にかけて、当地の水運の拠点となりました。
 「面前河ヲ帯ビ、船ヲ停泊セシメ、三面ノ陸地車馬互ニ通ス、所謂四通五達ノ地ニシテ、水陸ノ運輸モ便ナリ」(美濃国民族誌稿)とおあるように、中仙道「茶所」より別れ、岐阜町と城下町名古屋を結ぶ名古屋街道(御鮨街道)の 渡船場(宝江の渡し)がある要地として、伊勢湾から木曽川を遡上して、塩、魚、石炭などの物資を笠松湊で陸揚げし、舟、馬を使って岐阜、美濃各地、更に飛騨・信州方面へ、また木曽川上流、郡上・武儀その奥の山間部からの貢米・薪炭・木竹類を伊勢・尾張両国、
遠くは海上を江戸へ送るなど、全国各地と結ぶ物資の中継地として栄え、 美濃の商品流通の要でした。
                   時代変遷と交通手段
 元和三(1617)年 本巣郡真桑村から献上の「真桑瓜」、岐阜から献上の鮎「鮨」の継ぎ送りに差し支えぬよう人馬往来問屋が設けられ、笠松は舟問屋・諸荷物問屋なども軒を連ねました。
 寛文二(1663)年笠松陣屋が設置され、行政の中心地となると共に、六斎市(笠松市)も開かれ、
木曾川水運の要港として発展しました。
 明治2(1869)年の明細帳に「鵜飼形六十石積1艘、同三十〜五十石積2艘、同十五石積七艘」とある。
 鉄道が開設するまでは上京はすべて四日市経由の汽船によって行われました。
                      笠松湊衰退時期
 明治20(1887)年頃には笠松〜桑名間に船べりに外輪のある蒸気船が運航、帆かけ船より早いことで人気があったといいます。(県史)
 同25〜26年頃までは日に2往復していましたが、東海道本線全通(22年)以降は次第に寂れていきました。

 いせ、なごや京道の道標
 陣屋がおかれていた笠松は、美濃国の
幕府政治の中心地であり、交通の要衝でした。
 中仙道の茶所から分かれて、ここを通り、木曽川を渡り、一宮・名古屋への道を(名古屋道または、名古屋街道とか笠松道また将軍へ、献上する鮎鮨や真桑瓜を運んだみちであり、「鮎鮨街道」とも呼ばれました。)
 此処から伊勢参りの近道が始まる木曽川に沿って南へ行けば桑名を経て伊勢に出ます。
 西へ進めば京都ヘの近道です。

 いせ、なごや京道
 この道標は天保四年(1833年)当時の庄屋「高島久右衛門」がここの西の坂を30m程、下本町の方へ下りた辻に建てたものです。(先の木戸口のあったところ)

 昭和の始め、坂道を広める時、役場の庭へ移しました。
 昭和63年、町政百年を祈念して
ここに復元しました。

 

笠松湊跡から少し離れた地蔵堂が昔を語っていました。(最近訪れた時見当たりませんでした?)

          笠松と松尾芭蕉の「野ざらし紀行」
 貞享元年(1683年)秋八月「野ざらしを心に虱のしむ身かな」と詠み江戸を旅立った芭蕉は、郷里「伊賀上野」を訪ね美濃大垣に到着しました。
 それより船で揖斐川を下り、桑名を経て名古屋に留杖し、蕉風の樹立となりました。
 やがて芭蕉は郷里で越年すべく十二月二十一日ころ熱田を発つとき、「笠松へ着日」と詠み、美濃に入り笠松に一泊しました。 蓮国禅寺に「木槿塚」がある。
 それより関ヶ原を経て美濃を出るとき、今須寝物語の里にて「正月も美濃と近江や閏月」と吟じ郷里へ着き、「年暮れぬ笠きて草鞋はきながら」と詠み越年しました。
 翌二年春二月上野を発った芭蕉は、大和を巡り水口を経て中仙道を鵜沼に向いました。
 途中細畑より「木瀬草庵」を訪ね三月二十三日ころ「野中の日陰」「雲雀ふたつ」の吟を残しました。
 鵜沼脇本陣に宿った芭蕉は大針に吟行。
 三月二十六日頃木曽川を船で下り、笠松を過ぎた辺りで、「船頭殿」と詠み、桑名を経て再び熱田に留杖しました。
 その後木曾・甲斐を経て夏四月末江戸深川九ケ月ぶりに帰庵し「夏衣いまだ虱をとりつくさず」と詠みました。
 この旅を「野ざらし紀行」と呼びます。

対岸の尾張藩(一宮市北方町宝江)宝江渡船場跡

尾張藩熱田までの名古屋街道(鮎鮨街道)は別の項で紹介しますが
とりあえず、対岸の「宝江渡船場跡」まで行って見ましょう。

「鮎鮨街道」案内図(9)

「笠松湊」から愛知県一宮市北方中島」までの約1600mを案内します

「笠松湊」から下流へ約200mほど進むと木曽川橋に歩行者専用橋が架かっています

木曽川橋口

笠松町田代町

北緯

35

21

35.5

東経

136

45

47.8

笠松湊のすぐ下流にある「木曽川橋」の歩行者用橋を渡ります

木曽川橋は約500mです

木曽川橋の途中から見た笠松湊跡です。石畳の道が川へ下っています。

同じく対岸の「宝江渡船場跡」を見ますが渡船場跡らしきものは見えません

木曽川橋を渡り切り、左へ曲がり約150mほど進むと「高橋源左衛門旧居跡」の説明板があります。
これが唯一の「宝江渡船場跡」らしいだけで、何の名残もありません。

宝江渡船場跡

一宮市北方町木曽川

北緯

35

21

35.5

東経

136

45

47.8

堤上にはの小さな「高橋源左衛門旧居跡」の
説明板以外には何もありません

振り返ると、先ほど渡ってきた「木曽川橋」が見えます

「宝江渡し」
起源

慶長五年(1600年)八月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際東軍の先鋒池田輝政は一万八千の軍勢を率いて
この地に到着木曽川越えは遅々として進まず、北方の高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門(当時は苗字は無かった)の機転に
より滞留無く渡河し、両名は、その功により御船渡守として、船頭給、二十八石五斗と苗字帯刀の恩賞を受けました。
「御成り道」確立時
次いで、同十二年、徳川義直尾張藩主のとき、岐阜街道を改修し、この地から対岸への渡船を官道とし、
代々の高橋・広瀬の両名が渡しを守りました。
明治以降
明治11年(1878年)10月25日、明治天皇御巡幸の際、両名は私費をなげうって船橋を架しましたが、翌年流失し、
鉄橋架設に至るまで渡船を継続しました

「高橋源左衛門旧居跡」
北方宝江の人高橋源左衛門は、広瀬嘉右衛門と共に、慶長五年(1600年)8月関ヶ原の合戦前、池田輝政率いる
1万八千の軍勢の木曽川越えを助け、さらに加納への近道も案内し、岐阜城攻めに比類なき軍功を上げました。
その功績により、黄金10両、刀一振り、船頭給28石5斗が与えられました。
以後、苗字帯刀を許され宝江の御渡船守として明治初期まで続きました。
旧居跡は現在、宝江ゲートボール場となっています。

少し名古屋方面へ入ってみましょう

堤上道から東南へ進みます

約100mほど進むと変則四差路へ出ます

なごや・津しま起追分

一宮市北方町木曽川

北緯

35

21

25.2

東経

136

46

03.3

変則四差路 四差路の片隅に古い道標があります
左:なごや道 右:津しま・起(おこし)道 文政十二年己丑(つちのとうし)四月(1829年と比較的新しい)

交差点の反対側に「宝江渡跡」の碑
慶長五年(1600年)八月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際
東軍の先鋒池田輝政は一万八千の軍勢を率いてこの地に到着
木曽川越えは遅々として進まず、北方の高橋源左衛門・広瀬嘉
右衛門(当時は苗字は無かった)の機転により滞留無く渡河し、
両名は、その功により御船渡守として、船頭給、二十八石五斗
と苗字帯刀の恩賞を受けました。
次いで、同十二年、徳川義直尾張藩主のとき、岐阜街道を改修
し、この地から対岸への渡船を官道とし、代々の高橋・広瀬の
両名が渡しを守りました。
明治11年(1878年)10月25日、明治天皇御巡幸の際、両名は
私費をなげうって船橋を架しましたが、翌年流失し、鉄橋架設に
至るまで渡船を継続しました。

尾張藩から見た「岐阜街道」(鮎鮨街道)
岐阜街道は、中島郡井之口村四ツ家で美濃路から分かれ一宮
・黒田を経て宝江の渡しより笠松・中山道加納宿から岐阜に
至る道である。関ヶ原の合戦後、美濃の一部が尾張藩領となり
岐阜の町も支配下に入るに及び藩政上重要な街道となる。

更に約400mほど堤上から街道を下ると信号のある交差点へ出ます。

南無妙法蓮華経碑

一宮市北方中島町

北緯

35

21

13.9

東経

136

46

16.1

昔から街道の安全を祈り建てられたものでしょう。

安政三丙辰(ひのえたつ)年(1856年)

鮎鮨街道は今回、ここまでの紹介とします。頁を変えて名古屋・熱田までの紹介をしたいと思います。

では次ページで中山道と縁のある領下(りょうげ)・印食(いんじき)と川島町の紹介をします。
そののちに中山道加納宿案内へ戻りたいと思います。

街道コラム

【宿役人と問屋場】

 宿場で宿役人が詰めて人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、。

宿役人
 宿役人は問屋・年寄・帳付・人足指・馬指・定使(小使)などがあり、問屋・年寄を宿役人といい、帳付以下を下役と呼ぶこともあった
問屋
:宿を主宰し、宿場の任務の継立て・休泊・逓送業務の最高責任者である。
年寄:問屋を補佐。
帳付:人馬の出入りや賃銭などを記入する。
人足指:人足の指揮。
馬指:馬方の指揮と馬に荷物を振り分ける。
定使(小使):雑務を担当    などの者がいましたが宿により名称・任務の差異はありました。

通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていました。

問屋場
 問屋場は、宿役人が詰めて継立て業務など行う場所で、駅亭、伝馬所、馬締、会所ともいい普通宿場には1〜2箇所あるが、なかには6〜7箇所の宿場もあった

                 

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。