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水の便が悪い各務原台地を過ぎると、かっては木曽川の本流で尾張と美濃の境だった境川脇を
通り領下(りょうげ)を過ぎ加納城下町の加納宿へ入ります。

六十九次
のうち
五十三宿
五十四宿間

岐阜県岐阜市

美濃国

名鉄名古屋本線茶所駅下車

「細畑一里塚」巻は、「手力の枡形」と手力雄神社の火祭り、切通の由来、長森城址と切通陣屋跡の切通観音、
民間人の努力で残った「琴塚古墳」、人間の寿命を決めた女神「石長姫」を祀る「伊豆神社」、領下(りょうげ)の「明治水看板」、
「細畑一里塚」
、「往還北地蔵堂道標」、織田信秀の閻魔堂本陣、乱闘橋戦い供養塔、米野の戦い、河田の渡河戦、
池田輝政鎧掛けの松、長森城址と切通陣屋跡、大正天皇の御日陰の松、領下往還南信号、景観重要建造物「森邸」、
笠松街道分岐「ぶたれ坊」等をGPS位置情報と共にご案内します。

       

中山道は岐阜市へ入ります

「細畑一里塚」巻で紹介する中山道区間図赤線が中山道)
高田橋(各務原市と岐阜市の行政境界)〜加納宿入口約4.000m

 

「枡形」とは

 本来は城内の「一の門」と「二の門」の間に四角い広場を設け攻め手の勢いをそらす目的の場所を言います。

 街道をクランク状に直角に曲げ見通しの利かない様にしてある場所も「枡形」と言い、、敵の軍勢が街道を

 進むとき、惑わせたり、勢いを削いだり、待ち伏せをするために設けられました。

「細畑一里塚」の巻案内図(1)

「高田橋」から「長森細畑交差点」まで約1,980m

境川に架かる「高田橋」から約1,140m西進すると手力神社の枡形へ来ます。

手力の枡形

岐阜市蔵前四丁目

北緯

35

23

36.3

東経

136

48

09.8

中山道は右へ曲がります。 左には少し鳥居が見えますが手力雄神社の参道です

枡形の正面は「手力雄神社鳥居」

長森の「枡形」と傾いた道標

 入り口の鳥居脇の
「道標」は傾いたまま舗装材に固められています。
 鳥居をくぐって二丁ほど東へ戻ると神社が見えてきます。

鳥居脇の道標「左 木曽路」

手力神社の鳥井脇の電柱の根元に道標があります。

傾いたまま舗装されています。

「左 木曽路」だけで右はなし

道標から木曽路方面を見た街道

一の鳥居をくぐって東へ進むと二の鳥居があります 二の鳥居の脇には神輿を休ませる「御旅所」があります
中山道船旅時代
当時は一の鳥居は美濃赤坂にあったといわれます。それは美濃赤坂から鵜沼まで船航時代の名残といわれています。
その時の二の鳥居は現在の石の鳥居(中山道と神社参道の境に建つ鳥居)。三の鳥居はこの朱の鳥居でした。

裏に流れる現在の境川
天正十四年(1586年)の大地震と洪水で木曽川の本流が境川から現在の流路に移りましたが、
それまでは物流の大動脈でした。しかし本流が変わっても残った流路を使い便利な船便は江戸時代も
残り活躍しました。そのため中山道をテクテク歩くより、ここから船で下り笠松湊を経て、桑名あたりから
杭瀬川を遡り赤坂湊へ到達する船旅が出来たのです。

火祭りの御輿 
火祭りは
県指定重要無形民族文化財です。

岐阜長森手力の火祭り(G点)

 岐阜市長森蔵前にある「手力雄神社」では毎年4月に盛大な”手力の火祭り”が行われ大勢の見物人でにぎわいます。

 九つの氏子が担ぐ御輿が境内に入ると、高さ20mの御神灯に次々と点火され爆竹が響き滝花火が御輿を担ぐ裸男に降り注ぎます。
 この火の粉が御輿の花火に引火し、御輿からも花火が吹きあがります。
 その中を勇壮に練り歩く様は見るものをはらはらさせてくれます。

 本殿は中山道の街道からかなり入った所にあります。
最近本殿が建て替えられたようです
古来、都に軍勢が上る時、東海道から東山道(今の中山道)
に移るには木曽川渡河点として必ず長森を通ることから美濃
側防御拠点として「手力雄神社」が御鎮座されました。
後に土岐頼遠が長森城を築くのも同じ趣旨でした。

参道近くにある豪商宅

境川と回船問屋の繁栄

裏に流れる現在の境川
天正十四年(1586年)の大地震と洪水で木曽川の本流が境川から現在の流路に移りましたが、
それまでは物流の大動脈でした。しかし本流が変わっても残った流路を使い便利な船便は江戸時代も
残り活躍しました。そのため中山道をテクテク歩くより、ここから船で下り笠松湊を経て、桑名あたりから
杭瀬川を遡り赤坂湊へ到達する船旅が出来たのです。

「枡形」を過ぎ約100m進むと「浄慶寺」に来ます。

浄慶寺

岐阜市切通六丁目

北緯

35

23

39.7

東経

136

48

05.7

約30m隣の金融機関まえに「切通」の説明版があります

切通(きりどおし)

岐阜市切通六丁目

北緯

35

23

40.7

東経

136

48

03.7

切通(きりどおし)の由来
切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞留水を境川に落としていたことによるといいます。
切通は、古来東西交通の要路にあたり江戸初期中仙道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは
立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋などが設けられ旅人の交通で賑いを見せ
各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与したようです。

「立場」と「茶屋」

 「立場」(たてば)は街道沿いの旅人が休むところを言う。

 お茶、一膳飯、お酒などを売っていました。

 「立場」は宿場の端のほうにあるものと、宿と宿の間にある茶屋も「立場」と呼ばれていました。

「切通」を過ぎ、さらに西に約180m進むと、右に狭い道があり曲がり約30m進むと「切通観音」があります。

切通観音
長森城址
切通陣屋跡

岐阜市切通六丁目

北緯

35

23

44.3

東経

136

47

58.2

切通観音(長森城址)の場所は分かりにくいので参考にして下さい

電信柱脇の1mほどの道ですので注意して見つけてください 曲がって入ると正面に観音碑か見えます

                  切通観音 
 渋谷金王丸が築城した長森城があった場所で、長森城はその後土岐氏が城主となったのですが、土岐氏が川手城に本拠地を移し、廃城になった後には切通陣屋が築かれました。しかし今は城や陣屋の面影は無く、石碑と切通観音があるのみです。

                 長森城由来
 文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。
 延元二年(1337)美濃国守護二代「土岐頼遠」が土岐郡大富より長森に居を移し、長森城を改修し美 濃国を治め天下にその名を知らしめました。
 文和2年(1353)長森城が手狭になったため、土岐頼康は川手城を築城、本拠地を川手城に移しました
 長森城は土岐氏の土岐直詮が城主とり、土岐氏は以後川手城を本拠地としました。

                 切通陣屋の歴史
 
江戸時代に入るや、宝暦5年(1755)、この地は加納藩領となり以後、幕府領・大垣藩預かり地と変わり、
享保三年(1802年)磐城平藩の所領となるにおよび、この地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。
 明治時代となり、廃藩置県が行われ、切通陣屋は廃止され笠松県の一部となる。

「切通観音は長森城址」の碑

切通から北約2.2kmに琴塚古墳がありますのでご案内します

いち民間人の努力で残った   
琴塚古墳

岐阜市琴塚三丁目

北緯

35

24

54.7

東経

136

49

03.2

                 保存できたのは夢枕に立った女性 
 琴塚古墳は岐阜市琴塚に所在する全長120
mほどの前方後円墳です。
 二重の周壕を持ち
形状の整った岐阜県を代表する前方後円墳 です。
 地元では景行天皇の妃、五十琴姫(いごとひめのみこと)の墓
と伝わっています。(琴塚の名の由来はこの姫の名前から来ています)
 我々はこの古墳が史跡とし
て残ってきたことを当たり前のように思っていま すが、実は明治期に破壊されつつあったので す。
 墳丘・周壕の全てが個人の土地で、林の部分、墓の部分、そして少しずつ開墾が進んでい
ました。
 そんな時、地元の足立太助氏の夢の中
に女性が現れて、すがるように助けを求めたそうです。
                           足立太助氏の奮闘
 太助さんは夢とはいえ気になったようで、当時の県知事さんに事情を話したところ、考古学の先生や熱田神宮の方が調べてくださり、『普通の山ではないぞ』ということになり、調べていくと、どうやら古墳で、第12代景行天皇のお妃様にあたる「五十琴姫命(いごとひめのみこと)ではないかということになったそうです。
 そんな大切なものが壊されてはいけないと、太助さんはそれぞれの所有者から土地を購入したり、ほかの土地と交換しながら、なんとか2年かけて古墳全体の土地を買い取りました。
 さらに、なんとその土地を県に無償で献上したのです。
 その後、古墳は県の史跡になり、昭和7年には県の調査により外濠が発見され、さらに黒坂勝美博士にも認められ、昭和9年ついに国の史跡に指定されました。
 太助氏らの御
尽力がなければ、他の古墳と同様に開墾され てしまっていたことでしょう。
 現代でもなかなか出来
ない活動を、既に明治中頃に行っておられたこ とを我々も認識し、感謝しなければなりません。
 琴塚の周辺は畑でしたが、昭和40年代の中
頃から急激に人家が建ち始め、今では全体の 景観が見られなくなってしまいました。
 墳丘の
保存はできても、景観の保存の出来ないことは 残念です。
                  (画像文章は広告宣伝誌「ぎふプラザ」2012、2月号)より

「琴塚古墳」の周辺には、前方後円墳と円墳で構成される多数の古墳群がありました。
これらの古墳は史跡に指定されるまで荒らされたり、開墾されたりして壊されました。
それらの古墳から出土した鏡や鏃(やじり)石斧(いしおの)などは現在集められ保管されています。
 
 
琴塚古墳の写真

              岐阜県内では3番目の大きさ
 岐阜県岐阜市にある前方後円墳。岐阜県内では3番目の大きさである(1位は大垣市の昼飯大塚古墳)。
 5世紀頃の古墳である。昭和9年(1934)8月9日、国史跡に指定されている。
 被葬者は景行天皇の后、五十琴姫命と伝えられ、琴塚の名もこれに由来する。
 二重の壕のある構造である。現在は壕は埋め立てられているが、痕跡は残っている。

「史蹟琴塚」

              古墳の築造時期とは合わない
 琴塚「御墓」と記された標柱。側面には「兆域 東西七十八間 南北八十八間」
 『先代旧事本紀』天孫本紀のみに見える、景行天皇の妃「物部五十琴姫命」の墓らしい。
 五十琴姫命は、物部胆咋宿禰の娘で、天皇との間に五十功彦命という皇子をもうけたといいます。
 「琴塚」の名称は、彼女の名にちなみますが、古墳の築造時期とは合わないようです。
                         (現地説明板より)

宮内庁が陵墓として管理するわけでもないのに、前方部の正面が拝所のように整備されています。
 
あまり大きいのか、整備されていない性か周囲を巡っても大きさや輪郭が分かりません

琴塚古墳 東から 大正14(1925)年3月24日

同上  2003年2月24日

                 保存できたのは夢枕に立った女性 
 琴塚古墳は岐阜市琴塚に所在する全長120
mほどの前方後円墳です。
 二重の周壕を持ち
形状の整った岐阜県を代表する前方後円墳 です。地元では景行天皇の妃、五十琴姫の墓 と伝わっています。
 我々はこの古墳が史跡とし
て残ってきたことを当たり前のように思っていま すが、実は明治期に破壊されつつあったので す。
 墳丘・周壕の全てが個人の土地で、林の部
分、墓の部分、そして少しずつ開墾が進んでい ました。そんな時、地元の
足立太助氏の夢の中
に女性が現れて、助けを求めたそうです。
 そこ
で、募金運動を始め、琴塚の土地を全て買い取 って県に寄付し、史跡として指定を受け、今日 に至った訳です。  それは明治20年代のことで、栄一はまだ10歳前後のことです。
 太助氏らの御
尽力がなければ、他の古墳と同様に開墾され てしまっていたことでしょう。
 現代でもなかなか出来
ない活動を、既に明治中頃に行っておられたこ とを我々も認識し、感謝しなければなりません。
 琴塚の周辺は畑でしたが、昭和40年代の中
頃から急激に人家が建ち始め、今では全体の 景観が見られなくなってしまいました。
 墳丘の
保存はできても、景観の保存の出来ないことは 残念です。

琴塚古墳正面  南から 大正14(1925)年3月24日

同左  2003年2月24日

もう少し中山道から離れた関市千疋に平清盛に敗れた源頼政の首塚を案内します。

源頼政公首塚
岐阜県関市千疋810 県道79号線の信号「千疋」を北へ200mほどの「蓮華寺」にあります。

源頼政首塚がある
蓮華寺

岐阜県関市千疋810

北緯

35

29

33.5

東経

136

51

22.9

                                          蓮華寺概要
 蓮華寺の創建は治承4年(1180)、源頼政が以仁王と共に平家打倒の為、挙兵しましたが宇治平等院の戦いで敗れ自害、その際、家臣が頼政の首をこの地に埋葬し首塚を築いたのが始まりと伝えられています。
 その後、頼政の冥福の為、寺院が建立され、戦国時代には織田信長などに仕えた石河家の菩提寺として庇護されます。
 境内の西にある石河家菩提所は関市指定史跡に指定されています。
 美濃新四国八十八ヵ所霊場第八十四番札所。(現地説明板より)

農道脇に「源頼政公史跡・金光山蓮華寺」の石柱とバス停「蓮華寺」から山側へ曲がります。

広い駐車場の上に山門があります。

山門脇を左へ入ると亀の上に立派な石碑があります。

亀の石碑脇の道を50mほど登ると首塚があります。

灯篭の奥に首塚があります。

      平清盛に敗れた源頼政
 1180年、京都で平清盛との戦いで敗れた頼政の首を家臣が
頼政の伯父の領地であった千疋村(現関市)の蓮華寺に葬ったそうです。

源頼政首塚碑の奥に五輪の首塚があります。

                 源頼政の略歴
 頼政は源頼光 系統の摂津源氏で、畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家 近くで活動する京武士でした。

 保元の乱の翌年、保元 3年(1158 清盛と義朝の決戦が行われたとき、信頼に従う意味を失った頼政は最終的には二条天皇を擁する清盛に味方しました。
 同じく二条天皇側近として信頼方に加わっていた源光保 も清盛方に付いて戦った。

 しかし、以仁王と頼政の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝・木曽義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる(ウィキペディより)

中山道へ戻りましょう

「切通観音」を中山道へ戻り、さらに西に約250m進むと、右に「伊豆神社」が見えてきます。

伊豆神社

岐阜市切通三丁目

北緯

35

23

45.5

東経

136

47

50.9

岐阜市長森町石長(いしなが) 
「石長姫」
は元は永遠の命がありましたが、醜いため神の席から除かれていました。
これをうらみに思った姫は人間の寿命も今のように短くしたと言われています。

               伊豆神社の由来記
 
当神社の創立年代は不詳であるが御祭神は大山祗神の娘「石長姫命」(いしながひめのみこと)で、生命は岩の如くゆるぎないようにと健康長寿をつかさどる神であり、全国主要神社でこの神を主祭神とする神社は珍しいとのことです。
 また、天手力雄命(おおあまのたじからおのみこと)(手力雄神社の御祭神)が男の荒神であり、この神をおいさめするため往時の長森細畑字長石あたりに鎮座されていたのを水害などのため当地に遷されたと伝えられています。

此のやしろは以前は長森町石長にあったのを此の地に移しました、
元の地名は今でも石長姫に由来し
「石長」と言います。

神社の横の「馬頭観世音」の脇に「道標」がありますが、字は読みとれません。

伊豆神社の道標(I点)
 「左、京三七」「右、江戸三??」

道標のある、このあたりからは
 京までは「三十一里三十二丁」(125.3km
 江戸へは「百四里九丁」(409.4km)になるはずです。

人間の寿命を決めた神様「石長姫」
 
「伊豆神社」は大山祗(おおやますみ)の神の娘「石長姫」が祀られていますが、この神だけを祀る神社は全国でも珍しいそうです。
 「大山祗神社」の本宮は四国愛媛県越智郡大三島町にあり、「源義経」のはじめ「国宝の鎧甲」の八割までが同社に奉納されていると言われる有名な神社です。
 合戦に出るとき”勝利したら甲冑を奉納します”と祈り多くの武将が合戦に勝ち奉納したと言うことです。(四国架橋ができましたので一度行って下さい)

四国の国宝「甲冑」

馬頭観音の道標

岐阜市切通(きりどおし)三丁目

後世に作られた複製道標です

荷駄を運ぶ馬方達の信仰を集めた馬頭観音も今ではひっそりと。

馬頭観音像

伊豆神社から約280mほど進むと「中野上印食線」との長森細畑交差点へでます

長森細畑交差点

岐阜市細畑四丁目

北緯

35

23

47.1

東経

136

47

38.6

次は「長森細畑交叉点」から「鮎鮨街道分岐点」(ぶたれ坊)までを案内します

「細畑一里塚」の巻案内図(2)

「長森細畑交差点」から「鮎鮨街道分岐点」(ぶたれ坊まで約2,020m

長森細畑交差点を西へ約100mほど進むと右側に「ゑび寿神社」があります

ゑび寿神社

岐阜市細畑四丁目

北緯

35

23

48.5

東経

136

47

33.9

「ゑび寿神社」から約70mほどに眞宗寺かあります

眞宗寺

岐阜市細畑4丁目

北緯

35

23

49.1

東経

136

47

31.4

 

眞宗寺から中山道を西へ約400m進むと長森細畑へ入り国道156号線の「長森細畑」交差点へ出ます。

国道156号線
長森細畑交差点

岐阜市長森細畑

北緯

35

23

47.1

東経

136

47

38.6

  交差点を横断すると再び古い家並みが続く厚見村へ入ります。

 此の交差点付近は「印食」(いんじき)と言い古くからの地名です。

「印食」交差点からまもなく「細畑一里塚」へ、そして「領下」「茶所」「東番屋跡」を通り「加納宿」へ入ります。
此のあたりの地名はそれぞれ由来があり歴史の古さを感じさせますが、
新しい路が出来たりして、行政が地名変更を行いますのでだんだん由緒ある地名が消えていくようです。

国道156号線の「長森細畑」交差点を約140m進むと右側(北側)に古風な飲料水の看板があります。

「明治水」看板

岐阜市細畑西浦

北緯

35

23

50.9

東経

136

47

09.8

国道交差点を過ぎると、静かな街道

往復六車線の国道交差点(J点)

 左の写真のは国道156号線交差点から撮したものです。

 交差点を過ぎると、とたんに静かな旧街道となります。

看板「明治水」(K点)

 交差点から西へしばらくくと、途中の空き家の上にある、古い看板「明治水」?

「明治水」は、あとで調べます。

進盛堂 小木曽薬局 母屋
いつまで残るか?いつまでも残したいものです。

「明治水」は今のコーラーかカルピスのようなものだったのでしょうか?立派な看板ですので、
かなりの人気商品だったと考えられます

この家もあとしばらくで無くなるのではないでしょうか。

「明治水の看板」から約100mで細畑の一里塚へきます

細畑一里塚

岐阜市長森細畑西浦と下川原

北緯

35

23

50.9

東経

136

47

05.8

  細畑の「一里塚」

 街道の両側に五間(約9m)の土手を築き榎木などを植えられていました。
 この「1里塚」は現在も両側に榎木が植えられています。

 江戸から京都まで一里(3.9km)毎に設けられ、旅人の安らぎと目安になっていたそうです。 
 細畑の一里塚は
  「鵜沼宿」から三里十四丁(13.3km)。
  西の「加納宿」までは三十丁(3.9km)の地点にあります。

中山道の北側の榎木(えのき)の一里塚

中山道の南側の榎木(えのき)の一里塚

「一里塚」の間隔
 「六軒一里塚跡」→3.7km「新加納間の宿一里塚跡」4.25km→「細畑一里塚」→3.9km→「加納清町一里塚跡」と
一里の距離が多少まちまちです。(私の車で測定)一里は三十六丁3,927mです。

「岐蘇路安見絵図」(岐阜市歴史博物館 蔵)には

「立バ 新加納」の横に一里塚(新加納一里塚)が描かれ礼ます。
「榎一づヽ」(エノキ1本づつ)両側にエノキが植えられていたのでしょう。

「高田村」(岐阜市高田)を経て「手力雄の宮」(手力神社)、「切通し」

次に一里塚(細畑一里塚)があります。
「右 松三 左 榎二」とあるので当時は右に松3本、左にエノキ2本が植えられていたのでしょう。

絵図には、次に「細畑村」(岐阜市細畑)、「河手村」(岐阜市川手)と続いています

更に約130mほど進むと鮎鮨街道(笠松街道)への往還(近道)追分があります

往還北地蔵堂道標

岐阜市領下(りょうげ)

北緯

35

23

51.2

東経

136

47

00.2

往還北追分け
 厚見村から「川手」方面に抜け「笠松街道」に合流する近道「往還北」の追分け(c)で、地蔵様が祀られています。

 脇に道標があり、
「左 伊勢、名古屋ちかみち 笠松一里
「右 西京 加納八丁」
「右 せき、上有知、郡上 道」
その下の文字はコンクリートに埋まって見えません。

最近の映像

                「西京」とは
 江戸から明治に変わると、国内の物流も多くなったでしょうが、東海道線が全通するのは明治22年迄待たなければなりませんでした。
 このため幕府が管理していた街道はまだまだ重要でした、明治以降は地方の有力者は道標などの整備に協力したようです。
 明治以降の道標は「東京」に対して京都「西京」と区別したようです。

                     兀(コツ、ゴツ)
 道標に「兀」と言う文字が出てきます。多分「迄」の意味と思われます。
 儿(ジン、ニン)は人の意味で、「ひとあし、にんにょう」と言います。
 道標には「儿」の上に少しはなして「一」が刻んでありますが同じ文字と思われます。                    「加納 兀 八丁」
 道標から「八丁」(約870m)は「茶所」付近です。「東番屋」跡までは1,880m(十六丁)あります。
 明治頃は茶所あたりをからを加納と呼んだのでしょう。
 「笠松 兀 一里」(約4km)は正確です。現在の笠松役場あたりまでが約4kmあります。
 「一里」は「三十六丁」(3,927m) 「一丁」は「六十間」(109m) 「一間」は「六尺」(1,818m) 「一尺」は30cmです。)

往還
 この近くでは北国往還(関ヶ原〜滋賀県木之本まで伊吹山麓を抜ける歴史的な道)が有名です。
 脇道(近道)とも言われ、今のバイバスでしょうか。
脇街道
 江戸時代の五街道(東海道・中山道・奥州道中・講習道中・日光道中)以外の主要な街道を言います。
 主なものは水戸路、伊勢路、山陽道、善光寺道などが有名で脇街道とも言われました。

ここで中山道から反れて、あとで紹介する鮎鮨街道への近道(往還)を紹介したいと思います。

鮎鮨街道への往還案内図
中山道と往還の追分地蔵堂から青点線の往還を通って鮎鮨街道の追分地蔵堂までを案内します。

中山道追分地蔵堂を左(南側)の道を約80m進むと御日陰の松のある八幡神社があります。

御日陰の松
八幡神社

岐阜市領下(りょうげ)

北緯

35

23

50.8

東経

136

46

58.8

日陰の松
大正天皇が行幸のおり、暑い夏に日を避けるため
休憩の時、日陰にされた松が境内にありましたが
今は枯れて切り倒されたようです

10年くらい前には松はありました

最近の画像は待つの切株が残るだけです

八幡神社から約230mほど進むと右側(北側)に閻魔堂があります。

閻魔堂

岐阜市領下(りょうげ)

北緯

35

23

47.4

東経

136

46

29.2

閻魔堂縁起
1353年8月、土岐大膳大夫頼康公は、美濃・尾張・伊勢の
三か国の守護職となり、長森から下川手に革手城を築いた
とき、閻魔大王の霊告を受けました。1368年3月、自ら
ご本尊像を刻み、革手城の鬼門除けとして。この閻魔堂を
建立したそうです。
革手城址と関連史跡は「閻魔堂関連地図」
を参照してください

現在は加藤健一氏宅に
 閻魔堂はその後、斉藤山城守秀龍の家臣「加藤左太郎」に守られ、現在はその末裔、加藤健一家の庭の一隅に祀れれています。場所は同じですが住所も岐阜市領下一丁目7-1となりました。
木造左衛門佐の書状
 
閻魔堂に本陣を置くにあたり織田秀信の家老から加藤家に出した書状が同家にあるそうです。

閻魔堂保護と変遷
 以後、歴代の守護職土岐氏より室町時代約180年間、寺領を与えられ手厚く保護されていました。
 しかし、1542年に土岐氏は斉藤山城守秀龍(斉藤道三)により攻略されて土岐氏は滅亡
革手城は廃城、寺領は没収となりました。
その後、閻魔堂は土岐頼芸、斎藤義龍公の家臣「加藤左太郎」が、縁あってお守りしてきました。

閻魔堂炎上
1600年関ヶ原の戦いで、西軍の将「織田秀信公」は、この地に本陣を置き、
東軍の将「池田長政公」と乱闘橋で交戦、この戦いで「閻魔堂」は炎上、ご本尊も焼失しました。

ご本尊ご帰還の不思議
1674年、摩訶不思議、御本尊は乱体なるありさまで縁あって、ご帰還。
当代の「加藤新右衛門」は、早速ご修理申し上げ、お堂を再建して、お戻り会を行いました。
現在も堂の後ろの「加藤家」の所有
その後当主「加藤家」と地域の方々で、この閻魔堂は守られています。

ここで往還から外れて、上の「閻魔堂由来」にもある、近くにある「乱闘橋」を案内します。
往還案内図「乱闘橋碑」の場所で往還からは境川の向こうですので分かりにくいので注意してください。

乱闘橋供養塔

岐南町八剣北3丁目
(印食(いんじき)共同墓地)

北緯

35

23

41.6

東経

136

46

57.7

お断り:以下に出てくる戦いでの兵力は現地に伝わる当時の記録を基にしてあるため各地の案内板により数字が違います。

境川に架かる「板橋」の攻防
慶長五年(1600年)夏、関東の徳川家康と大坂の石田三成との対立で、岐阜城「織田秀信(織田信長の孫)は
二十歳の若さで、周囲の反対にもかかわらず石田三成に恩顧を感じ味方しました。

東軍の先鋒隊長「福島正則」一万八千は羽島市竹鼻城を攻撃し、
一方の先鋒隊「池田輝政一万八千は岐阜城を攻撃するため木曾川を渡り米野河野島に進出する。
岐阜城主「秀信」は七千五百を従えて上川手「閻魔堂」まで出陣、八月二十二日未明から合戦の火ぶたが切られました。
岐阜方の若武者「飯沼小勘平長資」二十一歳、安八郡池尻城主らは緒戦において目覚しい活躍をしましたが、
池田長政の弟「備中守長吉」の槍先にかかって戦死しました。

しかし、織田秀信軍は、この「閻魔堂」に本陣を置を置くことを閻魔堂を御守する加藤家に書状を出し陣を張り、
前衛に百々家綱に2千5百余の兵を与え、笠松の米野村に、中屋村に木造具康(1千余)、伏屋村に柏木彦右衛門に
2千余、新加納村に佐藤方秀に1千余を布陣させ、留守軍岐阜城守備に8百余 総勢9千余を配置しました。

この合戦の一番の激戦と伝えられのは、輝政率いる一万八千が更に軍を進め岐南町八剣神社に陣を構え印食(いんじき)から
領下(りょうげ)の間を流れる境川(旧木曽川)に沿って岐阜方最後の抵抗を行いました。
「閻魔堂」炎上
 この戦いで「閻魔堂」は炎上し、閻魔大王像も焼失しました。

当時、境川には「板橋」が架かっていてこの付近において両軍は壮烈な激戦を展開し数百の戦死者を出しました。
それ以後、村人はこの橋を「乱闘橋」と呼んでいます。
戦いのあと、敵味方の霊を供養するため「怨観平等」の宝筺印塔を建立して後世に悲惨な戦史を伝えることにしました。

鴨の群が遊ぶ境川の「乱闘橋」付近
乱闘橋供養塔
 嵐のごとく両軍の軍勢は過ぎ去り、翌日には岐阜城の攻防となります。
 戦いのあと放置されたままの戦死者を地元民は弔い橋の袂に供養塔を建立しました。
 その後、誰言うと無く橋の名前は「乱闘橋」と言われるようになりました。
 現在は河川改修により橋の位置は変わり乱闘橋供養塔は「境川」から少し離れた位置にあります。

乱闘橋供養塔と由来碑

「境川」は昔の「木曾川」

 木曽川は昔、多くの分流に分かれていました。
 本流はこの境川だったようです。

 このため美濃藩と尾張藩の境を流れるので「境川」と云われました。

当日の状況を地図で説明します

慶長五年八月二十二日前哨戦の状況

米野の戦い
乱闘橋(閻魔堂)の戦いの前に東軍(徳川家康軍)の木曽川渡河作戦がありました。
清洲会議のあと先に木曽川に到着した池田輝政と福島正則のうち、池田輝政が関ヶ原の戦いより熾烈だった
といわれる米野の戦いの後、閻魔堂の織田軍本陣を破り金華山の岐阜城をめがけて突き進みました。
続いて福島正則が木曽川下流を夜陰に乗じて竹ケ鼻城へ襲い掛かりあっけなく落城させ岐阜城向かいました。

関ヶ原の戦いの前哨戦

河田渡河戦跡

羽島郡川島町笠田町

北緯

35

21

46.0

東経

136

48

59.2

河田渡河戦
慶長五年(1600年)関ヶ原合戦の前哨戦というべき岐阜城攻撃の緒戦が
この木曽川を挟んで開始され、現在の川島町はその決戦場となりました。

東軍(徳川家康軍)の池田輝政を先鋒とする浅野幸長・山内一豊・一柳直盛など一万八千余の一隊は、
木曽川の河田を渡り越え、新加納を経て岐阜に向う策戦をたてました。
一方、西軍(豊臣方)に属する岐阜城主織田信秀は、戦いの先鋒にたち、
木造具政・百々綱家・川瀬左馬助など三千三百人を新加納と、米野の間に配置し、敵を待ち伏せました。

八月二十二日、東軍の池田輝政は前進命令を下し、中洲「小屋場島」に陣を張りました。

(里伝えに、池田輝政が通行人の小屋から敵情をうかがい、旗を立てたということから
「旗たて松」名付けられた老木があったが、今は数本しかありません。)

敵兵の小勢を知った東軍は、未だ夜の明けない内に一柳直盛を先頭に渡河戦を展開し激戦を交わした。
(河田渡河戦といいます)付近一帯は阿修羅場と化しました。

関ヶ原合戦の前哨戦「米野の戦い」
(笠松町米野640)

 笠松町米野東部一帯は慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の折り、木曽川を渡ってきた東軍と、これを迎え撃つ西軍、岐阜城の軍勢とが激しくぶつかりあった激戦の地です。

 池田輝政ら1万8千の東軍は旧暦8月22日朝、川を渡って、米野に上陸し合戦の後、次の日に岐阜城を攻め落とし関ヶ原に向かいました。

米野の戦い跡

羽島郡笠松町米野字黍島(きびじま)

北緯

35

22

31.7

東経

136

49

01.8

信長の孫「信秀」の義理立てと「三成」の誤算

史跡碑は東海北陸自動車道の下にあります。

米野の戦い

関ヶ原合戦の前哨戦(慶長5年)1,600年

 石田三成は関東から東軍(徳川家康)の先鋒の軍勢が尾張の清洲に迫ったことを知って、近江の佐和山城を出て、8月11日城主、伊藤彦兵衛に大垣城を明け渡させ、これを拠点に濃尾方面の防備をすすめました。

 まず、岐阜城へ1,700余人、犬山城、竹ケ鼻城へ鉄砲隊など総勢9千余人を送り防備を固めました。

木曽川渡河

 東軍は清洲で軍議を開き、8月21日木曽川の渡河を決定。

 上流は河田島(笠松の対岸あたり)から池田輝正軍9千余人

 下流は尾西市の起(竹鼻の対岸あたり)から福島正則軍9千余人の総計1万8千人で一気に渡河する事にしました。
 (兵力は三万とも言われていますが正確には不明です)

歴史に名を残す戦い

 特に笠松の米野に布陣した百々綱家(とどつないえ)は勇猛でならした武将で水際で一斉射撃を加え大群の池田勢を何度も撃退しましたが数に勝る東軍に押され、岐南町印食(いんじき)の閻魔堂に陣を張っていた岐阜城の総大将「織田秀信」の元へ敗走し、その後立て直しのため、ともども岐阜城へ引き上げました。

 このときの激戦は関ヶ原合戦以上にすざましい戦いだったと言われています。

これが「米野の戦い」です

この戦いの後、先の「乱闘橋の戦い」と「閻魔堂炎上」につながります。
(もう一度 戻って確かめてください)

目標は岐阜バス「東米野」です

近くに史跡案内があります。猿尾とは?
「猿尾」と言うのは川の流れを緩めるために
堤防を湾曲させます。
これが「猿の尾」のようですので「猿尾」と呼ばれます。

手斧(ちょうな)の猿尾
大正時代までは、木曽川の本流がこの付近では堤にそって流れていました。
 そのため、本堤防を守る必要から、この猿尾堤がつくられました。
 長さ200m程の猿尾堤の南側は、石組づくりとし、川岸には大きな石と松丸太で沈床(チンショウ)がめぐらされていました。 

「米野の戦い木標」の北東250mにあります

米野の戦い供養碑

羽島郡笠松町米野字高瀬
(米野墓地)

北緯

35

22

33.8

東経

136

49

08.2

史跡「米野の戦い跡」
慶長五年(1600年)八月二十二日(今の暦で言うと九月二十九日)、木曾川を渡った東軍の池田輝政ら一万八千と、
是を迎え撃つ西軍の百々綱家(どどつないえ)ら岐阜の城兵三千二百は、この付近で激しく戦った。
これが関ヶ原合戦の前哨戦となった「米野の戦い」でした。

東軍の取った二百二十七の首は円城寺に葬られました。
岐阜城兵の半分が戦死したとも伝えられます。
東軍にも多くの戦死者が出ました。

翌日、東軍は岐阜城を攻め落とし、東西二十万の軍勢が関ヶ原に集結することになります。

今も東軍の一番槍「大塚権太夫」の墓は「無動寺」に、
また西軍の飯沼小勘平の墓は此処の北にあります。

「米野戦供養碑」の北150mくらいにあります。

西軍の飯沼小勘平の墓

羽島郡岐南町平島1丁目

北緯

35

22

41.3

東経

136

49

09.7

飯沼小勘平長資の墓
飯沼小勘平長資は、下総(しもうさ)の国(千葉県)から出た
源氏の武将で、その頃、岐阜城主であった織田信長に仕えていた
池尻城主の飯沼勘平長実の子です。

関が原合戦が始まる前、慶長五年八月の終わり、米野の戦いで
秀信側の西軍は、木曾川の北岸に七千人で陣をとり、
東軍は池田輝政を先鋒とした一万八千が川島から木曽川を
越え、両軍は米野・平島辺りで激しい戦いを繰り広げました。
飯沼勘平長資は、この戦いで、力一杯戦い最期を遂げました。

時は八月二十一日、勘平二十一歳のときでした。

moriy@シルバーの疑問
以上の情報は現地の説明板などにより収集したものですが、池田輝政は木曽川左岸の河田村付近から
渡河し、待ち構える百々綱家らと激戦を交え「米野の戦い」を勝ち進んだとあります。
しかし、ここよりズーと木曽川の岐阜県笠松の対岸には「高橋源左衛門旧居跡」の説明にはこの地
(一宮市北方町宝江)から池田輝政軍一万八千余を渡河させのちに御船守役、恩給、苗字帯刀などの恩賞にあずかったと
あります。現在証拠が現存する場所を下図により示しましたのでいずれが正しいかご判断をお任せします。

宝江の渡しの詳細地図

宝江渡船場跡

一宮市北方町木曽川

北緯

35

21

35.5

東経

136

45

47.8

堤上にはの小さな「高橋源左衛門旧居跡」の
説明板以外には何もありません

               「宝江渡し」 起源
 慶長五年(1600)八月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際東軍の先鋒池田輝政は一万八千の軍勢を率いてこの地に到着木曽川越えは遅々として進まず、北方の高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門(当時は苗字は無かった)の機転により滞留無く渡河し、両名は、その功により御船渡守として、船頭給、二十八石五斗と苗字帯刀の恩賞を受けました。
                      「高橋源左衛門旧居跡」
 北方宝江の人高橋源左衛門は、広瀬嘉右衛門と共に、慶長五年(1600年)8月関ヶ原の合戦前、池田輝政率いる一万八千の軍勢の木曽川越えを助け、さらに加納への近道も案内し、岐阜城攻めに比類なき軍功を上げました。
 その功績により、黄金十両、刀一振り、船頭給28石5斗が与えられました。
 以後、苗字帯刀を許され宝江の御渡船守として明治初期まで続きました。
  旧居跡は現在、宝江ゲートボール場となっています。

次の二十三日の戦況図

米野の戦いのあと池田輝政は軍は岐阜城へ向かって北上しましたが正午ころ「印食(いんじき)八剣神社」
で一休みしたようです。

東軍池田輝正1万8千余印食八剣神社で一服

印食八剣神社

羽島郡岐南町みやまち四丁目

北緯

35

23

09.0

東経

136

46

45.7

八剣神社

 崇神は日本武尊で、伊吹山へ賊征伐に向かう折りに此の地で休息されたのが縁起となっています。
 長い参道の向こうに鳥居が有り、また参道が続きます。
 その間を東海道線が通っています。

池田輝政「鎧架けの松」
 夏の暑さにたまらず、境内の松に鎧を掛けて一休みしました。
 鬱蒼とした境内の木陰で大勢の兵士が次の戦いに備えてしばしの休息をむさぼったと思われます。

「鎧かけの松」碑

「鎧架けの松」は?
 
当時の松も巨木となりその後も境内の日陰を作っていましたが近年の「松食い病」によりおかされ次々と枯れてしまい現在は二代目が成長中です。

竹鼻城攻撃の福島正則軍と合流
 池田輝政軍が負傷者の手当や昼食、休息をとるまもなく下流から渡河した、福島軍がほとんど無傷で到着しました。
 その上、西軍(大垣城)から竹鼻城防戦に来た援軍も福島正則と旧知の仲のため竹鼻城が落城すると東軍に加わり(寝返り)増軍してこの地まで駆けつけました。

か細い2代目松が代役を。

織田軍体勢を整える
 笠松「米野」上陸地点で防御する計画が、数倍の池田軍には敵わず、前線の家臣「百々綱家」軍は敗退して主君織田秀信が陣を布く領下閻魔堂まで引き上げてきました。
 「閻魔堂」の前を流れる幅数間の境川を防衛戦として防御する予定でした。
境川に架かる橋は、小さな板橋があるのみでした。
 頼みの鉄砲隊は米野の戦いで多くを失い、この板橋で敵を絞って撃退する作戦でした。
 この激戦が後に、
「乱闘橋の闘い」と言われる戦いでした。

岐阜市下川手にある「閻魔道」

閻魔堂縁起
 織田秀信が陣を敷いた閻魔堂は「室町時代」の1353年に時の守護職「土岐大膳太夫頼康」(美濃・尾張・伊勢の三国の大守護職)が長森城から、この地に写り「革手城」をつくり、その鬼門除けに建立ししたのが縁起です。

土岐頼康公自ら大王像を
 閻魔像は1368年に守護職が自ら刻んだ像と言われています。

土岐氏自らが刻んだと言われる

この合戦の一番の激戦と伝えられのは、輝政率いる一万八千が更に軍を進め岐南町八剣神社に陣を構え
印食(いんじき)から領下(りょうげ)の間を流れる境川(旧木曽川)に沿って岐阜方最後の抵抗を行いました。
「閻魔堂」炎上
 この戦いで「閻魔堂」は炎上し、閻魔大王像も焼失しました。

当時、境川には「板橋」が架かっていてこの付近において両軍は壮烈な激戦を展開し数百の戦死者を出しました。
それ以後、村人はこの橋を「乱闘橋」と呼んでいます。
戦いのあと、敵味方の霊を供養するため「怨観平等」の宝筺印塔を建立して後世に悲惨な戦史を伝えることにしました。

鴨の群が遊ぶ境川の「乱闘橋」付近
乱闘橋供養塔
 嵐のごとく両軍の軍勢は過ぎ去り、翌日には岐阜城の攻防となります。
 戦いのあと放置されたままの戦死者を地元民は弔い橋の袂に供養塔を建立しました。
 その後、誰言うと無く橋の名前は「乱闘橋」と言われるようになりました。
 現在は河川改修により橋の位置は変わり乱闘橋供養塔は「境川」から少し離れた位置にあります。

乱闘橋供養塔と由来碑

「境川」は昔の「木曾川」

 木曽川は昔、多くの分流に分かれていました。
 本流はこの境川だったようです。

 このため美濃藩と尾張藩の境を流れるので「境川」と云われました。

ここでもう一度、全体の位置関係を地図で示します

米野の戦いのち

織田秀信、二日後には出家(織田信長の孫で弱冠19歳)
 織田秀信の敗因は敵の半分勢力を各地に分散させたためで、特に犬山城に布陣した軍は一兵も動かさぬ間に戦いの
圏外に取り残されてしまいました。

 翌22日には岐阜城も落ち織田秀信は信長の孫であるので一命は助けられその日の内に出家して高野山へ流されました。
 また、秀信の重臣だった百々綱家(とどつないえ)も池田輝正・福島正則側の家臣に多くの故知があり家臣として働くことで、
簡単に家康側に付いてしまいました。

西軍の将、石田三成の誤算
 大垣城の石田三成は、出先の城「岐阜城」「竹鼻城」「犬山城」が役に立たず「大垣城」が孤立してしまいました。
 
その上、犬山城の1,700人の兵は東軍に付いてしまい、唯一頼りの織田秀信は緒戦二日目で出家してしまい、
ここで大きく予定が狂ったわけです。

「河渡川の戦い」
 
慶長5年8月23日の岐阜城攻撃に間に合わなかった、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎などが西に転じて河渡川(現在の長良川で当時は江戸=ごうど、や江渡=ごうどなどとも言われていました)を渡河しようとして戦いになりました。
石田三成あわてる
 大垣城にいた石田三成は竹鼻城落城、領下「閻魔堂」陣の織田秀信敗退の報により、大垣城進攻阻止のため
 墨俣に津島維新を送り美濃路をかためさせ、
 黒田長政、田中吉政、藤堂高虎西進には、河渡川右岸に、舞兵庫、森九兵衛、杉江勘兵衛に兵1,000を与え陣を構えさせた。

渡河開始
 しかし、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将は、当日の濃霧を利用して、西軍に銃撃を加え一斉に渡河を始めました。
 三将の軍は広く分散にて渡河を始めため兵力に差のある西軍は防戦一方で、やがて敗退し呂久(ろく)川(現在の揖斐川)まで撤退します。

赤坂へ布陣
 大垣城から石田三成も小西行長を引き連れ、沢渡村(現在の大垣市三城)まで出て陣を布いたが、呂久川も突破した池田ら三将は大きく北を経由して十六条村美江寺を経て赤坂まで進み布陣しました。

情報の早さ
 黒田長政ら三将は8月23日に赤坂へ着いた報告を、当時まだ江戸にいた家康の元へ報告し、家康は二十八日に”9月1日に江戸を出る”と返事しています。( 5日間で江戸まで情報を送っていることになります。)

池田長政、開運の渡河作戦
 岐阜城攻撃に遅れた黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将はこの渡河作戦を家康から高く評価され、難儀をした「岐阜城攻撃」の福島正則、池田輝政より加増額が格段によかった。
 黒田長政は合戦の帰りに「乙津寺」に寄り、家康から賜った「野太刀」一振りと「瀬踏開運地蔵画像」を寄進しています。
 それは、この渡河作戦成功の報を、いち早く江戸の家康に知らせ、家康に決断をさせた功績のためと思われます。
 大した抵抗もなく渡河し大出世をした池田家の家臣は参勤交代のおりには、わざわざ遠回りして、この寺へお参りしたと言われています。

岐阜空襲と「野太刀」
 家康拝領の「野太刀」は先の戦災により焼失したようです。

「河渡川の戦い」
 
慶長5年8月23日の岐阜城攻撃に間に合わなかった、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎などが西に転じて河渡川(現在の長良川で当時は江戸=ごうど、や江渡=ごうどなどとも言われていました)を渡河しようとして戦いになりました。
石田三成あわてる
 大垣城にいた石田三成は竹鼻城落城、領下「閻魔堂」陣の織田秀信敗退の報により、大垣城進攻阻止のため
 墨俣に津島維新を送り美濃路をかためさせ、
 岐阜からの黒田長政、田中吉政、藤堂高虎西進には、河渡川右岸に、舞兵庫、森九兵衛、杉江勘兵衛に兵1,000を与え陣を構えさせた。

渡河開始
 しかし、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将は、当日の濃霧を利用して、西軍に銃撃を加え一斉に渡河を始めました。
 三将の軍は広く分散にて渡河を始めため兵力に差のある西軍は防戦一方で、やがて敗退し呂久川(ろく)(現在の揖斐川)まで撤退します。

赤坂へ布陣
 大垣城から石田三成も小西行長を引き連れ、沢渡村(現在の大垣市三城)まで出て陣を布いたが、呂久川も突破した池田ら三将は大きく北を経由して十六条村美江寺を経て赤坂まで進み布陣しました。

情報の早さ
 黒田長政ら三将は8月23日に赤坂へ着いた報告を、当時まだ江戸にいた家康の元へ報告し、家康は二十八日に”9月1日に江戸を出る”と返事しています。
 5日間で江戸まで情報を送っていることになります。

池田長政、開運の渡河作戦
 岐阜城攻撃に遅れた黒田長政、田中吉政、藤堂高虎の三将はこの渡河作戦を家康から高く評価され、難儀をした「岐阜城攻撃」の福島正則、池田輝政より加増額が格段によかった。
 黒田長政は合戦の帰りに「乙津寺」に寄り、家康から賜った「野太刀」一振りと「瀬踏開運地蔵画像」を寄進しています。
 それは、この渡河作戦成功の報を、いち早く江戸の家康に知らせ、家康に決断をさせた功績のためと思われます。
 大した抵抗もなく渡河し大出世をした黒田家の家臣は参勤交代のおりには、わざわざ遠回りして、この寺へお参りしたと言われています。

黒田柳
慶長五年(1600)八月二三日、西軍方の岐阜城攻めが行われ、この合戦に間に合わなかった黒田長政・藤堂高虎らの東軍は西進を開始、鏡島地内の長良川まで来た。
対岸の河渡には西軍の石田・島津が布陣していた。
長良川は増水していたが東軍は敵前渡河を強行、西軍側の陣地を強襲した。
黒田軍は現在の河渡橋上流の上河渡を目指し渡河を開始した。しかし、西軍の防戦にはばまれ、右堤防に取り付けなかった。
黒田長政は岸に生えていいた柳の老木に槍をあてて、這い上がり勝機をつくったと言われています。
明治の頃まであった
以後、福島藩士らは参勤交代の折などに回り道をしてここに立ち寄り藩主ゆかりの柳の枝を折り土産にしたそうです。
「黒田柳」とよばれ、明治の頃まで枯死寸前の老木が右岸寄りの川原にあったといわれています。

岐阜空襲と「野太刀」
 鏡島弘法「乙津寺」に黒田長政から寄進された家康拝領の「野太刀」は岐阜空襲により焼失したようです。

わき道へそれていましたが往還へ戻って「閻魔堂」から約310mほど進むと右側に上神明神社があります

上神明神社

岐阜市上川手

北緯

35

23

42.8

東経

136

46

38.2

子供の遊び場
天照大神を主祭神とし、伊勢神宮を総本社とする神社です。
近世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、
新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになりました。

上神明神社から約30mほどでJR東海道本線のガード下をくぐり、
さらに330mほど進むと石切神社の参道が右にあります。

石切神社

岐阜市下川手

北緯

35

23

29.4

東経

136

46

21.6

長い参道170mほどあります
物部氏の有力支族である穂積氏が祭神を祀ったとされ、物部氏ゆかりの神社です。
何故ここにお祀りしてある?
石切神社は関西地方に多くこの地との言われは不明です。
石切神社の「お百度参り」はご利益があるとして全国的にも有名となっています。
また、「デンボ(腫れ物)の神様」として知られますが、
腫れ物の治癒に卓効があるとして信仰されるようになったのは昭和時代になってからです。

社紋「反り桔梗」

石切神社参道から約80mほどで名鉄名古屋本線の踏み切りを渡ると
30mほどで鮎鮨街道追分地蔵堂に出ます。

下川手往還南地蔵堂

岐阜市下川手

北緯

35

23

26.0

東経

136

46

18.0

往還から鮎鮨街道へ合流します

ここから先は2頁後の鮎鮨街道(笠松街道)で案内します

とりあえず中山道と往還の追分地蔵堂まで戻りましょう。

中山道と往還の追分

岐阜市領下(りょうげ)

北緯

35

23

51.2

東経

136

47

00.2

追分に近づくと地蔵等が見えてきます

明治九年一月建之
遠藤平左エ門

伊勢・名古屋 ちかみち
笠松まで一里(3,927m)

木曽路
せき・上有知(かみうち=美濃市)・郡上道

西京道
加納宿まで八丁(880m)
左の道:「伊勢・名古屋ちかみち」(往還のこと)
真っ直ぐ:「西京道」(中山道西へ)        
手前:「木曽路」(中山道東へ)         

では中山道を西へ進みましょう

「往還北地蔵堂道標」から西へ80mほどの左側に八幡神社があります。
(往還の時に案内しました)

御日陰の松
八幡神社

岐阜市領下(りょうげ)町

北緯

35

23

50.8

東経

136

46

58.8

日陰の松
大正天皇が行幸のおり、暑い夏に日を避けるため
休憩の時、日陰にされた松が境内にありましたが
今は枯れて切り倒されたようです

10年くらい前には松はありました

最近の画像は待つの切株が残るだけです

「日陰の松の八幡神社」から500mほど進むと「領下往還南」交差点へ出ます

この辺りは門構えの立派な家が軒を並べています。

「領下往還南」から410mほどの右に都市景観重要建築物「森邸」がります

森 邸 高札場跡

岐阜市上川手

北緯

35

23

57.7

東経

136

46

21.3

茶所に入ると岐阜市指定の「都市景観重要建築物」の森川邸があります

茶所の「景観重要建造物」

 茶所へ入ると岐阜市が

「景観重要建造物」に指定し

た立派な建物がが右手に

見えて来ます。

1ブロック全部が森川邸です

  森正則邸(上川手465)前は渋滞

岐阜市教育委員会発行の加納城下町MAPによると、この屋敷付近に「高札場」があったようです。

森邸から約50mほどで名鉄本線の踏切を渡ると左側に茶所「中山道加納宿」道標があります

茶所「中山道加納宿」道標

岐阜市加納八幡町茶所(ちゃじょ)

北緯

35

23

57.8

東経

136

46

18.9

名鉄電車の「茶所」踏切

踏切を渡ると道標があります

茶所「中山道加納宿」道標から約40mほどで鮎鮨街道と中山道の分岐三叉路へ出ます
この三叉路の南にぶたれ坊があります

ぶたれ坊
(妙寿寺)

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

57.4

東経

136

46

17.0

「ぶたれ坊」は茶所薬局の隣家の軒下にあります。

「ぶたれ坊」の基壇脇の道標には
「天保十二年辛丑十一月 鏡岩濱之助内建立」
と他の面には
 東海道いせ路 なごや、きよす、みや、加○○末川
 
江戸木曽路 みのぶさん、いぬやま、ぜんこうじ、うぬま
 
京都 大坂 西国道 下の文字は読めない

笠松街道
 ここを南に進む道が笠松街道です。

中山道の枡形に入る手前にある「ぶたれ坊」

上には「鏡」 台座には「鏡岩濱之助」

「ぶたれ坊」と茶所
この、「ぶたれ坊」と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで力士になりましたが、土俵の外での素行が悪かったことを改心して
寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて、罪滅ぼしをしました。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。

ここの少し北側にある東西の通りは、昔の中仙道であり、加納宿として栄えていました。
江戸時代には多くの人達が訪れたことでしょう。
現在では、歴史的な町並みと地名などに当時の様子を伝えたいますが、ここにあった「妙寿寺」は廃寺となり、
「ぶたれ坊」の像は岐阜市南口に近い加納伏見町の「妙泉寺」に移されています。

ぶたれ坊のいわれ
脇の道標には「天保十二年 鏡岩濱之助内建立」とあります
鏡岩は関取でしたが大変行状が悪く、改心して自分の像を作り旅人に叩いてもらい罪滅ぼしをしたそうです。

しかし、この碑は「濱之助内」とあるので関取が没後、奥様が建立したのではないでしょうか。

鏡岩濱之助内建立とありますので
濱之助の奥さんが建立したと思われます。

江戸木曽路(中山道)
東海道伊勢路(笠松まで笠松街道)

ぶたれ坊の前の道は鮨街道(岐阜街道・笠松街道・名古屋街道などとも呼ばれています)です

   中山道加納宿以西の脇街道
 加納宿からは鮎鮨街道(岐阜街道・名古屋街道)といわれる清州宿手前の四ツ家追分(垂井宿からの美濃路との合流点)までの街道が岐阜町から通っています。
 次ページ以降で「鮎鮨街道」を「岐阜町と鮎鮨街道」・「鮎鮨街道と笠松湊」で脇街道を紹介します。

次のページで加納宿へ入る前に「鮎鮨街道」を案内したいと思います。

街道コラム

【高札場】

 村の入り口や中心の目立つ場所に幕府からの禁制や通達事項などをしるした高札を掲げた場所をいう。
 宿場にも多く設置され、各宿村間の里程測定の拠点でもあったので、移転はもとより、高札の文字が不明になったときでも、領主の許可なくしては墨入れもできなかった。

中山道追分宿高札場

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。