水の便が悪い各務原台地を過ぎると、かっては木曽川の本流で尾張と美濃の境だった境川脇を
通り領下(りょうげ)を過ぎ加納城下町の加納宿へ入ります。
六十九次 |
岐阜県岐阜市 美濃国 名鉄名古屋本線茶所駅下車 |
「細畑一里塚」巻は、「手力の枡形」と手力雄神社の火祭り、切通の由来、長森城址と切通陣屋跡の切通観音、
民間人の努力で残った「琴塚古墳」、人間の寿命を決めた女神「石長姫」を祀る「伊豆神社」、領下(りょうげ)の「明治水看板」、
「細畑一里塚」、「往還北地蔵堂道標」、織田信秀の閻魔堂本陣、乱闘橋戦い供養塔、米野の戦い、河田の渡河戦、
池田輝政鎧掛けの松、長森城址と切通陣屋跡、大正天皇の御日陰の松、領下往還南信号、景観重要建造物「森邸」、
笠松街道分岐「ぶたれ坊」等をGPS位置情報と共にご案内します。
中山道は岐阜市へ入ります
「細畑一里塚」巻で紹介する中山道区間図(赤線が中山道) |
「枡形」とは 本来は城内の「一の門」と「二の門」の間に四角い広場を設け攻め手の勢いをそらす目的の場所を言います。 街道をクランク状に直角に曲げ見通しの利かない様にしてある場所も「枡形」と言い、、敵の軍勢が街道を 進むとき、惑わせたり、勢いを削いだり、待ち伏せをするために設けられました。 |
「細畑一里塚」の巻案内図(1) |
「高田橋」から「長森細畑交差点」まで約1,980m |
境川に架かる「高田橋」から約1,140m西進すると手力神社の枡形へ来ます。
手力の枡形 岐阜市蔵前四丁目 |
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中山道は右へ曲がります。 左には少し鳥居が見えますが手力雄神社の参道です |
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長森の「枡形」と傾いた道標
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手力神社の鳥井脇の電柱の根元に道標があります。 |
傾いたまま舗装されています。 |
「左 木曽路」だけで右はなし |
道標から木曽路方面を見た街道 |
一の鳥居をくぐって東へ進むと二の鳥居があります | 二の鳥居の脇には神輿を休ませる「御旅所」があります |
中山道船旅時代 当時は一の鳥居は美濃赤坂にあったといわれます。それは美濃赤坂から鵜沼まで船航時代の名残といわれています。 その時の二の鳥居は現在の石の鳥居(中山道と神社参道の境に建つ鳥居)。三の鳥居はこの朱の鳥居でした。 裏に流れる現在の境川 |
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岐阜長森手力の火祭り(G点)
岐阜市長森蔵前にある「手力雄神社」では毎年4月に盛大な”手力の火祭り”が行われ大勢の見物人でにぎわいます。 九つの氏子が担ぐ御輿が境内に入ると、高さ20mの御神灯に次々と点火され爆竹が響き滝花火が御輿を担ぐ裸男に降り注ぎます。 |
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最近本殿が建て替えられたようです 古来、都に軍勢が上る時、東海道から東山道(今の中山道) に移るには木曽川渡河点として必ず長森を通ることから美濃 側防御拠点として「手力雄神社」が御鎮座されました。 後に土岐頼遠が長森城を築くのも同じ趣旨でした。 |
参道近くにある豪商宅
境川と回船問屋の繁栄 |
裏に流れる現在の境川 |
「枡形」を過ぎ約100m進むと「浄慶寺」に来ます。
浄慶寺 岐阜市切通六丁目 |
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約30m隣の金融機関まえに「切通」の説明版があります
切通(きりどおし) 岐阜市切通六丁目 |
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切通(きりどおし)の由来 |
「立場」と「茶屋」 「立場」(たてば)は街道沿いの旅人が休むところを言う。 お茶、一膳飯、お酒などを売っていました。 「立場」は宿場の端のほうにあるものと、宿と宿の間にある茶屋も「立場」と呼ばれていました。 |
「切通」を過ぎ、さらに西に約180m進むと、右に狭い道があり曲がり約30m進むと「切通観音」があります。
切通観音 岐阜市切通六丁目 |
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切通観音(長森城址)の場所は分かりにくいので参考にして下さい |
電信柱脇の1mほどの道ですので注意して見つけてください | 曲がって入ると正面に観音碑か見えます |
切通観音 |
長森城由来
切通陣屋の歴史 |
「切通観音は長森城址」の碑 |
切通から北約2.2kmに琴塚古墳がありますのでご案内します
いち民間人の努力で残った 岐阜市琴塚三丁目 |
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保存できたのは夢枕に立った女性 |
「琴塚古墳」の周辺には、前方後円墳と円墳で構成される多数の古墳群がありました。 これらの古墳は史跡に指定されるまで荒らされたり、開墾されたりして壊されました。 それらの古墳から出土した鏡や鏃(やじり)石斧(いしおの)などは現在集められ保管されています。 |
岐阜県内では3番目の大きさ |
古墳の築造時期とは合わない |
宮内庁が陵墓として管理するわけでもないのに、前方部の正面が拝所のように整備されています。 |
あまり大きいのか、整備されていない性か周囲を巡っても大きさや輪郭が分かりません | |
琴塚古墳 東から 大正14(1925)年3月24日 |
同上 2003年2月24日 |
保存できたのは夢枕に立った女性 |
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琴塚古墳正面 南から 大正14(1925)年3月24日 |
同左 2003年2月24日 |
もう少し中山道から離れた関市千疋に平清盛に敗れた源頼政の首塚を案内します。
源頼政公首塚 |
源頼政首塚がある 岐阜県関市千疋810 |
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蓮華寺概要 蓮華寺の創建は治承4年(1180)、源頼政が以仁王と共に平家打倒の為、挙兵しましたが宇治平等院の戦いで敗れ自害、その際、家臣が頼政の首をこの地に埋葬し首塚を築いたのが始まりと伝えられています。 その後、頼政の冥福の為、寺院が建立され、戦国時代には織田信長などに仕えた石河家の菩提寺として庇護されます。 境内の西にある石河家菩提所は関市指定史跡に指定されています。 美濃新四国八十八ヵ所霊場第八十四番札所。(現地説明板より) |
農道脇に「源頼政公史跡・金光山蓮華寺」の石柱とバス停「蓮華寺」から山側へ曲がります。 |
広い駐車場の上に山門があります。 |
山門脇を左へ入ると亀の上に立派な石碑があります。 |
亀の石碑脇の道を50mほど登ると首塚があります。 |
灯篭の奥に首塚があります。 |
平清盛に敗れた源頼政 |
源頼政首塚碑の奥に五輪の首塚があります。 |
源頼政の略歴 保元の乱の翌年、保元 3年(1158年) しかし、以仁王と頼政の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝・木曽義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。(ウィキペディより) |
中山道へ戻りましょう
「切通観音」を中山道へ戻り、さらに西に約250m進むと、右に「伊豆神社」が見えてきます。
伊豆神社 岐阜市切通三丁目 |
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岐阜市長森町石長(いしなが) |
伊豆神社の由来記 |
此のやしろは以前は長森町石長にあったのを此の地に移しました、 |
神社の横の「馬頭観世音」の脇に「道標」がありますが、字は読みとれません。 |
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道標のある、このあたりからは |
人間の寿命を決めた神様「石長姫」 「伊豆神社」は大山祗(おおやますみ)の神の娘「石長姫」が祀られていますが、この神だけを祀る神社は全国でも珍しいそうです。 「大山祗神社」の本宮は四国愛媛県越智郡大三島町にあり、「源義経」のはじめ「国宝の鎧甲」の八割までが同社に奉納されていると言われる有名な神社です。 合戦に出るとき”勝利したら甲冑を奉納します”と祈り多くの武将が合戦に勝ち奉納したと言うことです。(四国架橋ができましたので一度行って下さい) |
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馬頭観音の道標 岐阜市切通(きりどおし)三丁目 |
後世に作られた複製道標です |
荷駄を運ぶ馬方達の信仰を集めた馬頭観音も今ではひっそりと。 |
馬頭観音像 |
伊豆神社から約280mほど進むと「中野上印食線」との長森細畑交差点へでます
長森細畑交差点 岐阜市細畑四丁目 |
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次は「長森細畑交叉点」から「鮎鮨街道分岐点」(ぶたれ坊)までを案内します
「細畑一里塚」の巻案内図(2) |
「長森細畑交差点」から「鮎鮨街道分岐点」(ぶたれ坊)まで約2,020m |
長森細畑交差点を西へ約100mほど進むと右側に「ゑび寿神社」があります
ゑび寿神社 岐阜市細畑四丁目 |
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「ゑび寿神社」から約70mほどに眞宗寺かあります
眞宗寺 岐阜市細畑4丁目 |
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眞宗寺から中山道を西へ約400m進むと長森細畑へ入り国道156号線の「長森細畑」交差点へ出ます。
国道156号線 岐阜市長森細畑 |
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交差点を横断すると再び古い家並みが続く厚見村へ入ります。 此の交差点付近は「印食」(いんじき)と言い古くからの地名です。 |
「印食」交差点からまもなく「細畑一里塚」へ、そして「領下」「茶所」「東番屋跡」を通り「加納宿」へ入ります。
此のあたりの地名はそれぞれ由来があり歴史の古さを感じさせますが、
新しい路が出来たりして、行政が地名変更を行いますのでだんだん由緒ある地名が消えていくようです。
国道156号線の「長森細畑」交差点を約140m進むと右側(北側)に古風な飲料水の看板があります。
「明治水」看板 岐阜市細畑西浦 |
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往復六車線の国道交差点(J点) 左の写真のは国道156号線交差点から撮したものです。 交差点を過ぎると、とたんに静かな旧街道となります。 看板「明治水」(K点) 交差点から西へしばらくくと、途中の空き家の上にある、古い看板「明治水」? |
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進盛堂 小木曽薬局
母屋 |
「明治水」は今のコーラーかカルピスのようなものだったのでしょうか?立派な看板ですので、 |
この家もあとしばらくで無くなるのではないでしょうか。 |
「明治水の看板」から約100mで細畑の一里塚へきます
細畑一里塚 岐阜市長森細畑西浦と下川原 |
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細畑の「一里塚」
街道の両側に五間(約9m)の土手を築き榎木などを植えられていました。 江戸から京都まで一里(3.9km)毎に設けられ、旅人の安らぎと目安になっていたそうです。 |
中山道の北側の榎木(えのき)の一里塚 |
中山道の南側の榎木(えのき)の一里塚 |
「一里塚」の間隔 |
「岐蘇路安見絵図」(岐阜市歴史博物館 蔵)には 「立バ 新加納」の横に一里塚(新加納一里塚)が描かれ礼ます。 「高田村」(岐阜市高田)を経て「手力雄の宮」(手力神社)、「切通し」 次に一里塚(細畑一里塚)があります。 絵図には、次に「細畑村」(岐阜市細畑)、「河手村」(岐阜市川手)と続いています |
更に約130mほど進むと鮎鮨街道(笠松街道)への往還(近道)追分があります
往還北地蔵堂道標 岐阜市領下(りょうげ) |
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往還北追分け 厚見村から「川手」方面に抜け「笠松街道」に合流する近道「往還北」の追分け(c)で、地蔵様が祀られています。 脇に道標があり、 |
最近の映像 |
「西京」とは 兀(コツ、ゴツ) 往還 |
ここで中山道から反れて、あとで紹介する鮎鮨街道への近道(往還)を紹介したいと思います。
鮎鮨街道への往還案内図 |
中山道追分地蔵堂を左(南側)の道を約80m進むと御日陰の松のある八幡神社があります。
御日陰の松 岐阜市領下(りょうげ) |
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日陰の松 |
10年くらい前には松はありました |
最近の画像は待つの切株が残るだけです |
八幡神社から約230mほど進むと右側(北側)に閻魔堂があります。
閻魔堂 岐阜市領下(りょうげ) |
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閻魔堂縁起 |
現在は加藤健一氏宅に! |
閻魔堂保護と変遷 以後、歴代の守護職土岐氏より室町時代約180年間、寺領を与えられ手厚く保護されていました。 しかし、1542年に土岐氏は斉藤山城守秀龍(斉藤道三)により攻略されて土岐氏は滅亡。 革手城は廃城、寺領は没収となりました。 その後、閻魔堂は土岐頼芸、斎藤義龍公の家臣「加藤左太郎」が、縁あってお守りしてきました。 閻魔堂炎上 ご本尊ご帰還の不思議 |
ここで往還から外れて、上の「閻魔堂由来」にもある、近くにある「乱闘橋」を案内します。
往還案内図の「乱闘橋碑」の場所で往還からは境川の向こうですので分かりにくいので注意してください。
乱闘橋供養塔 岐南町八剣北3丁目 |
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お断り:以下に出てくる戦いでの兵力は現地に伝わる当時の記録を基にしてあるため各地の案内板により数字が違います。
境川に架かる「板橋」の攻防 東軍の先鋒隊長「福島正則」一万八千は羽島市竹鼻城を攻撃し、 しかし、織田秀信軍は、この「閻魔堂」に本陣を置を置くことを閻魔堂を御守する加藤家に書状を出し陣を張り、 この合戦の一番の激戦と伝えられのは、輝政率いる一万八千が更に軍を進め岐南町八剣神社に陣を構え印食(いんじき)から 当時、境川には「板橋」が架かっていてこの付近において両軍は壮烈な激戦を展開し数百の戦死者を出しました。 |
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乱闘橋供養塔 嵐のごとく両軍の軍勢は過ぎ去り、翌日には岐阜城の攻防となります。 戦いのあと放置されたままの戦死者を地元民は弔い橋の袂に供養塔を建立しました。 その後、誰言うと無く橋の名前は「乱闘橋」と言われるようになりました。 現在は河川改修により橋の位置は変わり乱闘橋供養塔は「境川」から少し離れた位置にあります。 |
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「境川」は昔の「木曾川」 木曽川は昔、多くの分流に分かれていました。 このため美濃藩と尾張藩の境を流れるので「境川」と云われました。 |
当日の状況を地図で説明します
慶長五年八月二十二日前哨戦の状況 |
米野の戦い |
関ヶ原の戦いの前哨戦 |
河田渡河戦跡 羽島郡川島町笠田町 |
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河田渡河戦 東軍(徳川家康軍)の池田輝政を先鋒とする浅野幸長・山内一豊・一柳直盛など一万八千余の一隊は、 八月二十二日、東軍の池田輝政は前進命令を下し、中洲「小屋場島」に陣を張りました。 (里伝えに、池田輝政が通行人の小屋から敵情をうかがい、旗を立てたということから 敵兵の小勢を知った東軍は、未だ夜の明けない内に一柳直盛を先頭に渡河戦を展開し激戦を交わした。 |
関ヶ原合戦の前哨戦「米野の戦い」 笠松町米野東部一帯は慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の折り、木曽川を渡ってきた東軍と、これを迎え撃つ西軍、岐阜城の軍勢とが激しくぶつかりあった激戦の地です。 池田輝政ら1万8千の東軍は旧暦8月22日朝、川を渡って、米野に上陸し合戦の後、次の日に岐阜城を攻め落とし関ヶ原に向かいました。 |
米野の戦い跡 羽島郡笠松町米野字黍島(きびじま) |
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信長の孫「信秀」の義理立てと「三成」の誤算 |
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米野の戦い 関ヶ原合戦の前哨戦(慶長5年)1,600年 石田三成は関東から東軍(徳川家康)の先鋒の軍勢が尾張の清洲に迫ったことを知って、近江の佐和山城を出て、8月11日城主、伊藤彦兵衛に大垣城を明け渡させ、これを拠点に濃尾方面の防備をすすめました。 まず、岐阜城へ1,700余人、犬山城、竹ケ鼻城へ鉄砲隊など総勢9千余人を送り防備を固めました。 木曽川渡河 東軍は清洲で軍議を開き、8月21日木曽川の渡河を決定。 上流は河田島(笠松の対岸あたり)から池田輝正軍9千余人 下流は尾西市の起(竹鼻の対岸あたり)から福島正則軍9千余人の総計1万8千人で一気に渡河する事にしました。 歴史に名を残す戦い 特に笠松の米野に布陣した百々綱家(とどつないえ)は勇猛でならした武将で水際で一斉射撃を加え大群の池田勢を何度も撃退しましたが数に勝る東軍に押され、岐南町印食(いんじき)の閻魔堂に陣を張っていた岐阜城の総大将「織田秀信」の元へ敗走し、その後立て直しのため、ともども岐阜城へ引き上げました。 このときの激戦は関ヶ原合戦以上にすざましい戦いだったと言われています。 これが「米野の戦い」です。 この戦いの後、先の「乱闘橋の戦い」と「閻魔堂炎上」につながります。 |
目標は岐阜バス「東米野」です |
近くに史跡案内があります。猿尾とは? |
手斧(ちょうな)の猿尾
大正時代までは、木曽川の本流がこの付近では堤にそって流れていました。
そのため、本堤防を守る必要から、この猿尾堤がつくられました。
長さ200m程の猿尾堤の南側は、石組づくりとし、川岸には大きな石と松丸太で沈床(チンショウ)がめぐらされていました。
「米野の戦い木標」の北東250mにあります
米野の戦い供養碑 羽島郡笠松町米野字高瀬 |
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史跡「米野の戦い跡」 東軍の取った二百二十七の首は円城寺に葬られました。 翌日、東軍は岐阜城を攻め落とし、東西二十万の軍勢が関ヶ原に集結することになります。 今も東軍の一番槍「大塚権太夫」の墓は「無動寺」に、 |
「米野戦供養碑」の北150mくらいにあります。
西軍の飯沼小勘平の墓 羽島郡岐南町平島1丁目 |
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飯沼小勘平長資の墓 関が原合戦が始まる前、慶長五年八月の終わり、米野の戦いで 時は八月二十一日、勘平二十一歳のときでした。 |
moriy@シルバーの疑問
以上の情報は現地の説明板などにより収集したものですが、池田輝政は木曽川左岸の河田村付近から
渡河し、待ち構える百々綱家らと激戦を交え「米野の戦い」を勝ち進んだとあります。
しかし、ここよりズーと木曽川の岐阜県笠松の対岸には「高橋源左衛門旧居跡」の説明にはこの地
(一宮市北方町宝江)から池田輝政軍一万八千余を渡河させのちに御船守役、恩給、苗字帯刀などの恩賞にあずかったと
あります。現在証拠が現存する場所を下図により示しましたのでいずれが正しいかご判断をお任せします。
宝江の渡しの詳細地図 |
宝江渡船場跡 一宮市北方町木曽川 |
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堤上にはの小さな「高橋源左衛門旧居跡」の |
「宝江渡し」
起源 |
次の二十三日の戦況図 |
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米野の戦いのあと池田輝政は軍は岐阜城へ向かって北上しましたが正午ころ「印食(いんじき)八剣神社」
で一休みしたようです。
東軍池田輝正軍1万8千余騎印食八剣神社で一服
印食八剣神社 羽島郡岐南町みやまち四丁目 |
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八剣神社
崇神は日本武尊で、伊吹山へ賊征伐に向かう折りに此の地で休息されたのが縁起となっています。 |
池田輝政「鎧架けの松」 |
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「鎧架けの松」は? 当時の松も巨木となりその後も境内の日陰を作っていましたが近年の「松食い病」によりおかされ次々と枯れてしまい現在は二代目が成長中です。 竹鼻城攻撃の福島正則軍と合流 |
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織田軍体勢を整える 笠松「米野」上陸地点で防御する計画が、数倍の池田軍には敵わず、前線の家臣「百々綱家」軍は敗退して主君織田秀信が陣を布く領下閻魔堂まで引き上げてきました。 「閻魔堂」の前を流れる幅数間の境川を防衛戦として防御する予定でした。 境川に架かる橋は、小さな板橋があるのみでした。 頼みの鉄砲隊は米野の戦いで多くを失い、この板橋で敵を絞って撃退する作戦でした。 この激戦が後に、「乱闘橋の闘い」と言われる戦いでした。 |
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閻魔堂縁起
織田秀信が陣を敷いた閻魔堂は「室町時代」の1353年に時の守護職「土岐大膳太夫頼康」(美濃・尾張・伊勢の三国の大守護職)が長森城から、この地に写り「革手城」をつくり、その鬼門除けに建立ししたのが縁起です。 土岐頼康公自ら大王像を |
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この合戦の一番の激戦と伝えられのは、輝政率いる一万八千が更に軍を進め岐南町八剣神社に陣を構え 当時、境川には「板橋」が架かっていてこの付近において両軍は壮烈な激戦を展開し数百の戦死者を出しました。 |
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乱闘橋供養塔 嵐のごとく両軍の軍勢は過ぎ去り、翌日には岐阜城の攻防となります。 戦いのあと放置されたままの戦死者を地元民は弔い橋の袂に供養塔を建立しました。 その後、誰言うと無く橋の名前は「乱闘橋」と言われるようになりました。 現在は河川改修により橋の位置は変わり乱闘橋供養塔は「境川」から少し離れた位置にあります。 |
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「境川」は昔の「木曾川」 木曽川は昔、多くの分流に分かれていました。 このため美濃藩と尾張藩の境を流れるので「境川」と云われました。 |
ここでもう一度、全体の位置関係を地図で示します |
米野の戦いののち 織田秀信、二日後には出家(織田信長の孫で弱冠19歳) 翌22日には岐阜城も落ち織田秀信は信長の孫であるので一命は助けられその日の内に出家して高野山へ流されました。 「河渡川の戦い」 渡河開始 赤坂へ布陣 情報の早さ 池田長政、開運の渡河作戦 岐阜空襲と「野太刀」 |
「河渡川の戦い」 渡河開始 赤坂へ布陣 情報の早さ 池田長政、開運の渡河作戦
岐阜空襲と「野太刀」 |
わき道へそれていましたが往還へ戻って「閻魔堂」から約310mほど進むと右側に上神明神社があります
上神明神社 岐阜市上川手 |
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子供の遊び場 |
上神明神社から約30mほどでJR東海道本線のガード下をくぐり、
さらに330mほど進むと石切神社の参道が右にあります。
石切神社 岐阜市下川手 |
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長い参道170mほどあります 物部氏の有力支族である穂積氏が祭神を祀ったとされ、物部氏ゆかりの神社です。 何故ここにお祀りしてある? 石切神社は関西地方に多くこの地との言われは不明です。 石切神社の「お百度参り」はご利益があるとして全国的にも有名となっています。 また、「デンボ(腫れ物)の神様」として知られますが、 腫れ物の治癒に卓効があるとして信仰されるようになったのは昭和時代になってからです。 |
社紋「反り桔梗」 |
石切神社参道から約80mほどで名鉄名古屋本線の踏み切りを渡ると
30mほどで鮎鮨街道追分地蔵堂に出ます。
下川手往還南地蔵堂 岐阜市下川手 |
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往還から鮎鮨街道へ合流します |
ここから先は2頁後の鮎鮨街道(笠松街道)で案内します
とりあえず中山道と往還の追分地蔵堂まで戻りましょう。
中山道と往還の追分 岐阜市領下(りょうげ) |
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追分に近づくと地蔵等が見えてきます |
明治九年一月建之 |
伊勢・名古屋 ちかみち |
木曽路 |
西京道 加納宿まで八丁(880m) |
左の道:「伊勢・名古屋ちかみち」(往還のこと) 真っ直ぐ:「西京道」(中山道西へ) 手前:「木曽路」(中山道東へ) |
では中山道を西へ進みましょう
「往還北地蔵堂道標」から西へ80mほどの左側に八幡神社があります。
(往還の時に案内しました)
御日陰の松 岐阜市領下(りょうげ)町 |
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日陰の松 |
10年くらい前には松はありました |
最近の画像は待つの切株が残るだけです |
「日陰の松の八幡神社」から500mほど進むと「領下往還南」交差点へ出ます
この辺りは門構えの立派な家が軒を並べています。 |
「領下往還南」から410mほどの右に都市景観重要建築物「森邸」がります
森 邸 と 高札場跡 岐阜市上川手 |
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茶所に入ると岐阜市指定の「都市景観重要建築物」の森川邸があります
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茶所へ入ると岐阜市が 「景観重要建造物」に指定し た立派な建物がが右手に 見えて来ます。 1ブロック全部が森川邸です |
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岐阜市教育委員会発行の加納城下町MAPによると、この屋敷付近に「高札場」があったようです。 |
森邸から約50mほどで名鉄本線の踏切を渡ると左側に茶所「中山道加納宿」道標があります
茶所「中山道加納宿」道標 岐阜市加納八幡町茶所(ちゃじょ) |
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名鉄電車の「茶所」踏切 |
踏切を渡ると道標があります |
茶所「中山道加納宿」道標から約40mほどで鮎鮨街道と中山道の分岐三叉路へ出ます
この三叉路の南にぶたれ坊があります
ぶたれ坊 岐阜市加納八幡町 |
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「ぶたれ坊」は茶所薬局の隣家の軒下にあります。
「ぶたれ坊」の基壇脇の道標には 「天保十二年辛丑十一月 鏡岩濱之助内建立」 と他の面には 東海道いせ路 なごや、きよす、みや、加○○末川 江戸木曽路 みのぶさん、いぬやま、ぜんこうじ、うぬま 京都 大坂 西国道 下の文字は読めない 笠松街道 |
中山道の枡形に入る手前にある「ぶたれ坊」 |
上には「鏡」 台座には「鏡岩濱之助」 |
「ぶたれ坊」と茶所 ここの少し北側にある東西の通りは、昔の中仙道であり、加納宿として栄えていました。 |
ぶたれ坊のいわれ
脇の道標には「天保十二年 鏡岩濱之助内建立」とあります
鏡岩は関取でしたが大変行状が悪く、改心して自分の像を作り旅人に叩いてもらい罪滅ぼしをしたそうです。
しかし、この碑は「濱之助内」とあるので関取が没後、奥様が建立したのではないでしょうか。
鏡岩濱之助内建立とありますので |
江戸木曽路(中山道) |
ぶたれ坊の前の道は鮨街道(岐阜街道・笠松街道・名古屋街道などとも呼ばれています)です
中山道加納宿以西の脇街道 |
次のページで加納宿へ入る前に「鮎鮨街道」を案内したいと思います。
街道コラム
【高札場】 村の入り口や中心の目立つ場所に幕府からの禁制や通達事項などをしるした高札を掲げた場所をいう。 |
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中山道追分宿高札場 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。