中山道六十九次のうち五十三宿(鵜沼宿)と五十四宿(加納宿)の間が四里十丁(約17km)と長く
途中各務原台地のため日陰もなく旅人は難儀をし、そのため「新加納、間の宿」が設置されました。

六十九次
のうち
五十三宿
五十四宿間

岐阜県各務原市

美濃国

JR高山線蘇原駅下車

「新加納、間の宿」巻は、山の前一里塚跡と播隆上人碑、地名「二十軒茶屋」、「六軒茶屋一里塚跡」、
各務野の「ねずみ小僧次郎吉墓」、新加納間の宿と一里塚跡」、新加納間の宿高札場跡、新加納間の宿西坂と松並木跡、
名古屋市長負担金拒否で話題の徳山ダムの領主・旗本徳山更木陣屋跡(徳山陣屋公園)、旗本徳山五兵衛が寄進した
石灯篭がある神明神社などと「謡峠一里塚」から「河渡一里塚跡」までの6区間の距離の測定実証をご案内します。

         

「鵜沼宿」を出ると中山道は国道21号線と重なり、ほとんど面影を残していません

この頁で紹介する中山道区間図赤線が中山道)
尾張領境界碑(前頁)〜高田橋(各務原市と岐阜市の行政境界)の約9,349m

各務原市は古代の古墳群の町です。
ここで中仙道を反れて中仙道近くの古墳群の一部を紹介します。
(この古墳群の他に百数十基があるそうです)

大伊木山町にある二つの古墳を紹介します。
大伊木山西古墳は県道95号線芋島鵜沼線沿いにあります。

大伊木山西古墳

各務原市鵜沼大伊木町

北緯

35

24

52.7

東経

136

56

43.8

 各務原台地の木曽川沿いには、古墳時代後期(6〜7世紀)に築造された古墳が多数分布している。
 その大部分は横穴式石室のある円墳で、その墳丘の直径は10bから20bである。
 現在墳丘は崩壊し覆土は流出して石が露出している。
 各務原市の遺跡台帳によれば、内部主体は式石室で玄室の長さ3.35b、幅2.3b、高さ2.3b、である。
 床には敷石、蒼ケは長さ5.5b、幅2bとなっている。
 近年、子供たちが中に入って遊ぶことがあったので、危険防止のために川砂を入れて塞がれてしまった。
                 (各務原市文化財を守る会)

続いて大伊木山西古墳の近くの稜南小学校にある大牧1号古墳を紹介します。

大牧1号古墳

各務原市鵜沼大伊木町
(稜南小学校内)

北緯

35

24

52.7

東経

136

56

43.8

稜南小学校 校門脇にあります。

玄室は覗ける様になっています

        付近の80基の古墳群の代表格古墳
 昭和57年に稜南小学校建設に伴ない発掘調査が行なわれた大牧1号古墳は、その各務原台地の南縁から木曽川にむけて突き出す大牧台地の北端部に位置しており、西方約300mに所在する「ふな塚古墳」(前方後円墳)とともに、総数80基以上からなる大牧古墳群からなる中心的な地位を占める古墳である。
 大牧1号古墳は、発掘調査の結果、墳丘の大部分が台地の地山を削って造りだされた直径約30mの円墳と推定され、墳丘の周囲には北部から東部、南部にかけて幅約5mの周濠が断続的に廻っていた。
 墳丘の内部には、南に開口する横穴式石室が構築されており、石室は奥行き約45m、幅約25m、高さ約3.5mを測る玄室と、玄室に通ずる蒼ケ部とからなり、玄室内には長さや区2.4m羽場や区1.2m高さ約1.3mの凝灰岩製の組合わせ式家形石棺がおかれていた。
 また、蒼ケ部の前面には、河原石によって側壁を築いた前庭部が付属しており、そこからさらに墓道と呼ばれる溝状の通路が墳丘南部の円濠を断ち切って南方に伸びていた。
 大牧1号古墳からは石室内部より多くの副葬品が出土ている。それらは土器・武器・武具類・馬具装備具に大別される。
 土器は須恵器と呼ばれる陶質土器で、五世紀末以降、全国的な横穴式石室の古墳への採用とともに、古墳副葬品としても普及したものである。
 武器武具類では、直刀・鉾(ほこ)・鉄鏃(てつぞく)・刀子(とうす)や挂甲(けいこう)と呼ばれる鎧・矢を収容する胡簶(ころく)などがあり、馬具には轡(くつわ)鐙(あぶみ)杏葉(きょうとう)・雲珠(うす)・辻金具・磯(いそ)金具などがある。 (現地説明板より抜粋)

各務原市古墳群から中山道に戻ります

尾張領境界碑がある鵜沼中学校から中山道へ出た交叉点から西へ1.3km進むと
中山道(国道21号線)がJP高山本線を越す箇所があります。
その陸橋を上らず、左の脇道を進みます。
50mほど進んだ左側の工場と倉庫の間に播隆上人碑があります。

中山道消滅区間 No.7

No.18 中山道車両通行不能区間

場所

各務原市鵜沼各務原4丁目

場所

各務原市鵜沼各務原
4丁目

国道21号線東口から

   
   
   

 

 

各務原市鵜沼各務原
4丁目

国道21号線西口まで

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

 

山の前一里塚跡
(播隆上人碑)

各務原市鵜沼各務原町4丁目

北緯

35

24

05.7

東経

136

54

41.7

赤点線
鉄道を横断するには陸橋の階段を登り渡る

槍ヶ岳開祖の播隆上人の碑

残念ながら播隆上人の碑は濃飛震災で真っ二つに折れたままです。

工場の倉庫に挟まれてひっそり建つ「播隆上人碑」
横から見ると二つに折れた碑を立てただけ。
こんな大きな石碑が折れる濃飛地震はすごい揺れだったと思われます。

一里塚跡でもある碑が「姫街道400年祭」に関係なく雑草に囲まれているのは残念です。

   揖斐郡の播隆上人
 播隆上人は揖斐郡揖斐川町三輪北新町にある「播隆山一心寺」の開祖です。
 一心寺は天保元年(1830)播隆上人の開基で春秋の彼岸に展示きれる地獄絵図はまこと心のすくむおもいで、この一心寺に詣でた人達の心に深い感銘をよび起します。
 この播隆上人は独修独行の念佛行者と言われ、山岳にその浄地をもとめまた槍ヶ岳・笠ヶ岳の開基でも知られています。   (揖斐小学校より歩いて十五)

播隆上人碑のある「山の前一里塚跡」から中山道(国道21号線)を西へ2.0km
立場(宿と宿の途中にある茶屋)「二十軒茶屋」(三ツ池交差点)へ出ます。

二十軒茶屋跡

鵜沼三ツ池町

交差点を挟んで「神明神社」と「長楽寺」があります

神明神社

各務原市鵜沼三ツ池町2丁目

北緯

35

23

58.2

東経

136

53

22.6

            三ツ池町文化財三ツ池神明神社拝殿基石
 拝殿創設は不詳ですが、明治35年(1902年)に再建された当時の神明神社拝殿の基石です。
 拝殿の規模は、正面五間、側面四間の本格的な舞台建築でまつりには村芝居が行われ区民の思い出深い拝殿出したが、昭和34年(1959年)9月26日の伊勢湾台風で境内の樹木の転倒により、拝殿は倒壊しました。(現地説明板より)

境内には立派なブロンズ製の神馬もあります。

三つ池神明神社の道を挟んで西側には長楽寺があります。

長楽寺

各務原市鵜沼三ツ池町2丁目

北緯

35

23

58.3

東経

136

52

19.3

交通が頻繁な交差点脇にあるので歴史あるお寺には思えません

「二十軒茶屋」の面影

名鉄各務原線には「二十軒」駅があります。

国道から1本裏道へ入ると昔ながらの、たたずまいが見られます。

国道沿いにも昔の面影が少しは残っています

二十軒茶屋跡から1.1kmで名鉄各務原線横断の陸橋を渡りますが中山道は分断されています

中山道は三柿野陸橋の脇を川崎重工の塀に沿って西へ進みますが行き止まりです。

中山道消滅区間 No.8

No.19 中山道車両通行不能区間

場所

各務原市蘇原三柿野

場所

各務原市蘇原三柿野

国道21号線東口から

   
   
   

 

 

各務原市蘇原三柿野

国道21号線西口まで

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

地名「三柿野」の由来
このあたりを「三柿野」と言います。三柿野の由来は明治七年に滝新田沢村が合併した時
それぞれの地区の頭文字を取って三柿野としたためです。

赤点線
鉄道を横断するには陸橋の階段を登り渡る

次は「六軒の一里塚」へ

広い国道に気をとられず中山道への道をご案内します。
上図の赤点をたどって下さい

A点:国道21号線分岐点
B点:六軒茶屋一里塚跡
C点:県道芋島・六条線との分岐点
D点:新加納一里塚跡
E点:新加納西坂松並木跡
F点:高田橋(各務原市と岐阜市の境界)

名鉄各務原線横断の陸橋から610mで中山道は国道から分かれます

A点
国道21号線分岐点

蘇原三柿野町

北緯

35

23

47.1

東経

136

52

16.4

 「鵜沼宿」から7km程度来たところの信号「蘇原三柿野町」

 A点(目印カープラザ各務原)で21号線は左に離れます。

 「中山道」はこの追分けを右にとって

 「航空自衛隊岐阜基地」の飛行場の北の

 商店街へ入ります。

国道21号線から分岐し354mほどに六軒茶屋一里塚跡があります

B点
六軒茶屋一里塚跡

蘇原六軒町3丁目

北緯

35

23

48.0

東経

136

52

10.7

各務原市「六軒茶屋一里塚跡」B点
 信号「蘇原三柿野町」分岐(追分け)から70m西へ進んだ所に、
ひっそりと木製の碑が立っています。

「一里塚」間隔検証

 ここから次の一里塚跡「新加納間宿」までは約3.7km

 (正確には一里は三十六丁、約3.927kmです)

 その次の「細畑の一里塚」間は4.1kmあります。
 (私の車で測定しましたが多少距離に差違があります)

 

一里塚跡の向かいが竹林寺です

佛国山竹林寺

蘇原三柿野町

北緯

35

23

48.8

東経

136

52

03.0

「六軒一里塚跡」碑の向かいは「佛国山竹林寺」

「六軒茶屋」跡

名残を残すのは地名だけのようです。

「六軒の一里塚跡」から280mほどで神明神社の前を通ります。

神明神社

北緯

35

23

48.1

東経

136

51

51.2

各務原市蘇原六軒町3丁目

中山道は各務原市の繁華街へ入ります。
神明神社から1.9kmほどで市民公園西の境川に架かる那加橋へ来ます。

市民公園

境川に架かる「那加橋」の手前を北へ曲がります

 「ねずみ小僧次郎吉の碑」は境川に架かる那加橋の東を境川に沿って北へ300mほど進み名鉄線踏み切りを渡りすぐに東へ曲がり那加文化洋裁学院と那加幼稚園駐車場と名鉄線各務原線の間の道を東へ150mほど進むとます。

北へ曲がると名鉄電車の踏み切りがあります。

踏み切りと幼稚園の間の狭い道を東へ進みます。

東へ進むと右手に名鉄各務原線
「しみんこうえんまえ」駅
のプラットホームが見えます。

その先に神明神社の境内があります。その片隅に「ねずみ小僧の碑」と「播隆上人碑」があります。

ねずみ小僧次郎吉の碑

番隆上人お名号石

各務原市那加門前町4丁目

北緯

35

23

51.5

東経

136

50

46.6

神明神社の境内東北隅に碑は並んであります。

「奉納 戌来沙典六十六?日本廻???
行者 江戸???」   と読めます。

 同じく街道沿いから移された「播隆上人」の門人が師を慕って立てたと言う名号碑もあります。

              碑の由来
 この義賊「ねずみ小僧」碑はかって、中山道沿いに1坪ほどの墓と古井戸とともにありましたが、
大正10年(1911)に岐阜高等農林学校が新設された時、現在の地に移されました。

 伝説では森の中にあった「いろは茶屋」の主人が宿泊する旅人を殺し、金を奪って居ました。
 ある娘が被害に合いそうになったが、旅の僧に扮した「ねずみ小僧」に助けてもらった。
 のちに、江戸へ奉公に出て、恩人が「ねずみ小僧」だったと知った娘が、ねずみ小僧の処刑を聞き、
碑を建てたということです。

境川の那加橋へ戻り西へ980mほど進むと中山道が県道から分かれます

C点
県道芋島・六条線との分岐点

那加日吉町

北緯

35

23

38.3

東経

136

50

05.6

西野町の交差点、向こうが追分け
新追分け(C点)
 各務原商店街の中を抜け、各務原西野町交差点へ差し掛かると(目印左角にゼネラルGS)
 左は戦争中に出来た各務原飛行場への軍隊道路が一直線に西へ伸びます。
 此の追分けを右にとります。
 やっと旧街道の面影が残った道になります。(写真・右)

交通量も少ない中山道へ入ります

 

絵図にもある
日吉神社

各務原市那加新加納町

35

23

41.0

東経

136

49

45.5

ここら辺りが宿の入り口にあたります。

上の絵図のとおり本殿は奥まったところにあります。

県道分岐から510mほどで新加納一里塚跡へ来ます

新加納一里塚・間(あい)の宿

那加新加納町

宿と宿の間が長いため設けられた間(あい)の宿
鵜沼宿と加納宿の間が長く(四里十丁約17km)旅人が困ったため新加納宿を作りました。
このため宿の入り口は枡形が設けられていますが今は新道でバイパスします

宿の入り口には一里塚跡もあります

D点
新加納
一里塚跡

各務原市那加新加納町

北緯

35

23

41.0

東経

136

49

41.1

ない!「新加納 一里塚跡」の標識がない!

(2年前まではありました)

左は現在  右は2年前

「新加納間の宿(D点)

 新加納の「間の宿」(あいのしゅく)と呼ばれ、鵜沼宿と加納宿の間に設けられた立場
 
(たてば)でした。

 「鵜沼宿」から「加納宿」までは四里十丁(17km)と遠いので途中に旅人が休息できる茶屋などが必要でした。

 ここに立場または立場茶屋(休憩所)や「高札場」(お布告など掲げる場所)を設け宿と宿の間の宿「間の宿」としました。

中山道は左の道を真っ直ぐに進みます。 突き当たりに小さな石碑があります。街道は此処を右に曲がります。

街道は枡形になっています。

新加納間の宿
高札場跡

各務原市那加新加納町

北緯

35

23

41.4

東経

136

49

36.5

.此処は高札場でもありました。

 

道標の字句 「左 木曽路」「右 京 路」「南 かさ松」

上の絵図にある「御典医」は現在もお医者さん

「御典医」

北緯

35

23

41.1

東経

136

49

35.8

立派な門

周囲を取り巻く塀

同じく絵図にある少林寺が奥にあります。

龍慶山 少林寺

各務原市那加新加納町

北緯

35

23

43.3

東経

136

49

30.0

   「新加納合の宿」の枡形道を西に出ると「善林寺」があります。

善林寺

各務原市那加新加納町

北緯

35

23

43.7

東経

136

49

31.8

善林寺から250mほどで西坂に差かかかります

新加納「西坂」

各務原市那加西浦町3丁目

北緯

35

23

43.6

東経

136

49

27.1

西坂から250mほどで松並木跡へ出ます。

新加納「西坂」
松並木跡

各務原市那加西浦町3丁目

北緯

35

23

43.0

東経

136

49

21.9

東海北陸自動車道が見えます

 新加納「間の宿」から西へ進むと各務原台地から濃尾平野へ下ります。

 この坂を「西坂」と言います。以前は立派な松並木があったそうです。

 地元保存会の看板だけが道路脇の松にありましたが今は見渡す限り田んぼでした。

 西を見ると「東海北陸道」橋脚が見えます。

昔は両側に松並木があった街道

新加納西坂の松並木の北1.7kmにある旗本徳山陣屋跡をご案内します。

旗本徳山更木陣屋跡

各務原市那加西市場町

北緯

35

24

39.2

東経

136

49

47.1

徳山ダムの旧徳山村が領地の旗本徳山五兵衛
今話題の名古屋市長が水余りで徳山ダム導水路工事不参加問題の徳山ダムの徳山村が
領地の徳山五兵衛が旗本となった時に居所とした旗本徳山更木陣屋がこの地です。

         更木とは
 中世の佐良木郷(さらきごう=那加地区の一部に相当)に由来する地名で、現在の各務原市那加西市場町のことです。
         関ヶ原の戦いで戦功
 話題の徳山ダム(大野郡徳山村=現在の揖斐郡藤橋村)に領地を持つ豪族 徳山五兵衛が関ヶ原の戦いで徳川方に仕えて功績を上げ、旗本に命ぜられて各務原に赴任して支配した
           家禄は5,000石
 旗本とは、江戸幕府直属の武士で、家禄が一万石未満で御目見(おめみえ=将軍に直接会うこと)ができる身分で江戸に常駐する。
 その旗本に居場所であり、領地を治める役所の機能を持った屋敷を陣屋といいました。

標識は南北両方にあります。

南側は県道152号線(岐阜各務原線)那加石山町にあります。
 北側は県道205号線(長森各務原線)那加西市場町東海北陸自動車道の東200mにあります。

                 旗本徳山更木陣屋公園
 旗本徳山氏は江戸市中に屋敷を構え、通常は幕府の役人として暮らしています。
 そのため自らの領地で得られた収入で暮らしていますが、徳山氏自身が領地まで赴くことは稀で、更木陣屋には主に家臣が常駐し領地の経営に当たっていました。
 初代本所築地奉行に任ぜられ、本所・深川といった江戸下町の町づくりに尽力した旗本でした。
 旗本3代目徳山重政は、幕府勤務の傍ら、石灯篭(各務原市指定文化財)を江戸で造らせて西市場の神明神社へ奉納した人物として知られています。
 旗本徳山陣屋公園は、「更木陣屋絵図」(各務原市指定文化財)と平成12年に実施した発掘調査をもとに、江戸期陣屋風景を再現しました。
 実際の表門は南向きで外側に広い堀を持っていました。
 また陣屋敷地はこの公園より更に広く周辺の民家付近まで及んでいました。
                               (現地説明板より)

古図と発掘調査により復元された屋敷跡と池

旗本徳山本陣図面

平成16年の発掘調査空中写真

            旗本徳山更木陣屋公園
 江戸時代、各務原市北西部の那加から蘇原西部一帯は、美濃国大野郡徳山郡出身の旗本徳山氏の所領でした。
 初代旗本となった徳山五兵衛則秀は、織田信長、柴田勝家、前田利家に仕えた後、慶長五年(1600)野関ヶ原の戦いでは東軍について戦功をあげました。
 優れた戦国武将であった徳山氏は、徳川家康から信頼も厚く、旧領徳山郷のほかに各務郡内で西市場、山後、桐野、岩池、大島、島崎、野口など約五千石の知行地を得て、明治維新までの約250年間、幕府直系の家臣として、12代にわたって各務原の地を治めていました。
 この地には、旗本徳山氏の屋敷がおかれ、更木陣屋の名で呼ばれました。
 陣屋とは、城を持たない旗本屋敷を指し、その領地経営の中心として機能していました。また更木とは、西市場が中世以降「更木郷」の名で呼ばれた現在の各務原市那加地区西部(更木八ヶ村ー西市場、新加納、前野、北洞、岩地、長塚、桐野、山後)の中心地域に位置していたことから、その郷名を冠して呼んだことに由来しています。
 当時の更木陣屋の様子は、「更木陣屋絵図」(各務原市指定文化財)によって現在でも詳しく知ることができます。
 これによると、敷地内には井戸が多数作られていたようです。
                           (現地説明板より)

徳山家が奉納したとされる石燈籠は本陣跡から南南東300m程の神明神社にあります。
(前出の地図参照)

旗本徳山氏奉納の燈篭がある
神明神社

各務原市那加西市場町

北緯

35

24

31.7

東経

136

49

53.0

                石燈籠 市重要文化財
 那加西市場町の神明神社にある石燈籠は、高さ1.81bで、やや傾いていますが、破損もなく伝わっています。
 現存する石燈籠の最古のものは奈良県の当麻寺金堂前のもので、白鳳時代に建てられたといわれています。
 岐阜県下では郡上郡白鳥町白山神社に鎌倉時代の正安四年(1302)のものが一基あり、昭和39年(1964)に国の重要文化財に指定されています。
 徳山家系図及び寛政重修諸家譜によると神明神社にあるこの石燈籠は基礎・竿・中台・火袋・笠・宝珠の六部からできていて笠が丸笠、火袋だけが六角形をしていて他は無地丸型です。
 線彫の紀年銘・願主銘もよく残っていてい石造美術として原形をそのまま残しています。
 東海の恐れがあるため鉄枠で囲み保護されています。
                     平成六年三月 平成五年度自治会役員

徳山五兵衛

 
 江戸時代に那加西市場町に陣屋を構えていた旗本徳山家の三代目重政が、寛文五年(1665)に江戸で製作させ、神明神社に寄進したものです。
 高さは1.87bあり、竿の部分に紀元銘・願主銘が見られます。

松並木跡から240mほどで各務原市と岐阜市の境になります

行政区域

「各務原市」から「岐阜市」へ

各務原市那加西浦町3丁目

岐阜市高田2丁目   

ここまで、各務原市鵜沼から11.4km      
長野県境から91.4kmです。

「中山道」岐阜市入り口(F点)
 市境から370mほどで「境川」にかかる高田橋があります。

高田橋

岐阜市高田2丁目

北緯

35

23

48.1

東経

136

49

01.7

高田橋を流れる境川は桜の名所です。

「高田橋」はたかたはしと読みますが
名鉄各務原線の駅名はたかだばしです

「高田橋」
次のページは伊豆神社から加納宿までをご案内します。

実証「一里塚」の間隔」(車のメーターで検証)

 「謡峠一里塚」→未測定→「山の前一里塚」→4.0km→「六軒一里塚跡」→3.7km→「新加納間の宿一里塚跡」→4.25km→「細畑一里塚」→3.9km→「加納清町一里塚跡」→長良川のため測定不能→「河渡一里塚」と まちまちですが当時と中山道のルートが多少異なっていたり、測定道具が縄などのためと思われます。(古いアナログメーターの車で測定)

一里は三十六丁3,927mです。

街道コラム

【旅籠屋ー2】

旅籠屋と木賃宿と茶屋
 木賃宿;昔の旅は多くの人が糒(ほしい=乾飯とも言う。乾燥して蓄えておく乾燥ご飯で、量が小さくなり軽くなる)二合五      勺を一日分として携行し、宿に着くと自分で湯を沸かして糒を戻して食べた。その湯沸しの薪代を木賃といい、こ      の宿が木賃宿である。
 旅籠屋:旅籠屋には大中小のランクがあり、また普通の平旅籠や飯盛旅籠屋や人足の泊まっる油紙宿もあった。
 茶屋:茶屋は旅人の休息所で、餅や駄菓子をほうばり茶を飲んで一服する店で、草鞋(わらじ)など旅道具も売っていた。
     宿ないには少ないが茶屋専業の店もあり、旅籠屋と兼業の店もあった。

        

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。