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中山道六十九次のうち五十三宿目で中山道美濃十六宿の九番目の宿「鵜沼宿」をご案内します

  六十九次
のうち
五十三宿

岐阜県各務原市

美濃国

JR高山線鵜沼駅下車

「鵜沼宿」巻は、鵜沼宿東の木戸と四間橋のあった東口道標と常夜燈、移築された尾張領傍示石と復元された高札場、
鵜沼宿問屋場野口家跡、鵜沼宿東町と西町の境に架かる「大安寺橋」(八間橋)、土田(どた)まわりの中山道の内田の渡し場跡、
内田の渡し場跡燈篭と水神様、鵜沼宿町屋館(各務原市歴史民俗資料館)、民家から寄贈された旧大垣城鉄門、
鵜沼宿本陣跡、鵜沼宿問屋場・脇本陣跡(野口家)の芭蕉句碑、本陣跡と脇本陣跡の間にある南無妙法蓮華経碑、
古墳の上に建つ二ノ宮神社、鵜沼宿問屋場跡、脇本陣(坂井家)跡、旅籠茗荷(みょぷが)屋(梅田家)、旅籠安田屋跡、
鵜沼宿西口道標、鵜沼石の石切場跡の石亀神社、大安寺、鵜沼宿西町野石仏群、八木山弘法堂の六部塚石仏群、
鵜沼宿西の木戸跡、岐阜県下最大の円墳「衣裳塚古墳」、衣裳塚跡に建つ空安寺、三角縁神獣鏡が出た
一輪山(いちりんやま)古墳跡、坊の塚古墳、金縄塚古墳、大伊木山西古墳、大牧1号古墳、拝殿に回り舞台がある津島神社、
鵜沼石の鳥居があるあたご神社、尾張藩領境碑がある鵜沼中学校などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

          

「鵜沼宿」は岐阜県各務原市鵜沼町にあります。

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 三千二百石、 人口 250人、 家数 七十軒、 

旅籠 二十五軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、           

太田宿から 二里(取組一里塚、うとう峠一里塚)

加納宿まで  四里八丁(山の前一里塚、六軒一里塚、新加納一里塚、細畑一里塚)
         (宿と宿の間は二里余が普通であるが、この間は少々長すぎるため、
          後に間の宿として新加納宿が設けられた)

「岐蘇路安見絵図」による当時の鵜沼宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

鵜沼

此処より木曾迄の内、農人大きなるすきを遣ふ。(どんな農具か調べて掲載します)

すきの柄の半より、長き柄をつけ、二人してすき。くわ両用を遣ふ。

外にては見られぬ農具也。

各務野、三り四方あり。(今の各務原飛行場付近で昔から各務原台地といわれ水便の悪い土地でした)

ぎふの山をすべていなば山といふ。古歌多し。
(伊奈波山、今の金華山のこと、麓の岐阜公園には歌碑が多数あります)

行平の立ち別れの歌は、此所の事にてはなかるべし。(行平の歌についても調べてみます)

中山道の対岸の犬山側から見た鵜沼宿 付近に犬山城を見下ろす高台はありません
想像で書かれたと思います。

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 鵜沼」(大判錦絵)
    岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                           説  明
 太田から木曽川沿いに下ると、犬山の対岸、鵜沼の宿に至る。 図は木曽川の左岸、犬山側から、犬山城越に鵜沼の宿を眺めたところである。 鵜沼の宿からは、木曽川を渡って犬山に至る鵜沼の渡しがあり、本図には渡し舟が一隻見えている。 尾張徳川家の家老成瀬家の城であった犬山城は、天文六年(1537)の築城で、現存する天守閣は慶長四年(1599)に移築されたものであるといい、現存最古の城として国宝に指定されている。                                            
 西南には濃尾平野を、北側には木曽川の洋々たる流を見下ろす犬山城からの眺めは絶景であるといい、本図もその視点をとっている。はるか遠方に、かすむような小ささで鵜沼の宿場が見える。ただし本図の構図自体は、「木曽路名所図会」の挿絵「犬山針綱神社」の上部を借用したことが分かる。       

                       鵜沼宿
 鵜沼宿は古代から、交通・経済の要衝として栄えた土地で県下屈指の古墳や歴史を秘めた城址・神社仏閣が残っています。
 特に交通関係では、古代・中世の東山道各務駅や宇留間市の立った所、
 近世では、中仙道「鵜沼宿」として宿駅制度の拠点であり、人と物の集散地であったようであります。
 宿場として西町と東町が正式に中仙道鵜沼宿として決定されたのが、慶安四年(1651年)で中仙道六十九次中、江戸から五十三番目の宿場で約百里三十町(396km)です。
 大田宿から木曾谷最後の山道「うとう峠」の難所を越えて二里九町(約9km)、加納宿まで広大な「各務野」を越え、合の宿(立場たてば)の新加納を経て四里七町(約17km)です。
 旅籠の数は年代によって増減はありますが、天保十四年には大八軒、中七軒、小十軒で人口246人、家数六十八軒だったようです。
 鵜沼宿本陣「桜井家」、鵜沼宿脇本陣「坂井家」と「野口家」で交替で勤め問屋も兼ねていたようです。
 鵜沼宿の面影は、明治24年の濃飛大地震により壊滅的な打撃を受けたのは残念なことです。
 僅かに残る遺構をたどって歴史を探訪してください。

鵜沼宿は尾張藩領
「太田宿」から二里(8km)。岐阜県にあるにもかかわらず尾張藩領。
宿の長さ 七丁三十間(約800m)江戸時代末で宿人口 246人 68戸 旅籠25軒
助郷高 一万五百四十九石 19ケ村
(参勤交代などで人足を出す義務のある村)

鵜沼宿はこの東町(中町)、西町、羽場町と約七町余の街並でした。

鵜沼宿は尾張藩領
「太田宿」から二里(8km)。岐阜県にあるにもかかわらず尾張藩領。
宿の長さ 七丁三十間(約800m)江戸時代末で宿人口 246人 68戸 旅籠25軒
助郷高 一万五百四十九石 19ケ村
(参勤交代などで人足を出す義務のある村)

赤坂神社から200mほど西へ進むと信号のある交差点へ出ます。

左に見えるのが「東口道標」 信号機下あたりに「常夜灯」
この信号の西にもう一つ信号があります

東の木戸と四間橋のあった

鵜沼東口道標常夜燈

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

24

04.1

東経

136

56

35.2

「うとう峠」から下りてくると見落としそうな場所に
道標はあります

文面 「此処は中山道鵜沼宿
        これより うとう峠」

             四間橋
 四間橋はこの交差点の手前(東)から奥(西)へ架かっていました。
 水路は現在は暗渠になっており、画面の信号機付近から信号待ちの車の方へ流れていました。

その四間橋の脇に常夜灯があり現在も残っています

交差点隅に小さくなっています

鵜沼東口道標(四間橋)交叉点から100mほど中山道を西へ進むと坂祝バイパスの交差点へ出ます。

高札場と尾張領領傍石復元移設
この交差点に、かっては赤坂神社前にあった高札場が復元され、
鵜沼村(尾張領)と各務村(天領)の村境を示す領傍石が移設されています。

四間橋のあった東口から広い交差点へ出ます。

その交差点に高札場と領界石が移設されています。

尾張領傍示石

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

24

04.7

東経

136

56

30.6

       東尾州領碑
 中山道を坂祝(さかほぎ)バイパスへ出ると南側に領界が立っています。

「是より東尾州領」
交差点東南角に移設されています。

       西尾州領碑
 交差点を渡って西側に西尾州領碑があります

「是より西尾州領」

 実際はこの交差点より西へ2.3kmほどの場所が領界石のあった場所
 江戸時代の各務原は、天領(幕府領)や尾張藩領、旗本領などに分かれて治められていました。
 街道沿いには、それぞれの村境を示すため傍示石や傍示杭が立てられていました。
 その中で、鵜沼村(尾張藩領)と各務村(天領=幕府領)の村境を示した傍示石が2基残っています。
 それぞれに「是より東尾州領」、「是より西尾州領」と刻まれ、現在の国道21号線おがせ信号付近とJR各務ヶ原駅付近に1基ずつ立っていました。
 この2基は明冶以降街道沿いから撤去され、その後鵜沼中学校の敷地内に建てられていましたが、国道21号線坂祝バイパス完成にともない中山道と交わるこの地に移設されました。

幕末まで御境石が建っていた場所

中山道と国道21号線坂祝(さかほぎ)バイパス交叉点の西の南側に問屋・野口家跡があります。

鵜沼宿東町
問屋・脇本陣野口家跡

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

24

04.3

東経

136

56

29.1

            問屋
 (安政五年(1858)〜脇本陣と兼務)
 鵜沼宿の問屋・東町庄屋を兼務していました。
 現在は屋敷は取り壊され駐車場となっています。

 問屋は旅人・荷物の輸送事務や宿場内の様々な事務を行なう所です。
 問屋の下では年寄・帳付・人馬指(じんばさし)などの宿役人が働いていました。
  年寄・問屋の補佐として事務を行なう。
  帳付・問屋、年寄の下で人馬の出入りや賃銭などを記録する。
  人馬指(馬指ともいう)・荷物を運ぶ人足や馬を割りあてる。
 鵜沼宿では東町の野口家と、西町の桜井家が務めました。

問屋野口家から60mほどで東町と西町の境になる大安寺橋(八間橋)があります。

大安寺川に架かる大安寺大橋

鵜沼宿西町、東町境
大安寺大橋

各務原市鵜沼東町・西町

北緯

35

24

04.8

東経

136

56

26.6

「鵜沼宿」東口の常夜灯を過ぎると大安寺川へ差し掛かります。
此処に架かる大安寺大橋を挟んで東町西町と呼ばれていました

「太田町へ二里八丁」

「岐阜市へ四里十丁」

鵜沼宿の中山道変遷
『濃陽徇行記』によると、慶安四年(1651)に現在の各務原市東町、西町に鵜沼宿が設置されたという。
それまでは現在の各務原市鵜沼古市場、南町付近であったとされる。
しかし、寛永18年(1641)の免定に現在の西町、東町に比定される伝馬町の記載があることから考えると
もう少し以前のことかもしれない。

1、内田の渡し=- - - -線のルート 寛永18年(1641)以前
2、土田の渡し=------線のルート 寛永18年(1641)以後
               宝暦六年(1756)ころまで
3、太田の渡し=下図の赤線のルート  天明年間(1781ころ)

木曽川の渡し(点線)の移り変わり図
(木曽川の流が上手く表現できませんでした)

 いずれにしても中山道が最初に制定された頃は、中山道は御嶽宿、伏見宿から土田を通り犬山市内田へ至り、内田の渡し(鵜沼の渡し)から鵜沼南町、古市場町、小伊木町の鵜沼宿に通じていた。
 そして小伊木町から各務野を西へ加納宿に向かっていた。
 現在でも小伊木町には「木戸」という地名が残っている。 
                  (定本中山道美濃十六宿より)

その頃の「内田の渡し跡」は今でも残っていますのでご案内します。
場所はここから南へ1.3kmほどの木曽川右岸犬山橋下流の鵜沼南町です

内田の渡し跡

各務原市鵜沼南町

北緯

35

24

05.8

東経

136

56

74.6

内田の渡し跡は昔のままです。

鵜沼町にかっての「内田の渡し場跡の燈篭が残っています。

内田渡し場跡燈篭
水神様

各務原市鵜沼南町6丁目

北緯

35

24

05.8

東経

136

56

74.6

最近燈篭の間近にマンションが出来て道路から見えなくなりました。

燈篭へは民間マンション隣の駐車場フェンスに沿って川のほうへ進むと階段があります。

燈篭の脇に水神様が二体お祭りしてあります

さて再び中山道大安寺橋まで戻り西へ進みましょう
中山道大安寺橋(八間橋)の西の南側に 旧大垣城鉄門(くろがねもん)が移築されました。

鵜沼宿
旧大垣城鉄門

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

05.8

東経

136

56

74.6

大垣城鉄門 
   鵜沼で見つかる

               由来
 当門は、大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家の同市蘇原野口町)の自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。
 規模は、間口約5.7b、高さ4.5bあり、構造形式から高麗門と称されています。
 高麗門とは、左右二本の本柱上部に小ぶりな切妻造の屋根を架け、更にその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。

 当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存しています。
正面 城内側

                移築作業時に判明
 岐阜県各務原市の民家の門が、戦災で焼失する前の旧大垣城の鉄(くろがね)門だったことが分かった。
 門は同市の医者宅の屋敷内に置かれていたが老朽化し、維持管理が大変なことから昨年市に寄贈された。
 門は各務原市鵜沼西町の鵜沼宿町屋館の向かいに移築作業の過程で旧大垣城の鉄門だと分かった。
 今回 門が大垣城の門であると判断する決め手になったのは、壁下の部材に見つかった「墨書」だった。
 十数人の名前が書かれ、江戸末期の大垣藩の大工奉行らの名前であることが判明した。
 また、門の鬼瓦には大垣藩主戸田家の門「九曜紋」があったことなどから大垣城本丸の表門であったとされた
 寄贈者は「旧加納城の門だと言い伝えられていたのでビックリしている」と話しているそうです。
                    明治維新で公売入札で払い下げ
 旧大垣城は天文四年(1535)の築城とされ、明治維新により城の七つの門は明冶四年(1871)の廃藩置県に伴なって払い下げられ、明冶6年(1873)ごろの大垣城公売入札の岐阜県告示に「鉄門、高一丈一尺、巾三間」の記述があり、今回の門と形式や規模がほぼ一致している。
 大垣城は昭和11年(1936)に国宝となったが、20年に空襲で焼失し、34年に天守閣などが再建されている

              鉄板と漆喰で火矢から守る
 当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。

駐車場あり
移設された大垣城鉄門の裏には無料駐車場が用意されています。

鵜沼宿旧大垣城鉄門のふるさと、大垣市の大垣城にある鉄門跡をご案内します

大垣城鉄門跡

大垣市の大垣城本丸には現在も鉄門跡が残されています。

鉄門の基礎石はしっかりと残っています。

このほかに加納城裏門を移設したと伝えられている門が岐阜県有形文化財に指定された新聞記事と
同じ時期に指定された各務原市にある有形文化財を三件を紹介します。

加納城裏門を移築したと
伝えられる小林家住宅門

 各務原市蘇原伊吹町の小林家住宅主門は1881年に
造られた加納城の裏門を移設したと伝えられる。
 間口約3bで、馬が通れる大きさ。
 装飾はないが柱などは古く、城門らしいつくりと言える。

 

 

 

養蚕農家だった清水家住宅主家

 1931年築の清水家住宅主家は旧養蚕農家。
 切妻造桟瓦葺で、建物周囲に下屋庇がある。
 屋内には床の間や付書院もあり景観が優れていりるとされた。

 

 

 

 

養蚕農家だった野口家住宅主家

 1930年築の野口家住宅主家は旧養蚕農家。
 切妻造桟瓦葺で、建物周囲に下屋庇がある。
 木曽川の輪中にある野口家住宅主家は敷地に玉石を積み上げ、洪水に備えた造りとなっている。

 

 

 

以上は2008年12月13日中日新聞岐阜県版に掲載されたもの

移設された大垣城鉄門向かいには各務原市歴史民俗資料館(入館無料)「中山道鵜沼宿町屋館」があります。

(各務原市歴史民俗資料館)
鵜沼宿
町屋館

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

05.8

東経

136

56

74.6

 武藤家は、本陣桜井家の東に位置し、江戸時代には「絹屋」という屋号で旅籠を営んでいました
 当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。
 平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
 屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。
 主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。
 付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。
 三棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。
             (現地説明板より)
        現在は各務原市歴史民俗資料館(入館無料
 館内には歴史の道「中山道の散策マップ」や「各務原の史跡」「中山道と鵜沼宿」などの資料などが用意されており、旅籠当時の様子を伝える資料なども展示されています。入館無料で休憩することもできます。

旧大垣城鉄門から50mほど西の北側に鵜沼宿本陣・問屋桜井家がありました。
代表的なものは本陣の西隣に脇本陣坂井家があり、その隣が二宮神社です。、
その向いに、旅籠河内屋(武藤嘉左衛門)、茶屋丸一屋、旅籠茗荷(みょうが)屋などがありました。
道の中央には大安寺川から水を引いて用水が通り秋葉燈籠がありました。
(中山道美濃十六宿・郷土出版社)

鵜沼宿町屋館(各務原市歴史民俗資料館)の西交差点斜向かいに登録有形文化財の菊川酒造があります。

     

菊川酒造の向かい(北側)には鵜沼宿本陣跡があります。

鵜沼宿本陣・問屋
桜井家跡

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

06.2

東経

136

56

24.5

              鵜沼宿本陣桜井家
 幕末の本陣は、間口二十一間、奥行二十八間、建坪百七十四坪の規模で、屋敷は八畝(240坪)
また、御伝馬高として五百石を認められていた。
 大名行列は野戦の戦闘態勢で行なわれたので、当然、本陣にはそれ相当の備えが整えられていた。
 馬は土間を通って裏庭へ抜けられるようになっていた。
 本陣の裏は竹藪になっていたが、いったん事が起こったとき、竹薮の中を通って約1`ほど離れた山中にある「大安寺」へ避難できるようになっていた。
 また、その脇路の山中にも隠れ洞というところがあった。
           本陣桜井家の酒の醸造と芭蕉
 本陣桜井家は酒の醸造も行なっていたが、後に述べる松尾芭蕉は鵜沼を訪れたとき、菊花酒の饗応をうけており、多分、この菊花酒は桜井家で醸造されものであろう。
 なお、同家の記録によると、七面山、老松、雪の花、亀泉などの名酒があった。
                   (中山道美濃十六宿・郷土出版社)

本陣跡と脇本陣跡の間にある碑

本陣跡と脇本陣跡の間にある
南無妙法蓮華経碑

各務原市鵜沼西町1丁目136

北緯

35

24

06.3

東経

136

56

19.4

いわれは不明です。

この碑の西隣に脇本陣坂井家があったが、今は芭蕉塚碑群となっている。

鵜沼宿
問屋・脇本陣
野口家

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

06.2

東経

136

56

19.7

                問屋・脇本陣野口家
 野口家は敦賀城主大谷刑部吉隆の三男・大谷久右衛門吉矩の子孫と伝える。
 関ヶ原の戦いに敗れたあと、多芸郡野口に蟄居し、許されて野口と姓を改め、鵜沼宿で問屋を務めることになったという。

鵜沼宿脇本陣「坂本家」跡に建つ案内板と碑群

芭蕉の「野ざらし紀行」の碑

                     鵜沼宿と芭蕉
 貞享二年(1685年)三月、「野ざらし紀行」の芭蕉は、大垣藩を経て鵜沼に来たり、二十四・五日ごろ脇本陣「坂井邸」に一泊し、大針に吟行した。
 そして木曽川を船で下り、桑名を経て熱田に留杖し、四月末、江戸に帰庵した。
 貞享五年(1688年)岐阜で鵜飼見物をした芭蕉は、七月五日ごろ再び鵜沼に来り坂井邸にて「汲溜の水泡だつや蝉の声」を吟じ、名古屋を経て鳴海に至り、名古屋に戻って滞留した。
 同八月八日ごろ名古屋から越人などと鵜沼に来り三度び坂井邸に宿る。
 主の所望にて楠の化石に「ふぐ汁も喰えば喰わせよ菊の酒」と即興の吟を書き
 翌九日は一か月早い菊花酒の饗応をうけ、十日は句碑を彫り上げた。
 翌十一日鵜沼を発ち木曽路を更科紀行に旅立ったが、美濃を離れるとき「送られつ送りつ果ては木曾の秋」と吟じ美濃俳人との別れをおしんでいる。
 そして十五日は姨捨山の月見をなし善光寺に詣で八月末 江戸に帰庵じた。

 明治維新となり宿制が廃止され明治十五年(1882年)坂井邸の句碑は犬山高桑某の庭に移されたが同三十七年(1904年)薬師寺へ奉納された。

 昭和40年(1965年)5月脇本陣坂井邸後(現武藤宅)に、これらの三碑をたて俳聖芭蕉塚を建立した。

濃尾大震災
「太田宿」は明治24年(1891)の濃尾大震災でほとんどの建物が倒壊しました。
本陣も脇本陣もその跡地に芭蕉にちなんだ句碑が残されています。

芭蕉句碑群の西隣に古墳の石室の上に建てられた二ノ宮神社があります。

古墳の上にある
二ノ宮神社

各務原市鵜沼西町1丁目136

北緯

35

24

06.3

東経

136

56

19.4

中山道から鳥井をくぐると石段が

階段を上がると広い境内へ出ます。
正面の鳥井脇の石垣にぽっかりと石室が口をあけています。

なぜこんなことになったのでしょう

中は古墳の石室で何もありません。

これは古墳であった小山が歳月を経ている間に一部が崩れ石室が露出し
内部の副葬品等は失われ、上にお祭りしてあった二ノ宮神社の境内を整備して広くしている内に
石室が邪魔になり石垣の一部に取り入れたのではないでしょうか。

一段上の境内には石室の天井石が露出しています。

境内には「保食大神」碑があります。(謂れは不明)

 鵜沼石で作られた常夜燈
 街道沿いにある二宮神社の灯篭は常夜灯も兼ねていたようです。
 「鵜沼宿常夜灯」の文字が見えます

二宮神社古墳の東にもう一つ古墳と西に上田遺跡があります。

 

上田遺跡

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

06.3

東経

136

56

19.4

画面左が二宮神社古墳、右が上田遺跡うえの団地

道路と左側の団地全体が上田遺跡

区画整理中の上田遺跡の航空写真

二宮神社古墳の東50m程にある古墳

二宮神社東古墳

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

06.3

東経

136

56

19.4

東から古墳を望む 二宮神社境内から見た古墳 中山道から見た古墳

二ノ宮神社の向かいには旧家が並んでいます

東側から脇本陣の坂井家があります。

鵜沼宿
脇本陣跡
(坂井家)

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

05.1

東経

136

56

91.9

               脇本陣坂井家
 織田信長の重臣坂井右近将監政尚の末裔と伝えられる。
 その後、敦賀城主大谷刑部吉隆の三男・大谷久右衛門吉矩に仕え、関ヶ原の戦いに敗れた
 後許されて大谷氏とともに鵜沼へ来て脇本陣を務めることになったという。

            『更科紀行』出立の宿場
 松尾芭蕉は貞享五年(1688)、脇本陣坂井家に宿泊し、『更科紀行』の旅に出立した。
 「ふぐ汁も喰へば喰せよ菊の酒」と詠み、本陣桜井家で醸造が行なわれていた菊花酒でもてなしを受けたことを句に残している。
 ほかにも「汲溜の水泡立つや蝉の声」を詠み、芭蕉と縁の深い宿場であった。

その西に旅籠「茗荷(みょうが)屋」だった梅田家があります。

鵜沼宿
旅籠茗荷屋
(梅田家)

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

05.2

東経

136

56

81.3

               茗荷屋梅田屋
 織田信長の宿老林佐渡守通勝は、天正八年(1580)改易をうけた。
 その子総兵衛は津島の大橋家にお預けになった。
 林家では改易の実態を整えるため、大橋家の領地「埋め田」にちなんで氏を梅田とし、家紋は大橋家の家紋「丸に抱き茗荷」を使って屋号を茗荷屋とした。
 ここは江戸時代の建物で、鵜沼宿では現存しているのはここだけである。
              鵜沼宿の火事と本陣
 
天保四年(1833)十二月二十八日、西町の藪下半兵衛方で正月用の餅つきを行なっていたところ、かまどの火が折からの風にあおられ、飛び火して旅籠二十四軒が全焼してしまった。
 この後、宿では十二月二十八日には餅をつかない慣わしになった。
 この火災で本陣も焼失したが、翌年の10月に修復した。
 宿は尾張藩からの拝借金を無利子10か年の年賦という条件で借り受け、防火のために瓦葺き、塗りこめ造りで家々が再建された。
 この火災のときから宿の火伏せを祈願して茗荷屋の両隣に秋葉様が祀られた。

その隣にもう一軒梅田家があります

梅田家

各務原市鵜沼西町1丁目136

北緯

35

24

06.3

東経

136

56

19.4

その西ににも一軒改修中の旧家があります

安田屋

各務原市鵜沼西町1丁目136

北緯

35

24

06.3

東経

136

56

19.4

中山道を西に進むとまだまだ旧家が残っています。

               人馬継立てと駄賃銭
 鵜沼宿の伝馬は人足二十五人、馬二十五疋(ひき)であったが、急用に備えて四疋六人が常備されていた。
 (伝馬とは宿が常時準備する次の宿まで荷駄を送り届けるための人足と馬のことである)
 この人馬継立ての賃銭は何度も改定が行なわれているが、正徳(しょうとく)元年(1711)の駅法の改革によって各宿間の駄賃が決められた。
 これを「元賃銭」といい、以後の基準になった。()内は天保十四年(1843)から弘化(こうか)四年(1847)までの駄賃。

 鵜沼宿から太田宿まで(二里
  荷物一駄        九十四文(140文)
  乗掛人共        九十四文(140文)(乗掛=振り分け荷物と人)
  軽尻一疋        六十一文( 88文)(軽尻=半分の荷物)
 鵜沼宿から加納宿まで(四里八町
  荷物一駄        百七十文(249文)
  乗掛人共        百七十文(249文)(乗掛=振り分け荷物と人)
  軽尻一疋        百十六文(166文)(軽尻=半分の荷物)
  人足一人        八十三文(124文)
 鵜沼宿から岐阜町まで
  荷物一駄        百七十八文
  乗掛人共        百七十八文
  軽尻一疋        百二十四文
  人足一人          八十八文

                   宿泊代
 宿泊代は天保四年(1833)から七、八年にかけていわゆる天保の大飢饉で、物価高騰が激しかったが、
 二月から七月にかけて上クラスは224文から248文。下クラスは148文から172文。
 八月から一月にかけては上クラスは200文から224文。下クラスは148文から172文、 としている。

 また、浅間山大噴火によって引き起こされた天明の大飢饉当時(1783頃)は上クラスは260文から300文 下クラスは200文としている。      (中山道美濃十六宿・郷土出版社)

宿を西に進むと宿西出口碑のある交差点へ出ます。

画面、左の角に碑はあります。

中山道は街道の面影を残す坂に差し掛かります。

鵜沼宿西口道標

各務原市鵜沼西町1丁目
(伊木山通り、八木山通り、鵜沼街道の交差点)

北緯

35

24

06.2

東経

136

56

11.5

鵜沼宿西口の道標は画面の左のパラソルの婦人の脇にあります。(中山道は奥へ進みます)

この信号交差点から中山道を北へ曲がり100b進んだ左側に小山があります。
ここが昔の鵜沼石の切出し場で山腹に「石亀神社」があります。

鵜沼石の石切場跡
石亀神社

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

12.5

東経

136

56

10.8

貧弱な幟がなければ参道が分かりません でも参道は立派な鵜沼石で出来ています。

伊勢神宮と同じ鰹木のある立派な拝殿があります

お社の前に鵜沼石の「石亀様」があります。

 この神社は、鵜沼石を産出した石切場跡です、いまでも石のカケラが散乱しており石切場の様相を残しています、この神社の御神体の石亀様も鵜沼石です。

石亀神社から北へ「つつじが丘」団地の登り坂進み1.1kmほどの山腹に美濃守護土岐氏創建の大安寺があります。

大安寺

各務原市鵜沼大安寺町

北緯

35

24

40.3

東経

136

56

17.2

大きな池の西に参道が見えてきます 参道は長く静寂に包まれて山門へ

山門の奥にも山門がその奥に荘厳な本堂・書院・などが並びます

 慶応二年(1395)、美濃守護職土岐頼益(ときよります)の創建で、開山は笑堂常訴(しょどうじょうざん)。
 土岐氏の滅亡後、池田忠倫ガ寺禄を寄せて再興した。
 約5000uと広い境内に、本堂・庫裏・書院・観音堂・山門・鐘楼・稲荷堂などを備えている。
 境内に、苔むした土岐頼益の墓と、その執事であった斉藤利永(としなが)の墓がある。

中山道鵜沼宿西口道標交差点まで戻り西へ進むと、街道の面影を伝える碑などが街道脇に見えます。
また、この付近からは、今でも道路の北側にのみ家があり、ここを片町といったそうです。

今でも南(左)側は殆ど家がありません

鵜沼宿西口道標の交差点から中山道を西へ150mほど進むと中山道の北側に石仏群があります。

鵜沼宿
西町の石仏群

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

24

06.5

東経

136

56

05.7

鵜沼西口道標を西へ行くと街道らしい石仏があります

しばらく進むと、お堂も見えてきます

南無観世音菩薩碑と地蔵

元禄十一戊寅(つちのえろら)年(1698)の文字が

西町の石仏群から西へ150mほど進むと北側に八木山弘法堂があり
六部塚石仏群があります。

八木山の弘法堂

六部塚石仏群

各務原市鵜沼

北緯

35

24

06.2

東経

136

55

59.6

                  由来
 文化四年(1807)の六十六部廻国碑をはじめ江戸時代末の石造物が並んでいます。
 六十六部とは法華経を背負って全国六十六ケ所を回る修行者のことで、六部とも言われました。
 各地に六部地蔵や供養塔が祀られています。

八木山の弘法堂から50mほど西へ進むと北側に駐車場があります。
この辺りに鵜沼宿の西の木戸があったそうです。

鵜沼宿
西の
木戸跡

各務原市鵜沼羽場町2丁目

北緯

35

24

06.4

東経

136

55

55.9

西の木戸は西町と羽場町の間の空安寺の東にありました。

西の木戸跡(今は駐車場)の奥には衣裳塚古墳があり、その周辺に七つの古墳が点在します。

黄色の吹き出しが古墳です。

鵜沼西町1号
県下最大の円墳

衣裳塚古墳

各務原市鵜沼羽場町2丁目

北緯

35

24

06.4

東経

136

55

55.9

              県指定史跡 衣裳塚古墳
 衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。
 墳丘の大きさは直径が52m、高さ7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。
 また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。
 衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円分の「坊の塚古墳」が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります
 衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。

衣裳塚古墳の裏側に回っても全容は不明です

衣裳塚古墳の頂部には石仏が並んでいました。

前方後円の衣裳塚古墳の西側が空安寺です。   

光雲山 空安寺

各務原市鵜沼羽場町2丁目

北緯

35

24

05.5

東経

136

55

53.4

 寺の境内の部分は衣裳塚古墳の墳丘の後円部分であったが削られて同墳は円墳となっている

衣裳塚古墳の東辺りに2号墳跡があります。

鵜沼西町2号墳跡

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

40

56.4

東経

136

93

08.1

細い路地の奥の住宅あたりですが標識はありません

2号墳の中山道側ですが標識はありません

鵜沼西町3号墳の一輪山古墳は発掘調査後、民家が建ちました。

鵜沼西町3号
一輪山
(いちりんやま)古墳

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

40

56.4

東経

136

93

08.1

      一輪山塚古墳
 衣裳塚古墳あたりは古墳が7基ほどあり、現存するのは、衣裳塚古墳と西町4号墳の2基です。
 

    三角縁波文帯四神二獣鏡が出土した古墳にしては標識もありません
 各務原市鵜沼西町、一輪山古墳(鵜沼西町3号墳)から出土した銅鏡に、三角縁波文帯四神二獣鏡があります。
 この鏡は、3世紀後半に、中国において製作されたといわれる三角縁神獣鏡と呼ばれる鏡の中の一つです。
 ただ、この三角縁神獣鏡は、中国では発見されていないため、日本で作られたのではないかと思われます。
 三角縁神獣鏡の中には、中国の年号が書かれた鏡が見つかっています。
 一輪山古墳からは、一枚しか出土していませんから、あまり多くのことは判りませんが、この鏡と同じ鋳型から製作された鏡が島根県松江市新庄町八日山1号墳から1面出土しています。
 一輪山古墳から出土した三角縁波文帯四神二獣鏡は、島根県松江市新庄町八日山1号墳の人から、受け取った可能性が、大きいです。
遺構概要
 古墳(円墳)。 <保存状況>一部滅失。
 <現況>宅地。
 古墳前期-古墳(円墳)、墳径約9.0〜28m。
遺物概要
 三角縁波文帯四神二獣鏡(銘文なし、完形21.8cm、出土年不明、各務原市埋蔵文化財調査センター蔵、 同型鏡:島根県八日山1号墳) 
                            (各務原教育委員会)

鵜沼西町古墳群で二つ目に古墳らしき姿を残している塚です。

鵜沼西町4号墳跡

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

40

56.4

東経

136

93

08.1

        六十六部の碑のお陰で残った古墳
 発掘調査の結果、古墳らしき姿をしていますが、江戸時代に行き倒れの六十六部を弔うために、古墳の上に碑を建て回りに石垣を積み参道の階段まで付けたようです。
 しかし、そのお陰で明治以降も開発されず今に残ることができたようです。

墳墓の上には、その外の墓も見られます

鵜沼西町4号墳の東の住宅地にあります。

鵜沼西町5号墳跡

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

40

56.4

東経

136

93

08.1

4号墳の東の住宅地の中です

鵜沼西町古墳群1号墳「衣裳塚古墳」の中山道を挟んで南側に6号・7号の2基の古墳があります。

6号墳・7号墳も発掘後民家が建っています。

鵜沼西町墳跡

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

40

56.4

東経

136

93

08.1

土地改良事業に先立ち調査が行なわれました

1号墳衣裳塚古墳の南側で現在は住宅地です

鵜沼西町墳跡

各務原市鵜沼西町1丁目

北緯

35

40

56.4

東経

136

93

08.1

衣裳塚古墳の中山道を挟んで真向かいあたりです

鵜沼西町7号分から中山道を西へ150m程の南の方50mに「坊の塚古墳」があります

県下最大の前方後円墳
坊の塚古墳

各務原市鵜沼羽場町2丁目

北緯

35

23

59.6

東経

136

55

44.4

 坊の塚古墳の周囲の地上をぐるぐる回っても前方後円墳の形は見えないので衛星写真で紹介します。
どちらへ廻っても全容はつかみ難い 墳丘の上には祠が

                  県指定史跡 坊の塚古墳
 各務原台地の東縁部に前方部を南西に向けて築かれた前方後円墳で、大垣市昼飯大塚古墳(前方後円墳、全長137m)についで県下第2番目の規模を有する古墳である。
 現在、前方部の南辺が道路により削られているが、規模は全長120m、後円部直径72m、同高さ10m、前方部最大幅66m、同高さ8mを測る。
 墳丘は二段構成により、葺石や埴輪などが見られる。
 内部主体は、後円部の中央部に竪穴式石室が構築されているが、詳細については不明である。
 周濠は、墳丘の東側および南側にその痕跡をとどめており、東側で16m、南側で幅24mを測る。
 築造年代は五世紀前半と推定されている。
 本古墳は、規模からみても五世紀前半代の美濃地域における有力な豪族の墳墓であり、岐阜市琴塚古墳(前方後円墳、全長115m)とともに五世紀代の美濃地域を代表する古墳である。   (各務原市教育委員会)

 坊の塚の前方部分一部が道路により削られているのが良く分かります。
          (各務原市埋蔵文化財調査センター資料より)

ここでついでに各務原にある代表的な古墳を紹介します
まず鵜沼東町桑原野山西公園にある「金縄塚古墳」を紹介します。

金縄塚古墳

各務原市鵜沼東町
桑原野山西公園内)

北緯

35

24

52.7

東経

136

56

43.8

桑原野山西公園を目標にすると分かりやすい地点です。

高台の公園の一角に墳丘があり、一部分が江戸時代に掘られています。

                金縄塚(きんじょうづか)古墳
 
岐阜県各務原市鵜沼東町にある円墳で桑原野山西公園内に所在します。
  古墳時代中期に築造されたと考えられ、各務原市指定史跡となっています。
 各務原台地の東部の丘陵上に位置する円墳。
 現在、古墳の中央部が深く窪んでいるのは江戸時代に削られたためである。
 伝説ではこの時、名前の由来のもととなった金の縄のようなものや、土器が出土したとされています。

公園の前は墓地になっており庚申塚などが並んでいます。

中山道の「空安寺」まで戻り西へ650mほど進み羽場(はば)の信号交差点まで来ます。

その交差点の北西に津島神社があります。

拝殿が回り舞台の皆楽座がある
津島神社

各務原市鵜沼羽場町1丁目

北緯

35

24

04.6

東経

136

55

27.9

津島神社の拝殿は村芝居を上演した「皆楽座」があり回り舞台になっており文化財です。

              皆楽座付津島神社藩塀
 客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、せり、太夫座などを備える。
 公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮説で設けられた。明冶24年の濃尾震災により倒壊したが、明冶32年に再建された。
 津島神社藩塀は皆楽座の南側に隣接して立つ。

津島神社の交差点を北へ380mほど進むと鵜沼中学校前の信号交差点へ出ます。
この交差点を西へ270mほど進むと北側に愛宕神社・熊丸稲荷神社の鳥居があります。

鵜沼石の鳥居がある
愛宕神社
熊丸稲荷神社

各務原市鵜沼松が丘2丁目

北緯

35

24

18.0

東経

136

55

18.8

鵜沼で唯一の鵜沼石で造られた鳥居

何段もの階段を上がる

熊丸稲荷神社の赤い鳥居も続きます

山腹まで上がると両社の社殿があります

境内は広く沢山の社や石碑があります

愛宕神社から元の中山道津島神社交差点まで戻ります。

この交叉点から中山道を西へ440mほど進むと国道21号線と合流します。
中山道はしばらく国道21号線ですので、そのまま西へ進みます。

次は「加納宿」ですが宿間が四里と長いので中間に立場茶屋を設け旅人の休憩所をつくりました。

それが「新加納合の宿」(間の宿=あいのしゅく)です。
ではご案内します。

街道コラム

【鵜沼宿の移転】

 中山道の道筋が御嶽宿ー土田宿ー善師野(ぜんじの)経由ー内田の渡し(犬山市内田町付近)ー鵜沼宿から、御嶽宿ー伏見宿ー大田宿ーうとう峠経由ー鵜沼宿に変わったことに伴い鵜沼宿も移転していると考えられる。
 木曽川の内田の渡しを渡ったところに今も南町(各務原市鵜沼南町)があり、大安寺川を渡ったところに西木戸の地名があるので、ここが西木戸跡付近と思われる。また古市場を通る道を西に進んだ嫁振坂の南東に、昭和30年頃まで一里塚が残っており、此の付近の字名を一里塚ということから、古い中山道であったと思われる。
 このため宿の中心も山沿いの伝馬町(現在の西町)へ移転したと思われる。

          

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。