太田宿から深田・坂祝・勝山を通り北西の山の「うとう(謡)峠」を越え鵜沼宿え向かいます。

六十九次
のうち
五十二宿と
五十三宿間

岐阜県各務原市

美濃国

JR高山線鵜沼駅下車

「うとう(謡)峠」巻は、「うとう坂」入り口、「うとう坂」登り口、「うとう坂」、「うとう峠一里塚」、
合戸(がっと)池の観音堂、東見付の観音碑、東見付跡、「赤坂の地蔵堂」、鵜沼宿の高札場跡の「赤坂神社」、
見桃院、女優第1号貞奴が建てた「貞照寺」などをGPS位置情報と共に、ご案内なします。

       

 

ここが市町村境です。

行政区域

「加茂郡坂祝町」から「各務原市」へ

加茂郡坂祝町

各務原市鵜沼

ここまで、加茂郡坂祝町酒倉から4.6km      
長野県境から66.2kmです。

「岩屋観音」から国道21号線に沿って約1.15�`西へ進むと「うとう坂」入口のある旧ドライブイン駐車場へ着ます。

うとう(謡)坂入り口

加茂郡坂祝町勝山

北緯

35

度

24

分

42.8

秒
東経

136

度

57

分

44.1

秒

今でも落石防止のシェルター内を走る国道21号線
平行して走るJR高山線はトンネルで抜けます。

国道21号線右の山の一番低いところを鵜沼へ抜けます

中山道は国道21号線とJR高山線の下をトンネルで通り山へ入ります。
山の中の「うとう坂」(加茂郡坂祝町勝山)から「うとう峠」(各務原市緑苑東2丁目)までは山の中1.2�`ほどを歩きます。
車両は国道21号線を西へ迂回です。(この場合途中に女優「貞奴」が開山した「貞照寺」があります。)

No.17 中山道車両通行不能区間=1.2km

場所

加茂郡坂祝町勝山〜各務原市緑苑東2丁目

場所

加茂郡坂祝町勝山

謡峠東口から

   
   
   

 

 

各務原市緑苑東2丁目

謡峠西口まで

 

迂回ルート(青)、中山道=緑

 

 

以前は目印として木曽川河畔のドライブインが並んでいましたが、今は殆どが閉店しています。
そのため、かってのドライブインの駐車場(北緯35度24分38秒、東経136度57分47秒)の隅に
国道21号線とJR高山本線の下を潜る階段がありますから、それを探してください。

国道21号線の東側に旧ドライブインの駐車場があり、その入口に小さな看板「中山道左へ」があります。

駐車場の南端に下り階段があります。

階段を下りると小川のトンネルに沿って歩道があり
暑い時期は涼しい中山道です

トンネルを出ると急に中山道の時代に戻ったような山道になります。

うとう坂登り口

各務原市鵜沼陰平山

北緯

35

度

24

分

42.4

秒
東経

136

度

57

分

43.1

秒

ところどころに案内板があり迷うことはありません

謡坂(うとうさか)

各務原市鵜沼陰平山

北緯

35

度

24

分

33.8

秒
東経

136

度

57

分

26.4

秒

谷にかかる橋も整備されていて安心です。

 

山の中の道は約1.2�`あり、20分かかります。

峠近くになると石畳の道になります。

「うとう坂」出口近くになると石畳が整備されいます。

暗い山の中は昔の旅人は心細かったと思います。

峠らしき目印もありませんが峠を過ぎると自然に道が下り坂になります

うとう峠

各務原市鵜沼陰平山

北緯

35

度

24

分

33.8

秒
東経

136

度

57

分

26.4

秒

中山道「うとう坂」(約1.2km=加茂郡坂祝町勝山から各務原市緑苑東2丁目まで)の
出口手前200m程の南側に「小田原宿喜右衛門菩提碑」があります。

小田原宿
喜右衛門菩提碑

各務原市緑苑東2丁目

北緯

35

度

24

分

29.8

秒
東経

136

度

57

分

19.4

秒

中山道の南側に奥にあるので見逃さないように

鵜沼宿の東の難所「うとう峠」
この峠で盗賊に襲われ殺された小田原宿の喜右衛門を弔うため二鵜沼の村役人が立てた菩提碑です。
鵜沼宿の西の難所は「かかみ野」で宿を出発し西に向かうと、三里(12km)近くかかみ野が広がり、
そこはほとんど人家が無かったようで、山賊などが行き来する人々を狙っていたため、
旅人にとっては恐ろしく寂しい難所だったようです。
「かかみ野」は高地で水の便が悪く作物もできず、近年までススキが生い茂り未開地でしたが、
明治末に陸軍が飛行場を作り道路などができ発展しました。(現在の各務原航空自衛隊岐阜基地)

供養碑を杉100mほど

 「謡坂(うとうさか)」出口

出口手前に「うとう峠一里塚」があります。

うとう峠一里塚

各務原市

北緯

35

度

24

分

29.9

秒
東経

136

度

57

分

19.4

秒
両塚はほぼ姿を留めています。
北塚 南塚

                                うとう峠一里塚と中仙道
 江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政五年六月)・「中仙道分間延絵図」(なかせんどうぶんかんのせえず)(寛政十二年七月〜文化三年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とか「うとう坂」と呼んでいました。
                 「一里塚の役割」
 「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。
 「うとう坂」にある一里塚、江戸から、一里ごとにつげられた目印で、旅人にとっては距離の目安、馬や駕篭の乗り賃の支払いの目安となり、日差しの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。
 道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。
 此処では片側だけ残り巾10m、高さ2mあります。
 塚の上には松が植えられたいました。

 江戸時代に、各務原を治めていた旗本「坪内氏」の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保三年の文書に、この坂を通って十日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。
 それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。
 1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。 (現地説明板より)

  市指定史跡 旧中山道うとう峠一里塚
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめたた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。
 美濃を通る中山道では、慶長九年(1604)に大湫(おおくて)宿、同十一〜十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(1634)には加納宿、元禄七年(1694)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。
 また、この間、寛永年間(1624〜44)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。
 各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野(ぜんじの)から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ、うとう峠を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。
 うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。
 このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8�`)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。
 うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ「北塚」・「南塚」が残っています。
 北塚は直径約10�b・高さが約2�bで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。
 かって各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。
 一塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。    (各務原市教育委員会)

一里塚を過ぎると視野が開けた場所に出ます。

「うとう峠」を出ると「森の本屋さん」があります
画面中央の道が中山道です

緑苑団地の道路に合流し西へ向かいます

緑苑団地道と合流点

各務原市鵜沼台1丁目

北緯

35

度

24

分

27.6

秒
東経

136

度

57

分

12.0

秒

中山道の石畳が切れたころ緑苑西団地の道と合流し
坂を西へ下ります

中山道は団地の道をしばらく下ると「合戸(かっこ)池」へ出ます

団地道と分かれ池に沿って西へ進み左へ折れ山を下る
これが「中仙道」です。

文献によると合戸池の辺に観音堂があるそうでっすが見当たりません

合戸池観音堂

各務原市鵜沼台1丁目

北緯

35

度

24

分

08.0

秒
東経

136

度

56

分

47.2

秒

調査中

団地の間を縫って中山道が下ります。

鵜沼団地西の坂を下る途中の西側に石仏郡があります

東見付の観音碑

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

度

24

分

08.0

秒
東経

136

度

56

分

47.2

秒

文献には出てこない石仏郡が並んでいます
南側の森は次に紹介する「赤坂神社本殿」裏辺りです

南無観世音菩薩  文化六己己年(1806)十一月

「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供羪塔」

辛うじて読み取ることが出来るのは六部の供養塔らしき碑だけです

高台の団地群の西を中山道は下ります。西側は赤坂神社境内です。

団地の人は此処が「中山道」と知らない人も居るのではないでしょうか

鵜沼台団地西
中山道

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

度

24

分

08.0

秒
東経

136

度

56

分

47.2

秒

中山道に沿って山を降りると視界が広がるところへ出ます。

正面に犬山城が見えてくる

素晴らしい眺めに旅の疲れも無くなったと思います

鵜沼団地西の坂を下ると小さな赤坂の地蔵堂へ出ます。

赤坂の地蔵堂

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

度

23

分

59.8

秒
東経

136

度

56

分

46.2

秒

赤い前掛けの上に「左」と「右」と言う文字が見えます。
前掛けに下には右側に「右ハさいしょ(在所)みち」
左側に「左ハ江戸井せんこうし(善光寺)みち」
と書かれていて道標も兼ねていたようでした

地蔵堂から西へ中山道は曲がります。

 「中山道宿村大概帳」の鵜沼宿
 東見付と高札場と赤坂地蔵堂の位置関係を表したもので現在の地蔵堂の三角道もほぼ当時のままであることが分かります。

            見付
 宿場の入口には宿内の防御のため、お城の門を真似て石垣の上に土塁を築いた「見付」がありました。
 残念ながら現在の鵜沼宿でその遺構を見ることはできません。

鵜沼宿東見付跡

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

度

23

分

59.8

秒
東経

136

度

56

分

46.2

秒

このあたりに鵜沼宿の東見付がありました。

赤坂の地蔵堂から西へ坂を降り50mほどの北側に赤坂神社があり、この前に高札場がありました。

鵜沼宿高札場跡の赤坂神社

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

度

24

分

02.5

秒
東経

136

度

56

分

44.8

秒

                 高札場跡
 「赤坂の地蔵堂」を西へ進むと「赤坂神社」(江戸時代は天王社)があり、門前に常夜灯があり台石に宝暦六丙子(ひのえね)歳(1756)の年号が見えます。
 この常夜燈の横あたりに高札場があり五または六枚の高札が掲げられていました。
 当時の高札場を復元したものをここから西へ350m程の中山道が坂祝バイパスを横断する北側に建てられています。

坂祝バイパス脇に復元された高札場

高札場跡の赤坂神社を過ぎ50mほどで「見桃院」の前に差し掛かります。

見桃院

各務原市鵜沼東町2丁目

北緯

35

度

24

分

02.8

秒
東経

136

度

56

分

43.7

秒

この辺りが「鵜沼宿」の入口になります

此処で少し中山道から反れて、一時テレビドラマで有名になった貞照寺をご案内します。

「貞照寺」へは前頁の「坂祝(さかほぎ)岩屋観音」の巻の国道21号線を「うとう坂」へ入ったところから、
「うとう坂」へ入らず、そのまま国道21号線を西へ820mほど進み初めての信号「鵜沼宝積寺町」を右(西)折し、
JR高山本線をわたると正面に「成田山貞照寺」があります。

昭和8年に女優「貞奴」により開山したお寺です。

貞照寺

鵜沼宝積寺町(ほうしゃくじちょう)

北緯

35

度

24

分

14.5

秒
東経

136

度

57

分

44.9

秒

立派な仁王門と仁王様、裏には検非違使が守ります

広々とした境内です

寄進者の名前がほとんど歌舞伎役者や往年の映画スター

狛犬の寄進者は当時の
松竹映画の社長

わき道に反れましたが、次頁は中山道「美濃鵜沼宿」の巻で
「うとう坂」から「うとう峠一里塚」を過ぎ「鵜沼宿」へ入ります。

街道コラム

【宿場の起源】

 江戸時代の宿場の起源は大化の改新

 七世紀の頃、大化の改新が進む中で交通制度が系統化され、官人のための駅馬および伝馬の設備が定められた。      
『令義解(りょうげぎ)』のなかに「凡諸道 須 置駅者、毎三十里 置一駅」(おおよそ、諸道には三十里ごとに一駅を置くこととする)当時の一里は六町であったので三十里は今の五里(20km)である。
 当時、美濃地方には古東山道が中路山道として通り、官人および都へ納税に赴く脚夫(律令時代に官物を歩いて運搬した人夫)が泊まる宿駅が整えられていた。  
 平安時代の『延喜式(えんぎしき)』には東山道の宿駅が明記され、不破駅(大垣市青墓)、大野駅(揖斐郡大野町川合辺り)、方県駅(岐阜市方県=かたがた)、各務駅(各務原市鵜沼)、可児(かに)駅(可児郡御嵩町上之郷辺り)、土岐駅(瑞浪市釜戸)、大井駅(恵那市大井)、坂本駅(中津川市駒場)が設置された。

鎌倉街道
 鎌倉時代になると、鎌倉中心の道路が整備され、当時の東海道は京都〜鎌倉間120余里に63宿を置いた。
近江より美濃に入り、居益(います)(不破郡関ヶ原町今須)、山中(不破郡関ヶ原町山中)、垂井(不破郡垂井町)、赤坂(大垣市赤坂)、墨俣(すのまた)(安八郡墨俣町)をへて尾張へ出て鎌倉に通じていた。

 

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。