太田宿から深田・坂祝・勝山を通り北西の山の「うとう(謡)峠」を越え鵜沼宿え向かいます。
六十九次 |
岐阜県各務原市 美濃国 JR高山線鵜沼駅下車 |
「うとう(謡)峠」巻は、「うとう坂」入り口、「うとう坂」登り口、「うとう坂」、「うとう峠一里塚」、
合戸(がっと)池の観音堂、東見付の観音碑、東見付跡、「赤坂の地蔵堂」、鵜沼宿の高札場跡の「赤坂神社」、
見桃院、女優第1号貞奴が建てた「貞照寺」などをGPS位置情報と共に、ご案内なします。
ここが市町村境です。
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「岩屋観音」から国道21号線に沿って約1.15`西へ進むと「うとう坂」入口のある旧ドライブイン駐車場へ着ます。
うとう(謡)坂入り口 加茂郡坂祝町勝山 |
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今でも落石防止のシェルター内を走る国道21号線 |
国道21号線右の山の一番低いところを鵜沼へ抜けます |
中山道は国道21号線とJR高山線の下をトンネルで通り山へ入ります。
山の中の「うとう坂」(加茂郡坂祝町勝山)から「うとう峠」(各務原市緑苑東2丁目)までは山の中1.2`ほどを歩きます。
車両は国道21号線を西へ迂回です。(この場合途中に女優「貞奴」が開山した「貞照寺」があります。)
No.17 中山道車両通行不能区間=1.2km |
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場所 |
加茂郡坂祝町勝山〜各務原市緑苑東2丁目 |
場所 |
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加茂郡坂祝町勝山 謡峠東口から |
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各務原市緑苑東2丁目 謡峠西口まで |
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迂回ルート(青)、中山道=緑 |
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以前は目印として木曽川河畔のドライブインが並んでいましたが、今は殆どが閉店しています。
そのため、かってのドライブインの駐車場(北緯35度24分38秒、東経136度57分47秒)の隅に
国道21号線とJR高山本線の下を潜る階段がありますから、それを探してください。
国道21号線の東側に旧ドライブインの駐車場があり、その入口に小さな看板「中山道左へ」があります。 |
駐車場の南端に下り階段があります。 |
階段を下りると小川のトンネルに沿って歩道があり |
トンネルを出ると急に中山道の時代に戻ったような山道になります。
うとう坂登り口 各務原市鵜沼陰平山 |
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ところどころに案内板があり迷うことはありません |
謡坂(うとうさか) 各務原市鵜沼陰平山 |
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谷にかかる橋も整備されていて安心です。 |
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山の中の道は約1.2`あり、20分かかります。
峠近くになると石畳の道になります。
「うとう坂」出口近くになると石畳が整備されいます。 |
暗い山の中は昔の旅人は心細かったと思います。 |
峠らしき目印もありませんが峠を過ぎると自然に道が下り坂になります
うとう峠 各務原市鵜沼陰平山 |
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中山道「うとう坂」(約1.2km=加茂郡坂祝町勝山から各務原市緑苑東2丁目まで)の
出口手前200m程の南側に「小田原宿喜右衛門菩提碑」があります。
小田原宿 各務原市緑苑東2丁目 |
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中山道の南側に奥にあるので見逃さないように |
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鵜沼宿の東の難所「うとう峠」 この峠で盗賊に襲われ殺された小田原宿の喜右衛門を弔うため二鵜沼の村役人が立てた菩提碑です。 鵜沼宿の西の難所は「かかみ野」で宿を出発し西に向かうと、三里(12km)近くかかみ野が広がり、 そこはほとんど人家が無かったようで、山賊などが行き来する人々を狙っていたため、 旅人にとっては恐ろしく寂しい難所だったようです。 「かかみ野」は高地で水の便が悪く作物もできず、近年までススキが生い茂り未開地でしたが、 明治末に陸軍が飛行場を作り道路などができ発展しました。(現在の各務原航空自衛隊岐阜基地) |
供養碑を杉100mほど
「謡坂(うとうさか)」出口 |
出口手前に「うとう峠一里塚」があります。
うとう峠一里塚 各務原市 |
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両塚はほぼ姿を留めています。 | |
北塚 | 南塚 |
うとう峠一里塚と中仙道 江戸時代に、各務原を治めていた旗本「坪内氏」の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保三年の文書に、この坂を通って十日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。 |
市指定史跡 旧中山道うとう峠一里塚 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめたた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。 美濃を通る中山道では、慶長九年(1604)に大湫(おおくて)宿、同十一〜十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(1634)には加納宿、元禄七年(1694)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。 また、この間、寛永年間(1624〜44)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。 各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野(ぜんじの)から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ、うとう峠を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。 うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。 このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8`)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。 うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ「北塚」・「南塚」が残っています。 北塚は直径約10b・高さが約2bで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。 かって各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。 一塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。 (各務原市教育委員会) |
一里塚を過ぎると視野が開けた場所に出ます。
「うとう峠」を出ると「森の本屋さん」があります |
緑苑団地の道路に合流し西へ向かいます
緑苑団地道と合流点 各務原市鵜沼台1丁目 |
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中山道の石畳が切れたころ緑苑西団地の道と合流し |
中山道は団地の道をしばらく下ると「合戸(かっこ)池」へ出ます
団地道と分かれ池に沿って西へ進み左へ折れ山を下る |
文献によると合戸池の辺に観音堂があるそうでっすが見当たりません
合戸池観音堂 各務原市鵜沼台1丁目 |
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調査中 |
団地の間を縫って中山道が下ります。
鵜沼団地西の坂を下る途中の西側に石仏郡があります
東見付の観音碑 各務原市鵜沼東町2丁目 |
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文献には出てこない石仏郡が並んでいます |
南無観世音菩薩 文化六己己年(1806)十一月 |
「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供羪塔」 |
辛うじて読み取ることが出来るのは六部の供養塔らしき碑だけです |
高台の団地群の西を中山道は下ります。西側は赤坂神社境内です。
団地の人は此処が「中山道」と知らない人も居るのではないでしょうか
鵜沼台団地西 各務原市鵜沼東町2丁目 |
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中山道に沿って山を降りると視界が広がるところへ出ます。 |
正面に犬山城が見えてくる |
素晴らしい眺めに旅の疲れも無くなったと思います |
鵜沼団地西の坂を下ると小さな赤坂の地蔵堂へ出ます。
赤坂の地蔵堂 各務原市鵜沼東町2丁目 |
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赤い前掛けの上に「左」と「右」と言う文字が見えます。 |
地蔵堂から西へ中山道は曲がります。
「中山道宿村大概帳」の鵜沼宿 |
見付 |
鵜沼宿東見付跡 各務原市鵜沼東町2丁目 |
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このあたりに鵜沼宿の東見付がありました。 |
赤坂の地蔵堂から西へ坂を降り50mほどの北側に赤坂神社があり、この前に高札場がありました。
鵜沼宿高札場跡の赤坂神社 各務原市鵜沼東町2丁目 |
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高札場跡 |
坂祝バイパス脇に復元された高札場 |
高札場跡の赤坂神社を過ぎ50mほどで「見桃院」の前に差し掛かります。
見桃院 各務原市鵜沼東町2丁目 |
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この辺りが「鵜沼宿」の入口になります |
此処で少し中山道から反れて、一時テレビドラマで有名になった貞照寺をご案内します。
「貞照寺」へは前頁の「坂祝(さかほぎ)岩屋観音」の巻の国道21号線を「うとう坂」へ入ったところから、
「うとう坂」へ入らず、そのまま国道21号線を西へ820mほど進み初めての信号「鵜沼宝積寺町」を右(西)折し、
JR高山本線をわたると正面に「成田山貞照寺」があります。
昭和8年に女優「貞奴」により開山したお寺です。
貞照寺 鵜沼宝積寺町(ほうしゃくじちょう) |
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立派な仁王門と仁王様、裏には検非違使が守ります |
広々とした境内です |
寄進者の名前がほとんど歌舞伎役者や往年の映画スター |
狛犬の寄進者は当時の |
わき道に反れましたが、次頁は中山道「美濃鵜沼宿」の巻で
「うとう坂」から「うとう峠一里塚」を過ぎ「鵜沼宿」へ入ります。
街道コラム
【宿場の起源】江戸時代の宿場の起源は大化の改新 七世紀の頃、大化の改新が進む中で交通制度が系統化され、官人のための駅馬および伝馬の設備が定められた。 鎌倉街道
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GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。