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太田宿を出て深田を過ぎると中山道は国道21号に合流し、坂祝(さかほぎ)・勝山へと進みます

六十九次
のうち
五十二宿
五十三宿間

岐阜県加茂郡坂祝町

美濃国

JR高山線坂祝駅下車

「岩屋観音」巻は、「大まや湊跡」、「取組一里塚跡」、「勝山港跡」、「岩屋観音道」、「岩屋観音堂」、
昭和34年まで使われた「栗栖の渡し跡」などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

         

 
本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
美濃太田市・坂祝町境
↓210m
信州境から59.0km(江戸から=382.0km
今須(近江国さかい)まで 61.2km
大まや湊跡
↓150m
   
坂祝神社碑   →
  
↓1,120m
取組一里塚跡
↓850m
宝 積 寺  
↓ 60m
宝積寺石仏  
↓280m
  平野神社参道口  →
↓4600m
勝山港跡   
↓120m
神明神社  
↓320m
岩屋観音口
↓150m
岩屋観音堂
 
↓ 90m
残された中山道(
110m
↓930m
栗栖の渡し跡
30m↓(区間計 4.4km)


北へ 1,300m  本殿

一里塚情報(美濃路17番目、 江戸から99番目(九十九里)
 (古井一里塚から
3,930m




北へ 200m 本殿












信州境から63.4km(江戸から=386.4km
うとう坂入り口 今須(近江国さかい)まで 56.8km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・坂祝岩屋観音、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

「太田宿」を出て国道21号線を210mほど西に向かうと

大まや湊跡

加茂郡深田町辺りです

北緯

35

25

39.0

東経

137

58

21.2

            下流(木曽川側)
 加茂川が木曽川へ流れ込む地形を利用した湊で、これから向かう中山道の「岩屋観音」が大きな荷駄は通れませんこの辺りから鵜沼辺りまで船で下ろしたと思われます。

上流側

水門の上流にも湊の痕跡は見当たりません

大まや湊跡から150m程西へ向かうと坂祝神社碑があります。

坂祝神社碑

加茂郡坂祝町酒倉

北緯

35

25

39.0

東経

137

58

21.2

 本殿は北へ1,300mほどの山麓にありますが、参道は高山本線建設や農地整備などで見る影もなくずたずたにされています。  地図がなければたどり着くことができません。

拝殿の置くにある本殿は鰹木をいただいた本格的な神社です。
由緒があると思われますが詳細は不明です。

坂祝神社碑から西へ木曽川沿いに1,120mほど進むと左側に取組一里塚標識が立っています。

取組一里塚跡

加茂郡坂祝町取組

北緯

35

25

24.6

東経

136

58

26.5

坂祝役場近くのパジェロ製造工場西の川のふちにあります。

国道沿いの駐車場脇に「取組の一里塚跡」はあります。
取組」という地名は木曽川の対岸にある桃太郎神社に由来して桃太郎が鬼と取組んで退治した所だそうです

国道21号線 向こうが「パジェロ製造工場」

「取組の一里塚跡」から西へ1.2kmほどの北側に「寶積禅寺」があります。

寶積禅寺

加茂郡坂祝町池田

北緯

35

25

19.2

東経

136

58

23.8

この寺名も桃太郎伝説から付けられた(桃太郎が宝物を積んで帰ってきた場所)と言われています。

寶積禅寺から西へ進むと石垣の上に石仏があります。

寶積禅寺の石仏

加茂郡坂祝町池田

北緯

35

25

13.9

東経

136

58

23.2

文化十四年丁丑(ひのとうし=1817年)

元禄八年乙亥(きのとゐ=1695年)

勝山という地名も桃太郎伝説から(鬼退治で桃太郎が勝った所)

勝山港跡

加茂郡坂祝町勝山

北緯

35

25

13.9

東経

136

58

23.2


これから下流の鵜沼境辺りが険しい山道になるので、陸路を避けるために利用されたと思われます。

近郷の年貢米も運ばれていましたが、川の流れの変化で湊跡は残っていません。

勝山道標

加茂郡坂祝町勝山

北緯

35

25

14.7

東経

136

58

20.9

勝山と織田信長
信長が猿啄(さるばみ)城を攻めたとき、余りにも急峻な山の上にあり攻略できなかったが、
木下藤吉郎がなんとか落城させたことを喜び、この地を「勝山」としたそうです。

ここから街道は鍛冶屋の多い関、
和紙の産地の上有知(美濃市)へと向かいます

この「勝山」に道標があります。

画面中央の電柱の根元に「勝山道標」はあります。

ひっそりと

道標は二つに割れセメントで繋いであります。
石碑はかなり埋っていて全文が判読できません。
右 江戸 善光(寺)
左 せき かし(?)

ほとんど気付かずに行き過ぎます。

少し前までは国道と堤防が同じ高さでしたが、堤防補強で
水神様も高い堤防上へ上がりました。
下に走るのが国道21号線です。

「岐蘇路安見絵図」に「此辺、左りは木曾川流れ、川辺に岩多く、川向の山々好景也。」
と書かれているように、堤防が嵩上げされるまで、国道21号線からよく見えました。

中山道(国道21号線)鵜沼境に近づくと堤防も昔通りとなり山と川が迫ってきます。

 

猿啄(さるばみ)城跡

加茂郡坂祝町勝山字城山

北緯

35

25

14.9

東経

136

57

56.4

勝山の上に見えるのが城址にある展望台

国道21号線には入り口付近の両側に標識 下流より見た猿啄城跡展望台

山頂の展望台

      猿啄(さるばみ)城物語
 応永十四年(1407)の頃は西村豊前守善政(にしむらぶぜんのかみよしまさ)の城であった。
 享保三年(1530)清和源氏土岐氏流で斎藤道三に仕えていた田原左衛門尉頼吉は大泉寺の正斎会に出かけていた西村善政を急襲して討ち城を乗っ取り猿啄城主となった。
 天文十六年(1547)頼吉は大泉寺の慣例により正月4日新年斎会に出かけたが、今度は自分の家臣である土岐氏流の多治見修理に襲われ討ち死にした多治見修理は井ノ口に出任し、斎藤道三の情を受けて羽振りをきかせ義龍、龍輿に仕えた永禄八年(1565)8月信長は稲葉山城の外郭をなす東濃諸城を攻略しようとして美濃に侵攻した織田信長は鵜沼城攻略を木下藤吉郎に任せ猿啄城攻撃に向かった。
 猿啄城を守る多治見修理の軍勢は僅かで、攻撃する織田軍は丹羽長秀、河尻鎮吉を将とする二つの軍でその数は数千人であった織田軍は山勢急峻で難攻したが優勢を頼みに押しまくり、また東西の屋根づたいに城に接近し火矢を放ち落城させ、多治見修理は搦手より脱出し北の山を越え落ち延びた信長は幸先のよい戦勝を喜び以来この地を「勝山」と称することにした河尻鎮吉は一連の東濃作戦が終わると信長より猿啄城を与えられ周辺13ヶ村の領主となった。
 天正三年(1575)岩村城へ移り、猿啄城は廃城となった

途中の道標

堀切跡

城址碑

再び中山道に戻り西へ進みます。
やがて国道21号線から北へ中山道は反れ岩山の上へと道は延びます。
大きな岩が木曽川に迫り当時の技術では街道が出来ないので
川から岩山の上を通り向こうまで道が作られました。

岩屋観音道入り口

加茂郡坂祝町勝山

北緯

35

25

09.3

東経

136

58

04.0

今では重機で岩を取り除き国道21号線が走っています。
中山道は岩の上の柵の向こうを通っていました。

国道を右へ反れると岩屋観音への道があります。

 

No.16 中山道車両通行不能区間

場所

加茂郡坂祝町勝山

場所

加茂郡坂祝町勝山

岩屋観音東口から

   
   
   

 

 

加茂郡坂祝町勝山

岩屋観音西口まで

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

「岩屋観音」上り口に立場があり、赤飯を三角の形に入れて、抜いた「三角強飯」が此処の茶屋の名物でした。

説明

立場または立場茶屋  宿場制度で許可された休憩所
 簡単な食事、お茶等が用意されていました。

中山道上り口手前に駐車場があります。

道中の安全を祈って岩の上に観音様が祭られました。

岩屋観音への入り口(中山道)

皇女「和宮」も此処を通って江戸へ向かわれました。

山側に走る高山線振り返るとこれが「中山道」?と思えるような道
しかし、これからまた狭く急な勾配になります。

街道から見下ろした風景は「岐蘇路安見絵図」に記載のあるとおりです。

「岐蘇路安見絵図」

 岩窟の内に、くはんのんを安置す。
 
(同じく坂祝町(さかほぎ)勝山より中山道を西へ1キロの
  ところにある岩屋観音のことです)

 此辺、左りは木曾川流れ、川辺に岩多く、
 川向の山々好景也。
 
(岩屋観音から見下ろした風景のこと)

 又木曽川を薪をつみたる船多下る。
 
(今は日本ライン下りの観光船が下ります)

 急なる故、船の下る事、飛かことく、是またよき見もの也

登り始めると木曽川の景色が綺麗です。

足元を国道21号線が走っています。

道幅は当時のままと思われます

頂上付近には当時寄付された石の柵が残っています

巌屋坂の碑

皇女和宮が街道拡幅工事
江戸末期 皇女和宮が東下にあたり、この「観音坂」も拡幅されました。
記録によると約一尺五寸(45cm)が拡幅されたようです。
それまでの街道はもっと狭かったのです。

少し下ると岩屋観音があり中山道は観音堂の脇をさらに下ります。

最近、岩屋観音上の岩が脆くなり時々落石の危険が出たため改修されました。

金二百疋 太田宿 林勘米兵等の文字も見えます。

         日野商人
 商人のなかで近江商人と富山の薬売りは活発であった。
 日本国中はもちろん、遠くは蝦夷地(北海道)、さらには海外へも出かけた。
近江商人のうち日野商人は中山道の各宿場に足跡が残っています。
 この岩屋観音では、石垣や石段のほとんどが、日野商人が百疋、二百疋と寄付したものです。
(日野商人の詳しいことは、伏見宿の巻末の「街道コラム」を参照してください)

岩屋観音上の岩石も補修され落石の危険はなくなりました。

岩屋観音堂

加茂郡坂祝町勝山

北緯

35

25

05.6

東経

136

57

59.0

改修前の中山道
観音堂の奥に観音様が安置されています。

お告
此処に鎮座せし龍神は八大龍王一名水神様で尾張小牧在住の

振り返ると岩が頭上に迫ってきます。

中山道もまるで参道のようです。

「岩屋観音」からうっそうとした茂みを下りると
板のほうから国道を走るトラックの騒音が聞こえホッとします。

やっと国道21号へ戻りました。
昔は此処は大きな荷駄が通るのは無理だったと思います。

享保十五年(1730年)に道路改修が行われましたが
近年にも、落石がありけが人がでて、山道を改修した記念碑です。

「岩屋観音」の下にも祠が祭ってあります。

岩屋観音の下を高山線が通っています。

中山道は「岩屋観音」から国道21号線を西へ向かって進んでいます。

中山道はほんの一部がJR高山線と国道21号線に挟まれ残っています。

中山道は国道21号線となり西へ進みます。

昭和34年まで使われた
栗栖の渡し跡

加茂郡坂祝町勝山

北緯

35

24

42.2

東経

136

57

46.6

岩屋観音を過ぎ数百米行くと、また岩山が木曽川に迫ってきます。

この食堂辺りに「栗栖の渡し」がありました。
対岸の栗栖(犬山市栗栖)は現在でも犬山モンキーセンターから木曽川沿いに細い県道が走る
行き止まりの集落です。

次は、いよいよ「うとう坂」です。
江戸時代は木曽川まで岩山が迫り道が切り開けないので、中山道は山を越えて「鵜沼宿」
抜ける道「うとう(謡)坂」を開きました。

街道コラム

【駕籠と乗物と輿】

乗物
 乗りもには多くの種類があり、その使用には細かい規制があり家格によって定めらていた。「乗物」は全体が囲まれていて乗っているものの姿が見えず、入り口が引戸になっていることが多い。そしてつくりは精巧で緻密である。

駕籠
 「駕籠」は乗っているものが丸見えのような、つくりが簡単粗雑な乗り物である。いろいろな種類があり、町駕籠・山駕籠・宿駕籠などがある。いずれも作りは簡略であるが、垂れのあるのは町駕籠で山駕籠はない。

輿
 輿は大礼・儀式のときに乗用を許されている者のみが使用する乗り物である。担い棒の上に箱を造作した構造で、駕籠や乗物とは基本構造から違っていた。

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。