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太田宿を出て深田神社を過ぎると坂祝(さかほぎ)へ入りますが、江戸時代のガイドブック
「岐蘇路安見絵図」(きそじあんけんえず)にも紹介されている柿の名産地・蜂屋をご案内します

六十九次
のうち
五十二宿
五十三宿間

岐阜県美濃加茂市

美濃国

長良川鉄道加茂野駅下車

「蜂屋大仏」巻は、「蜂屋大仏の瑞林寺」、「堂洞(どうほら)城跡」などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

           

美濃加茂市蜂屋案内

ちょっと寄り道

「岐蘇路安見絵図」(きそじあんけんえず)

 

太田より一り(里)北に蜂やといふあり、

柿の出る所也

にある蜂や(美濃加茂市蜂屋)を紹介します

同じく「岐蘇路安見絵図」の「太田」にある
みの紙は、太田の北、武芸郡より多く出る。の美濃市
は太田の北二里半にあり、昔より鍛冶多し。の関市は別途ご案内します。

蜂屋(美濃加茂市蜂屋)は大田村から郡上八幡への街道沿い(県道63号線)にあります。

蜂屋柿で昔から有名です。

   

蜂屋には「蜂屋大仏」と「堂洞城」があります。

蜂屋大仏

美濃加茂市蜂屋町中蜂屋

北緯

35

28

09.8

東経

137

00

23.3

国道418号線の蜂屋長中蜂屋分岐にある案内板と石碑

「蜂屋大仏」がある「瑞林寺」参道と山門

この寺は、龍雲山瑞林寺と称し臨済宗妙心寺派に属しています。
文明年間(1480年)に、仁済和尚がその師悟渓国師を請じて開山ました。

柿は今でも蜂屋の名産
仁済和尚は、足利将軍「義稙」(よしたね)に蜂屋下記を献上「柿寺の称号と寺領十石を受け、
以来、寺は秀吉や家康へも献上し、寺領を安堵され、蜂屋の住民も諸役が免除されました。

また、文化財が多くあり、絹本著色涅槃図(けんぽんちゃくしょくねはんず)・
聖観音座像附胎内仏(しょうかんのんざぞう、つけたいないぶつ)・
弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)などがあります。

大仏堂

蜂屋大仏

 

堂洞城跡

美濃加茂市蜂屋町大仲寺

北緯

35

28

34.4

東経

137

00

26.5

国道418号線の道標  此処を北へ約2キロに城跡があります

国道418号線 蜂屋町下蜂屋にある道標
以前はもっと奥にあった道標を国道沿いに移転させたため城址は
「是より北 八百米」とありますが、実際はここから北へ2キロあります。

約1キロにある天神神社 神社前を過ぎると池がありさらに登る

狭い道をどんどん進むと、小さな峠へ出ます。
道が交差している左に大きな水源タンクがあります

50mほど進むと左にわき道が見えます。
この道を200m進むと城跡へ出ます

薄暗い林の中に城跡がありましたが、薄暗くて気味が悪く早々に退散しました。

堂洞城(どうほら)由来板は風雨にさらされ、ほとんど読めませんでした。

案内板の脇にある「八畳岩」ですが、何の謂れがあるのか不明です。

信長軍に攻められて落城 

 永禄8年(1565年)尾張の織田信長が小牧山から軍を進め木曽川を越え美濃に伊木山城を築き鵜沼城猿啄城を攻略し加茂郡内に侵入した

 これに対し堂洞城加治田城関城鉈尾山城の4城は同盟と誓い信長勢を遊撃する手筈であったが加治田城主佐藤忠能は盟約に背いて無断で信長の降伏勧告を受け入れた

 その夜堂洞城主の岸信房は正室としていた加治田城主佐藤紀伊守忠能の娘を斬殺し翌朝首を竹竿の先に刺して加治田城の正面の長尾丸山の頂上にさらされたという

 翌日信長の武将である丹羽長秀・河尻鎮吉の軍勢が堂洞城に攻めよせたが、城兵も果敢に応戦したが長尾口丸山方面で奮戦していた信房が討死にしたとの報告を受けた信周は妻と刺し違え自害した

 城兵も一人の逃亡者もなく全員討死にし、死をもって義理を通した岸一族は滅亡し堂洞城は落城した

最近の堂洞城址

付近の立木を伐採して、草も刈られて城址碑もありました

大手道入口 一の曲輪 北の曲輪
大手曲輪 西大手道

 加治田・堂洞合戦

 現在 古城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも
呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって 斉藤龍興が支配する美濃を
攻略することは 上洛へ向けての重要な戦略でした。
 永禄七年(1564)信長は清洲を出立し、美濃に近い小牧に本拠地を移しました。
信長の侵攻に備え、斉藤方である関城主 長井隼人正道利(はやとのしょうみちとし)を盟主として、
堂洞城主の岸勘解由信周(かげゆのぶちか)、加治田城主の佐藤紀伊守忠能(きいのかみただよし)は
反信長の盟約を結んでいました。

 美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、永禄八年(1565)八月木曽川を渡り鵜沼城(大沢基康)、坂祝町にある猿啄城(さるばみじょう・多治見修理)を次々と攻め落とし、いよいよ岸氏が守る堂洞城へと進軍していきました。信長方への投降を断った堂洞城の岸氏に対し、秋も半ばの旧暦八月二十八日午刻(正午)いよいよ攻撃が開始されました。

 信長は高畑の恵日山に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀らが、そして信長方に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面の加治田から攻め入りました。そして酉刻(午後六時)、ついに堂洞城落城しました。

 加治田城主佐藤紀伊守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田方が信長方に寝返ったのを怒った岸勘解由は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。

 城を枕に義に殉じた岸勘解由と 時勢を洞察して領地を守った佐藤紀伊守。この対照的な先人の行動は、それぞれ価値を持って人の生き方について語りかけます。

 佐藤紀伊守は堂洞城陥落後八月二十九日には信長家臣の斉藤新五とともに、関城主長井隼人の反撃を衣丸(現在の加治田字絹丸)で迎え撃ち、翌日には関城
陥落させています。
 中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が佐藤紀伊守の養子となり加治田城主を継ぎました。
その後の佐藤紀伊守は永禄十年(1567)に隣の伊深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に建てた龍福寺のために尽くしました。
城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正十年(1582)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。

 その後の治田城は天正十年(1582)の加治田・兼山合戦を斉藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。

平成十二年十一月 富加町史を一部改変 富加町教育委員会

加治田・堂洞合戦に至るまでに関連した伊木山城鵜沼城猿啄
加治田城関城鉈尾山城を紹介します。

加治田・堂洞合戦に関係ある城址

反信長同盟を裏切った加治田城

冶田城跡

加茂郡富加町加冶田

北緯

35

29

40.4

東経

136

59

48.5

登り口:美濃加茂市から県道63号で富加町に入り、県道97号との交差点から少し北へ進んで左側の農道に入り、突き当たりを左折して進むと、右側に清水寺(きよみずでら)への案内がある。ここを右折して進むと、写真の場所が現れるから、橋を渡ると駐車場とトイレがある

分岐点の道標 加治田城跡

 

城址

関市安桜山

北緯

35

29

06.4

東経

136

55

16.5

本丸曲輪

関城物語 

 長井氏は守護土岐氏の守護代であった斎藤氏の支族で、斎藤利国の嫡子利親が家督と継ぎ弟利隆は長井姓を名乗り斎藤氏の本城小野城に近い富野に志津野城を築いて本拠とした

 長井利隆の子隼人佐道利は、父の拠城志津野城の近くの椎倉城を築いて自ら居城としていたが西武儀の雄大矢田城の城主山田氏が道三に攻略されたから武儀地方に広く勢力を伸ばし関の安桜山に関城を構え本城とした

 道利は道三の子義龍と謀り長良川の戦いで道三を討ち取り、道三と姻戚関係であった明智城を討伐し侵攻を重ねる織田勢を撃退するなど戦功をたて、日根野備中守とともに国主義龍の最も信頼する武将であった

 義龍が急死して子の龍興が継ぐと信長の美濃侵攻が激しくなり東濃諸城の討伐が始まり大沢治郎左衛門正重の鵜沼城を誘降、多治見修理の猿啄城を攻略し堂洞城・加治田城を降し関城の長井道利を討伐する戦略であった

 道利は堂洞城・加治田城と同盟を結び信長勢の迎撃体勢を固めたが、加治田城が盟約を破り信長の誘降に応じ堂洞城落城し次は関城の番となった

 道利は孤軍となり信長勢に立ち向かったが大軍の前に落城した

本丸に祭られている御嶽大神 ニの丸曲輪 三の丸曲輪

 

猿啄(さるばみ)城跡

加茂郡坂祝町勝山字城山

北緯

35

25

14.9

東経

136

57

56.4

勝山の上に見えるのが城址にある展望台

国道21号線には入り口付近の両側に標識 下流より見た猿啄城跡展望台

山頂の展望台

猿啄城物語

 応永14年(1407年)の頃は西村豊前守善政(にしむらぶぜんのかみよしまさ)の城であった

 享保3年(1530年)清和源氏土岐氏流で斎藤道三に仕えていた田原左衛門尉頼吉は大泉寺の正斎会に出かけていた西村善政を急襲して討ち城を乗っ取り猿啄城主となった

 天文16年(1547年)頼吉は大泉寺の慣例により正月4日新年斎会に出かけたが、今度は自分の家臣である土岐氏流の多治見修理に襲われ討ち死にした

 多治見修理は井ノ口に出任し、斎藤道三の情を受けて羽振りをきかせ義龍、龍輿に仕えた

 永禄8年(1565年)8月信長は稲葉山城の外郭をなす東濃諸城を攻略しようとして美濃に侵攻した

 織田信長は鵜沼城攻略を木下藤吉郎に任せ猿啄城攻撃に向かった。猿啄城を守る多治見修理の軍勢は僅かで、攻撃する織田軍は丹羽長秀、河尻鎮吉を将とする二つの軍でその数は数千人であった

 織田軍は山勢急峻で難攻したが優勢を頼みに押しまくり、また東西の屋根づたいに城に接近し火矢を放ち落城させ、多治見修理は搦手より脱出し北の山を越え落ち延びた

 信長は幸先のよい戦勝を喜び以来この地を「勝山」と称することにした

 河尻鎮吉は一連の東濃作戦が終わると信長より猿啄城を与えられ周辺13ヶ村の領主となった

 天正3年(1575年)岩村城へ移り、猿啄城は廃城となった

途中の道標 堀切跡

城址碑

現在は展望台がある

現在このこの城跡に猿啄城展望台があるが、これは1997年12月に坂祝誕生100周年を記念して造られたものである

この落城した際の悲劇が、姫ヶ渕や姥ヶ池などの伝説となっているそうであるが詳細は不明である

 

伊木山城跡

各務原市小伊木4丁目

北緯

35

22

53.3

東経

136

56

38.9

 伊木山城は、木曽川沿いにある独立丘陵で、現在は「いこいの森伊木の森」となっている伊木山山頂部に築かれた城です。 
 伊木山山頂部に主郭を置き、東西それぞれに2段の曲輪を置いた縄張りで、主郭部には現在はテレビの中継設備が設置されている。

 城の遺構は、曲輪だけで土塁や竪堀を注意深く探して見たが残っていないようです。 山頂部から西へ尾根筋を行くと熊野神社旧社殿跡を含めて2つのピークがあり、それぞれが出丸的な防御設備が配置されていたと考えられます。
 伊木山城は、築城年代や築城者については諸説があり、詳細については定かでないが、永禄年間には伊木忠次が居城していた。 
 永禄8年、織田信長に鵜沼城と伊木山城の攻略を命じられてた木下秀吉は、伊木山城主伊木忠次を調略して織田方に降らせた。 

 伊木忠次はその後池田輝政に仕え、天正18年に輝政の三河吉田(豊橋市の吉田城)への転封に従って移り、伊木山城は廃城となった。

 

鵜沼城跡

各務原市鵜沼南町

北緯

35

23

28.7

東経

136

56

55.8

犬山城の対岸にある岩山が鵜沼城跡です。
木曽川に突き出た要害で、永享(えいきょう)年間(1429〜41)に大沢氏が築き、
代々大沢氏が城主となりました。
永禄四年(1561)頃から、織田信長の美濃攻めが始まり、
諸城が次々と陥落していく中にあって鵜沼城だけは抵抗を続けました。
そして、木下藤吉郎の斡旋によって、ようやく開城しました。

鵜沼城址の対岸に犬山城が見えます

上流(桃太郎神社付近)から見た鵜沼城跡の岩山
近年まで頂上で旅館が経営されていましたが、事件があり旅館は取り壊され、
立ち入り禁止となっています。

鉈尾山城については資料が手元にありませんので省略します

脇道から、中山道に戻り「鵜沼宿」へ向かう、加茂郡坂祝町(さかほぎ)「岩屋観音」へご案内したいと思います。

街道コラム

【脇往還】

 江戸時代、五街道
東海道:品川から大津までの五十三次、大阪までの伏見・淀・枚方・守口の四宿を加えることがある
中山道:板橋から守山までの六十七次
日光街道:千住から鉢石(日光)までの二十一次
奥州街道:白沢から白川までの十次
甲州街道:内藤新宿から下諏訪までの四十四次
  なお五街道か分岐している美濃路(宮から垂井まで)、佐屋路(宮から佐屋を経て桑名まで)、壬生道(新宿から松戸まで)
  の諸道も五街道に含ませることもある。

 脇街道は五街道以外の主要な街道をいい、主なものに水戸路、美濃路、伊勢路、例幣使街道、山陽道、善光寺道などが有
名で脇街道・脇道・脇往還とも呼ばれた。

        

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。