中山道六十九次のうち五十二宿目で中山道美濃十六宿の八番目の宿「太田宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十二宿

岐阜県美濃加茂市

美濃国

JR高山線美濃太田駅下車

「太田宿ー2」巻は、太田宿長屋門、太田宿船番所跡と戸船場跡、太田宿高札場跡と郡上街道追分、
西福寺、庚申堂と秋葉神社、弥勒寺跡と下町(しもまち)の桝形、太田宿代官所跡と坪内逍遥生家跡、「逍遥公園」、
太田小学校前の播隆上人銘号碑、太田宿虚空蔵菩薩堂と道標、大井戸の渡し跡と承知久の変古戦場(大井戸の戦い)跡、
太田宿西口、太田宿兼松風碑、深田神社と芳寿寺などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

               

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
太田本陣跡   
↓ 60m
信州境から57.6km(江戸から=380.6km
今須(近江国さかい)まで 62.6km
   うなぎ山水    →
↓140m
    高札場跡     →

(枡 形)南へ 

↓ 70m
庚申堂・秋葉神社  
↓ 60m
(枡 形) 西へ
↓ 80m
国道41号線ガード下
↓ 30m
   下町弘法堂    →
 
↓370m
  堤防下り道    →
↓ 20m
芳 春 寺   
↓ 60m

深 田 神 社 
↓140m
国道21号線合流   
↓200m
美濃太田市・坂祝町境

210m↓(区間計 2.4km)
南へ70m 三叉路10m 長屋門 →20m 舟番所跡

北へ70m 西福寺






       
逍遥公園(太田小学校前)
         
↑北へ250m(太田小学校グランド沿い)
西へ50m 三叉路 西へ20m代官所跡と坪内逍遥生家跡
  
堤防を西へ320m 兼松嘯風碑







信州境から
61.06km
信州境から59.0km(江戸から=382.0km
大まや湊跡 今須(近江国さかい)まで 61.2km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・太田宿、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

「太田宿」の続き 

宿場の西と東の枡形などがよく分かります

枡形の解説

 説明

 

枡形

 

 

 枡形とは街道をクランク状に曲げ見通し

 が利かないようにし防備を図るもの。

 語源は城などの一の門から二の門へ

 進む時、枡状の四角い広場を作り兵の

 勢い止めるように作られた事から由来

 します(右の画像は宿場の枡形の模型)

「本陣跡」を西へ70m進むと街道沿いの美味しい食事処紹介うなぎ屋「山水」があります。

うなぎ屋 山水

北緯

35

26

06.1

東経

137

00

55.7

うなぎの美味しい「山水」。街道沿いでは有名です。

   街道沿いの「うなぎ屋山水」の角を南へ回ると奥に70m程に長屋門があります。
街道沿いには多くの古い建物が残ってますが年々数が少なくなっているような気がします。

太田宿長屋門

美濃加茂市太田本町4丁目

北緯

35

26

04.4

東経

137

00

54.2

この長屋門は中町にある元太田町長の林五郎宅で現在は座間家の住宅で、
長屋門は総桜材で造られた貴重な建築物ですが、多くの部分がトタンで囲われ見る影もありません。

横へまわると大きな建物が朽ちて倒壊したままになっていました。
古い建物は独力での保存は難しいのかもしれません。

座間家の総桜材の長屋門

母屋は改築? 屋敷内の倒壊したままの建物

建築は嘉永元年(1848)母屋と玄関が残されていましたが
最近、母屋も建て直されたようです。

長屋門を更に20mほど進むと堤防へ出ます。
そこに舟番所跡があります。

太田宿舟番所跡
渡船場跡

美濃加茂市太田下町二丁目

北緯

35

26

04.4

東経

137

00

54.2

川並番所跡の堤外が渡船場跡です。

明冶以降から昭和30年代まで此処に渡し場がありワイヤーが対岸の岩まで張られ、岡田式渡船がありました。

中山道へ戻り、うなぎ屋「山水」の少し先にあるお店

「いまやす」 パン、餅、赤飯など主食のお店

うなぎ屋「山水」から140m程西へ進むと「高札場跡」へ出ます。

太田宿
高札場跡郡上街道追分

美濃加茂市太田本町4丁目

北緯

35

26

06.1

東経

137

00

50.9

枡形の道を南(木曽川堤防)へ 高札場説明と道標

右 関、上有知道   左 西京 伊勢道  明冶廿五年

                高札場跡と具上街道追分
 高札場は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。
 一般の人々に知らせる目的で立てられていました。
 弘化二年(1845)の『加茂郡美濃太田村家並絵図』には、下(しも)町の西福寺入口付近に高札場が描かれています
 『濃州徇紀行』には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれていた高札と船高札があったとされます。
 左手にある石の道標は明冶二十六年(1893)に名古屋の塩問屋、伊東萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。                (美濃加茂市商工観光課)

高札場跡の枡形の北へ70mの道奥に「西福寺」があります。

西福寺

美濃加茂市太田本町4丁目

北緯

35

26

06.1

東経

137

00

50.9

中山道は高札場前の枡形を南へ回り70m程進むと秋葉神社と庚申堂があります。

庚申堂と秋葉神社

美濃加茂市太田本町4丁目

北緯

35

26

06.1

東経

137

00

50.9

中山道は庚申堂から60mほど進み

弥勒寺跡下町の桝形

美濃加茂市太田本町4丁目

北緯

35

26

06.1

東経

137

00

50.9

             弥勒寺跡と下町の桝形
 弘化二年(1845)の『加茂郡太田村家並絵図』の中には弥勒寺が描かれています。
 天保年間には祐泉寺九世海音和尚が隠居していたようです。
 嘉永三年(1850)に脇本陣林市左衛門が娘の宝林尼首座のために尼寺として再興しましたが、明治時代に廃寺となりました。
 新田次郎の『槍ヶ岳開山』では、播隆上人が太田宿に立ち寄った際に対座した場所として登場します
 播隆上人はこの南側の敷地で葬られましたが、廃寺に伴ない、現在は祐泉寺に墓碑が移っています
                     (美濃加茂市商工観光課)

枡形道を西へとり国道41号線の下を通り「太田小学校」前へ出ます。

国道41号線中濃大橋の下をくぐり真直ぐに70mほど太田小学校生垣まで進むと
そこが太田宿代官所跡で役所長屋が坪内逍遥生家が在った所です。

田宿代官所跡
坪内逍遥生家跡

美濃加茂市太田本町5丁目

北緯

35

26

00.9

東経

137

00

44.3

     中山道沿いの「太田代官所」が今は太田小学校
 
尾張藩の代官所が置かれ中津川から鵜沼までの中山道と木曽川沿った尾張領約5万4千石の村々を統括していました。
 
代官所の役宅も此処にあり、坪内逍遥は此処の役宅が生家でした。
 逍遥の父は代官所手代で、構内には「逍遥山つばきの部屋」があり、校庭の一部が「逍遥公園」となっており、顕彰碑もあります。
   太田小学校の生垣に埋もれたように説明板があります

     尾張藩太田代官所跡
 尾張藩は天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付(ところずけ)代官を配置しました。
 太田代官所は天明二年(1782)に設置され、初代代官は井田忠右衛門でした。
 慶応四年(1868)、太田代官所は北地総管所(ほくちそうかんしょ)と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。
 このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父右衛門です。
      (現地説明書 美濃加茂市商工観光課)

太田小学校校門前の妙見堂の境内に播隆上人の銘号碑があります。

太田小学校前の
播隆銘号碑

美濃加茂市太田本町5丁目

北緯

35

26

00.9

東経

137

00

44.3

中山道から反れて、太田小学校東側の道を北へ250mほどの小学校正門へ回ると「逍遥公園」が整備されています。

逍遥公園

美濃加茂市太田本町5丁目

北緯

35

26

08.5

東経

137

00

45.2

太田小学校正門脇の逍遥公園

 坪内逍遥は安政六年(1859)、尾張藩太田代官所の手代であった平之進の10人兄弟の末子としてこの地で誕生しました。
 逍遥の幼年時代は幕末動乱期の真っ只中にあり、剣術の稽古や兵法の訓練に明け暮れ、学問の出来る雰囲気ではなかったが彼は母や兄から絵草子、百人一首、漢書を習い、文学的素養を実につけました。
                           (現地説明板より)

中山道は太田小学校の手前で西へ曲がリます。そこに下町弘法堂「虚空蔵菩薩堂」があります。

太田宿
虚空蔵菩薩堂
道標

美濃加茂市太田本町5丁目

北緯

35

26

01.0

東経

137

00

46.4

画面右が太田小学校、左が虚空蔵菩薩堂
中山道は此処で枡形を描いて虚空蔵菩薩堂前を通り堤防へ

虚空蔵菩薩堂境内

坪内逍遥とその一族の写真

             坪内逍遥ゆかりのムクノキ
 坪内逍遥(1859〜1935年)は安政六年、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の10人兄妹の末子として生まれました。
 その後、明治二年に父の引退とともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。
 十八歳にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文化論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となりました。
 また、演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築きました。
 逍遥の明治42年から22年間にわたる「シエクスピヤ全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。
 大正八年には、夫婦そろって故郷を訪れ、このクスノキの根元で記念撮影をしました。
 逍遥六十一歳でした。          (現地説明板より)

虚空蔵菩薩堂境内の片隅にある道標

虚空蔵菩薩境内に「左 大坂京」の道標があります

この付近が承久の乱古戦場(大井戸の戦い)跡ですが?

大井戸の渡し跡
承久の乱古戦場跡
(大井戸の戦い)

美濃加茂市太田本町5丁目

北緯

35

26

01.0

東経

137

00

46.4

「大井戸の渡し跡付近」と「承久の乱・木曾川古戦場付近」の標識

                承久の乱とは
 鎌倉幕府三代将軍・源実朝の死が発端であるが、
  ・親朝廷派の実朝の死により幕府を朝廷の下に置くことが難しくなった。
  ・源頼朝の血統が断絶したのでこれを幕府反抗の好機と見た。
  ・治天の君・後鳥羽上皇は武士を集めて幕府に反抗した。
 しかし鎌倉幕府は本領安堵、新恩給与など武士の生活をしっかり保障していたためその結束は強かった。
 また武士を甘く見ていた朝廷に対し幕府は迅速に対応した結果、朝廷側は後手に回ることになりあっさりと敗れてしまう。

 皮肉にも源氏将軍の断絶を契機に朝廷の権威挽回のために起こされたこの乱に幕府が勝利した事により、幕府は朝廷を含め当時の日本全国を掌握することになった。
 それまで西日本側では幕府の支配の及ばない地域も少なくなかったが、幕府は幕反派の土地を没収し戦功のあった者に与えたため西日本側も幕府の支配に入った。
              ここ承久の乱大井戸の戦い
 鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。
 とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。
 京方は美濃と尾張の国境の尾張川(木曽川)に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。
 6月5日、武田信光率いる東山道軍5万騎大井戸渡し(太田宿西の虚空蔵菩薩堂付近)に布陣する大内惟信率いる京方2000騎を撃破した。
 藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。
 6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。

 京方ではこの幕府軍を尾張河(木曽川)の九ヶ瀬(大井戸・鵜沼・板橋・池瀬・摩免戸・稗島・食〈じき〉・洲俣・市脇の各渡〈わた〉し)で迎撃することになった。
 幕府軍は摩免戸を中央突破し洲俣にも攻撃をかけた。
 そのとき東山道の幕府軍が到着し大井戸を突破した。
 敗れた京勢は動揺し、一部は退却をはじめた。正面の泰時の率いる東海道の幕府勢は摩免戸の渡しに一せいに渡河を開始し、同時に時房の軍勢が洲俣の渡しを越えて京方の退路を断った。
 逃れた山田重忠・三浦胤義らが幕府軍の追撃を阻止しようとしたほかは、京都を目指して退却した。

中山道は下町観音堂前を通り堤防へ上がった道でしたが堤防改修などにより昔の面影は見られません。

中山道の西口は?

北緯

35

26

00.5

東経

137

00

46.1

加茂郡太田村家並絵図によりますと

太田代官所(現鵜沼小学校)前の虚空蔵菩薩堂(現存)から中山道は左に折れて堤防に向っています。
絵図にはそこから、「至 勝山、鵜沼」とあります。

中山道は虚空蔵菩薩堂前を枡形にまわり堤防上へを西へ進みます。

左に木曾川を見ながら西へ向います。堤防改修で当時の中山道とは多少違うでしょうが、ほぼこのルートで
大まや湊(加茂郡坂祝町深田)辺りまでたどったことでしょう。

深田神社正面の堤防上にある塚

兼松嘯風塚

美濃加茂市深田町3丁目

北緯

35

25

50.5

東経

137

00

31.8

兼松嘯風(かねまつしょうふう)塚

堤防上の道を西へ370m程向うと堤防下に「深田神社」と「河北山 芳寿寺」が見えます。

深田神社

芳寿寺

美濃加茂市深田町3丁目

北緯

35

25

54.8

東経

137

00

33.8

深田神社

河北山 芳寿寺

中山道は深田神社前の道を西に60m程進み国道21号線と合流します。

深田神社前の道を西へ

国道21号線に近づく

21号線へ出たところに「深田神社」の道標があります

中山道は国道21号線と合流して140m程の「深田」交差点付近が美濃加茂市と坂祝(さかほぎ)町の境です。

行政区域

「美濃加茂市」から「加茂郡坂祝町」へ

美濃加茂市深田町

加茂郡坂祝町

ここまで、美濃加茂市御門町から2.2km      
長野県境から58.8kmです。  

更に中山道を西へ210m進むと大まや湊跡へ出ます。

さて次はちょっと寄り道をして柿の名産地「蜂屋」をご案内します。

街道コラム

【荷物往来の不便さ】

 江戸時代は各藩が特産品を奨励して、江戸や京都へ輸送したが、この場合輸送路は運賃の安い海や川の船を利用知ることが多かった。商人にとって一・二里ごとの宿継ぎ輸送では時間がかかり、荷は傷み、運賃はかさんだ。その上 馬の背には40貫(約150kg)までの重量制限があり、中山道一宿の常備馬は50疋で、全部使っても200貫(750kg)までしか輸送できなかった。
 実際は、すでに出ている馬などがあり、助郷馬(近隣の指定された村の馬)や請負馬(特定の契約馬)に頼るしかなかった。

          

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。