中山道六十九次のうち五十一宿目で中山道美濃十六宿の七番目の宿「伏見宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十一宿

岐阜県美濃加茂市

美濃国

JR名鉄広見線明智駅下車

「伏見宿」巻は、伏見宿本陣跡、伏見宿道標、伏見宿領界碑、伏見の洞興寺、伏見の女郎塚、伏見の子安観音、
東寺山古墳、伏見西坂の播隆碑、上恵土道標、新村湊跡、上恵土神社、上恵土城址、「中恵土一里塚」、今渡の龍洞寺
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

         次は

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
国道21号線へ戻る
↓150m
信州境から51.7km(江戸から=374.7km
今須(近江国さかい)まで 71.5km
伏見宿本陣跡
伏見宿領界碑

↓140m
伏見宿道標   
   (伏見交差点)
   
↓340m
伏見西坂の播隆碑
↓200m
   上恵土道標    →
 
↓450m
  上恵土神社     
↓ 80m
   三 叉 路    →
 
↓ 50m
御嵩町と可児市境
 
↓1,040m
中恵土一里塚   
↓500m
可児公設市場交差点
↓370m
「辞 世 碑」
JR太多線中山道踏切
  
↓1,240m
   今渡神社鳥居   →
↓140m
国道248号線合流点
 
↓ 50m
 龍 洞 寺
   
160m↓(区間計 4.8km)
御嵩町境から4.8km、信州境から52.1km



南へ330m子安観音(女郎塚) 洞興寺 50m 東寺山古墳



北へ680m 
新村港跡



南へ150m 
上恵土城址



一里塚情報(美濃路15番目、 江戸から97番目(九十七里)
 (比衣一里塚から
3、910m





北へ160m 本殿(本殿は以外に奥の方にあります)




信州境から54.8km(江戸から=377.8km      
今渡富士浅間神社 今須(近江国さかい)まで 65.4km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・伏見宿、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

伏見宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 六百二十九石、 人口 485人、 家数 82軒、 

旅籠 二十九軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、           

御嵩宿から 一里八町(比衣の一里塚、)

太田宿まで 二里(土田の一里塚、)

「岐蘇路安見絵図」による当時の伏見宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

伏見

木曽川、かに川の後より流る。()

ひだ川、木曾川と落合ふ所。川合といふ。()

川下は尾越川也。おこし川は中仙道の内也。()

夫より桑名の海へ落ちる也。()

名古屋道、犬山へも道有。()

太田川大河。瀬早し。船渡し。()

「伏見宿」から「太田宿」までに一里塚は二ケ所
上の絵図を見ると「伏見宿」を出てしばらく進むと「一里塚」が描かれていますが現地では見当たりません。
左の頁へ進み、「今渡村」を過ぎ「名古屋路、犬山へも路あり」を少し西へ進むと、一里塚があります。
これは「土田の一里塚」で、次の「太田の渡し」編で紹介します。

伏見宿の規模
伏見宿は可児郡御嶽町にあります。
御嶽宿から一里八丁(約4.8km)。美濃領にありながら尾張藩領です。
天保十四年(1843年)の記録によると、町の長さは六町(648m)、宿内の人口は485人、
家数八十五戸、旅籠二十九軒。
助郷高一万二百二石、二十四カ村が負担。

宿駅制度が定められた90年後に出来た宿場
元禄七年(1694)、御嶽宿から90年後に出来た宿。
かって可児市土田にあった土田宿が木曽川の流れが変わり、渡し場の位置が上流に移動し、
太田に宿場できたため
土田宿が廃止になり、かわって伏見に宿場ができたといいます。

しかし、伏見宿はまったくの新設の宿ではなく、「間の宿}(あいのしゅく)としてあったのを
格上げしたのです。
慶長七年(1602)の御嵩宿の駄賃定書に御嶽から伏見宿までの駄賃が出ており、
以降元和二年(1616)、寛永二十年(1643)、の定書にもきちんと示されているそうです。
このため伏見宿は慶長七年にはあったと思われます。

           歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 伏見」(大判錦絵)
          岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                                                                  説  明
「木曽路名所絵図」の記述に「これより西は多く平地なり、往還の左右に列樹(なみき)の松あり、東海道の如し」とあるのをヒントに描かれたものであろう、実際に本図に描かれたのは、実は杉の木であり、これは、伏見宿から名古屋へ向かう犬山街道沿いにあった「伏見大杉(中恵戸大杉)」という著名な杉の木を、もって来たのだろう。                                               
 伏見の宿は、御嶽の先、木曽川本流に近いところにあった。 大きな杉の木を画面中央に据え、そこを通る、或いはそこに集う人々の姿を描いている。 弁当を囲む夫婦、笠を枕に昼寝の旅人、澄まし顔でとおる医者や、草鞋の紐を締めなおす人など、さまざまな人のさまざまな営みを描く。             
 広重の関心の所在が、宿場そのものでなく、道中で見かける口径であったことがよく分かるであろう。 

 

しかし、宿場経営は火の車
飛騨方面への水運にも便利な新村湊を控え、賑わったのですが、御嶽宿と近く農業と兼業でやりくりしていたようでした。
毎年、助成金が三十両と問屋給金5両が支給されていました。
宿場の入り口は東坂、西坂と双方に坂があり、東町に本陣、西町に脇本陣がありました。

伏見宿は寛延三年(1750年)の火事により防火のため道幅を広くしましたが、宿場として寂れ潰れる家も出ました。
太田陣屋の援助で新しく十軒の旅籠などを建てましたが、あばら家ばかりで町並みは悪かったといいます。

国道21号線を西へ進み「名鉄八百津線」を過ぎると「伏見宿」へ入ります。
東坂を150m程上ると右側に公民館が見え「「本陣跡」へ出ます。

 

伏見宿本陣跡

可児郡御嵩町伏見東町

北緯

35

26

09.2

東経

137

05

23.1

本陣は岡田与治右衛門が務め、門構えと玄関がある建坪120坪の家屋でした。
現在は跡形もなく伏見公民館前に石碑だけが立っています。
実際は道路を隔てた向かい側にあったといわれてます。

今は本陣もなく公民館になっています。

脇本陣は岡田与兵衛が務め、建坪60坪の建物で、脇本陣には珍しい門構えがありました。

伏見宿領界碑

可児郡御嵩町伏見東町

西坂にあった「是より東尾張藩」の石碑も移されています。

本陣跡碑と同じ場所に「是よ里東 尾州領」の碑があります

140mほど西に旅籠屋だった「三吉屋」があり、当時の面影を留めています。
角には道標が立っています。

伏見道標

可児郡御嵩町伏見東町

北緯

35

26

09.1

東経

137

05

17.1

角の民家の軒下に立っています

「左 兼山、八百津」

「右 御嵩」

この交差点を南(左)へ曲がり350m程進むと右側の石垣の上に「洞興寺」が見えてきます。
ここの境内に「女郎塚」があります。

伏見の洞興寺

可児郡御嵩町伏見西本町

北緯

35

25

56.3

東経

137

05

13.2

山門は南側が正面です。

 釈迦如来を本尊とし、戦国時代に兼山村「古城山」城主斎藤正義の妾が住んでいたのが始めと伝えられていますが、寺は享保十七年(1732年)に再建されました。
駐車場からの坂道は正面ではありません。

「洞興寺」の東に「子安観音」があり、この境内に「女郎塚」があります。

伏見宿の女郎塚

可児郡御嵩町伏見西本町

北緯

35

25

57.2

東経

137

05

14.3

           伏見宿の遊女の墓
 伏見宿南に県指定の「東寺山古墳」があり、近くに「洞興寺」があり、境内に「女郎塚」がります。
 伏見宿には遊女屋が多く、10軒ほどあったといわれています。
 ここで働いた身寄りのない女郎を弔った塚で、宿の繁栄や道中の安全も祷ったとも伝えられています。

       女郎塚の謂われ二節
 関ヶ原合戦の後、中仙道は整備され京と江戸を結ぶ重要な裏街道となりました。
 元禄七年(1694年)太田宿と御嶽宿の中間の伏見に宿場が新設され以来、伏見は宿場街として栄えました。
 里人たちは、この繁栄は旅人達のおかげと感謝して、ここに塚を築き、観音様をお祭りして旅人の道中の安全を祈願しました。
以来、いつとはなく、この塚を「女郎塚」と愛称して信仰しました。

 また、一説にはこの伏見宿には数多くの飯盛り女が働いていましたが、この女子衆の多くは身寄りがない人もあり、この塚に葬ったので女郎塚と言うようになったとも言われています。

 

伏見子安観音

可児郡御嵩町伏見西本町

   
   

「洞興寺」駐車場前にこんもりと茂った森が見えます。
これがが「東寺山古墳」です。

伏見
東寺山古墳
(ひがしてらやま)

可児郡御嵩町伏見野崎町

北緯

35

25

55.3

東経

137

05

14.6

平地を見下ろせる大地の上にある2基の大型古墳です。

1号墳、2号墳共に前方後円墳です。1号分はゲートボール場の奥にあります。横にはお稲荷様が。

2号墳は全長58mもある大型古墳です。
しかし、周囲は住宅の通路に削られて前期古墳時代の貴重な遺産ですが、今はただの森です。

再び国道21号線へ戻り「伏見交差点」から西へ340m進むと中仙道北側に「播隆上人碑」があります。

伏見西坂の
播隆上人名号碑

可児郡御嵩町伏見西本町

北緯

35

26

07.9

東経

137

05

04.1

ここ御嵩町には九つもの「播隆上人名号碑」があります。

「播隆上人名号碑」を過ぎて200mほどで上恵土交差点へ出ます。

手前が伏見宿、右が新村湊跡方面、真っ直ぐ向こうが太田宿

上恵土道標

可児郡御嵩町上恵土

北緯

35

26

06.4

東経

137

04

56.9

「右 太田  左 多治見」 大正四年(1915年)に設置されたものです

左 多治見犬山ル 約四里

右 太田渡岐阜市 約九里

御大典記念

伏見宿〜名古屋城下を結ぶ「上街道」について。

上街道

              「上街道」と下街道」は中仙道と東海道のバイパス
上街道」は中仙道「伏見宿」と名古屋城下東片端(ひがしかたは)を結ぶ十里八町(約40km)の街道です。
下街道」は中仙道槙ヶ根と名古屋城下を結ぶバイパスで下街道の距離は十五里(約60km)。


 中山道は途中東海道と結ぶバイパスは「大井宿」の西「槙ヶ根」と名古屋城下を結ぶ下街道と、この「伏見宿」と名古屋を結ぶ「上街道」だけです。
 ほかに、「垂井宿」と「名古屋」を結ぶ「美濃路」がありますがバイパス的性格ではありません。
 
 この道は元和九年(1623)尾張藩が拓いた公道で、脇往還とか名古屋往還と呼ばれていました。
 上街道は名古屋城下伝馬町(名古屋市中区)
「札の辻」(高札場があったところ)を起点に京町を過ぎ久屋町を北進、志水(清水口)の木戸を出て東志賀、安井、成願寺(名古屋市北区)の村々を抜け矢田川を渡り庄内川「味鋺の渡し」を渡河。そして街道は小牧宿から楽田(がくでん)追分、稲置(いなぎ)村(犬山市)を通り善師野(ぜんじの)から土田(どた)宿で中山道と合流していました。
 しかし後に木曽川の流れが変わり土田の渡しが上流今渡に移ると上街道は土田から更に上流へ進み伏見宿で合流する事となりました。

上恵土交差点を北東へ曲がり御嵩犬山線(県道122号線)を600m
東濃実業高校グランドへの三叉路(東)を過ぎて10mほどで
西へ曲がれる三叉路に差し掛かります。

県道381号線分岐点

北緯

35

26

22.0

東経

137

05

12.4

この三叉路を西へ曲がり70mで三叉路へ出ます。

新村湊跡
(しんむらみなと)

可児郡御嵩町上恵土

北緯

35

26

21.8

東経

137

05

06.2

伏見宿の北にあった木曽川を上下する川船の発着場。
開設の年代は不明ですが、ここで陸揚げされた品は、東濃を経て、木曾方面へ運ばれました。
中仙道の商品はここから船送されたため、太田宿から赤坂宿までの荷物が少なくなり、川船を止める願いも出されたといいます。
湊には問屋や、穴倉などもありました。
明治期まで活発に利用されたが、大正時代には衰退し、今は崖が残るのみで応じの面影を偲ぶことは出来ません。

御嵩犬山線(県道122号線)を西へ曲がり70m程進むと三叉路に出ます。
三叉路の正面に「馬頭観世音」碑があります。

 

新村湊跡下り口

馬頭観音

可児郡御嵩町上恵土

北緯

35

26

22.6

東経

137

05

09.4

この「馬頭観世音碑」を右(北)へ曲がると道は途絶え竹薮で行き止まりとなります。
この下の川原が「新村湊跡」ですが、今は川下から川に沿って上っても、竹薮をこいで進まなくては行けません。
次回、対岸から写真だけでも撮りたいと思います。

再び上恵土交差点まで戻ります。上恵土交差点から中仙道(国道21号線)を西へ350m進むと御岳堂があります。

更に100mほど西へ進むと中仙道北側に「上恵土神社」があります。

上恵土神社

可児郡御嵩町上恵土新町

北緯

35

26

04.5

東経

137

04

36.9

   

国道21号線沿いにある「上恵土神社」の向かいの道を南へ進み1本目に道を西へ。
上恵土城址があります。

上恵土城址
(かみえど)

可児郡御嵩町上恵土

北緯

35

26

00.3

東経

137

04

34.7

兼山城主「森長可」の手で攻め滅ぼされた、この平地の城(あるいは館)は、城主の供養碑のほかに、
大屋敷、小屋敷の地名とほんの僅かな土塁や壕などが残っています。

上恵土城址前の辻にある地蔵堂と石仏群

現在、発掘調査中ですが、この部分がどの部分か不明です。

最近さいど訪れましたが埋め戻されのか場所が分からなくなり帰って来ました

上恵土城址三叉路から50mほどが御嵩町と可児市境です。

行政区域

「御嵩町」から「可児市」へ

可児郡御嵩町上恵土新町

可児市中恵土新田     

ここまで、可児郡御嵩町津橋から14.0km      
長野県境から51.4kmです。  

下はこのページでご案内する主なポイント

 現在の国道21号線にほぼ沿って「御嵩宿」「伏見宿」と下ってきた中山道は
国道248号線へとつながり太田橋の手前で真っ直ぐに川下に向かい川の辺りへ出ます。
(画像の赤線「太田の渡し」への道をあらわしています)
また、江戸中期まで栄えた「土田の渡し」の中山道は赤点線です。

御嵩町、可児市境から1,040m程で中恵土一里塚跡と思われる交差点へ来ます。
中山道(国道21号線)と主要地方道可児・金山線(県道64号線)の交差点です。

中恵土一里塚跡
(中恵土交差点付近)

可児市中恵土

北緯

35

25

53.4

東経

137

03

31.8

2004年当時は場所が不明でしたが、最近一里塚跡の石碑が建てられました。

国道21号線 中恵土交差点西北角の地下式横断歩道入り口と国道の間に
一里塚跡の碑があります。
碑より30m東が一里塚跡ですから歩道上のマンホール付近でしょうか

中山道は中恵土交差点から500mほどの交差点「可児公設市場」を右へ曲がります

可児公設市場信号機
中山道分岐

可児市川合東・下恵土・今渡の交差点

北緯

35

25

53.0

東経

137

03

31.6

国道21号線を「伏見宿」(可児郡御嵩町伏見)から約3kmで21号線と中山道の分岐点に来ます。

地図などではY字形に分岐しているように見えますが、実際はT字形の交差点を右に折れます。

交差点名は「加茂公設市場」です

「加茂公設市場」交差点を右に折れてから、大きく湾曲した道を西に進むと、今分岐した国道21号線としばらく平行して進みます。

分岐してから370m進むと長良川鉄道の 中山道踏切へ差し掛かります。

辞世塚

可児市川合東

北緯

35

25

57.6

東経

137

03

18.2

 分岐してから370m進むとJR太多線の中山道踏切へ差し掛かります。
その手前に「辞世塚」がありますが謂れはありません。

JR太多線「中山道踏み切り」

さらに1,240mほど進むと旧今渡村(可児市今渡)へ入り、今渡神社があります。

今渡神社

可児市今渡八幡

北緯

35

25

55.4

東経

137

02

18.2

今渡神社から140m程来ると、左から国道248号線が合流がします。
中山道の時代からこの道は名古屋への街道として発達していました。

国道248号線と合流点

可児市今渡八幡

北緯

35

25

53.2

東経

137

02

18.2

上の安見絵図の説明にある「名古屋道」は現在の国道248号線です。
画面の左がそれです。 正面は「土田の渡し」への道です。
手前が御嵩、伏見宿方面

国道248号線合流点から50mほどに「龍洞寺」があります。

今渡の龍洞寺

可児市今渡 八幡町

北緯

35

25

53.2

東経

137

02

18.2

江戸中期に出版された「岐蘇安見絵図」には、このお寺記載されていないので、
それ以降の創建と思われます。

龍洞寺前から160m程進むと今渡富士浅間神社へ来ます。
昭和2年
に太田橋が架かるまで中仙道は真っ直ぐ「土田」へ向かっていました。

今渡富士浅間神社前

可児市今渡八幡

北緯

35

25

53.2

東経

137

02

13.4

「名古屋道」を西へ進むと太田橋と旧街道への分岐へ出ます
直進が中仙道で旧一里塚跡を経て旧土田(どた)宿

次は中山道美濃十六宿中編の太田宿へ入ります。
宿へ入る渡しは木曽川の氾濫で渡し場の変更や堤防の改修などで中山道のルートが変わったり
近代に入ってから道路や橋の発達で旧道を探すのは難しく、できるだけの資料を基に細かく、ご案内いたします。

街道コラム

【日野商人の往来】

日野商人の世界
 商人のなかで近江商人と富山の薬売りは活発であった。日本国中はもちろん、遠くは蝦夷地(北海道)、さらには海外へも出かけた
近江商人のうち日野商人は中山道の各宿場に足跡が残っている。伏見宿(可児郡御嵩町)の三吉屋には昭和34年半ばまで日野商人が扱った丸薬「感応丸」の看板が残っていました。鵜沼宿から坂祝(さかほぎ)への途中、木曽川の流が突き当たった上にある岩屋観音では、石垣や石段のほとんどが、日野商人が百疋、二百疋と寄付したものです。(坂祝=さかほぎ=岩屋観音偏でご案内)
日野商人の中山道の定宿
また日野商人の定宿も多かった。 明和七年(1770)には垂井宿(薬屋)、赤坂祝(松屋)、美江寺宿(松屋)、加納宿(一文字屋)、鵜沼宿(山田屋)、大田宿(小市屋・福田屋)、伏見宿(柏屋)、御嵩宿(西ノ銭屋)、細久手宿(角屋)、大湫宿(笹屋・大黒屋・藤屋)、大井宿(藤屋・みたけ屋・輪違屋・戎屋)、中津川宿(十一屋)などがあった。

日野商人の行商品目と商法
 日野商人の行商品は、日野椀など漆器類・保知煙管(日野の特産品)・売薬・茶・呉服などで呉服は京都で仕入れ、売薬は日野でつくり、なかでも万病にいいという「感応丸」はよく効いたそうです。
 とりわけ日野商人の特徴はノコギリ商法といわれ行きは物売り、帰りは各地の特産品を仕入れ、往復とも商いをし、僻地など人のあまり入らない土地に目をかけ、しかも関銭や渡船料などのいらないところを選ぶなど、質素倹約をモットーとしてよく働いたそうです。

 

  次は

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。