大湫宿を出て紅葉洞の石橋を渡り琵琶峠から八瀬沢を経て細久手宿へ向かいます
六十九次 |
岐阜県瑞浪市大湫町 美濃国 JR中央線釜戸駅下車 |
「中山道・美濃琵琶峠」巻は、紅葉洞の石橋、小坂の馬頭様、大洞の馬頭様、
烏帽子岩・母衣岩(二つ岩)、琵琶峠東上り口、琵琶峠石畳(東上り坂)、琵琶峠の馬頭様と歌碑、八瀬沢の一里塚、
琵琶峠石畳(西上り坂)、八瀬沢立場跡(大久後立場跡)、北野足又交差点、北野神社、北野廻国塔、一つ屋茶屋跡、
天神辻の地蔵堂、北野坂の馬頭様、焼坂の馬頭様、弁天池、南垣外のハナノキ自生地、女夫松跡、奥之田一里塚、
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。
この間(大湫宿〜細久手宿、約6.5km)には車通行不能区間が一ケ所あります。
琵琶峠道の約1kmですが迂回路はわかり易く、駐車場を利用できるルートも紹介します。
本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください) | |
大湫宿西口三叉路 ← 200m↓(区間計 0.7km |
信州境から29.0km(江戸から=352.0km) 今須(近江国さかい)まで 91.2km |
紅葉洞の石橋 ↓ 20m 小坂の馬頭様 ↓140m 大洞の馬頭様 ↓ 20m 烏帽子岩(二つ岩) ↓ 20m 母衣岩(二つ岩) ↓360m 琵琶峠東上り口 → ↓240m 琵琶峠石畳(東坂) 170m ↓ 40m 琵琶峠の馬頭様と歌碑→ ↓ 30m 琵琶峠石畳(西坂始まり) ↓ 30m 八瀬沢の一里塚 ↓120m 一般道横断 ↓240m 琵琶峠石畳(西坂終り) ↓ 80m 八瀬沢立場跡 (大久後立場跡) ↓340m 北野廻国塔 ↓520m 一つ屋茶屋跡 ↓300m 天神辻の地蔵堂 ↓180m 焼坂の馬頭様 ↓830m 弁 天 池 ↓600m ハナノキ自生地標識 ↓400m 女 夫 松 跡 ↓130m 奥之田一里塚 ↓520m 細久手口の石仏 200m ↓(区間計 5.5km) |
琵琶峠へは車通行不能(1,000m) 西へ(車の方迂回路)・・・・・・・・・・・ 石畳情報(美濃路11号) ↓ ↓ ↓ ↓ 100m 文学碑 ↓ ↓ ↓ 一里塚情報(美濃路9番目、 ↓ 江戸から91番目(九十一里) ↓ (権現山一里塚から3,940m) ↓ ←・・・・石畳の途中へ・・・・・北野足又四叉路 ↓ 石畳情報(美濃路12号) ↓ ↓ ←・・・・・琵琶峠西口へ・・・・・・・・・・ 北野神社 ↑ 参道230m ↑ →北西へ400m 三叉路北東へ200m 北野神社駐車場 →南へ500m 南垣外のハナノキ自生地 一里塚情報(美濃路10番目、 江戸から92番目(九十二里) (八瀬沢一縷塚から3,740m) 信州境から34.5m(江戸から=357.5km) |
細久手宿東口 | 今須(近江国さかい)まで 85.7km |
凡例 : 宿=ピンク、 一里塚=青、 石畳=茶、 トイレ情報=黒 |
上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・琵琶峠、印刷用)”で
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。
大湫宿西口の高札場から200mほど西へ進むと「紅葉洞の石橋}へ差し掛かります。
道の両側に見過ごしてしまいそうな小さな石の欄干があります
紅葉洞の石橋 瑞浪市大湫町西 |
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昔は道路幅も狭く石橋らしく見えたでしょうが、今は石の欄干が道の両側に
離れ離れにあり橋らしく見えません。
橋の欄干に何か文字がありますが読めません |
橋の下を流れる小川は昔と変わらないでしょう
「紅葉洞の石橋」の20m西には「小坂の馬頭様」がおまつりしてあります。
小坂の馬頭様 瑞浪市大湫町西 |
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馬頭観音が二体お祀りしてあります |
「小坂の馬頭様」から街道を140mほど西へ進むと「大洞の馬頭様」へ出ます。
大洞の馬頭様 瑞浪市大湫町 |
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ここら辺りが安藤広重の「大久手宿」が描かれた場所と言われています。
休憩所の脇に「小坂の馬頭様」があります
木陰の奥の方にお祀りしてあります。 |
「小坂の馬頭様」から20m西を見ると「二つ岩」のうち「母衣岩」(ほろいわ)の一部が見えます。
母衣岩・烏帽子岩 瑞浪市大湫町 |
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弁慶の忘れ物
安藤広重の絵にもある、花崗岩が露出したものです。
県道65号線を、大湫宿より西へ向かうと、母衣岩(ほろいわ)・烏帽子岩(えぼしいわ)の順で大きな岩を目にすることができます。
これらの岩は、「二つ岩」とか、岩の形から「夫婦岩(陰陽岩)」とも呼ばれ、中山道で有名な存在でした。
また、弁慶が旅の途中、鬼岩から取ってきてお手玉にしながら歩き、ここに置き忘れたという伝説もあり「弁慶岩」とも呼ばれています。
手前の大湫宿に近いほうがが母衣岩(ほろいわ=陰)、向こうに見えるのが烏帽子岩(えぼしいわ=陽)
「壬戌紀行」碑『中山道二つ岩』 |
母衣岩(ほろいわ) |
烏帽子岩(えぼしいわ) |
この辺りは「二つ岩」以外にも大きな岩がゴロゴロしています
「二つ岩」から西へ大湫病院を左に見ながら360mほど進むと琵琶峠東口へ来ます。
車の方の迂回路を案内します。
No.11 中山道車両通行不能区間=m |
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場所 |
瑞浪市大湫町 |
場所 |
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瑞浪市大湫町 琵琶峠東口から |
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瑞浪市大湫町 八瀬沢立場跡まで |
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迂回ルート(青)、中山道=緑 |
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琵琶峠東上り口 瑞浪市大湫町 |
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琵琶峠は標高558m、全長約1km、高低差は西側83m、東側53mで、中山道の難所の一つに数えられていました。
それだけに峠からの眺望は良く、太田南畝(おおたなんぽ)の「壬戌紀行」(じんじゅつきこう)他の多くの文献にも書かれています。
峠付近の様子
また琵琶峠への道には石畳や八瀬沢一里塚、それに峠には文学碑や馬頭観音が残っていて、
中山道を偲ぶことのできる貴重な史跡となっています。
一部の文献には「東上り口に文学碑があり、峠からの眺めは素晴らしい」とありますが、
文学碑は峠の横で、見晴台は今は木が生い茂り、頂上付近まで草を踏み分け歩いてみても眺望は望めません。
琵琶峠東登り口には沢山の石仏や碑があります。 |
当時の面影を良く残す中山道琵琶峠
中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっています。
こうした中で、瑞浪市内の釜戸町、大湫(おおくて)町、日吉長にまたがる約1.3kmの中山道は、
丘陵上の尾根を通っているために開発からまぬがれ、よく原形をとどめています。
特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは「八瀬沢一里塚」や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。
峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども当時のまま残されています。
東上り口にも「馬頭観音」があります。 |
この付近の中山道は平成9年から12年にかけて石畳や一里塚などの整備を岐阜県教育委員会が
歴史の道整備活用推進事業の一環として復元されたものです。
琵琶峠の石畳 瑞浪市大湫町 |
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天気のいい日は眺望が一番
宿場西から始まる琵琶峠は、中山道の美濃・近江両国のうちで一番高い峠(標高550m)で、北に白山、飛騨の山々、
西に伊吹山を一望する素晴らしさは往時から知られた名所の一つです。
琵琶峠の石畳(約700m)の道を伝っていくと、鳥の声や蝉しぐれ、風の匂いが全身をやさしくつつみこんでくれるよう。
和宮の歌碑の前で、しばし和宮の心情がしのばれます。
しばらく登ると休息所も用意されています。
道は陽が当たらず湿気が多く苔むしています。今は風情があっていいのですが、当時は心細い道だったと思います。 |
峠付近
途中ところどころに道標があります。 |
峠近くに見晴台と文学碑群への分岐道標があります。 |
やっと峠が見えてきました。
琵琶峠と馬頭様 瑞浪市大湫町 |
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琵琶峠の由来諸説
「琵琶の修行に来ていた京都の法師が奥義を悟った場所」
「西からの姿が琵琶に似ている」
「琵琶湖に近い伊吹山が正面に望める」などがあります。
狭い峠に「琵琶峠頂上の馬頭様」と和宮歌碑が立っています。 |
当時、京の都では、嫁ぎ先の東の国は遠い異境の地とされ、和宮を一層不安にさせました。
江戸までの25日に及ぶ中山道の旅。山また山のこの街道を16歳の和宮はどれほど辛い思いで下っていかれたことでしょう。
大湫宿に到着する前の琵琶峠での和宮の心境を表した歌碑が建ちます。
苔むした馬頭観音が当時の旅人の安全を見守ったことでしょう。 |
峠の南の頂上近くに以前は見晴台があったのでしょが、今は見当たりません。
文学碑だけが草に中にあります。
琵琶峠見晴台と 瑞浪市大湫町 |
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峠の手前、数mのところに東口からも、西口からも文学碑までの道はあります。 |
岡田文園の「琵琶坂」碑 |
「中山道琵琶峠」碑 |
太田南畝(おおたなんぽ)の「壬戌紀行」(じんじゅつきこう)の「琵琶嶺」碑
今は頂上からの眺めは木が茂っていて望めません
見晴台辺りカの眺めは木が茂っていて望めません。 |
西口への道を下りそのまま中山道を西へ下ります。 |
峠から50m程西へ下ると八瀬沢に一里塚が見えてきます。
八瀬沢の一里塚 瑞浪市大湫町足又 |
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江戸時代からも名所の一つ
江戸へ九十一里、京へ四十三里という道標で「琵琶峠の一里塚」とも呼ばれてます。
琵琶峠は険しい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも、
峠からのことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられています。
地形上から左右多少ずれている |
南塚が大湫町、北塚が日吉町
琵琶峠の西側中腹にあり、江戸から91里京都へ43里の地点にあります。
南塚は大湫町内で径約10m高さ約5mで、一部自然の地形を利用して構築されている。
北塚は日吉町内で径約9.5m高さ約4mです。両塚の間隔は約10m。
北塚の方が道に近
い位置にあり、南塚は北塚の2倍近く道から離れています。
瑞浪市にはこれより西の奥之田、鴨之巣を含め4つの一里塚がありますが、 四つ続けて現存するのは珍しいことです。 |
旅人はこの大きな一里塚で一息入れたことでしょう。
琵琶峠の下りも石畳が続きます。
琵琶峠の石畳 瑞浪市大湫町足又 |
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琵琶峠は険しさと共に湿地の多い峠道でした。
この石畳は少しでも歩きやすいように敷かれたもので、昭和45年春に発見され、日本で一番長い約600mと確認されています。
石畳も峠の頂上付近は階段になっています。 |
バックは琵琶峠西坂のトイレ |
八瀬沢一里塚から120m程下ると立派なトイレと休憩所があります。
琵琶峠のトイレはカギが掛かってます 琵琶峠の西上り口へ下りる途中のトイレ、しかし、道標や案内書には「トイレあり」とありますが 立派なトイレはカギが掛かっていて使用できません。ご注意ください! |
石畳ばかりでなく側溝も水のみ場も残っています。 |
車で来る場合はこの駐車場を利用すと便利で効率的
琵琶峠の石畳 瑞浪市大湫町八瀬沢 |
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琵琶峠から西へ降りる道の途中に県道釜戸御嵩線の |
県道釜戸御嵩線の分岐道を横断して240m程下ると |
やっと陽が当たる「八瀬沢の立場跡」(茶屋跡)へ出ました。 |
琵琶峠を下りたところが八瀬沢立場跡です。
八瀬沢立場跡 瑞浪市大湫町八瀬沢 |
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大井宿-大湫宿は距離もあり、10数軒の茶屋・馬茶屋があったといわれます。
権現山から10分ほど歩いた所が大久後で、数軒の家があります。
県道63号線に合流する立場跡には「琵琶峠西上り口」碑があります。 |
琵琶峠道を振り返って見たところ。 |
立場(茶屋)があった跡でしょうか
車の方は琵琶峠東上り口前之道を西へ進むと「足又」の交差点へ出ます。
北野「足又」交差点 瑞浪市日吉町北野 |
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車で来られた方の便利な近道
この交差点を真っ直ぐに進むと「八瀬沢立場跡(大久後立場跡)」へ出ます。
琵琶峠を西から車で上るには右の道を行くと、峠道の途中へ出ます。
駐車場がありますので、そこから車を置いて峠まで歩いてください。
途中に「八瀬沢一里塚」があります。
「足又」の交差点の証拠品、間違えないように!
車の方で来られた方の琵琶峠東口から西口への迂回路(県道63号線ですのほとんど間違わないでしょう)
「八瀬沢立場跡」から340m程西へ進むと「北野坂の廻国塔」があります。
北野坂の廻国塔 瑞浪市日吉町北野 |
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「六十六部」とは
琵琶峠を越え北野坂を登り日吉町に入ると最初に「廻国塔」があります。
この塔は安政六年(1777年)の創建で、法華経を六十六部写経して、全国六十六州にそれぞれ奉納した行者の
記念塔で、六十六部碑とも呼ばれています。
道に「北野坂の廻国塔」の道標があり、その脇に人が踏み分けた道があります。 |
道端の案内標の横を奥へ分け入ると碑が立っています 「六部」とも言います こんな立派な修行僧のこととは知りませんでした。 |
陽の裏には「安永六年」(1777年)の文字が見えます。 |
「北野坂の廻国塔」から520m西へ進むと「一つ屋茶屋跡」があります。
一つ屋茶屋跡 瑞浪市日吉町北野 |
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この辺りでたった一軒だけだった茶屋があったので一つ屋立場と言われました。
茶屋の家族もさぞかし寂しかったことでしょう。
こんな場所での茶屋でしたから、さぞ賑わったことでしょう。 |
今は茶屋の跡らしきものは何も見当たりません
「一つ屋茶屋跡」から西へ300mほど進むと「第二警察犬訓練所」が右に見える
天神辻へ出ます。
天神辻の地蔵様 瑞浪市日吉町北野 |
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この辺りに残る石仏で一番古いものと言われています。
不思議な時刻表 |
バス停の横のお地蔵さん |
この天神辻から中山道(県道63号線)を離れて北へ400mにある辻を西へ200mで北野天神へ来ます。
北野神社 瑞浪市日吉町北野 |
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北野天神には大きな駐車場があります。ここにはトイレが完備されています。
北野天神は道から少し登ったところにあるり、この参道はかなり長く境内までは10分は歩きます。
杉木立の参道をしばらく歩くと、急に開けた境内に出る。ただし、自動車は裏側から迂回して登れます。
途中にある「山ノ神」碑の横に小さな馬頭観音があります。お供えの1円玉と比較してください |
登りきった所に本殿があります。本田は雪が囲いの中にあります。 |
本殿前の灯篭の奉納年は享保十年乙巳(きのとみ)(1725年)でした。 |
北野神社の石碑の側面には菅原道真の歌が彫ってあります。 |
面倒でも来た道を戻り天神辻へ出ます。「焼坂の馬頭様」前を通るためです。
天神辻から180mほどで焼坂に差し掛かります。
焼坂の馬頭観音 瑞浪市日吉町北野 |
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焼坂の馬頭観音は標識が無ければ見過ごすくらい、ひっそりと立っています。 |
「焼坂の馬頭観音」から830mほどで視野が開けた場所に出ます。
弁天池 瑞浪市日吉町弁天 |
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弁財天の池と女男松
八瀬沢一里塚と奥之田一里塚とのほぼ中間の中山道沿いの雑木林の陰にひっそりと横たわります。
天保年間に、千村征重・重主氏によって造られたものといわれ、中之島のほこらに弁財天が祀られています。
池の中にある弁財天とカキツバタが昔から有名でした。
オアシスとして旅人が必ず寄った場所でしたが今も隣りに休憩所的な喫茶店があります。
カキツバタの群生はいまも健在です。
池の長さ約50m、巾15mで、水深は浅いが神秘的な雰囲気が満ちていて池の中央の小島に 天文五年(1740年)の弁財天が祀られています。 石祠は天保七年(1836年)に創建されたと伝えられています。 |
この池は山丘上にありながら、いつも水をたてている、この池は古くから旅人にも愛されてきました。 蜀山人も「左の方に小さき池あり、カキツバタ生い茂り、池の中に弁才天の宮あり」とその旅日記に書いています。 残っている並木松とともに大切にされています。 |
弁天池の向かいは広く視野が開けた場所です。
弁天池から西へ600m程のところにハナノキ自生地があります。
南垣外ハナノキ自生地 瑞浪市日吉町白倉 |
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6株28本の自生地、樹齢は20-30年、樹高5-15m。
中山道の南方約500mのところにあります。 |
バス停「笹口」近くです。
南垣外ハナノキ自生地碑から400m程に「女夫松跡」碑があります
女夫松跡 瑞浪市日吉町白倉 |
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近くの山の中には今はもう朽ち果て存在しない女男松は根元から二つに分かれ、
夫婦円満にご利益のある珍木として街道時代の名物になっていたということです。
弁天池から持ってきた? 他の文献によると、「女夫松」は「弁天池」(これより前の)の雑木林を数百メートル 入った山の中に万久四年(1864年)の「陽松女陰神」の碑があったと 伝えられています。 1本は男根、1本は女陰に形が似ていることから夫婦円満、 子授けの神として親しまれていましたが、その松も昭和初期に枯れたそうです。 |
「女夫松跡」碑から130m西に進むと「奥之田一里塚}へ出ます。
奥之田の一里塚 瑞浪市日吉町白倉、深沢地内 |
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江戸から92里京都へ42里の地点にあり、ほぼ完全に元の姿をとどめています。
南塚は日吉町白倉地内にあり径約10m高さ約4mです。 |
北塚は日吉町深沢地内にあり、径約13m高さ約3.5mとなっています。 両塚の間隔は約10mで、両塚とも自然の 地形を一部利用して構築されています |
江戸へ九十二里、京へ四十二里という奥之田一里塚です。
瑞浪市には一里塚が四ケ所残っています
岐阜県内の旧中山道の宿は落合から今須間で十六宿、約三十三里(132km)で一里塚は32ヵ所が構築されていましたが、
そのほとんどが廃頽し現存するのは約半数ほどで、瑞浪市の場合は一里毎に連続して四箇所もの一里塚が当時のままで
残っているは大変珍しいことです。
権現山一里塚
大湫の東端、釜戸町との境に近い樫の木坂の途中にあり、南塚が径9m、高さ5m、北塚が径10m、高さ3.5m、
両塚の間隔は11mで南塚は八瀬沢、奥の田一里塚と共に自然の地形を一部利用して構築しています。
八瀬沢一里塚
大湫と日吉町の境、琵琶峠の西側にあり、南塚は大湫町地内で径10.3m、高さ5m、
北塚は日吉町地内で径9.4m、高さ4m、両塚の間隔は10mです。
奥の田一里塚
日吉町細久手に東にあり、南塚は径10m、高さ4m、北塚は径10m、高さ4m、
北塚は径12.6m、高さ3.5m、両塚の間隔は10m
鴨ノ巣一里塚
日吉町の西側で御嵩町との境に近い平岩地内にあり、南塚は径10m、高さ3.6m、
北塚は径11m、高さ2.7m 両塚は地形の関係から東西に16m隔てて構築されており
奥の田一里塚と共に丘陵の尾根に造られています。
以下のポイントは調査中
見晴台の馬頭観音 瑞浪市大湫町 |
峠の茶屋跡 瑞浪市大湫町 |
奥之田一里塚から520mほど西へ進むと細久手口の石仏が右側にあります。
細久手口の石仏 瑞浪市日吉町細久手 |
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細久手宿入口近くで中山道北(右手)側の土手の上にあります。 |
次はいよいよ美濃十六宿の五番目「細久手宿」へ入ります。
細久手口の石仏から200m程で細久手宿東口へ行きます。
街道コラム
【中馬】江戸時代、信州の農民が行った馬の背を利用した荷物輸送業のこと。 17世紀、伊那地方の農民が農閑期の副業として数頭の手持ちの馬で物資を目的地まで運送したのに始まる。 18世紀初めには信州一円、さらに尾張、三河、駿河、相模、江戸にまで活動範囲は広がり、東海地方と中部地方を結ぶ重要な陸上輸送手段となった。 輸送物資は米、大豆、たばこなどを移出、茶、塩、味噌、蚕繭などを移入した。 中馬は一人で数匹の馬をひき、途中での荷物の積み替えなしに、物資を目的地まで直送したので、その隆盛につれて、宿場で継ぎ送りをしていた宿場問屋側と荷物の争奪戦が生じ、対立した。 延宝元(1764)年には、いったん幕府により公認されたが、18世紀中頃に再び紛争が生じた。 明和元(1764)年幕府の裁許により完全に公認され、信州の中馬稼ぎをする村と馬数を決め、輸送する荷物についても街道ごとに決めた。しかし、明治時代になって衰退した。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。