中山道六十九次のうち四十九宿目で中山道美濃十六宿の五番目の宿「細久手宿」をご案内します

六十九次
のうち
四十九宿

岐阜県瑞浪市日吉町細久手

美濃国

JR中央本線瑞浪駅下車

「細久手宿」巻は、細久手宿庚申堂の石仏群・高札場跡、細久手宿の旅籠大黒屋は現役の旅籠屋で昔は問屋場、
「細久手宿本陣跡」、細久手宿の日吉・愛宕神社の灯篭、西坂の穴観音、津島神社・天王様、細久手のくじ場跡、平岩の津島神社、
日吉平岩のラーメン、開元院前の石仏群、開元院、西坂の上り口、秋葉坂の三尊石窟・西坂の穴観音、鴨之巣道の馬頭観音、
鴨之巣辻の道祖神碑、鎌倉街道分岐道標、切られ洞碑、「鴨之巣一里塚」などを、ご案内します。

         

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
細久手口の石仏
 ↓200m
信州境から36.3km(江戸から=359.3km
今須(近江国さかい)まで 83.9km
細久手宿東口
↓240m
庚申堂の石仏群・
高札場跡

↓180m
旅籠大黒屋・問屋場跡
↓ 90m
細久手宿本陣跡
↓110m
細久手宿西口  
↓ 90m
西坂の穴観音
 
↓350m
津島神社・天王様
↓ 60m
二 又 道(右へ)
↓460m
く じ 場 跡  
↓230m
県道大西瑞浪線合流点
↓ 60m
平岩県道交差点
(県道65号、366号)

↓190m
中山道分岐道  
↓ 90m
秋葉坂の三尊石窟・
西坂の穴観音

↓ 90m
鴨之巣馬頭文学碑
↓820m
鴨之巣道の馬頭観音 
鴨之巣辻の道祖神碑
鎌倉街道分岐道標
↓ 80m
切られ洞碑
↓120m
鴨之巣一里塚
↓60m
瑞浪市・御嵩町境
1040m↓(区間計 4.5km)
美濃路五宿目 江戸より四十九宿目








→山側へ 160m 日吉・愛宕神社の灯篭





左 県道352号線(大西瑞浪線)

                            開元院
                        開元院門前石仏群
→北へ 50m 大仏堂                
                     (平岩由来碑) ↑
→北へ120m 八幡神社 →50m ラーメン店 →680m
                      

車の方迂回路(真直ぐの県道65号線を津橋交差点まで                             
                        











一里塚情報(美濃路11番目、 江戸から93番目(九十参里)
 (奥之田一里塚から
3,460m

ここから先、車通行止め(先の中山道分岐道まで引き返します)
信州境から40.8km(江戸から=363.8km
ふじあげ坂の馬頭観音 今須(近江国さかい)まで 79.4km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・細久手宿、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

細久手宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 なし、 人口 256人、 家数 65軒、 

旅籠 二十四軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、           

大久手宿から 一里三十町(八瀬沢の一里塚、奥之田の一里塚)

御嵩宿まで 三里(鴨之巣の一里塚、謡坂の一里塚、栢森の一里塚)

細久手宿運営は苦労
標高も430mにあり、大湫宿と同様、山地を開いた新宿でした。
宿高が無禄で、日吉五カ村千八十九石が加宿されましたが、助成金なしでは運営できず、
天保四年(1682)に五十両、翌年から毎年三十両が支給されました。

その後減り、享保四年(1719)から、十両になりました。
尾張藩からも支給金があったほか、幕末には領主参加の千両講が出来るなど宿の
運営には苦労したようです

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 細久手」(大判錦絵)
    岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                            説  明
 大湫宿から標高540mの琵琶峠を越えると、細久手の宿に入る。 図は、宿場に入る手前の坂の上からその入口を望んでいる。 画面の左右からその頂きを寄せ合うようにして立つ松の巨木は、あたかも宿場の入口を示す門のようだ。                                               
 松の間から望まれるのは広々と広がる濃尾平野と山々、そしてはるか遠くに藍で摺られた山並みが見られる。 透視遠近法の活用に加え、巧みな色面配置によって、広々と広がりを見せる自然な遠近感を見せることに成功している。                                                 
 そもそも細い窪地を意味する名称である細久手は、広い田畑に恵まれず、これに代わって楮(こうぞ=和紙の原料)の栽培が行なわれていた。画面右手に描かれた男女も、これから成長した楮を手に持った鎌で刈りに出かけるところと見られる。                                        

「岐蘇路安見絵図」による当時の細久手宿から御嶽宿手前までの名所名物の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

細久手

是より西、下り坂多し、みたけ迄三りの間、山坂谷合の道也()

みたけの町の東より西の方、道筋に初て並木の松あり。()

一呑の清水、碑石あり。()

いぢり村の内に、いづみ式部の塚有。住居の跡といふ。()

岩窟の内に、くはんのんを安置す。()

蔵王山、よし野の蔵王を勧請しけるにや、吉野を御嶽といへば、此宿をみたけと名付けたるらん。()

 

細久手宿東口

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

25

49.8

東経

137

14

26.4

細久手宿
細久手宿は慶長十五年(1610年)に新宿として設けられ、江戸から四十九番目の宿にあたります。
宿内の戸数は60〜70戸、其の内旅籠屋は25〜35軒あり、
助郷村の人々が宿を助けて人馬役を負担し、
姫君道中では楽宮、寿明姫などが降嫁の祭はこの宿に宿泊しました。

庚申堂は細久手宿の東口から240mの小高い岡の上にあります。

細久手宿
庚申堂(石仏)・高札場跡

瑞浪市日吉町細久手上町

北緯

35

25

44.6

東経

137

14

18.7

細久手宿高札場跡
宿場東口から西へ進むと北(右)側に細久手宿高札場跡の標識があります。
その脇の小路を山のほうへ登ると庚申堂があります。

細久手宿庚申堂
細久手宿の北東端(上町)にいまも祀られている庚申堂は、寛政の大火のあと、宿の厄除けとして再建されました。
方形瓦葺きの小さなお堂で、宿場時代の名残をしのぶことができる数少ない場所のひとつです。

寛政十年(1798)に起きた宿の大火で焼失し、現存する建物は享和二年(1802)に再建されました。
境内には石造群が立並び、寛文十二年(1672)の名号碑や七体の石仏、
歌碑などがあり、宿の文化の中心地だったと言います。
庚申堂前からは、宿が一望できます。

   

庚申堂
宿内はもちろん近郷や旅人からも」細久手のこうしんさま」と親しまれたお堂で、此処からは宿内が一望されます。
境内にある石仏さまも3百年まえのものもあって宿場当時の二義やいが偲ばれます。
庚申堂がある高台から西方向に宿の町並みの一部が眺められ、
庚申堂の下には高札場跡もあります。

更に中山道を西へ進みます

細久手宿の規模
細久手宿は瑞浪市にあり、大久手宿(大湫宿とも書きます)から一里半(約6km)あります。
美濃国にあっても尾張藩「山村氏」の知行地でした。
天保十四年(1843年)の記録によりますと町の長さは三丁四十五間(約420m)
宿内の人口は256人、家数65戸、旅籠屋24軒。
助郷高一万二百七十石、14ケ村が負担していました。

庚申堂から180mくらい西に元問屋場でもあった旅籠「大黒屋」があります。

細久手宿の現役の旅籠
大黒屋
問屋場

瑞浪市日吉町細久手仲町

北緯

35

25

42.4

東経

137

14

14.8

細久手宿内で唯一の江戸時代から残る旅籠
仲町にある大黒屋はうだつ、玄関門、式台、上段の間をはじめ各部屋もそのまま保存され、往時の面影を色濃く残す旧家です。
大黒屋は、宿場の問屋役も務め、本陣、脇本陣が他の宿に比べ手狭だった上に、尾張徳川家が他の大名との相部屋を
嫌ったために尾張藩の定本陣に定められていました。
このため、本陣、脇本陣に準じたつくりが許されており、一般の旅籠とは異なっており、細久手宿の特徴を示す家屋です。
細久手には応じの面影を残す家屋が少ないだけに貴重な遺構でもあります。
明治時代まで二十軒以上あった旅籠
明治時代に下街道(尾張名古屋への近道)や鉄道が整備され、中山道は廃れました。
細久手宿は、本陣・脇本陣が他宿と比べて規模が小さく、尾張徳川公は他藩との合宿を避け、
家臣の便宜のためにも問屋役であった大黒屋宅を本陣に定めました。
大黒屋は安政六年(1859年)の建築で、いまも卯建・玄関門・式台・上段の間が当時のままに残っています。
なんといっても江戸時代から営業しつづけている旅籠・大黒屋は、細久手宿の代表的存在です。

一度旅籠を閉じましたが昭和26年に再開
最近(平成八年頃)の「大黒屋」の宿泊代は1泊2食付7500-9000円〔税別〕です。

大黒屋の80m程で本陣跡です

細久手宿本陣跡

瑞浪市日吉町細久手仲町

北緯

35

25

40.1

東経

137

14

13.2

本陣、脇本陣とも取り壊されて、現存していません。
本陣は間口十三間(約22m)、奥行四間半(約8m)の建坪五十八坪。
部屋数14、畳数134畳、別棟の添家が三つありました。

道の北側にある、本陣は代々「小栗八郎右衛門」が務めた。

本陣向かいの中仙道の左側(南)の竹薮と蔵が脇本陣であった。

細久手宿脇本陣跡

瑞浪市日吉町細久手仲町

北緯

35

25

40.0

東経

137

14

13.1

脇本陣は本陣は間口十間(約18m)、奥行三間半(約6.5m)の
建坪三十五坪、部屋数7、畳数58畳、別棟の添家が一つありました。

慶長九年(1604)ころに大湫宿が設けられましたが、それでも大湫宿から御嶽宿までが四里半もあり、
道中に難所も多いところから、両宿からの懇願もあり、美濃国奉行「大久保長安」は慶長十一年に、
細久手に新しい宿を作るよう国枝与左衛門に命じました。
与左衛門は自力で七戸を建て、既存の戸数も加え、「七軒屋」と呼ばれる仮宿を作りました。
しかし、これが火災に遭い、同十五年には、与左衛門に米100俵を与えて再興させました。

こうして細久手宿はは、日吉郷のうちで無高の宿として設けられたのでしたが、問屋場、本陣、脇本陣、高札場を備え
問屋は二人制で、本陣の「小栗家」と平岩から出た「酒井家」とが世襲を通例として行ってきました。
年寄も二人制で、脇本陣の「小栗家」の他、主として「小木曽家」がなっていました。

宿は東高西低で、東の茶屋ヵ根から西の日吉・愛宕神社まで、上町、中町、下町に分かれます。
枡形は造られず上町と下町に弓型曲がりが施され、東西に長い宿場で
道幅は平均約5mでした。
小宿で尾州藩の宿助成がありました。

細久手宿の戸数は、文化十年(1813)に84戸ありましたが、天保十四年に65戸、明治二年(1869)には55戸と
江戸期も年々、減少しましたが近代になっても、大湫宿同様に主要国道や鉄道沿線から外れた為に過疎化が進みましたが
それだけに奥深い山中にひっそりとたたずむ、ひなびた風情は残されています。

細久手宿は、尾州藩の宿助成のはからいがあった小宿場で、宿の維持管理は近在の村々も分担していましたが、
年月を経るとともに戸数や旅籠が減少していったようです。
本陣や脇本陣はどちらも残っていませんが、尾州藩の御定宿だった大黒屋はいまも健在です。
細久手の一里塚を越した先に弁財天の池が水を湛えて横たわりますが、当時は山中のオアシスだったことでしょう。

細久手宿内はほとんど当時の名残が残っていません。
脇本陣から110mほどの宿はずれには日吉・愛宕神社があり、古い灯篭が有名です。

細久手宿
日吉・愛宕神社
灯篭

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

25

41.8

東経

137

14

02.3

中山道から北の山道をのぼると鳥居が見えてきます。

宿の西端にある日吉・愛宕神社は、天正年間(1573〜92年)に細久手村を開いた国枝重円が文禄四年(1595年)
創建した神社で、宿の守護神して多くの人々に崇敬を受け、旅人も道中の安全を祈願したと言います。
境内入り口には、天保十四年(1843)の金毘羅大権現碑、嘉永年間(1848〜54)の山灯篭が残っています。

日吉神社から中山道へ戻り「細久手坂」を西へ90mほど進むと右(北)手に「穴観音」の上り坂が見えてきます。

細久手の穴観音

瑞浪市日吉町細久手字平岩

北緯

35

25

34.1

東経

137

14

01.9

中山道の北(右)側に小さな坂道がありその上にあります

お詣り一回で、9万9千日分を
宿の外れにある穴観音は「九万九千日観音」とも呼ばれて宿民や旅人から信仰を受けた石仏です。
1回お参りすると9万9千回分ご利益があると伝えられ、石窟内には線香や蝋燭の古い煤煙が残り、
道中安全を祈願しては発っていった旅人たちの姿が目にうつるようです。

「細久手坂の穴観音」碑は中山道から見難い場所にあります。見落とさないように

穴観音から350mほどで右手に小さな社があります。

細久手の
津島神社・天王様

瑞浪市日吉町細久手字平岩

北緯

35

25

29.0

東経

137

13

48.7

津島神社(天王様)由来
尾張津島神社、京都八坂神社、江戸天王社の分詞(ぶんし)です。
十二世紀後半より津島神社として文献に、また室町時代より牛頭(ごず)天王社、津島様と呼ばれています。
牛頭天王は朝鮮新羅の牛頭山(ごずさん)の神、インド祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神、地獄の念怒鬼神の
変化などと伝えられていますが本来は防疫の大神です。

牛頭天王の護符「蘇民将来」は厄病除け
牛頭天王が旅に飢え、金持ちの巨里将来(きょりしょうらい)に宿を乞われたが断られ、弟の蘇民将来に迎えられて、
わらの布団に粟の飯をご馳走になる。
その礼に護符を与え、旅の災いと厄病が発生しても、これを持つものは助かると告げました。
以来この護符を「蘇民将来」と呼び厄病除けはもちろん交通安全の護符として信仰されています。

「蘇民将来」護符は細久手宿郵便局に授けてくださるそうです。

津島神社から60mほどで「県道釜戸御嵩線」と分岐点へ来ます。
此処を右手の山に沿って西へ進みます。

中山道は御嵩へ11kmの指示に従います。

この辺りにあるはずですが見当たりません

細久手
平岩
石仏

瑞浪市日吉町細久手字平岩

「県道釜戸御嵩線」との分岐点から460mほどの右手に「くじ場跡」の碑があります。

細久手
くじ場跡碑

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

25

26.4

東経

137

13

34.1

   

くじ場跡から800mほどで「県道大西瑞浪線」と中仙道合流点へ出ます。
この先約230mで平岩県道交差点に出ます

この「県道大西瑞浪線」との合流点で右折(北)し60m程で「大佛堂」があります。

画面、左は「平岩の辻」へ、北へ延びる道は「大佛堂」への道、右から坂を下りてきた道が「細久手宿」からきた中山道
黄色い旗の方からの道が「県道大西瑞浪線」

細久手大佛堂
(地元では弘法さん)

瑞浪市日吉町細久手字平岩

北緯

35

25

30.6

東経

137

13

27.1

今後調べます

   
詳細調査中 詳細調査中 詳細調査中

以下の三ヶ所も調査中

細久手
出茶屋跡

瑞浪市日吉町細久手

 

秋葉辻灯篭

瑞浪市日吉町細久手字平岩

県道大西瑞浪線合流点から60mほどで県道交差点へ出ます。

平岩県道交差点

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

25

30.6

東経

137

13

24.7

いざ鎌倉へ
日吉辻の分岐点には道祖神があり、中山道と旧鎌倉街道に分かれます。鎌倉時代、すべての道は鎌倉へ向かいました。
武士が鎌倉に馳せ参じるためでした。この辻を日吉辻と呼びます。

曹洞宗開元院

昔からあった道標が読めなくなったので
近年に作り直したものでしょう。

平岩県道交差点を北へ曲がり「開元院」へ寄ってみましょう
その途中、交差点から120mほどの道路西側に八幡神社があります。

平岩の八幡神社

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

25

36.3

東経

137

13

25.7

鳥居をくぐり石段を上がると、広い境内へ出ます。

八幡様境内にも大きな岩が頭を出しています。

八幡様脇の道にも大岩があります。

八幡神社横に平岩の地名由来碑があります

平岩由来碑

北緯

35

25

35.9

東経

137

13

25.3

   

八幡様から50m北へ進むと「ログハウス中山道」があります。

日吉町平岩のラーメン

瑞浪市日吉町細久手

「ログハウス中山道 TEL0572-64-2613

北緯

35

25

38.6

東経

137

13

25.7

ラーメン550円 美味い!

「ログハウス中山道」から680m北へ進むと「開元院」へ着きます。

開元院門前の石仏群

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

26

00.1

東経

137

13

32.3

氏神日 判読不明

ここにも佐倉宗吾の碑があります。

石仏群前に「開元院」の山門があります。

開元院

瑞浪市日吉町8846

北緯

35

26

00.1

東経

137

13

32.9

寺伝によると、永享11年(1439年)に月泉正印和尚が土岐頼元の協力を得て建立を思い立ち、
備中丹木村の曹洞宗洞松寺の末寺として嘉吉3年(1443年)に開山したといわれる名刹です。
しかし残念ながら、慶安元年(1648年)の火災によって古文書類を焼失してしまい、古い記録が残っていません。
本尊の木造観世音菩薩坐像、垂木を生かした建築様式も他にはないものです。
 

山門脇の碑

山門

碑は文政元戌寅(つちのえとら)年

長い参道の置くにもう一つ山門があります。

瑞浪市有形文化財
開元院山門
開元院は永享十一年(1449年)、土岐頼元の創建になり、嘉吉三年(1443年)
月泉性印(げっせんしょういん)和尚が開堂したと伝えられ、山門は古刹に相応しい様式と美しさを備えています。
建築は享和元年(1801年)で、間口4.88m奥行3.5mあります。

岐阜県重要文化財木像観世音菩薩座像
この観音菩薩像は、鷹巣山開元院の本尊で、檜材の寄木造りの玉眼・髪際波型の座像です。
宝髪・毛筋彫・眼の形から鎌倉様式であることがうかがわれ、像底墨書銘には、
南北朝時代の初期の文和五年(1356年)の年号が記されています。

山門前の庭もいい。

瑞浪市有形文化財
開元院の駕籠
この駕籠の由来等は不明ですが、禅愛の様式などから、江戸時代後期作の権門駕籠と思われ、
市内では唯一の権門駕籠として貴重な物です。
権門駕籠とは、武家の家臣が主人の用で他家に行く時借りた乗り物のことです。

美濃守護職「土岐氏」関係の寺宝も多く、土岐頼兼の墓もあります。

「開元院」から平岩県道交差点へ戻り西への「県道釜戸御嵩線」を進みます。
190mほど坂を進むと左手に舗装のない道があります。
これが中山道西坂の入口です。

 

西坂上り口

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

25

29.6

東経

137

13

19.1

中山道は舗装道路から左の未舗装道路へ入ります。

西坂の位置口には道標があります。
「左 中山道西の坂 旅人の上り下りや西の坂」の文字が見えます。

これより先300m一里塚まで瑞浪市日吉平岩
地内旧幕当時に開いた中山道は昔そのままの姿で
今なお残しており、この間に次の}酔うな地跡が残っている。
一縷塚より先は可児町に通じている。
道が東西に向いて居る珍しいところ
石室の中に観音三体祀る
旧鎌倉街道へ行く分岐点、日吉辻
切られケ洞
一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里
東に笠木山、恵那山、駒ケ岳
西に伊吹山、鈴鹿連峰
北に木曾の御岳山、加賀の白山
南に遠く濃尾平野に尾張富士、または尾張熱田の海を見ることが出来る。

90m程進むと「穴観音」と呼ばれる祠があります。

西坂穴観音
秋葉坂の秋葉三尊)

瑞浪市日吉町平岩

北緯

35

25

28.8
東経

137

13

15.5

ちょっと得した気分
細久手の出口から200m位のところにあり、西坂の穴観音と親しまれています。
寛政十三年(1802年)の一面六臂(いちめんろっぴ)の馬頭観音で、石室の中に安置されています。
縁日の碑に拝むと九万九千回のご利益があると言われ九万九千日観音ともいいます。
(1日1回お参りするとして、27年間毎日お参りしたことになります)

この坂が秋葉坂で、それぞれ石窟に納められた三体の石仏があります。
明和五年(1768)の三面六臂の馬頭観音、同七年(1770)の千手観世音、秋葉前立仏の三体。
平岩辻から西の津橋までの峠道も難所して知られており、
街道を行く人々が道中の安全を祷って手を合わせたことでしょう。

この道は車で入ることが出来ますが、瑞浪市と御嵩町の境で悪路となり
進めません。車の方は引き返すことになります。

穴観音から90mほど進と中山道の左(南)に鴨之巣道の馬頭文学碑が見えてきます。

鴨之巣馬頭文学碑

瑞浪市日吉町細久手字平岩

北緯

35

25

26.9

東経

137

13

12.0

由来詳細不明

かろうじて文字が読めます。

更に820mほど進むと左手に日吉辻の道祖神があります

鴨之巣辻道祖神碑

瑞浪市日吉町細久手平岩

北緯

35

25

27.1

東経

137

12

57.1

ここは鎌倉街道の追分にもなっています。

 

文字はほとんど判読不明です

道祖神と同じ場所です。

鎌倉街道分岐

瑞浪市日吉町細久手平岩

ここは鎌倉街道の追分にもなっています。

   

そして80mの曲がりが右手に「切られ洞」の標識があります。

切られ洞碑

瑞浪市日吉町細久手平岩

北緯

35

25

21.7

東経

137

12

35.6

いわれが分かりません

   

120m程で「鴨の巣(こうのす)一里塚」に出ます。

鴨の巣一里塚

瑞浪市日吉町細久手平岩

北緯

35

25

21.1

東経

137

12

32.0

御嵩町と瑞浪市の境の一里塚です。
鴨之巣の一里塚は道の両側にありますが、配置が20mぐらいずれていて、地形の関係でそうなったもと思われます。
石標に「之より京へ四十一里」とあります。

江戸へ九十三里、京へ四十一里という道標の鴨ノ巣一里塚です。
一里塚は道の両側に一対づつ築かれますが、ここの場合は地形上から北側塚が16m東方にずらされているのが特徴です。
ここからは鈴鹿、伊吹、北アルプスの山々が一望できます。
   

之より江戸へ九十三里

 

之より京へ四十一里

「まだまだと    の旅人
一里塚にてわらじはきかゆ」
 

「鴨の巣(こうのす)一里塚」から60mくらいが行政境でここから御嵩町になります。

車両通行不能区間始まり
瑞浪市と御嵩町境

瑞浪市日吉町平岩 ・ 可児郡御嵩町津橋

北緯

35

25

21.3

東経

137

12

32.2

瑞浪市から御嵩町になったとたん道は
悪く車が入れません

ここが市町村境です。
道に真横に杭が並んでいます。これが行政境でしょう。

御嵩町側は途端に道が狭く悪くなります

行政区域

「瑞浪市」から「御嵩町」へ

瑞浪市日吉町平岩

可児郡御嵩町津橋

ここまで、瑞浪市釜戸町大細から13.7km      
長野県境から40.8kmです。  

ここから落ち葉を踏みしめ津橋(つばし)の集落を目指して進みます。

町境から1040m程で見えて来るのは「ふじあげ坂の馬頭観音」です。

車の方の迂回路を案内します。

No.12 中山道車両通行不能区間

場所

瑞浪市日吉町平岩〜可児郡御嵩町津橋

場所

瑞浪市日吉

平岩から

   
   
   

 

 

可児郡御嵩

津橋まで

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

次の頁は御嵩宿までの山道です。

車の方
車の方はこの先御岳町「藤上げ坂の馬頭観音」へは悪路になりますので引き返すことになります。
西坂の上り口(西の穴観音=瑞浪市日吉町細久手)まで520mほど引き返して左折(北)して
「県道釜戸御嵩線」で約3km迂回して御嵩町津橋(つばし)までいきます。

西坂の上り口

瑞浪市日吉町細久手

北緯

35

25

29.6

東経

137

13

19.2

画面の未舗装道路へ戻ってきますので舗装道路を右方向へ進みます

迂回路の途中約1.5kmで瑞浪市と御岳町境を通ります。
道は山の中を走りますが一本道ですので迷うことはありません。

瑞浪市御嵩町境

瑞浪市日吉町日吉 : 御嵩町津橋

北緯

35

25

37.3

東経

137

12

23.8

峠近くに、行政境には標識があります。

御嵩町の標識

瑞浪市側を振り返ると、先ほどくぐってきた
ゴルフ場の橋が見えます。

ここが市町村境です。

行政区域

「瑞浪市」から「御嵩町」へ

瑞浪市日吉町平岩

  可児郡御嵩町津橋   

ここまで、瑞浪市釜戸町大細から13.7km      
長野県境から40.8kmです。  

では、御嵩町へご案内します。

街道コラム

【中山道の整備】

「伝馬朱印状」
 中山道整備の歴史的文書は慶長七年(1602)(関ヶ原合戦の2年後、東海道整備の翌年)の二月二十四日に幕府から御嵩宿へ「伝馬朱印状」が下付された。さらに同年三月七日付けで、同文のものが岐阜町や木曽福島宿にも下付された。

最初の中山道の道筋は、
 落合宿中津川宿大井宿(恵那市)ー竹折(たけなみ=恵那市武並町竹折)ー釜戸(かまど=瑞浪市釜戸町)ー半原(瑞浪市半原)ー宿(瑞浪市宿)ー日吉(瑞浪市日吉)ー次月(しづき=可児郡御嵩町次月)ー御嵩宿(可児郡御嵩町)ー土田(どた)宿(可児市土田)ー善師野(ぜんじの=愛知県犬山市善師野)ー内田渡し(木曽川=犬山市内田町)ー鵜沼宿岐阜町河渡(ごうど)宿美江寺宿赤坂宿垂井宿関ヶ原宿今須宿
 となり大井宿から釜戸・半原を経て御嵩宿に至る道で大湫宿も細久手宿もなく、伏見宿・大田宿も木曽川の対岸を通っていてなかった。

           

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。