中山道六十九次のうち四十八宿目で中山道美濃十六宿の四番目の宿「大湫宿」をご案内します。

六十九次
のうち
四十八宿

岐阜県瑞浪市大湫町

美濃国

JR中央線釜戸駅下車

「大湫(おおくて)宿」巻は、寺坂、女人講碑の「宗昌寺」、瑞浪市大湫連絡所、瑞浪市の田中泥薬師如来の泥落とし、
大湫宿本陣跡、大湫宿脇本陣、大湫宿問屋場跡、大湫宿白山神社、大湫神明神社の大杉、大湫観音堂の天井絵、
大湫宿高札場、大湫宿西口などを、ご案内します。

         

大湫宿(おおくて、大久手ともいう)のおおよその位置図

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
 童子根碑
↓160m
信州境から28.3km(江戸から=351.3km
今須(近江国さかい)まで 91.9km
  大湫宿入り口 寺坂  
     ↓ 90m    →
    三 叉 路    →
↓ 40m
瑞浪市大湫連絡所
↓ 20m
 
大湫宿本陣跡    
↓ 40m
   問屋場跡      →
↓ 40m
大湫宿脇本陣  
↓ 40m

神明神社の大杉

↓130m
大湫観音堂登り坂口
 20m
高 札 場  
↓ 40m
大湫宿西口三叉路 
 200m↓(区間計 0.7km)
美濃路四宿目 江戸より四十八宿目
南へ40m 女人講碑の「宗昌寺」
北へ50m 白木改番所跡(県道大湫恵那線394号線西側)





西へ70m 白山神社本殿





20m 大湫観音堂の天井絵



← 県道65号線
信州境から29.0km(江戸から=352.0km
紅葉洞の石橋 今須(近江国さかい)まで 91.2km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・大湫宿、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

大湫(大久手)宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 百九石八斗二升、 人口 338人、 家数 66軒、 

旅籠 三十軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、           

大井宿から 三里半(槙ケ根の一里塚、紅坂の一里塚、権現山の一里塚)

細久手宿まで 一里三十町(八瀬沢の一里塚、奥之田の一里塚)

「岐蘇路安見絵図」による当時の大井宿の解説は

「岐蘇路安見絵図」による当時の大湫(大久手)宿と細久手までの解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

大久手 細久手まで一里三十丁

ほろ岩・ゑほし岩とて、二ツの大岩有。たてよこ弐丈斗も有べし。
(母衣岩、烏帽子岩とて、2つの大岩あり。縦横二丈半=4.5mもある)

ひわ峠より丑寅に御嶽みゆる。北に加賀の白山みゆる。
(琵琶峠より北東に御岳が見える。北に加賀の白山が見える)

白山は日本三番目の高山なり。飛騨山の間にみゆる。西にいぶき山みゆる。
(白山は日本で3番目に高い山。飛騨山脈の間に見える。西に伊吹山も見える)

上の絵図のは2つの一里塚が描かれています。
左の頁が「奥之田一里塚」、右の頁が「八瀬沢一里塚」です。

「岐蘇路安見絵図」宝暦六年(1756年)に出版されたもので
当時、それ以前に出版されて人気だったガイドブックの誤りを正したガイドブックとして有名です。
(この「岐蘇路安見絵図」の掲載については所蔵元を明記することで、
2002.10.25に岐阜市歴史博物館から了承を得ました)

宿の町並みは十三峠西端の寺坂を下りた北町から、白山町、中町、神明町、西町までの
340mの街道に沿った細長い宿場でした。
大湫は山中の小さく寂しい宿場にもかかわらず、京都からの旅程上多くの姫宮たちの宿泊地となりました。
輿入れは数千人、とくに14代将軍家茂への和宮降嫁のときは万を越す大規模な行列でしたが、
大湫宿はその役目を無事に果 たしたのでした。

          歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 大久手」(大判錦絵)
              岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                                                                  説  明
 当時は「大久手」と書いたが、本来は「大湫」と書くのが正しいのだという。                     
 大井宿から大湫宿まで間は、十三峠といわれるたくさんの坂が続くが、大湫の宿を出て細久手へ向かうあたりはなだらかな丘となっていた。 この辺りの街道脇には二つの巨岩が並んであり、中山道の旅をした人々にとって、大層印象深いものであったらしい。                                          
 「五街道中再見記」などの地誌類や随筆などにも、この二つのが取り上げられている。 烏帽子(えぼし)岩と
母衣(ほろ)石と呼ばれた二つの岩のうち、本図に取り上げられている方形の岩は母衣石であろうと思われる。
丘の斜面野大胆な配置や色遣いに、まるで抽象画のような、との評価もある。                    

  @:十三峠の文学碑
  A:大湫宿東駐車場
  B:宗昌寺と石造物群
  C:尾張藩大湫白木番所跡(尾張藩所有のヒノキの管理所)
  D:大湫公民館(高札場の掲札の本物を展示)
  E:旅籠・三浦屋(国・登録有形文化財)
  F:問屋 丸森 森川家(     〃     )
  G:大湫宿本陣跡(大湫小学校)
  H:大湫宿問屋場跡
  I:白山神社
  J:脇本陣保々家(国・登録有形文化財)
  K:神明神社の大杉
  L:問屋 新森 森川家(国・登録有形文化財)
  M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
  N:高札場
  O:大湫西駐車場

大湫(おおくて)宿の東の入り口である寺坂には石仏群があります。

@ 中山道寺坂
十三峠文学碑

瑞浪市湫町

北緯

35

25

49.5

東経

137

18

12.8

宿内の無事と中山道を行く人々の安全を祈願して、大湫(おおくて)宿を
一望できる寺坂の中腹にあります。
正徳三年(1713年)の念仏碑や古い馬頭観音像などが並んでいます。

「是より東十三峠」の碑、
太田南畝(おおたなんぽ)の「壬戌(じゅんじゅつ)紀行」の十三峠に関する記述の文学碑なども立ちます。

中山道十三峠
 十三峠は幕府の命令によって慶長八年(1603年)に改修
工事が始められ、翌九年に開道しました。
 大湫(おおくて)〜大井間は「十三峠におまけ七ツ」
呼ばれる険しい山坂道でしたが、
 その反面木曽路も近く、石仏、風物にも恵まれ旅人からも
親しまれた三里半(約14km)のコースでした。

寺坂を下って大湫宿へ入ります。

寺坂を下りたところにある寺が女人講碑で有名な臨済宗の寺「宗昌禅寺」です。

B 大湫宿宗昌禅寺

瑞浪市湫町

北緯

35

25

50.0

東経

137

17

58.4

控え本陣としても用意されました
天正年間(1573〜92年)湫村を開いた保々宗昌が、慶長五年(1600年)に開基しました。
本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣としても利用されました。

門柱脇の坂を上がると名号碑があります。

「三界萬霊寺」と読めます

坂を上がって左に曲がると山門が見えてきます

山門を横には広い駐車場があります。

駐車場からの宿場の眺めは最高です。宿はずれの高札場までよく見えます。

鐘楼前には石仏群が並びます

境内には文化十一年(1814年)の女人講、宝暦四年(1754年)の宝篋印塔、同十年(1760年)の石灯籠、
文政八年(1825年)の供養塔等の石造物があります。

宗昌寺から宿内(西)へ90m程進むと三叉路に出ます。

この三叉路を左折(南)すると宿の本通りですが、
曲がらずに真っ直ぐ進んでカーブしながら北に70mほど進むみ家並みが途切れ最後の家が「白木改番所跡」です。

C 大湫宿尾張藩
白木改番所跡

瑞浪市湫町

北緯

35

25

52.3

東経

137

17

53.6

木曾の山々は、檜(ひのき)などの良材の産地なので尾州藩
(尾張藩)では川並奉行所を置いて管理伐採に当たらせ、
材木は木曽川を利用して錦織(八百津)まで流しました。
湫役所は、元禄七年(1694年)に設けられた後平番所に改められ
東濃地方一帯の山林と木材の管理を行いました。

「白木改番所」から三叉路まで戻り右折(南)すると宿の本通りへ出ます。
下の画像の正面が「宗昌寺」の石垣です。

この通りにほとんどの建物が集中しています。建物の裏は田んぼか山です。

三叉路の角に農協や金融機関が集まっています。

三叉路を曲がると40mほどで中山道資料館があります。

D 瑞浪市役所・大湫連絡所
大湫公民館

瑞浪市湫町北

北緯

35

25

50.4

東経

137

17

52.8

連絡所入り口に泉があります。

中山道大湫宿「水分(みずわけ)之泉」の由来
湫宿は海抜510mの高地にあり、木曽川水系と土岐川(庄内川)水系との分水嶺線上の位置にあります。
そうしたことから、この水分之泉にも湫宿民が江戸時代から大切に使用してきた
木曽川水系の「大戸水道」と土岐川水系の「神明水道」の双方の水源水を引き、流末は再び双方へ
分かれて戻っていくようになっています。

また、「水分」とは古代から日本の水神である水分之神の意味であります。

館内には中山道の資料のほかに高札場に掲げてあった高札の現物10枚と写しが架かっています。

話題を脇道(瑞浪市内)へ反れます
最近の話題として瑞浪市薬師町四反田公園にある田中泥薬師如来についてご案内します。

田中泥薬師如来

瑞浪市薬師町四反田公園

北緯

35

21

37.4

東経

137

13

56.8

言い伝え
 戦国時代末期、田中薬師如来によって難病が治った信じる村人が、織田信長の命を受けた美濃兼山城主・森長可(ながちか)の仏閣焼き払いから守るため、土中に穴を掘って薬師如来を隠したと言う。  
 その後、世に平穏が訪れ薬師如来を現在の場所にお祭りしてからは、村人たちが病のあるところに泥を付けてお祈りするようになった、という。
 そして現在では全体が泥で塗り固められて、頭の部分はお堂の梁につかえている状態。
 刻銘も不明ままだが、お堂の脇には灯篭が立っており、寛延三年(1750)と刻まれていることから、薬師如来はそれ以前のものと推測される。

「泥落とし供養祭」
 このたび、田中泥薬師如来保存会がほぼ400年ぶりに「泥落とし供養祭」を行ない本尊が姿を見せることにになる。
 村人の病を治し続けてきた薬師如来は「このままにしておいた方がよい」「たたりがあるのでは」など反対意見もあるが、「言い伝えだけでなくご本尊の本当の姿を確認し、その価値を知ることも大切」として実施することとなった。(岐阜新聞より)

高さ約2mから97cm
「田中泥薬師保存会」の手で像に付着している泥を落とされ、花崗岩に彫られハスの花の上に立ち、両手を前にしている姿が確認されました。(中日新聞から)

もう一つ中山道から外れますが土岐市の話題を

千利休愛用「つくばい」
添え書き発見

土岐市泉町久尻1246番地の1 

北緯

35

21

46.6

東経

137

10

43.5

暮雪庵の庭に据えられていた四方仏蹲踞=岐阜県土岐市で
(四面に仏が彫られたつくばい)

     戦国時代の茶人千利休愛用のつくばい
 土岐市泉町の織部の里公園内にある茶室「暮雪庵(ぼせつあん)」の庭の「つくばい(蹲踞)」(ちょうず鉢)が、戦国時代の茶人千利休に使われた可能性があることがわかった。
 茶室やつくばいを市に寄贈した松坂屋の創業者、伊藤次郎左衛門家(名古屋市)から、「千家名物利休所持」と記された添え書きが見つかった。
 土岐市は近く、添え書きの鑑定を京都の裏千家関係者に依頼する。
                    (岐阜新聞より)
揚輝荘南園にある聴松閣という建物の外観写真

      土岐市へ寄贈された経緯
 松坂屋を創業した伊藤家の別邸「揚輝荘」(名古屋市千種区)から、岐阜県土岐市へ茶室「暮雪庵」とともに移設された四方仏蹲踞(よほうぶつつくばい)が、茶道の大家、千利休(1522−91年)の愛用品と伝わるものだと分かった。
 利休所蔵だと記した添え状の掛け軸が伊藤家から見つかったため、17日には17代伊藤次郎左衛門祐洋(すけひろ)さんの妻きよゑさんから、掛け軸が土岐市に寄贈された。

 揚輝荘は、(株)松坂屋の創始者である15代伊藤次郎左衛門祐民氏が、大正から昭和初期にかけて覚王山の丘陵地に建設した本市郊外別荘の代表作で、主要な部分として保存された庭園と建物が、平成18年度末に寄贈されました。

利休所有を伝える蹲踞の添え状=土岐市泉町久尻で
 
 伊藤家のきよゑさんは「実物と添え状が一緒に保存されるのがよいことではないかと思った」。
 また土岐市の大野信彦市長も「利休愛用と伝わる蹲踞に歴史のロマンを感じる」と話す。
 蹲踞は一辺約50センチの立方体で四面に仏体が刻まれている。
 平成20年6月に伊藤家で掛け軸が見つかり、そこに裏千家14代家元の淡々斎碩叟(せきそう)(1893−1964年)が「千家名物 利休所持四方仏踞鉢」と記していた。一辺に欠けた部分がある実物の模写絵も描かれ、四方仏蹲踞と一致した。
 「暮雪庵」は1800年ごろの建造とされ、1930年に揚輝荘へ移築、2004年に土岐市の織部の里公園内に移設され、蹲踞も庭に据えられていたが、今回「添え書き」が発見され文化的貴重品と分かり現在は似たものが据えられています。

 

再び中山道大湫宿まで戻ります。


  E:旅籠・三浦屋(国・登録有形文化財)
  F:問屋 丸森 森川家(     〃     )
  G:大湫宿本陣跡(大湫小学校)
  H:大湫宿問屋場跡
  I:白山神社
  J:脇本陣保々家(国・登録有形文化財)
  K:神明神社の大杉
  L:問屋 新森 森川家(国・登録有形文化財)
  M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
  N:高札場
  O:大湫西駐車場

中山道を西へ進むと五十数戸の町並みが江戸時代へと戻してくれます。

E 旅籠・三浦屋
(国・登録有形文化財)

瑞浪市湫町北

北緯

35

25

50.4

東経

137

17

52.8

旅籠・三浦屋の西隣に問屋 丸森 森川家(国・登録有形文化財)があります

F 問屋 丸森 森川家跡
(国・登録有形文化財)

瑞浪市湫町北

北緯

35

25

50.4

東経

137

17

52.8

現在は大湫宿休憩所となりトイレなどがあります。

問屋 丸森 森川家(国・登録有形文化財)の向かいに大湫宿本陣跡があります。

G 大湫宿本陣跡

瑞浪市湫町北

北緯

35

25

49.9

東経

137

17

50.1

本陣も今は小学校校庭
大湫村をひらいた保々氏は木曽衆与力として関ケ原、大坂の陣にも参戦、領地としていた尾州藩から300石を給されていました。
開宿とともに庄屋・本陣・問屋の三役を世襲、途中本陣中西家・脇本陣南家に分かれて、明治時代まで続きました。
本陣は建坪182坪、部屋数22と美濃16宿でも大きい方で、和宮の宿舎でもありましたが、今は大湫小学校校庭となっています。

都が恋しい和宮のこころ
和宮の宿舎となった本陣跡(大湫小学校校庭)にはこれを記念して歌碑が立てられています。
歌は「遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」
「思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは」
の2首です。
宿場制度ある期間に、此ノ宮(享保十六年、1731年)・真ノ宮(寛保元年、1741年
五十ノ宮(寛延二年、1749年)・登美ノ宮(天保二年、1831年)・有姫(同年)・鋭姫(安政五年、1858年
等のほか、皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降嫁のため、万久元年(1861年)十月二十八日、
その道中の一夜を過ごされたのもこの本陣でした。
往時を偲ばせるものは立派な石垣だけのようです。
湫宿本陣は現小学校校庭にあり、間口二十二間(約40m)、奥行十五間(約27m)、部屋数二十三、畳数一十二畳、
別棟添屋六と言う広大な建物で公家や大名・高級武士たちのための宿舎でした。

本陣跡から40m程の右側に問屋場跡があります。


  H:大湫宿問屋場跡
  I:白山神社
  J:脇本陣保々家(国・登録有形文化財)
  K:神明神社の大杉
  L:問屋 新森 森川家(国・登録有形文化財)
  M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
  N:高札場
  O:大湫西駐車場

 

H 大湫宿問屋場跡

瑞浪市湫町北

北緯

35

25

49.2

東経

137

17

51.4

宿場の役所(問屋場と問屋とは違います)
問屋場とは宿役所のことで宿継ぎ立てなど荷物の輸送や人足や伝馬の調達、
大名宿泊時の宿舎割りなどを主に取り扱い、問屋役・年寄・書記・人馬指などの宿役人が詰めていました。

往時の問屋場らしい石垣が少し残っていました。

問屋場の西之脇道を奥へ入ると白山神社があります。

I 大湫宿白山神社

瑞浪市湫町

北緯

35

25

49.9

東経

137

17

49.4

本殿はかなり奥の方
中山道からかなり奥に鳥居があり、その奥に灯篭が、またその奥に長い階段が続きます

問屋場跡から西へ宿並派続きます。

幕末頃には四十軒野旅籠が栄えた大湫宿(おおくてしゅく)
静かな宿場の雰囲気が漂っています。

問屋場跡から40m程の右側に脇本陣があり、現在も子孫が住んでおられます。
脇本陣は中町の高台に門を構え、規模は縮小されたものの、今も往時のまま保存されています。

J 大湫宿脇本陣

瑞浪市湫町

北緯

35

25

47.6

東経

137

17

46.6

宿上段の堂々とした門構え
この脇本陣は部屋数19、畳数121畳、別棟4という広大な建物でした。
今は建物も半分程度の規模になっていますが、門、庭などを含め宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとなっています。

街道から石段を上がり門の奥に脇本陣があります。(現在も住宅として住まわれているため中へは入れません)

更に西へ40mほど進むと神明神社があります。


  K:神明神社の大杉
  L:問屋 新森 森川家(国・登録有形文化財)
  M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
  N:高札場
  

 

K 大湫宿神明神社大杉

瑞浪市湫町西

北緯

35

25

45.7

東経

137

17

48.6

宿の中央にあり、慶長十三年(1608年)に再建されたといいます。
境内の大杉は樹齢1,300年で、大湫のシンボルです。岐阜県天然記念物指定でもあります。
また、この大杉と共に「大湫宿に過ぎたるもの」とうたわれた観音堂は、もとこの境内にありましたが、
享保六年(1721年)に宿の西口に移されました。

 

拝殿が変わった形です。

鳥居の横に「文化四年(1807)」の文字が見える灯篭があります。

本殿の前に樹齢1300年の大杉
大湫宿には過ぎたものがあると旅人に言われていた樹齢1300年以上の大杉です。

どれだけカメラを振り回しても「大杉」が大きすぎて収まりません

神明元泉
神明神社大杉の根元から神明元泉と呼ばれる清水が湧き、旅人たちの貴重な飲料水となっていました。
「大湫宿に過ぎたものが2つあり、神明神社の大杉と観音堂」といわれてきました、とんでもない巨木。
太田南畝の旅日記「壬戌紀行」の中にも
「駅の中なる左の方に大きい杉の木あり、木の元に神明の宮たつ」
と表しています。
その時代からすでに大湫宿のシンボルだったのでしょう。
(現地説明板より)

大杉の神明神社の向かい側に問屋 新森 森川家があります。

 L 問屋 新森 森川家

(国・登録有形文化財)

神明神社から西へ130m進むと高札場と観音堂への登り口があります。

M 大湫観音堂

瑞浪市湫町西

北緯

35

25

43.3

東経

137

17

47.6

「大湫宿に過ぎたるもの」とうたわれた観音堂は、もとこの境内にありましたが、
享保六年(1721年)に宿の西口に移されました。
文政七年(1824年)の宿の大火で焼失し、現在の堂は13年後の弘化四年に再建されました。
付知の画人「三尾暁峯」が描いた60枚の絵天井は、瑞浪市文化財です。
境内には宝暦の傘地蔵、享保六年(1721年)の念仏講碑、芭蕉句碑など古い石造物群、老しだれ桜があります。

老しだれ桜、石仏、堂内天井絵など遺物が多く、とくに堂内の天井絵は、
虎の絵で著名な岸駒に師事した
恵那郡付知村の画人、三尾静(暁峰)の描いたものです。
花鳥草木を主に60枚描かれており、出来も色彩もよく百数十年の月日を感じさせない。
なお、天井絵は観音堂の窓ガラス越しにも見ることができます。
                     大湫宿観音堂
 道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。
 現在の建物は、弘化四年(1847=明治になる20年前)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿場の当時をしのぶことができます。            (現地説明板より)

難病平癒の霊験があり、近郷近在の崇敬を受けてきました。

芭蕉句碑「花ざかり 山は 日ごろの あさぼらけ」
天井絵、これも大湫宿に過ぎたもの、と言われていました。現在の建物は、弘化四年(1847年)に再建されたものです。

境内からの宿内の見晴らしは最高です。

高札場は観音堂上り口の20mほど西にあり、宿の西口にあります。

N 大湫宿高札場

瑞浪市湫町西

北緯

35

25

42.4

東経

137

17

46.8

現在の高札場は平成十年(1998年)に歴史の道整備事業によって復元されました。
札は10枚あってかなり大きな高札場でした。
10枚の本物の札は宿の市役所大湫連絡所に掲げてあります。

             江戸時代の宿場の決まり
 宿場には幕府の定めにより必ず「高札場」「問屋場」「本陣」「脇本陣」を設けなければなりませんでした
 「高札場」:奉行からの「定(さだめ)札」や「覚(おぼえ)札」などを掲げて宿内や旅人に知らせる場        所で時代劇など見る指名手配の似顔絵などの掲載はもっての外できつく罰せられました。
       (触れ札は何年も掲げられ文字がかすれたり、読めなくなっても加筆などは許されませんでした)
 「問屋場」:宿場を取り仕切る宿役所で「問屋役」、「年寄役」、「帳付役」、「人馬指図役」などの宿役人が毎       日詰めていた。公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全体       についての指図や業務を行っていた。特に参勤交代の行列通過や大名の宿泊手配などにそそう       が無いよう、また宿場だけでは人数が不足する場合「助郷」(近隣の指定された村などへの使役       の供出)の手配など万事宿場の業務一切を取り仕切りました。
 「問屋」:宿から宿へと荷駄を運ぶ馬と馬子の人数が役所から指定され員数だけ常備を指示され物流が滞       ることの無いよう命じられていました。また荷駄も次の次の宿まで通しで運ぶことは禁じられてお       り、効率は悪くコスト高でした。
      この方法は戦国時代から平穏な時代への切り替わり時期には国内の物流を安全に運ぶ手段とし      てにはよかったのですが、世の中が安定し発展すると、物流コストがかさむようになり、また時間が      掛かり時代に即応できなくなりました。そこで「中馬(ちゅうま=出発から終着まで同じ馬と馬子で運      び宿場ごとで荷を積み替えなくてもよい)」という制度も一部許可されましたが、この制度は宿場の      問屋は荷駄の扱いが少なくなり経営が出来なくなる問題が発生しました。  
 「本陣」は大名が参勤交代で旅をする時の宿で警備も厳重でした。
      幕末頃には大名も経費が掛かる参勤交代を少人数で隔年にするなどしため本陣は経営が出来ず
      こっそりと民間人などを泊めるなどして問題が発生しました。
 「脇本陣」は2つの大名が同じ宿場に泊まるとき格式の低い大名が宿泊するのに使われましたが、利用率      が悪く平素から経営難が続きました。

現在「高札場」に掲げられてる札はレプリカで本物は大湫会館に展示されています。

「定」  駄賃 並びに 人足賃銭 一割五分増し
駕籠屋や馬子が法外な料金を旅人に吹っかけないよう料金を定めたり
駄賃(一頭の馬に載せられる荷駄の重量と値段)の取り決め                      
 川越え(幕府は平時でも大規模な兵員の移動ができないよう橋を架けず、人足による瀬渡しをさせ
      ていました)の料金や出水時の川止めの決まり、増水時の料金の割り増しなど事細かに定めていました。

高札場の西は、すぐに山と畑です。宿場はずれらしい風景です。

大久手(大湫宿)
宿西口

瑞浪市湫町西

北緯

35

25

40.9

東経

137

17

46.1

 

西口は三叉路で手前が宿から、
左が県道65号、右が394号

県道394号線は琵琶峠を経て細久手宿へ

三叉路にあるいろんな標識、これだけあれば間違いはありません。

では宿を出て一路「細久手宿」へ

では200mほど先にいある、次の名所「紅葉洞の石橋」へ向いましょう。

街道コラム

【十三峠の改修と大湫宿・細久手宿の新設

 大井宿から御嵩宿の間の十三峠道は昔かあり天正十一年(1583)五月、苗木城を攻略した兼山城主森長可(ながよし)は、苗木城を出発し十三峠を越え、その夜は細久手で宿陣し、翌日に兼山に凱旋した。また慶長六年(1601)奥州米沢へ行く前田慶次も十三峠の道を通り、「オオクテ(大湫)ヨリ中津川ヘ六里、ココモ名ニオウ大井宿・・・」と日記に書き残している。

 慶長八年(1603)、幕府は十三峠の改修にかかり、同年に伝馬掟書」を下し、大湫宿の宿人は10人25疋であることを指示した
これにより大井宿から大湫宿までは三里半の道程となったが、大湫宿から御嵩宿までは四里半の山坂の多い長丁場で負担が大きかった。そこで大湫宿は幕府へ困窮嘆願を続け、やがて設けられたのが細久手宿でした。

 細久手宿は今まであった民家七軒を宿の中心とし「七軒屋」と呼ぶ仮宿がで「定」が下され十三峠の道が中山道となり大湫宿・細久手宿が新設されたのである。

         

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください