槙ケ根を過ぎて紅坂一里塚へ入り権現坂を目指します

六十九次
のうち
四十七宿
四十八宿間

岐阜県恵那市

美濃国

JR中央本線武並駅下車

「ぼたん岩とチンチン石」巻紅坂一里塚、紅坂の石畳、でん坂、紅坂碑、里すくも坂、ぼたん岩、三社灯篭、
佐倉宗五郎大明神、芭蕉句碑等群、藤村の高札場跡、深萱立場跡、西坂の茶屋跡、西坂碑、チンチン石、馬茶屋跡、
茶屋坂の石畳、みつじ坂、三城峠、茶屋坂碑とばばが茶屋跡、茶屋坂標識、恵那・瑞浪市境 
などをGPS位置情報とともにご案内します。

          

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
夫婦岩跡
↓ 60m
信州境から22.6km(江戸から=345.6km
今須(近江国さかい)まで 97.6km
紅坂一里塚 
↓ 30m
紅坂の石畳(始まり)
↓ 60m
で ん 坂  
↓ 80m
 ぼ た ん 岩  
↓100m
紅 坂 碑  
↓50m
紅坂の石畳(終わり)
↓160m
里すくも坂碑   
↓100m
  社 灯 篭     →
佐倉宗五郎大明神
↓100m
県道418号線
↓ 30m
藤村の高札場跡
↓ 50m
深萱立場跡  
↓ 60m
三 叉 路  
↓130m
二 股 道  
↓ 70m
西坂の茶屋跡
↓ 50m
   西坂碑      →
↓ 60m
馬茶屋跡標識
↓250m
茶屋坂の石畳 (60)
↓ 30m
三   辻  
↓ 70m
みつじ坂標識 
↓ 40m
 
三城峠 
茶屋坂碑とばばが茶屋跡
↓ 120m
茶屋坂標識  
↓ 50m
村道合流
   
↓ 30m
恵那市・瑞浪市境碑
 140m↓(区間計1.9km)
一里塚情報(美濃路7番目、 江戸から89番目(八十九里)
  (槙ケ根一里塚から
3,740m
石畳情報(美濃路4号=270m)











北へ 130m 芭蕉句碑等群














60m チンチン石



石畳情報(美濃路5号=60m)











                                  
恵那市と瑞浪市の境
信州境から24.5km(江戸から=347.5km
県道分岐点 今須(近江国さかい)まで 95.7km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・ぼたん岩とチンチン石、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

夫婦岩跡から60mほどのところに紅坂の一里塚があります。

紅坂一里塚

恵那市武並町字紅坂156−1

北緯

35

26

35.3

東経

137

21

04.6

南塚前にある一里塚碑

北塚

江戸から数えて89番目の一里塚が紅坂一里塚です。
北塚は高さ2.2m 、幅が0.7m、南塚は高さが3.2m、幅が11.3mあります。
一里塚は一里(三十六丁)ごとに置かれるが、当時の計測で槙ケ根から三十三丁三十九間と厳密には一里無かったといいます。
このあたりの中山道は、かつての面影をよく残しています。

南塚

南塚から見た北塚

江戸から八十九里(約349km)、ここから大湫宿までの約2.1kmは、江戸期のままの土道が続き、全国的にも貴重な道です。

調査中

紅坂の道標

恵那市武並町字紅坂

北緯

35

26

 

東経

137

20

 

山中の道しるべは何より
大井宿-大湫宿間は距離が長く、尾根道が多いので行先の道標はとても重要でした

紅坂の一里塚を30mほど進むとすぐに石畳が始まります。
落合の石畳から4番目の石畳です。

紅坂の石畳

(中山道美濃路石畳第4号)

恵那市武並町字紅坂

北緯

35

26

33.0

東経

137

20

56.8

紅坂一里塚から武並町藤の民家までの270mほど石畳は続きます。

始まり

 

ぼたん岩を過ぎ紅坂碑付近

終り(民家が見えてきます)

紅坂の石畳の始まりから60mほどに「でん坂」標識があります。

でん坂標識

恵那市武並町字紅坂

北緯

35

26

33.4

東経

137

20

52.0

でん坂から80mほどの紅坂の途中の石畳に直径5mの石に「ぼたん」の模様がある「ぼたん岩」があります。

ぼたん岩

恵那市武並町字紅坂

北緯

35

26

35.0

東経

137

20

56.8

直径5mほどもある岩の表面が薄く、層になって幾重にも削られており、
牡丹の花のように見えることから「ぼたん岩」といわれています。
このあたりは中山道にしては道幅も広く、その真中に「ぼたん岩」があります。

紅坂の常夜燈

夜、旅をする人もいた?
こんな山道の常夜燈は、利用する旅人もいたからでしょうか。
詳細調査中

ぼたん岩を過ぎ100m程の所に「紅坂」標識があります。

紅坂碑

恵那市武並町字紅坂

北緯

35

26

33.3

東経

137

20

50.4

坂の途中に紅坂碑があります。

紅坂碑から50mほど下りきると集落へ出ます。
そこで石畳は終わります。

石畳の終りから舗装道路を160mほど進むと中山道の右に「里すくも坂碑」があります。

里すくも坂碑

恵那市武並町字藤深萱

北緯

35

26

29.2

東経

137

20

40.7

由来詳細不明

「里すくも坂碑」から100mほど坂を下ると三社灯篭へ出ます

三社灯篭

恵那市武並町字藤深萱

北緯

35

26

27.4

東経

137

20

36.9

由来詳細不明

三社灯篭の道の反対側に佐倉宗五郎大明神があります。

佐倉宗五郎大明神

恵那市武並町字藤深萱

下総の農民運動のリーダーがなぜ美濃に
江戸時代、3000件を数える江戸期農民騒動のなかで、下総の佐倉宗五郎が有名でした。
大井宿-大湫宿間の街道沿いに佐倉宗五郎碑の標柱があり、かつて義民佐倉宗五郎を祀る小さな神社があったとされます。

元禄年間(1700年頃)、岩村藩で農民騒動が起きそうになりました。
竹折村の庄屋田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、当時の定めとして
直訴は打ち首と決められていたため、首をはねられてしまいました。
当時有名になった佐倉宗五郎事件に似ているの村人達が密かに田中氏を宗五郎大明神として祀ったのではないでしょうか。
どれが大明神碑か分かりません。
これはお稲荷様と思われます。

三社灯篭の横に「芭蕉句碑等群」の標識があります。

芭蕉句碑等群

恵那市武並町字藤深萱

北緯

35

26

30.9

東経

137

20

37.9

三社灯篭のある辻を北へ130mほど進と神明神社へ出ます。
本殿は更に奥にありますが、句碑郡は鳥居脇にあります。

詳細は次回調査

三社灯篭から100ほど西へ進むと藤川を渡ると県道418号線へ出ます。

県道を西へ30mほど進むと右側に高札場が復元されています。

藤村高札場跡

恵那市武並町字藤深萱

北緯

35

26

27.5

東経

137

20

31.7

高札場は宿場や村の人通りの多いところに1ケ所立てるのが普通です。
この藤村や竹折村のように二ケ所に建てた村もあります。
高札には親子・キリシタン・毒薬・火付け・徒党・駄賃銭など多くの札があるが
藤村の高札場には二枚掛けてありました。
享和元年(1801年)頃高札場の管理は藩に命じ、村人には決まりを厳しく守らせ、
この前では笠などを取らせ礼をさせるなど厳重に取り締まらせていました。

藤村の高札場跡から50mほど南に深萱立場跡があります。

深萱立場跡
(ふかがや)         

恵那市武並町字藤深萱

北緯

35

26

26.1

東経

137

20

30.6

立場は休憩所のことで、大井宿-大湫宿は距離もあり、休憩所は多くありました。
街道に深萱地区立場という大きな案内板が立っています。

立場跡をすぐ右へ曲がる狭い道が中山道です。
中山道を60m程すすみ、次の三叉路を真直ぐの狭い道を進みます。

平坦な道が続きます

途中、中山道案内板があります。

西へ平坦な道を130mほど進むと二股道へ来ます。

二股道を右へとってから70mほどで茶跡標識があります

西坂の茶屋跡

恵那市武並町字藤深萱

北緯

35

26

23.0

東経

137

20

23.1

茶屋跡には何もありません。

西坂の茶屋跡から50m程進むと坂之上に民家が見えてきます。
民家の手前の右側に小さな西坂碑があります。

西坂碑

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

24.1

東経

137

20

19.8

中山道 西坂碑

西坂碑の道の反対側に叩くとちんちんと音がする「チンチン石」の入り口があります。

小道を30mほど入ると墓地があり、その奥にチンチン石があります。
碑の前に叩いた跡がある石が目に入りますので、叩いてみてください。

チンチン石

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

22.1

東経

137

20

13.2

民家の倉庫手前を少し入ると墓地があります。
墓地の奥まったところに、少し大きめの墓石があり、その墓石の前にチンチン石があります。
石で叩いた跡があるのですぐわかります。 かなり甲高い音でチンチンとなります。

民家の前から坂にかかります。これが「西坂」の始まりです。

チンチン石から60mほどの西坂の上り口に「馬茶屋跡」標識があります。

馬茶屋跡

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

22.2

東経

137

20

12.0

馬を曳く馬方も馬に水を飲ませるために一服したのでしょう。

落ち葉の土道を190mほど登ります

落ち葉の下から石畳が見えてきます。
そしてこのあたりでは珍しいたくさんの道が交差する場所に出ます。

茶屋坂の石畳
(中山道美濃路石畳第5号)

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

22.4

東経

137

20

07.6

すぐに、この辺りでは珍しい道が交差する場所に出ます。
その手前から石畳が始まります。

石畳は新しい道に分断されていますが石段で続いています

車の方は石段の中山道の横に土道があります。

石畳にそって100mほど進むと右側にみつじ坂標識が見えてきます。

みつじ坂

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

27.0

東経

137

20

04.8

この辺りは山の中にもかかわらず道が交錯しています。
新しい道か古くからある道か分かりませんが古くからあったのなら「みつじ坂」の謂れになったのかもしれません。

「みつじ坂」の標識を過ぎ50mほど進むと「茶屋坂碑」と「ばばが茶屋跡」の標識があります。
坂の頂上付近は土道になっています。

三城峠
(みつしろ)

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

25.2

東経

137

20

15.0

三城とは、藤、権現、奥の三城が峠から眺められるので名付けられました。

三城峠にうばが茶屋跡があります。

茶屋坂碑
ばばが茶屋跡

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

24.5

東経

137

20

00.1

三城峠と茶坂碑とばばが茶屋碑が一ケ所にあります。
ばあさんが茶屋を開いていたと説明がきがありました

ばばが茶屋跡を過ぎ急な坂道を120mほど下る途中に「茶屋坂」標識があります。

茶屋坂

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

24.3

東経

137

19

27.5

道路わきの石垣の上にあるので見落としそうな標識です。

「茶屋坂」標識から急な坂を50mほど下ると村道へ合流します

合流点

恵那市武並町字藤

北緯

35

26

24.4

東経

137

19

55.0

合流した道のすぐ西に恵那市と瑞浪市の境碑が見えます。

振り返ると中山道が

 

村道(舗装道路)へ出て30m程のところが恵那市と瑞浪市の境です。

恵那市、瑞浪市境

恵那市武並町藤 

瑞浪市釜戸大久後

北緯

35

26

24.0

東経

137

19

54.4

ここが市町村境です。

行政区域

「恵那市」から「瑞浪市」へ

恵那市竹並町藤   

瑞浪市釜戸町大久後

ここまで、中津川市茄子川広久手から10.4km      
長野県境から24.2kmです。  

 

恵那市瑞浪市の境ですが山の中でほとんど車も人も通らない淋しいところです。

ここから中山道が村道(舗装道路)から分岐するまで140m程進みます。

さあ頑張って大湫宿へ向かいましょう!

街道コラム

【伊勢講・頼母子講】

 江戸時代の庶民の多くは農民で、領主から米つくりを強いられていた。したがって農民が村を離れることは用意ではなかった。
年貢として作った米の大半は取られ、とても旅が出来る生活ではなかった。しかし老・病・死や不運を避けるには、神仏に頼るしかなかった。そのため少しずつ掛け金をして旅行費用を貯め、伊勢講や頼母子講を利用して神仏参り出かけた。
「おかげ参り」
 また一生に一度は伊勢参りができる「おかげ参り」の機会を利用する人も多かった。「おかげ参り」伊勢神宮のお札がどこかに降ると、無一文で、しかも主人に無断で出かけても叱られず、むしろ喜ばれることすらあると言いました。一種の無礼講で、施行と言って、豪商や道筋の商人らがお金を施したり、旅籠屋が無料で泊めたり、駕籠屋が無賃で乗せたり、食料もところところで施しがあり、「おかげ参り」の柄杓一本持っていさえすれば、お金が無くても参拝の旅ができた。

慶安2・3年(1650・51)箱根関 毎日2,000人余通過
宝永二年(1705) 50日間に363万人余参拝
文政十三年(1830) 阿波国よりはじまり500万人余参拝 などの記録が残っています。

        

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。