大井宿を出て西行坂の石畳を通り、槙ケ根へ入り大湫宿を目指します

六十九次
のうち
四十七宿
四十八宿間

岐阜県恵那市

美濃国

JR中央本線武並駅下車

「西行塚」巻は、西行塚、槙ケ根一里塚、桜百選の園、槙ケ根石仏群、槙ケ根立場の茶屋跡、伊勢神宮遥拝所跡、
槙ケ根追分、槙ケ根馬頭観音、槙ケ根常夜灯、姫御殿跡、首なし地蔵、みだれ坂、四ケ谷休憩所、かくれ神坂、紅坂の妻神、
平六坂、平六坂茶屋跡、ぴやいと茶屋跡、夫婦岩あと、などをGPS位置情報とともにご案内します。

          

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
西行坂の石畳  
↓ 30m
信州境から18.6km(江戸から=341.6km
今須(近江国さかい)まで101.6km
西行塚(徒歩上り口
↓130m
西行塚(駐車場)
無料トイレ
↓120m
西行坂の石畳(終り)
↓230m
槙ケ根一里塚
↓ 80m
桜百選の園  
無料トイレ
七本松原跡  
↓450m
山の中の四ツ辻
↓ 30m
槙ケ根立場茶屋跡群
↓220m
槙ケ根立場入り二また→
↓100m
茶屋「松本屋」跡
↓160m
槙ケ根立場の茶屋跡
↓ 20m
伊勢神宮遥拝所跡
   槙ケ根追分   →
↓380m
馬頭観音   
↓ 60m
姫御殿跡   
↓ 30m
首なり地蔵  
↓ 70m
みだれ坂石畳(始まり)
みだれ坂碑  
↓110m
下切座場   
↓130m
みだれ坂石畳(終わり)
乱れ橋   
↓320m
  石州さま十字路   →
↓180m
四ケ谷休息所
無料トイレ
↓ 410m
竹折村高札場跡
   大名街道    →
↓240m
かくれ神坂  
↓ 60m
紅坂の妻神  
↓200m
平 六 坂   
↓ 50m
平六坂茶屋跡 

↓100m
びやいと茶屋跡
↓190m
夫婦岩跡
   
60m↓(区間計4.2km) 
→ 80m → 
        
西行塚
← 50m ←
トイレ情報(美濃路2号トイレ)冬季使用不能



一里塚情報(美濃路6番目、 江戸から88番目(八十八里)


トイレ情報(美濃路3号トイレ)冬季使用不能






南へ130m 槙ケ根石仏群→380m 中央自動車道ガード
                               
 ↓
      
槙ケ根常夜灯(ダンボール会社入り口)240m← 西へ




下街道 
下街道は竹折・釜戸から高山(現土岐市)・
                池田(現多治見市)を経て名古屋へ






石畳情報(美濃路3号=長さ250m)







北へ 200m道路左に 石州さま


トイレ情報(美濃路4号トイレ)冬季使用不能


岩村藩からお殿様が中山道へ出るための街道












信州境から22.6km(江戸から=345.6km
紅坂一里塚 今須(近江国さかい)まで 97.6km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・西行塚、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

十三峠
現在の東海自然歩道は旧中山道と同じ経路を辿っているところが多い。
いたるところに自然歩道の標識があるので、心強いです。
大井宿を出て大湫宿までの三里半(約13.5km)は起伏の多い山道で「十三峠におまけが七つ」と呼ばれていました。
半面石仏や風物にめぐまれ景色のよい度を楽しめるコースでした。

地蔵坂・権現坂・鞍骨坂・五郎坂・樫ノ木坂・八丁坂などの小さな坂が連続する尾根道で、おまけが7つもある難所といわれました。
巡礼水、三十三所観音、尻冷やし地蔵といった石仏や言い伝えが多いのは、旅人の難渋をいくらかでも和らげようという願いなのでしょう。
そんな苦労があっても、尾根道のところどころから望む四季折々の恵那山や木曽駒岳の姿は格別です。

西行坂の石畳
(中山道美濃路石畳第二号)

恵那市長島(おさじま)町中野

北緯

35

26

48.9

東経

137

23

35.3

石畳を30mほど進むと西行塚への細い道が右手に見えてきます。

恵那と西行のかかわりは深く、西行坂と名ずけられた坂に西行塚があります。

西行塚

恵那市長島町中野

北緯

35

26

47.8

東経

137

23

33.2

全国行脚中に西行が差し掛かったときに、金色の光をはかりを放つ阿弥陀如来が見えたため、
ここに竹林庵を結んで住みました。
ある日、村人を呼んで「私はこの夜半、土に還る。遺体は因縁の中野坂(現西行坂)荷に葬ってほしい」
と頼みました。
西行は言葉のとおりに、その夜西に向って合掌し、立ったままで入寂しました。
長国寺住職により、葬儀を行い、丁重に中野坂の頂上に埋葬しました。
塚に立つ五輪塔は高さ1.44mで県文化財。
長国寺と長栄寺にも西行の位牌があります。
中山道から西行塚へは東と西に二ケ所道があります。
東の道は西行坂の石畳が始まるすぐ近くにあります。
西 行
平安時代の高名な歌人西行(法名円位、俗名佐藤義清 1118〜1190)が、此処に葬られたと言われています。
此処には塚を示す五輪塔や西行の歌碑、芭蕉の句碑もあります。
定説では、諸国を行脚した西行は晩年になって河地国(大坂府)弘明寺に身を寄せ、
文治六年二月十六日(1190年)に亡くなったと言われています。

しかし、全国には様々な形で西行の説があり、その終焉の地は十ケ所をくだらないと言われています。
この恵那にも古くから西行の伝説が残されており、その一つに、西行は諸国行脚の後、この地に立ち寄り
竹林庵を結び三年暮らしたといいます。西行は自分の死期を悟り、
自分が死んだらこの庵のある中野坂に埋めるよう村人に頼みました。
そして建久九年二月十一日(1188年)に亡くなり、村人達は遺言どおりに中野坂の傍らに西行を葬り、五輪塔を建てました。

塚の東側には展望台があり西行が愛した恵那の山々が見渡せます。

中山道の西行坂(中野坂)をそのまま130mほど進むと車で来た人のために駐車場が左にあります。

中山道の中野坂の横にある駐車場

駐車場から西行塚への道もあります

駐車場上り口にも立派な碑が

駐車場からの道にも碑もたくさんあります

詳細不明

詳細不明

西行塚の横に地元出身の西行研究家「町野浦二良」歌碑があります。

西行の研究家、町野浦二良歌碑
明治24年に恵那郡に生まれ歯科医として開業の傍ら、和歌を趣味としていたが、
大正末期に北原白秋が来遊したのを契機として、白秋に師事。
その後、白秋主宰の「多摩」に入会した。

第二次世界大戦後は地元で後継の指導につとめ、地域文化の向上に尽力した人です。
特に西行に心酔し、西行の大井終焉説を提唱し、生涯を掛けた研究は高く評価されました。

西行坂駐車場にトイレがあります。

中山道・美濃路トイレ2

駐車場には水洗トイレもあります

ただし、寒冷地のため冬季は閉鎖されています。

江戸時代から西行塚への道は上下2本あったことが分かります。
左の道が現在の駐車場から西行塚への道です。
槙ケ根一里塚も描かれています。

石畳は280m程続きますが、やがて石畳はなくなり中山道らしくなります。

 

ところどころに中山道の道標や案内板があります。

西行坂の馬頭観音は場所不明のため調査中

西行坂の馬頭観音

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

 

東経

137

23

 

馬とともに生活する人々の中に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり、また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり,
そんな理由で馬頭観音は作られたと考えられます。
中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。

中山道は細久手までは尾根道です。
大井宿から大湫宿までは三里半(約14Km)と長く、西行坂を登りつめ平坦地を少し進んだ道の
両側に一対の「槇ヶ根一里塚」が残っています。西行塚駐車場から350m程です。

根一里塚

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

48.2

東経

137

23

16.6

「西行の森公園」のそばに左右一対の塚はほぼ完全な姿で残っています。
江戸から数えて八十八番目の一里塚で、北塚は高さ約3.5m、幅9.9m。
南塚は高さ3.9m、幅10.2mで南北の塚は地形の関係で10mほどずれています。

一里塚碑

南塚

岐阜県の一里塚
県内の中山道には、全部で三十二ケ所の一里塚がありましたが、現在はそのほとんどが取り壊され、
恵那市の槙ケ根一里塚、紅坂一里塚、 瑞浪市の権現山一里塚など五ケ所、岐阜市の細畑一里塚
垂井町一里塚などの計九ケ所にすぎません。
そのほかにも数箇所は復元されたものがあります。

中山道・美濃路トイレ3

北塚

北塚の西には駐車場とトイレがあります。

槙ケ根一里塚から80mほどに「桜百選の園」があります

桜百選の園

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

47.0

東経

137

23

14.9

まだ造成されたばかりで桜も苗ですが数年後には綺麗な桜の園になるでしょう。

江戸時代の絵図にも一里塚を過ぎると何もないことが分かります。

「桜百選の園碑」の向いあたりに「七本松原」跡があります。

七本松原跡

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

47.0

東経

137

23

14.9

   

七本松原跡から450mほど西へ進むと小さな交差点に出ます。

山の中の四

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

41.5

東経

137

22

56.4

   

交差点をまっすぐに30mほど進むと県道へ出ます。

県道合流点

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

41.0

東経

137

22

54.6

これから槙ケ根一里塚跡まで茶屋跡が散在します。
茶屋は軒を並べていたのかと思いましたが、離れて立っていたようです。
この辺りを槙ケ根立場跡と言っているようです。

槙ケ根立場跡

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

41.0

東経

137

22

54.6

.県道へ出た向こう(北)側に茶屋「槙本屋」跡の標識があります。

茶屋「槙本屋」跡

中山道の北側にあります

茶屋槙本屋跡から90m程の向う(南)側に水戸屋跡があります

茶屋「水戸屋」跡

県道を西へ240mほど進むと右に大きな建設会社があります。

30m程先にも水戸屋跡があります。

茶屋「水戸屋」跡

ここにも茶屋水戸屋跡があります

茶屋「水戸屋」跡から80mほど西の三叉路脇に「槙ケ根石仏群」の標識があります。

槙ケ根石仏群標識

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

36.3

東経

137

22

46.8

道路の北側に「槙ケ根墓地」の標識がありますが、これはこの地区の墓地でしょう。
中山道南側角に槙ケ根石仏郡標識があります。

槙ケ根石仏群標識のある角を南へ曲がり130mほど進むと右(西)側に石仏群があります。

石仏群のおくには氏神様もお祀りしてあります。

石仏の左から年号

元禄四年辛未(かのとひつじ)
(1691年)

文政七甲申(きのえさる)年
(1824年)

文政八乙酉年(きのととり)
(1825年)

この道を更に南へ進むと移築された「槙ケ根の常夜灯」が中央自動車道の南、
地元ダンボール工場の駐車場脇にあるので進みます。

「槙ケ根石仏群」から380mほど南へ進むと中央自動車道のガードへ出ます。

槙ケ根の常夜灯

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

24.6

東経

137

22

48.7

ガードをくぐると国道19号線へ出ます。

国道を右折(西へ)し240m程進むとダンボール会社へ入る道があるので入ります。
そこに槙ケ根立場の茶屋跡から移築した常夜灯があります。

「飛脚中」など飛脚仲間が寄付した文字なども見えます。
なぜこれがこの民間会社の駐車場にあるのか不思議です。

先ほどの道を「槙ケ根石仏群」標識まで戻ります。
標識の向こう側の県道と建築会社の間に小さな「中山道」標識があります。

槙ケ根立場
入り口
二また

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

34.1

東経

137

22

43.9

標識に従って中山道を西へ進みます。

槙ケ根立場の
茶屋跡

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

32.5

東経

137

22

32.5

県道から入って100mほどの右(北)側に茶屋「松本屋」跡の標識があります。

茶屋「松本屋」跡

茶屋松本屋跡から160mほど西へ進んだところで急に広い場所へ出ます。
そこが「槙ケ根立場(茶屋)跡」です。

此処には伊勢神宮を此処から拝んで済ますための「遥拝所」と「槙ケ根追分」と言われる伊勢参拝道の分岐がありました。

   

槙ケ根追分付近一帯に立場が並んでいて、「金を借りたいなら槙ケ根茶屋へ行け」と言われるほど繁盛したそうです。

明治の中頃まで賑わった茶屋
江戸時代の末期、ここには槙本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸ありました。
そして店先に草鞋(わらじ)を掛け、餅を並べ、多くの人がひと休みして、また旅立つったことでしょう。
(とび日との宿泊は宿場の旅籠を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていました)
これらの茶屋は、明治初めの宿駅制度が変わり、脇道ができ、特に明治35年に大井駅が開設され、
やがて中央線が全通して、中山道を利用する人も少なくなるに連れて、山麓の町や村へ移転しました。
そして今ではこの地には茶屋跡や古井戸、墓地などを残すのみとなりました。

槙ケ根の立場(茶屋)も軒を並べていたのでなく離れ離れに経営していたようです。

槙ケ根立場の茶屋跡から20mほど進むと伊勢神宮遥拝所跡があります。

伊勢神宮遥拝所跡

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

32.7

東経

137

22

31.2

伊勢神宮遥拝所
京都から江戸へ旅をした秋里離島は、その様子を文化二年(1805年)に「木曾名所図会」と言う本に書きました。
そしてその挿絵に槙ケ根追分を描き、追分灯篭の横に注連縄を張った小社を書いています。
ここにある礎石は絵にある小社遺構ではないかといわれています。
伊勢参りの人は此処で中山道と分かれて下街道を西へ行きましたが、
伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したと言います。
   

江戸時代の絵図によると追分には2本の灯篭と伊勢屋・中野屋という立場(茶屋)があったことが分かります。
この2本の灯篭は中央自動車道付近へ移築してあります。(理由は不明)

遥拝所横に槙ケ根追分があります。

根追分

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

32.6

東経

137

22

31.2

中山道から分かれて土岐、多治見を経て、名古屋、伊勢へ向う下街道の分岐点。
かって立っていた二基の灯篭は移転されてないが、高さ2.2mの大形道標が立っています。
「右 西京 大阪 ・ 左 伊勢 名古屋 道」と書かれ、明治八年(1875年)に建立されました。

「西京」は明治以降の京都のこと
中山道も中央本線が全通する明治35年まで盛んに使われて。いました
明治に入り宿駅制度は廃止されましたが旅籠屋や茶屋は繁盛しました。
道標も整備され江戸が東京になったので京は西京と区別されて呼ばれるようになりました。 

追分碑の横には当時の下街道への石垣が残っています

画面中央が下街道、右が中山道の西方面への道

ここで下街道について少し寄り道をします。
(理由:県外の方で下街道はここ槙ヶ根追分ー竹折ー高山ー池田・・・名古屋までと説明してあり
特に「高山」を飛騨高山と勘違いしルートが頭の中に描けない人がいるようですので、少し説明してみます。)

下街道

              下街道
        「槙ヶ根氏も街道追分」から「名古屋城東大手門」
 
ここ中山道「槙ヶ根氏も街道追分」から分かれて南へ下り、竹折(恵那市武並町竹折)のかって「鎌倉街道」とも呼ばれた国道19号へ出る−釜戸(瑞浪市釜戸)−高山(土岐市土岐津町高山)ー池田宿(多治見市池田)−内津(うつつ)峠(岐阜県と愛知県の境)ー内津宿(春日井市内津)ー和泉(現春日井市坂下)−勝川(現春日井市勝川)−大曽根口(現名古屋市東区大曽根でここに木戸口があった)−札の辻(現名古屋市中区伝馬町で「高札場があった)を経て名古屋城東大手門までの街道を「下街道」と呼びます。 
右が中山道、左の下り坂が下街道(今は分かりやすく「国道19号線」とあります)

かっての「下街道」も今は開発が進み昔の面影を残していません。最近の話題などでルートをたどります。

                 土岐市高山宿跡に下街道道標
 江戸時代から明治にかけて中仙道の下街道「高山宿」(土岐市土岐津町高山)として栄えた地区に「右なごやみち」と刻まれた道標が、民家の境界石として使われていたことが分かり、土岐高山城高山宿史跡保存会会員によって掘り出された。
 掘り出された道標は高さ60a、幅15aの石柱。
 「右なごやみち」の右側面に「明治二十六年三月 施主田中き」と刻まれていた。
 道標は、土岐川に架かる土岐津橋付近の民家にあり、今後は同区民会館のモニュメントとして設置される予定です。
                          (2012/04/23 岐阜新聞より)

ここで「上街道(うわかいどうorうえかいどう)と下街道の比較をして見ます。

どちらの街道も中山道と東海道(尾張藩)を結ぶ重要な街道でした

上街道
「上街道」は中仙道「伏見宿」と名古屋城下東片端(ひがしかたは)を結ぶ十里八町(約40km)の街道です。
「下街道」は中仙道槙ヶ根と名古屋城下を結ぶバイパスで下街道の距離は十五里(約60km)。

 公人は兎も角、商人やお伊勢参り、善光寺参りの旅人は中山道の山道より平坦な道で路銀など経済性も考慮して
これらの脇往還(脇街道)を多く使い槙ヶ根追分と「伏見宿」の間の宿場(大湫宿・細久手宿・御嶽宿)は尾張藩に
中仙道の宿場保護のため脇街道(下街道、上街道)の通行禁止を願い出たが取り締まれなかったようでうす。

       経済の原理 御嶽宿、伏見宿衰退
 この下街道は途中に内津峠の山道があるが、比較的平坦地を進み、付近に人家も多い。
 その上名古屋までの距離は上街道より四里半(約18km)近かった。
 そのため下街道は一般旅行者に加え商人や伊勢参拝者も多く大変賑わいました。
 しかし幕府は中山道の宿場保護のため下街道の商人荷の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することが出来ず、幾度も訴訟裁定を繰り返したが守られなかった。

             現在の「下街道」国道19号内津峠
 江戸時代は中山道と東海道を結ぶ下街道で峠の尾張側は「内津(うつつ)宿」、美濃側は「池田宿」。
 両宿は峠越えの基点として街道の重要な箇所でした。
                      内津(うつつ)の名は
 日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰りに、この峠に差し掛かたとき、副将軍を務めた建稲種命が東海道を帰る途中、駿河の海で水死したと聞き、「ああ現(うつつ)かな」と嘆き、ここに霊を弔ったという神話にも基づく。
               (2012/04/22 岐阜新聞「ぎふ峠ものがたり」より)

下街道はもと鎌倉街道
  京から関ヶ原ー養老の船附から牧田川を下り揖斐川へ、そして伊勢湾へ出て熱田の宮を経て内津峠越えで、釜戸(瑞浪市)へ、
一方、美濃の焼き物はこの逆ルートで熱田の宮から揖斐川を上り養老船附、関ヶ原から敦賀へ出て、日本海の海運で全国へ、
鎌倉の時代から、こうしたネットワークが出来ていたルートを簡単には幕府も変えることが出来なかったようです。

上街道・下街道のほかに「九里半街道」
車や公共交通機関で移動する現代の我々には、明治以前のどんな偉い人も馬か歩くかの方法しかなかった
時代のことは理解しにくいことですが、「九里半街道と関ヶ原宿騒動」を知ると経済活動に欠かせないのが
街道と水運の重要性でした。

先述の関ヶ原〜熱田の宮〜内津峠重要な
それが関ヶ原宿を中心とした京道、北陸街道、中仙道とバイパスの「九里半街道」の騒動

九里半街道

北緯

 

 

 

東経

 

 

九里半街道
九里半街道は名古屋、桑名から揖斐川を上り、牧田川右岸の船附・栗笠・烏江の美濃三湊への
水路を経て、関ヶ原宿回りで近江米原湊(朝妻港)までの牛馬による陸路が九里半街道と称された。
その里程が九里半になることから名が付いているそうです。

九里半街道と関ヶ原宿騒動

江戸時代、美濃三湊、現在の養老町栗笠、船付、烏江から牧田を中継宿場として米原までの物資輸送の道。
その道程から九里半街道と呼ばれた。

 岐阜県と滋賀県の県境に位置する関ヶ原町。
 関ヶ原の合戦で知られるこの地は、古くから交通の要所でもあった。
  東西に京―江戸をむすぶ中山道、北に近江、北陸に通じる北国脇往還、南に三重県の伊勢に通じる伊勢西街道、伊勢東街道、また舟運が盛んな三湊(船附、栗笠、烏江)と近江国朝妻湊(米原湊)を結ぶ物資輸送を目的とした九里半街道が通っていた。

 合戦以降、中山道は東海道と並ぶ主要道路として関ヶ原宿、今須宿が設けられ、大名の参勤交代も往来し、
本陣、脇本陣、旅籠に加え商人たちの問屋や木賃宿が並び、人も物資もその行き交いは相当なものであった。

                  関ヶ原宿騒動
 慶長十六年(1611)には濃州三湊からの上り(京都方面へ)荷物を平井道(牧田ー今須宿)で、関ヶ原宿を通さず直接 今須宿へ送ったことから関ヶ原宿は牧田宿に対して論争を起している。
 それだけ、上り荷物(京・北陸方面)が下りに比べ取り合いの対称となるほど多かったことを物語っている。

              九里半街道と地理的条件
 養老町は北東を大垣市、南側にかけては輪之内町、海津町などの低湿地帯に囲まれ、西側は養老山地に限られており、濃尾平野の西端に位置している。山裾に沿い国道と近鉄養老線が通じ、古い集落はこの滝線に沿い立地していったのだろうと思わせる。
 実際養老の滝は有名で観光客の訪れも多い。
 町域の代表的な町は旧高田(島田)村で、これは関ヶ原の合戦直後、美濃国の仕置を担当した代官衆の一人、間宮彦次郎より市場の制札を受けたことで本格的な賑わいを示すようになった。
 制札の条例には楽市・楽座の項も盛り込まれ、自由に商業を行える下地が築かれた。
 「嶋田町中」と呼ばれる町並を形成し、市も盛んに 開かれるようになった。

                   牧田川と揖斐川の水運の利便性
 もともとこの地区は「九里半街道」の終点でもあり、ここから濃州三湊と呼ばれた揖斐川の支流・牧田川にある三つの港町を控えていた。
 九里半街道は中山道の今須宿(現関ヶ原町)から分岐していた枝道で、特に上方の物資を伊勢や名古屋城下、さらには江戸方面へ運ぶのに珍重された。
 荷物は大量輸送の可能な水運に委ねられることが多く、琵琶湖を利用した水運の荷を米原で一旦陸揚げされたものがここ牧田に運ばれ、再び牧田川ー揖斐川による舟運に委ねられていたのであ

                    (定本中山道美濃十六宿 郷土出版社より)

さて、ここで本来の「中仙道」へ戻り次へ進みましょう。

槙ケ根追分から380m程進むと槙ケ根の馬頭観音があります。

槙ケ根の
馬頭観音

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

31.7

東経

137

22

21.2

   

槙ケ根の馬頭観音から60mほどの中山道北に姫御殿跡があります。

姫御殿跡

恵那市長島町久須見

北緯

35

26

30.5

東経

137

22

18.4

中山道は姫宮の通行が多い街道でした。
和宮行列のとき謡坂に建てた御殿場のように、ここにも姫行列のために山の上に御殿を造りました。

中山道から北へ20mほど道を登ります
姫御殿
ここを祝坂といい、周囲の展望がよいので、
中山道を通る旅人にとってはかっこうの休息地でした。
このためお姫様行列のときなどにはいい場所といわれ
仮御殿を建てて休息をすることが多くありました。
文化元年の皇女和宮の降嫁のときも檜の無節の柱や板に白綾の畳を敷いた
御殿を建てて御休みになりました。
地元の人たちは、この御殿をは漆塗りであったと言伝え、ここを姫御殿と読んでいました。

和宮降嫁の際立てられた姫御殿跡を30mほど下った左側に首なし地蔵があります。

首なし地蔵

恵那市長島町久須見

北緯

35

26

30.4

東経

137

22

16.5

乱れ坂のてっぺんに、首なし地蔵が祀られています。

伝説では、二人連れの武士が道中、地蔵前でい昼寝をしていたが、一人が眼を覚ますと、仲間の首がない。
怒った武士が「仲間が襲われたのに黙ってみているとは何事」と地蔵の首を刀で斬り落としてしまいました。
(左の地蔵様が首無し地蔵です)
それ以来何度地蔵さんの首をつけようとしても付かなかったため首なし地蔵と呼ばれるようになりました。

首なし地蔵から70mほど下り坂になるが、急なため息が乱れ、裾が乱れ、行列が乱れることから「みだれ坂」と呼ばれ石畳が残っています。

みだれ坂の石畳
(中山道美濃路石畳第三号)

恵那市長島町久須見

北緯

35

26

30.7

東経

137

22

15.2

このあたりから石畳が残っています。

みだれ坂石畳始まりから110mほどに「中山道乱れ坂」碑があります。

みだれ坂碑

恵那市長島町久須見

北緯

35

26

30.5

東経

137

22

15.2

の名前まで乱れ川
大名行列が乱れたり、旅人の息も乱れ、
女性の裾も乱れるほど坂が急なのでこの名がつきました。

坂の途中(みだれ坂碑から110mほど)に街道を通る役人を地元の役人が長ばかまのまま礼儀の土下座で迎えた
「下座切場跡」と呼ばれる場所があります。

下座切場跡

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

22.8

東経

137

22

08.0

   

みだれ坂碑から乱れ橋までの250mほのあいだが石畳の道です。

下座切場跡から130mほど坂を下った小川に乱れ橋が架かっています。

みだれ橋

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

33.8

東経

137

22

05.5

今は水量は少ないが、往時は石も流れる急流だったため、飛脚が橋を架け馬一駄につき二文の通行料を徴収したと言います。

秋は落ち葉に隠れていますが現在はコンクリート製ですので車で通っても心配ありませんが
幅が狭いので木をつけて渡って下さい。

乱れ橋を渡ると村の生活道路と合流します。

乱れ橋を渡ってから320mほどで四ツ谷地区へさしかかります。

四ツ谷地区の交差点脇に石州さま標識があります。

石州さま

恵那市長島久須見

北緯

35

26

33.0

東経

137

21

45.1

交差点北東の道路わきに標識はあります。
交差点を北へ曲がり坂を200mほど登ると道路左に石州さまがお祭りしてあります。
石州さまがどれで、どんな由来があるかもわかりません。

石州さまから180mほどのところに休憩所があります。

四ツ谷休憩所

恵那市長島町槙ケ根

北緯

35

26

33.0

東経

137

21

45.1

中山道・美濃路トイレ4

民間の施設か公共の施設か不明です。私が訪れたときはお休みでした。

トイレも冬季は閉鎖です。

四ツ谷休憩所から410mほどで「竹折村高札場跡」があります。

竹折村高札場跡

恵那市長島四ツ谷

北緯

35

26

36.4

東経

137

21

35.2

かってこの辺りを竹折村といい高札場があったのでしょう。

竹折村高札場跡から西へ民家一軒横の路地がかっての大名街道です。

大名街道

恵那市長島町四ツ谷

北緯

35

26

35.0

東経

137

21

27.8

大名街道
岩村からの大名街道はこの地点で中山道と結ばれていました。
今では街道が開発されたり人々の交通路が変わったことなどによって草深くなっています。
大名街道は岩村藩主が江戸への参勤交代之時に使っていた道です。

:中仙道  :大名街道

岐阜県岩村町一色の石室千体佛

       石室千体佛
 岐阜県恵那市岩村町一色の「石室千体佛」は七年に一度開帳され、2012/4/22から一般公開された。
 この千体佛は寛永九年(1632)に岩村城主の松平乗寿(のりなが)が領地と住民の安泰繁栄を祈願して建立。
 菩提(ぼだい)寺の龍巌寺(廃寺)に命じて「浄土三部経」壱千部を地中に埋め、その上に石室を設けて一千体の阿弥陀仏像を安置したとされる。
 石室には高さ42aの中尊像一体、同12aの首像10体、同9aの小像990体が並んでいる。
 いずれも木像に金箔が施されている。
 参拝者はわずかな間口からのぞきこんで拝観する。

 (2012年4月22日岐阜新聞「県内サンデーワイド・東濃地域版」より)

大名街道から240mほど西へ進むと中山道は舗装道路から左へ反れ「かくれ神坂」にさしかかります。

かくれ神坂

恵那市長島町久須見

北緯

35

26

32.5

東経

137

21

20.5

中山道は左へ曲がる狭い道です。
車の方は気を付けて下さい、路肩がはっきりしていないので軽のバンが落ちていました。

この坂をかくれ神坂といいます。

由来詳細不明

かくれ坂碑から60mほどに紅坂の妻神碑があります。

紅坂の妻神

恵那市久須見

北緯

35

26

33.3

東経

137

21

18.3

由来詳細不明
いろんなご利益があるかも
妻神とは路傍の神々のひとつで塞神、幸神、障神、才神などいろいろな呼び方があります。
妻神は、性病治癒、夫婦和合、子宝の神とされている道祖神の一種です。

紅坂の妻神碑から200mほどで左から道が合流します。
この合流点に「平六坂」碑があります。

平六坂

恵那市長島町久須見

北緯

35

26

36.0

東経

137

21

08.2

由来詳細不明

ゆるやかな平六坂を50mほど上ると北(右)平六茶屋跡があります。

平六茶屋跡

恵那市武並町竹折

北緯

35

26

35.8

東経

137

21

07.5

平六茶屋跡には何もありません

平六茶屋跡から100mほどで「ぴやいと茶屋跡」があります。

びやいと茶屋跡

恵那市武並町竹折

北緯

35

26

36.3

東経

137

21

10.2

「びやいと」とは
びやいととは「枇杷湯糖」と書きます。
枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもので、此処の茶屋で売っていました。
そこからこの名前が付けられたのでしょう

びやいと茶屋跡から190m程の右側に「夫婦岩跡」があります。

夫婦岩跡

恵那市武並町竹折

北緯

35

26

35.6

東経

137

21

04.5

岩らしきものも見当たりません

西へどんどん進みましょう。
60mほど進むと紅坂の一里塚があります。

街道コラム

【一里塚ー2】

 一里塚は、一里(約4km)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎(えのき)を植えて旅人たちに里程を知らせた塚です。
戦国時代の末期(十六世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれたといわれていまが、一般的には、慶長九年(1604年)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要な街道に設けさせ制度化させたものを言っています。

 しかし、百八・九十年後の天明年間(1780年)のころには、姿を消したものがかなりあったと言う記録が残っています。

        

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。