中山道六十九次のうち四十七宿目で中山道美濃十六宿の三番目の宿「大井宿」をご案内します

六十九次
のうち
四十七宿

岐阜県恵那市

美濃国

JR中央本線恵那駅下車

「大井宿」巻は、菅原神社、上宿の馬頭観音、上宿の石仏群、長国寺と長興寺の妊(はらみ)観音、大井宿高札場、
延寿院、大井宿本陣跡、古城稲荷神社、和宮泉(かずのみやせん)、大井城跡、大井宿庄屋の家「菱屋」資料館、
大井宿宿役人の家、大井宿長屋門、明治天皇御在所舊址、大井宿脇本陣跡、旅籠屋「角屋」、庄屋古屋家、市野神社、
尾張藩白木改番所跡、大井橋」、中山道広重美術館、中野村庄屋「本酒屋」、中野村庄屋浸水防止壁、長島(おさじま)橋、
中野村の高札場跡と観音堂、身代大師、豊玉稲荷大明神の石仏群、上町の観音堂、西行硯水公園、神明神社、
西行塚道標、中野の巡礼塔、西行坂の石畳、ヘボ五平もち などをGPS位置情報とともに、ご案内します。

              

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)

中央道の上横断
↓ 30m
信州境から15.9km(江戸から=338.9km
今須(近江国さかい)まで104.3km
大井宿入り口
   (菅原神社)    →

↓10m
中山道階段
↓ 10m
上宿の馬頭観音
↓ 20m
上宿の石仏群
↓ 60m
明智鉄道ガード下
↓ 5m
   三 叉 路     →
 
↓145m
大井宿高札場
↓ 40m
上 横 橋   
↓ 20m
延 寿 院  
↓ 60m
大井本陣   
↓ 20m
   三 叉 路     →
中山道大井宿碑
↓ 50m
大井宿庄屋の家「ひし屋」
↓20m
宿役人の家  
↓ 60m
明治天皇御在所
舊址
↓ 40m
脇本陣跡  
↓ 60m
旅篭屋「角屋」
↓ 50m
庄屋古屋家 
↓60m
市野神社

↓ 70m
尾張藩白木改番所跡
↓140m
大井橋    
↓140m
  中央通り交差点  →
↓460m
中野村庄屋「本酒屋」
↓ 70m
長島橋(おさじまはし)
中野の高札場跡と観音堂
↓140m
豊玉稲荷の石仏群
↓180m
上町の観音堂
↓240m
西行硯水公園
↓ 80m
神明神社
↓130m
西行塚道標
↓ 20m
中野の巡礼塔
JR中央本線踏み切り
↓120m
  田違川の橋    →

中山道消滅区間130m

西行坂の石畳(始まり)
30m↓(区間計2.7km) 
美濃路三宿目 江戸より四十七宿目
車の方 鳥居前から県道401号
            
 
         
60m下リ右折
            

            

  40m← ←右折




南へ100m 長国寺 長興寺(妊観音)







  和宮泉内城稲荷
         ↑ 30m
西へ30m 三叉路→160m 大井城址(大井小学校)



岩村道(街道)




信州境から16.4km(中津川宿から3,960m)











南へ 140m 中山道広重美術館
途中を南へ150mほどのところに「身代わり大師」があります
軒下の浸水防止壁跡があります

















迂回路180m 橋を渡り中央自動車道ガード下を通り左折
                               

中央自動車道 消滅部分 約130m         
                               

石畳情報(美濃路2号) ← ← ← ← ←  ←  ←
信州境から18.6km(江戸から=341.6km
西行塚徒歩上り口 今須(近江国さかい)まで101.6km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・大井宿、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

大井宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 五百四十六石、 人口 466人、 家数 110軒、 

旅籠 四十一軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、           

中津川宿から 二里半(上宿の一里塚、三ツ家の一里塚、関戸の一里塚)

大久手宿まで 三里半(槙ケ根の一里塚、紅坂の一里塚、権現山の一里塚)

「岐蘇路安見絵図」による当時の大井宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

大井

大井川 此橋に橋杭なく、川中に切石たヽみ上()

両岸よりゆきげたを渡し、橋二ツ懸て、川水二筋に流る。きれいなるはし也。()

西行硯水とて、清水あり。()

名古屋道、いせ参宮の人、是よりわかるもよし。()

大井より大久手迄の間、十三峠という。坂多し。()

「岐蘇路安見絵図」宝暦六年(1756年)に出版されたもので
当時、それ以前に出版されて人気だったガイドブックの誤りを正したガイドブックとして有名です。
(この「岐蘇路安見絵図」の掲載については所蔵元を明記することで、
2002.10.25に岐阜市歴史博物館から了承を得ました)

       歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 大井」(大判錦絵)
       岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                                説  明
 暮色迫る中、雪深い峠道を行く人馬が描かれている。 恐らくは中津川から大井へといたる甚平坂辺りを描いていたものとされる。 山々はもちろん、人や馬の上にも雪は積もる。 背景の山は、右手の松の木の後ろに描かれているのが恵那山、左手に見えるのが木曽の山々で、一番奥に白い顔を出しているのが御嶽山であろうという。 音のない世界の中、ひざまで雪に没して歩く人も馬も、伏し目がちで、厳しい寒さに耐えながらの旅の様子が、見事に表現されている。                                                             
 旅人と馬にわずかに施された色彩が、黒と白の画面を引き立てている。 雪の図の多い広重作品の中でも評価の高いものの一つである、                                                       

 

大井宿繁盛の理由
江戸から87里(344km)46番目の宿場(美濃十六宿の3番目)で、京都へは47里(188km)の所にあります。
中山道と名古屋・伊勢に向う下街道の分岐点である槙ケ根追分に近く、中山道野旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向う木曾の牛馬の荷などが通り、美濃十六宿中随一の繁栄を誇っていました。

枡形が6ケ所と城下町並みの堅固さ
宿は横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という五町に分かれ、東の高札場から西の大井橋まで6丁(710m)でした。
それぞれの町は、街道が直角に曲がる枡形によって区切られていました。
大井宿ではこの枡形が6ケ所もあって、中山道随一の整然とした町割を形成しましていました。
加納宿は加納城がある城下町です。このため枡形が6ケ所あります。
大井宿も幕府は城を置き城下町にする計画だったとも言われています。

宿場の構成
宿内には本陣や脇本陣のほか旅籠屋・茶屋・商売屋など天保十四年(1843年)に記録では
家数110軒(466人)が軒を並べていました。
本陣・脇本陣は大名や公家の姫君が宿泊するための門構えと玄関を備え、書院つきの
上段の間のある豪壮な建物でした。
旅籠屋は41軒あり、寺院などの参拝費用を積み立てる講の指定宿である講宿や近江商人の定宿も多くあった。
旅籠屋の中には門構えや式台、特別な客室のある大型の旅籠もあって一般の旅人ばかりでなく
武士も利用したと思われます。
草鞋や蓑、砂糖もち、果物などを売る茶屋は8軒ありました。

荷物の運送は問屋場の役務
宿場は旅人が宿泊するだけの場所でなく、街道を往復する諸荷物の集積、中継という重要な役割を担っていました
この役割を果たすのが問屋で、大井宿には本町に上下二つの問屋があり、半月交代で宿役人が詰め、
仕事の指図をしていました。

中央自動車道の上を渡り30mほどで菅原神社があります。
此処が大井宿の東口です。

大井宿菅原神社

恵那市大井町上町

北緯

35

27

16.8

東経

137

25

13.3

本殿画像準備中

詳細不明

ここは整然とした枡形に大戸や格子戸を構えた旅籠屋が軒を連ね、
塗り込め造りや虫籠窓のついた家々は旧街道の姿を残しています。
当時の大井宿にはほかの宿とくらべて旅籠屋が多く、どの時代にも
四〇軒余の旅籠屋と七、八軒の茶屋がありました。
中山道がここで岩村街道、秋葉道、下街道と交差し、善光寺、
伊勢神宮、熱田神宮、御嶽山への旅人も多かったからでした。

菅原神社鳥居の10mほどに石段があります。これが中山道です。

上宿の馬頭観音

恵那市大井町上町

北緯

35

27

16.2
東経

137

25

13.4

階段に下右に馬頭観音が祀られています。

1体の馬頭観音が街道沿いにまつられています。
文政9年(1826年)に「上宿中」が奉納したもので、8名の女性の名前が記されています。

石段下の上宿の馬頭観音から20m程進むと石仏群が立ち並んでいます。

馬頭観世音菩薩とは6観音のひとつ
インド神話のビシュヌ神が馬に化身して、悪魔に奪われた聖典を取り戻したという説話が起源です。
日本では奈良時代以降に信仰される人身馬頭の像や、一面二臂、一面四臂、三面四臂,四面八臂など,さまざまな像があるようです。
菅原神社入口に、さまざまな石塔があり、その一つが馬頭観音です。

上宿の石仏群

恵那市.大井町上町

北緯

35

27

16.0

東経

137

25

12.7

上宿は大井宿を一望できる位置にあり、宿場を外れとして、数多くの石仏を立て、宿内へ悪病や、悪人の侵入を防ぎ、
宿内の無事息災を祈願しました。
中でも痰切地蔵は風邪や喘息に効くとされ、参拝する人も多いと言われています。
また、寺坂に馬頭観音があります。文政九年(1826年)に女性数人が立てたもので自然石に舟形を掘り込んだ中に像があります。

高僧「徳本」碑
一番左に立つ碑の徳本は、紀州(和歌山県)日高で宝暦八年(1758年)に生まれ、文化・文政(1804〜1830年)の頃
この地方に来て念仏経化を行い、多くの信者を得た高僧です。

車の方は先ほどの菅原神社鳥居前から県道401号線を下って60mほどで右へ折れます。

菅原神社鳥居前から60mほどきた右へ入る道

右折して40mほどで上宿の石仏群へ出ます。

左折すると50mほど先に明智鉄道のガードがあります。

中型車ならくぐれますが気を付けて下さい。

ガードをくぐると中山道は真っ直ぐに西へ延びています。

ガードを出て5mほどの左に長国寺参道碑があります。

左折して「長国寺」参道を100mほど進むと県道401号線へ出ます。
その向こうに「長国寺」があります。

長国寺と長興寺の妊観音

恵那市大井町上町

北緯

35

27

11.0

東経

137

25

13.1

長国寺の横に長興寺の妊(はらみ)観音があります。

聖徳太子が法隆寺に安置したが、飛び立ってこの地に舞い下りた観音様とされます。
大宝元年(701年)に子のなかった文武天皇が官女に祈らせ、皇子を得たことから、観音堂を設立しました。
曹洞宗の古刹、寺伝では行基が草創で鎌倉時代に根津甚平が再興したといい、
平安時代の歌人西行の葬送の寺といいます。

その後火災で焼失しましたが、天台僧円珍が再建し、長興寺と付けたため長興寺の妊観音と呼ばれるようになりました。
また、長国寺は甚平坂の根津甚平が妊観音に祈願して待望の子を得たことから、
近くにあった行基創建の寺を再建したと伝えレらています。

妊観音像画像準備中

妊観音像画像準備中

   

妊観音の長国寺から再び中山道へ戻り西へ進みます。

先ほどの中山道へ出ます。

左折して西へ

長国寺分岐から145mほどで高札場が坂の下に見えてきます。

この坂が五砂坂です。
このあたりが宿場の入口で、高札場が復元されています。

大井宿高札場

恵那市大井町上町

北緯

35

27

13.1

東経

137

25

06.6

実際の場所は復元場所から約40m東にありました。
通常の高札場は三、四枚の掲示が多いが、大井宿の高札場は合計十数枚あったと言われています。

人馬貫目札(上左)
荷物は馬一駄40貫目(150kg)、人足は5貫目(18.75kg)とし、
宿人馬で不足するときは助郷村の人馬を集め、たとえ風雨
の時でも遅れないように送り届けよ。

親子兄弟札(中左)
親子兄弟夫婦親類の者は、常に親しくして家業に励み、
けんか口論博打などしてはならない。

キリシタン札(下左)
キリスト教を禁止する。不審な者を
見つけ出した者には褒美を与える。

火付札(右上)
火付人を見たら直に届けよ。
また、火事場で不信な行動をしないこと

徒党札(中右)
徒党を組んだり強訴したり、
言い合わせて村から逃げ出ることを禁ず。

割増賃銭札(下右)
人馬賃銭を天保十四年(1843年)から5年間、
元賃銭の4割5分増しとする。

高札(制札)
高札は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものです。
高札場は村のうち人通りの多い目に付きやすい場所に立て、
幕府の権威を誇るよう荷石垣や土盛りを築き、時には矢来で囲むこともありました。

その管理責任は藩に命じ、村人に決まりをきびしく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、余り頻繁にあったため、
八代将軍以降は書き換えず、正徳元年(1711年)五月付けの高札が幕末まで維持されました。
そして慶応四年(1868年)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止しました。

高札場から横町川に架かる上横橋を渡り40mほど進むと「延寿院」があります。

上横橋

恵那市大井町横町

北緯

35

27

11.5

東経

137

25

03.4

詳細不明

高札場から横町川に架かる上横橋を渡り20mほど進むと「延寿院」があります。

延寿院

恵那市大井町横町

北緯

35

27

11.2

東経

137

25

02.3

詳細不明

延寿院前を左に折れ60mほど進むと大井本陣跡(現在林家)があります。

大井宿本陣跡

恵那市大井町横町

北緯

35

27

08.9

東経

137

25

04.7

本陣は間口四十二間(約42m)、奥行二十二間(約40m)の敷地に建坪百五十坪の建屋に高塀をめぐらせた壮大な屋敷でした。
枯れ山水の庭園もあった建物は終戦直後に焼失しましたが、
現在も華麗な本陣表門と老松が、かつての大井宿本陣の威信を漂わせたまま 残っています。

大井宿本陣跡(岐阜県史跡)
大井宿は中山道46番目の宿場で、整然とした6箇所の枡形のある独特の町並みをしていました。
最盛期には四十五軒余の旅籠があったといわれています。
本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで門構えや玄関、式台あがり他の旅籠とは大きく違いました。
本陣は各街道の宿場に一軒あるところや二軒あるところなどもありました。
本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣にも宿泊していました。
昭和22年本陣焼失
大井宿本陣は残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺はやけ残り、
安土桃山様式を伝える門はこうしてみることが出来ます。

大井宿名物の本陣老松
表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりですが、屋根は反りを持たせた瓦葺きで
破風板や小屋組身の細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。
門の傍らに立つ松は樹齢300年を越す老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐるのを見たことでしょう

老松余話
2008年春この松は枯れて伐採されました。これまで”皇女和宮が十四代将軍徳川家茂に降嫁する際に植え
られた”とか
樹齢は三百年”とか言われていましたが、伐採の結果、樹齢が約二百四十年と判明しまし。
しかし、本宿に老松がないのは寂しいとの声があがり、当時の姿に似た松を探し移植することに決めました。

クロマツ復活
 2008年10月に二代目クロマツは群馬県から運
ばれ本陣庭に植えられました。
 これで安土桃山期の様式を伝える門と共に観光
シンボルが復活しました。
(中日新聞記事より)

本陣から20mほどの南東角の枡形には中山道大井宿碑があります。

中山道大井宿碑

恵那市大井町横町

北緯

35

27

05.4

東経

137

25

04.8

本陣南東の塀に沿って30mほど東へ進むと分かれ道があり
北へ30mほどに古城稲荷神社があります。

古城稲荷神社

恵那市大井町横町

北緯

35

27

09.7

東経

137

25

05.7

詳細不明

古城稲荷の横に和宮泉があります。

大井宿
和宮泉
(かずのみやせん)

恵那市大井町横町

北緯

35

27

08.6

東経

137

25

05.2

和宮泉(かずのみやせん)
中山道多い宿には古くから良水の湧く井戸が沢山ありました。
地中深くより良質の玉石を積み上げて掘られた。この江戸時代の古井戸もその一つで本陣林家が常用としていました。
文久元年(1861年)皇女和宮が御東下の折には、大変気に入られ、この先の中津川宿までも運んで用いられました。
中山道を下られた皇女和宮様
幕末の騒然とした時代、京都から江戸への旅は大変な道中だったと察します。
中山道は和宮の降嫁の物語が数多く語られています。

古城稲荷の別れ道を東へ160mほど進むと横町川に架かる「内城橋」の
手前を右手坂を上ると恵那市立大井小学校があります。

大井城跡

恵那市大井町御所の前一

北緯

35

27

08.2

東経

137

25

10.4

恵那市立大井小学校は「大井城跡」に建っています。
大井小学校は城跡だけあって高台で城址らしい雰囲気を残しています。

本陣横の三叉路まで戻り西へ50mほど進みます。

大井宿庄屋の家
「ひし屋」

ひし屋資料館

恵那市大井町上本町60-1

北緯

35

27

08.1

東経

137

25

04.0

本町筋には、高塀とうだつのある旧家がいくつも残っています。
大井村庄屋古山家は菱屋という屋号で酒屋を営み、享保から幕末までの約150年間、庄屋を務めました。
屋敷は間口十間半(約19m)、奥行三十五間(約63m)の屋敷に中に八室ありました。

現在の建物は明治初年に上宿から移築したものですが、書院、入り側廊下のある10畳間二間など江戸の名残を忍ばせています。
現在は中山道ひし屋資料館として一般公開しています。

大井宿の有力な商家であった「ひし屋」古山家を改修・復元したものです。
古山家は、庄屋をつとめた家柄で、その住居は豪壮な町屋建築の特色をよく示しています。
店蔵には、庄屋「ひし屋」の業務や村役人の仕事、当時の商業関係の古文書が展示され、宿の様子がありありと伝わります。
AM9:00-PM5:00/月曜休館(月曜祝日の時翌日・年末年始)

ひし屋の向かいの家も往時を偲ばせてくれます。

大井宿の家並み

恵那市大井町上本町下本町

北緯

35

27

 

東経

137

25

 

また、一時庄屋も務めた古屋家、問屋林家が営んでいた旅籠屋ささ屋 など、中山道宿場町の趣きを味わうことができます。

ひし屋の西の道は「岩村道」で岩村への街道です。

大井宿庄屋の家から20mほど西へ進むと宿役人の家があります

大井宿宿役人の家

恵那市大井町下本町

北緯

35

27

07.0

東経

137

25

00.5

宿役人の家
林家は文化二年に本陣家より分家して以来、明治に至までの
60余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄です。

当家は間口七間半、奥行二十五間あり
14室もある大型旅籠屋でした。
そのうち東側二間は土壁で境をして、土間に続いて式台付きの
八畳の部屋三室が特別客間となっていました。

なお、宿役人には問屋五人(最高責任者)・年寄四人(問屋の補助役)・張付3人・人足指(人足を指図する役)3人・
馬指(うまさし、馬の指図をする役)3人・書役(かきやく)1人(計19人 天保十四(1843)年史料)などがあり、
幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であった。

間口の広さで宿人馬の割当
多い宿の宿人馬数(常時用意しておく数)は、人足25人、午25疋で宿内での割当は家の間口が基準になり、
時代が下ると、家が宿の中央にあるか、端にあるかを考慮するようになった。

馬金
馬役は大井村全戸で家の持ち高に応じて馬金を徴収。これに尾張藩の補充金を加えて100両とし、
これに馬一疋について年間4両(合計馬25疋で100両)で請け負わせた時もあった

宿役人の家から60mほどに明治天皇が休まれた家が大切に保存されています。

明治天皇御在舊址

恵那市大井町下本町

北緯

35

27

06.5

東経

137

24

59.5

奥座敷といっても10間もある
明治13年(1880)6月28日明治天皇は2頭だて馬車で大井宿に到着しました。
そのときの行列は300人以上、1Kmにもおよぶ長さでした。
宿泊は伊藤弥兵衛宅(現・岩井家)で、伊藤家の奥座敷はそのままの姿で保存されています。

明治天皇御在舊址から40mほど進むと脇本陣跡の説明があります。

大井宿脇本陣跡
問屋場跡

恵那市大井町御所の前二

北緯

35

27

05.6

東経

137

24

59.0

脇本陣は建坪八十九坪の大きさで、上段の間、四坪の庭があったが、今は残っていません。

大井宿下問屋場跡
大井宿問屋場は本町上(上問屋)、とここ(下問屋)の二ケ所にありました。
問屋場は、人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役)などが月を半分にして、
上問屋と下問屋に交替して勤務していました。

宿役人は、大井宿画幕府の命により毎日用意している人足50名と馬50頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、
隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていました。

大井宿の助郷村
東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・蛭川村・ほかに恵那郡郡内七か村)

脇本陣跡から60mほど西へ進むとかっての旅篭「角屋」があります。

 

今も現役の大井宿
旅籠屋「角屋」

恵那市大井町堅町

北緯

35

27

04.8

東経

137

24

56.2

大井宿旅籠屋「角屋」(現在の旅館「いち川」)
旅行者に休息や宿泊の施設を整えておくことは、宿場の大切な任務でした。
そのため、本陣、脇本陣のほか一般旅行者のために、茶屋・木賃宿・旅籠屋などがありました。
大井宿は下街道(中山道から直接熱田参りが出来る街道)の追分に近いところから通行人が多く、宿泊地として栄えました。
文久元年(1861年)の旅籠屋数は、専業が十四軒、茶屋や商家の兼務が三軒と一軒あり、合わせて四十五軒ありました。
この数は中山道の宿場では9番目、美濃十六宿の中で最も多い宿でした。

明治初年の角屋です。
木曽路に多い出桁造り、取り外しの出来る格子戸、
Hの気には講札が多くかけてある。
右の門は特別な方の出入り口です。

旅籠屋角屋の向かいに「新かど屋」があります。

新かど屋

恵那市大井町南堅町

北緯

35

27

04.6

東経

137

24

56.9

旅籠屋と木賃宿
食事付きで泊まるのは旅籠屋ですが、食事なしの宿泊は木賃宿です。

◆旅籠屋ささ屋◆
大井宿は幾つかの街道が分岐し、旅籠屋が多かったといわれます。
旅籠屋ささ屋は大井宿役人問屋林家が経営にあたり、本陣林家の分家がその任にあたりました。

五平もち
 五平もちの名前の由来は二節あるという。 五平さんという人が作ったから、もう一つは祭事に用いる御幣に似ていたからと言う説。 五平もちがいつくらいから食べられていたかは不明だと言う。 観光名物のイメージがある五平もちだが、地元の人々にとっては、日常的な食事であり、おやつといった存在で今でも各家々で作られている家庭の味です。 一口に五平もちといっても実は様々な形がある。 東濃路から木曽路にかけての観光地でよく見かけるようにJR中央線に平行して恵那山の前山をの北と南で大きく形態がわらじ型とだんご型に大別されると言う。 だんご型にもだんごの大小、数の違いがあり、わらじ型の中にも、おにぎり型、きりたんぽ型があって、十数種類近い形態があるという。 味を決めるたれも、しょう油ベース、味噌ベースがあり、恵那地方ではヘボ(クロスズメバチの幼虫)の文化が息づくヘボ五平もちもあります。 恵那路に立ち寄られた折は、ぜひあれこれ食べてみてください。    
(岐阜新聞より)

旅籠屋「角屋」の東の道を北へ50mに庄屋古屋家があります。

大井宿庄屋古屋家

恵那市大井町堅町

北緯

35

27

06.5

東経

137

24

55.1

当家は江戸時代には商業を営み、天保元年から二十年ほど庄屋を勤めた家柄です。
この家は間口十五間(約27m)、奥行三十一間半(約65m)の敷地で街道に面した右側に表門があり、
その奥に玄関・式台が付き、茶室に続いて十五畳二間続きの特別室があります。
この部屋は二室とも二床の間と違い棚が付き、畳敷き廊下の外が庭園が続く広大な屋敷でした。
母屋や塀は柱・梁・垂木(たるき)も土壁で塗り、北側屋根に卯建(うだつ)をつけ、
そのうえ北側の土塀は厚さ30cmの防火壁として、全体が火災予防の建築となっています。

庄屋古屋家から更に北へ60mほどの道の突き当たりに市野神社があります。

市野神社

恵那市大井町西茶屋町

北緯

35

27

08.3

東経

137

24

54.6

福の神「市野神社」
300有余年の伝統を誇る七日市があります。この近くで良質のたばこを産出したので、毎年1月7日にたばこ市を開いたのが始まりです。
市神神社は福の神で、七日市にはお礼を迎えて今年一年の家内安全と商売繁盛を祈ります。
昔は別の場所(上宿)にありました。

旅人「いろ」の供養塔の場所は調査中です。

旅人「いろ」の
供養塔

恵那市大井町

北緯

35

27

 

東経

137

24

 

いろ(67歳)、埼玉県高岩村の人で、伊勢参拝の帰路に大井宿で亡くなった。
後日 母の供養のために息子がこの碑を立てました。

画像準備中

市野神社前の中山道を西へ進みます。

  

市野神社前から西へ70m程進むと民間マンションがあります。
そこが白木番所跡です。

大井宿 尾張藩
白木改番所跡

恵那市茶屋町

北緯

35

27

06.8

東経

137

24

51.2

木曽の材木は高級品
木曽の木材は木曽川を利用して流し、木製加工品は中山道を運びました。
その見張りとして、川には川並番所、街道には白木改番所がおかれました。
ここでは木製加工品の通過見張りや、近隣商人の白木売買、木材伐採や運材の取り締まりをしていました。

白木番所跡
この小路を番所みちといい奥に尾張藩の白木番所ありました。
この番所には尾張藩の役人が常駐して、木曾の材木流しや
木材製品の監視のほか、領内の山林の見回り・各村々の木材
の伐採申請の検分などを行っていました。
木曾の木材は木曾川を流し、錦織(現八百津町)で筏に組み
名古屋・桑名方面へ下していました。
このためこの付近の木曽川沿いに奥戸・久須見・小僧が屋敷
横樽などの番所があり、その取り締まりも
この番所が行っていました

白木改番所の古図

白木番所跡前を西へ進むと道は南へ折れ140mほど進むと大井橋袂へ出ます。

本陣の脇門だった長屋門は明治初期に古屋家に移築され、今も残っています。

大井宿長屋門

恵那市大井町西茶屋町

北緯

35

27

05.1

東経

137

24

49.9

画像準備中

画像準備中

古屋家は商家で二十数年間庄屋も務めまたことがありました。
間口十五間(約27m)、奥行三十一間(約56m)の敷地に15室二間続きの特別客室、庭園のあり広大な屋敷でした。
長屋門は本陣左右に長屋が続いていたため、その名が付きました。
鉄張りの太い柱と白壁二階建てで城の門を思わせる重厚なつくりで、本陣、脇本陣の制度廃止の後、維持、経営が困難になったために古屋家に移されたと言います。
また、岩村藩家老の娘を嫁に迎えている関係から、廃城となった岩村城から移されたと言う説もあります。

現在は鉄筋コンクリートの橋ですが江戸時代には板橋でした。

大井橋

恵那市大井町橋場

北緯

35

27

03.8

東経

137

24

50.1

大井宿の西の口
長さ二十三間(約41m)幅二間(約3.6m)の高欄付きの大きな橋でした。
大井橋の架かる阿木川はかっては運材に利用したほど水量が多かったため増水のときはしばしば橋が流されました。
こうした川止めが長いときには、痺れを切らした旅人は岩村を回って大湫宿に向うこともありました。
板橋以前は、川の真中に石を組んで中継点にし、二つの橋を架けていたと言います。
幾度かの大水で流され、天明三年(1783年)ごろ板橋になり、享和元年(1801年)に欄干の付いた板橋を架けました
大井橋を渡ると大井宿と別れを告げます。

欄干には広重の浮世絵があります。

「人に見せはや 大井なる 花無山の 春の景色を」
西行の句も欄干に

大井宿枡形が描かれた古図

枡形

大井宿には街道が直角に曲がるいわゆる枡形が6ヶ所もあり、この宿場の大きな特色です。
上横橋を渡ってすぐに第1の枡形をまがると大井宿本陣の正門が左に見えます。
本陣の前で第2の枡形をまがると大井宿の本町に出ます。
ここには幕末から明治初期の町家がいくつかあり、宿場らしい風情にあふれています。
第3の枡形をまがり、市神神社の正門で第4の枡形をまがってさらに第5の枡形を、
最後の第6の枡形をまがると阿木川に出て、大井宿は終わります。

更に西へ140mほど進みましょう。

大井橋を渡ると中野村へ入ります。今は銀座通りと言います。

中央通り、
銀座通り交差点

恵那市大井町銀座

北緯

35

27

01.9

東経

137

24

43.1

大井橋から140mほどで中央通りを横断します。
銀座通りは一方通行です。車の方は迂回を。

北を見るとJR恵那駅が見えます。

横断する手前には中山道休憩所があります。

南を見ると「中山道広重美術館」があります。
このHPの広重の浮世絵は
この美術館の許可を得たものです。

中山道(銀座通り)と中央道の交差点を南へ曲がり140mほどのところに
中山道広重美術館があります。

中仙道広重美術館

恵那市大井町176−1

北緯

35

27

01.0

東経

137

24

44.0

中山道広重美術館は、歌川広重の浮世絵版画を中心とする美術作品の展示・収集・保管を
主な目的として平成13年9月オープンされました。
収蔵品は広重がその円熟期に中山道を描いた「木曽海道六拾九次之内」など約500点。
世界でも珍しく貴重な美術品なので、光や湿気から保護するために収蔵室で一年以上寝かせるという
きわめて厳重な保管ポリシーをもった、全国的に評価の高い美術館です。
館内には浮世絵の歴史や技法を学び、簡単な浮世絵を制作して楽しむ
「浮世絵ナビルーム」や情報コーナー、図書室、ショップなども併設しあります。
いっそう豊かな中山道の旅は、まずここからスタートするのが定番です。

◆AM9:00-PM5:00(入館はPM4:30まで)休館日は毎週月曜日   ◆500円(2002年現在)

美術館の様子は画像整理中

美術館の様子は画像整理中

中央通りを横断してから、西へ約460m行くと、中野村庄屋を務めた本酒屋があります。

本酒屋
中野村庄屋の家

恵那市大井町本通り

北緯

35

26

58.6

東経

137

24

23.4

開き戸、庭園、十畳二間続きの奥座敷のある立派な旧家で、岩村藩姫君が芝居見物のときに利用し、
明治天皇行幸の際の非常立退所にも指定されました。
和宮降嫁の際の熊崎新三郎事件の舞台でもあります。

中野村(この辺りは中野村でした)庄屋の家「本酒屋」
屋号を本酒屋とも言いました。
文久元年(1861年)皇女和宮が降嫁し、中山道を通って江戸へ下ることになりました。
その準備に中山道の各宿はおおわらわでした。
そんな時に「熊崎新三郎事件」起きました。

熊崎新三郎事件
文久元年(1861年)岩村藩代官は和宮降嫁の準備のため本酒屋に常勤。
野井むらに「人足30人」を出すように命じたが、野井村は大湫宿の助郷村で、人足を出す義務はないと上、
大湫宿準備のため人手がない。 断ったが強要されました。
「これが先例になっては困る」と百姓代の熊崎新三郎は一行通過後の夕方、本酒屋に乗り込み、滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に
代官を切りつけたが宿願果たせず、新三郎は逃亡、家は閉門になり、家族は親戚預けととなりました。
その後、野井村は、代官による強制的な賄役の負担が今後も慣例になることをおそれ、岩村藩を相手に裁判に訴えました。
裁判で「今後、野井村に大井宿負担はかけない」ことと野井村は勝訴。
代官は罷免され野井村に金25両が下付され決着しました。
村では新三郎を義民としてたたえました。

「本酒屋」軒下にあります。

中野村庄屋の
浸水防止壁

恵那市大井町本通り

北緯

35

26

58.6

東経

137

24

23.4

浸水防止壁
以前「田違川」は長島橋の近くで永田川に直角に流れ込んでいました。
そのため洪水の度に他違川は永田川を堰きとめ、水は道路にあふれて本通へも流れて付近の人家に浸水しました。
そこで道の両側に石柱を立て、板をはめて浸水を防ぐことにしました。
長島町はこの水害防止のため、昭和10年、田違川を中央線沿いにつけかえました。

本酒屋を過ぎる70mほどで長島橋(おさじまはし)へ出ます。

長島橋
(おさしまはし)

恵那市大井町川原

北緯

35

26

58.3

東経

137

24

21.7

詳細不明

長島橋の手前に中野観音堂があります。北隣には中野村の高札場がありました。

中野村高札場と
観音堂

恵那市長島川原

北緯

35

26

58.1

東経

137

24

22.7

高札場は現在は無く、標柱が立っています。
中野観音堂は約4.5m×3.6m野入母屋造りで、回り縁がついています。
阿弥陀如来を本尊とし、江戸時代から灯明が消えたことがないといわれています。
当時、観音堂前に「橋場の茶屋」があり、縁先に赤ラシャ地が敷いてある茶屋として賑わったと言います。
観音堂隣りには寛政八年(1796年)の高さ3.7mの秋葉灯篭が立っています。

この建物がいつのころ立てられたか分かりません
観音堂の近くには、中村の高札場と洗橋(現長島橋)があり観音堂の前には寛政八年(1796年)の秋葉灯篭があります。

長島橋を渡っても車は一方通行です。

中山道より南150mほどの住吉通りに身代大師があります。

身代大師

恵那市大井町中住吉町

北緯

35

26

58.4

東経

137

24

35.7

通りから北へ50mほど入ります
詳細不明

中山道は長島橋を渡って100mほどでJR恵那駅からの本通りへ出ます。

本通りに合流すると左へ曲がります。中山道はこの歩道辺りだったでしょう。

中山道は坂を上がって40mほど進むと「坂の上」交差点へ出ます

坂の上交差点

恵那市長島中野坂の上

北緯

35

26

54.8

東経

137

24

14.4

五叉路の交差点をほぼ真っ直ぐに横断し西へ進みます。

中山道美濃路消滅区間第五号

 

No.6 中山道車両通行不能区間26m

 
 

恵那市長島中野坂の上

 

中津川市落合
向町
国道19号線南

 

中津川市落合
向町
国道19号線北

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

交差点を渡り信号機のすぐに豊玉稲荷大明神への階段があります。

豊玉稲荷神社の
石仏群

恵那市長島町中野

北緯

35

26

54.2

東経

137

24

12.8

鳥居脇の石仏群
鳥居に続く豊玉稲荷大明神参道

豊玉稲荷大明神の石仏群から180mほどの左に「上町の観音堂」があります。

上町の観音堂

恵那市長島町中野新田

北緯

35

26

55.9

東経

137

24

07.6

詳細不明
 

「上町の観音堂」を過ぎて中山道を更に西へ進みます

「上町の観音堂」から240mほどに西行硯水公園があります。

西行硯水公園

恵那市長島町中野新田

北緯

35

26

51.2

東経

137

23

47.6

 硯水公園には、西行が硯で墨を摺るときに水を使ったという伝説の池があります。
西行は平安時代末期の名高い歌人で、北面の武士でしたが、突然出家して、
全国を行脚しました。
 恵那の地にも三年間住んだといわれ、庵の跡や歌が伝承されています。

硯水もその一つで西行がこの泉の水を汲み、硯ですったと言われています。

西行硯水(さいぎょうすずりみず)
文治二年(1186年)西行は二度目の奥州(おうしゅう)の旅に伊勢を出発しました。
鎌倉で源頼朝にあい、平泉で一年滞在した後、木曽路を経てこの地を訪れ、三年間暮らしたと言われています。
歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんと湧き出るこの泉の水を汲んで、墨をすったと伝えられています。

「道の辺に 清水 ながるる柳かげ        
       しばしとてこそ 立ちどまりつれ」
 西行

「陽炎や ここにも ふじ見の 筇の跡」 奚花坊
(かげろうや ここにも ふじみの つえのあと)けいかぼう

奚花坊(けいかぼう、本巣郡)の句は、天保十四年(1843年)に馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立句会に来訪した時に、
此処で詠み、地元の弟子に与えたものです。
(句碑の横には綺麗な清水が今も湧き出ています)

江戸時代の絵図にも「西行硯水」と西行の句碑文と神明神社の鳥居、数軒の家と名前が残っています。

「西行硯水公園」から西へ80mほどで神明神社の鳥居があります。

神明神社

恵那市長島町中野新田

北緯

35

26

54.2

東経

137

23

54.8

本殿は130mほど奥にあります。

大きな拝殿の奥に小さな社がお祀りしてありました。

神明神社鳥居から130mほど西へ進むと「西行塚碑」があります。

中山道はここから右に反れて山の中へ入ります。

西行塚道標

恵那市長島町中野新田

北緯

35

26

55.9

東経

137

24

07.5

西行塚まで約350mほどありますが碑には西三丁(約300m)とあります。

中山道は西行塚碑を左に見ながら坂を20mほど上がり中央本線を渡ります。

踏み切りの手前の説明板の裏に中野の巡礼塔があります。

中野の巡礼塔

恵那市長島町中野

北緯

35

26

55.8

東経

137

24

07.4

?見大菩薩

文化十癸酉(みずのととり)年(1813年

中央本線の踏切を渡るとすぐに左の道へ曲がります。

中央本線踏切

恵那市長島町中野新田

北緯

35

26

51.7

東経

137

23

45.3

道は田んぼの中を120mほど進み田違川に架かる橋を渡ります。

田違川の橋

恵那市長島町中野

北緯

35

26

50.3

東経

137

23

39.6

中央道が出来る前は中山道はまっすぐに山へ。

今は橋を渡り中央道をくぐり左へ曲がります。

新中山道は橋を渡り中央自動車道をくぐり左へカーブします。

中山道美濃路消滅区間第6号

 

No.7 中山道車両通行不能区間

 
 

 

 

恵那市長島町中島

田違川橋南

画像準備中

恵那市長島町中島

西行坂石畳南

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

画像準備中

左へ曲がると中山道は上り坂になり110mほどで山の中へ入ります。
山の中へ入る手前に道標があります。

先ほどの田違川に架かる橋から此処までは中央自動車道が出来る時に
付け替えられたみちで、本来は橋からここまでは真っ直ぐな道でした。

西行坂の石畳
(中山道美濃路石畳第二号)

恵那市長島(おさじま)町中野

北緯

35

26

48.9

東経

137

23

35.3

石畳のある坂は「西行坂」と言い160mほど続きます。

これからの中山道は山の尾根を通る淋しい道程になります。
30mほど進むと西行塚への入口に差し掛かります。

街道コラム

【旅籠−1】

 「はたご」という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠(かご)のことでありました。

 それが、旅人の食糧等を入れる器の意味になり、さらに食事を提供する宿屋を言うようになりました。

 江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって武士や一般庶民の泊まり客で賑わいました。

 次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていきました。

 しかし、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになりました。

 現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかありません。
中山道では垂井宿の「亀丸屋」、細久手宿の「大黒屋」、大井宿の「角屋」(現在「いち川」)などが、昔の面影を残している現役の老舗旅館です。
 
亀丸屋旅館:岐阜県不破郡垂井町1199 TEL(0584)-22-0209
 大黒屋  :〒509-62 岐阜県瑞浪市日吉町細久手 0572)69-2518
 角屋(現在「いち川」):〒509-7201 岐阜県恵那市大井町95-1  TEL<0573>25-2191  FAX<0573>25-8417

        

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。