×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

千旦林から三津屋の一里塚を通り坂本の立場跡へ入ります

六十九次
のうち
四十六宿
四十七宿間

岐阜県中津川市

美濃国

JR中央本線美濃坂本駅下車

「化け鳥八重羽のきじ退治」巻は、「坂本の立場跡」、「坂本の石仏群」、「茄子川村高札場跡」、「尾張白木改番所跡」、
栗きんとんの美濃屋」、「茄子川の秋葉参道常夜灯」、「茄子川御小休所(茶本陣篠原家)」、「石拾いの茶屋と茄子川焼き」、
「茄子川の地蔵」、「広久手地蔵」、「広久手馬頭観音」、「中仙道碑」、「岡瀬沢の常夜灯」、「岡瀬沢の庚申碑」、
「甚平坂のポケットパーク」、「根津坂の石仏群」、「根津神社の宝篋印塔」、「関戸の一里塚跡」、「覆いの鬼子母神」
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

            

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)

三津屋の馬頭観音
↓160m
信州境から12.2km(江戸から=335.2km
今須(近江国さかい)まで108.0km
   坂本の立場    →
↓100m
坂本の石仏群
↓100m
茄子川村高札場跡
↓130m
尾張白木改番所跡
↓430m
栗きんとんの美濃屋
↓ 30m
茄子川御小休所
(茶本陣篠原家)
 
↓ 20m
茄子川の秋葉参道常夜
↓400m
石拾いの茶屋
(茄子川焼き説明板)
↓280m
広久手地蔵
↓110m
広久手馬頭観音
↓ 100m
広久手坂碑  
↓110m
中 山 道 碑
 
↓500m
岡瀬沢の常夜灯

↓ 60m
筋 違 橋   
↓ 60m
岡瀬沢の観音堂
↓290m
岡瀬沢の庚申碑 
↓180m
甚平坂のポケットパーク

↓160m
根津坂の石仏群
↓ 20m
根津神社の宝篋印塔
↓220m
関戸の一里塚跡
↓180m
大井の鬼子母神
↓170m
蓮華寺の銘号碑
↓ 70m
中央道の上横断
30m↓(区間計3.7km) 
北へ300m ハナノキ自生地























中津川市と恵那市の境
信州境から13.9km
                                   (江戸から=336.9km














一里塚情報(美濃路5番目、 江戸から87番目(八十七里)






信州境から15.9km(江戸から=338.9km
大井宿入り口(菅原神社) 今須(近江国さかい)まで104.3km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・八重羽のキジ退治、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

三津屋の馬頭観音から160m程西へ進むと旧千旦林村と旧茄子川村の境に碑があります。

坂本立場跡

中津川市坂本

北緯

35

28

13.0

東経

137

27

17.9

立場は跡形をととどめず、業務を営んでいた繁沢家之屋敷跡も埋め立てられ、原野になっています。
僅かに馬の飲み水用に掘られた小さな池が残っていたそうですが今では確認できません。
繁沢家は明治以降も運送業を営み組合役場が出来る明治25年(1892年)まで役場も置かれていました。

道路を横断して中山道は両側に木が茂った暗い坂を下ります。

坂本の立場あとから100mほど進むとガードをくぐります。
ガードをくぐる手前に石仏群があります。
以前の記録にはないので道路改修で集められたのでしょうか

坂本の石仏群

中津川市千旦林与ケ根

北緯

35

28

09.3

東経

137

27

17.2

詳細不明

主要地方道を横断します。

主要地方同を横断すると坂本川に架かる「坂本橋」を渡ります。

坂本橋

恵那市大井町坂本

坂本橋を渡り100mほどで左側に「茄子川村の高札場跡」にでます。

茄子川村の高札場跡

中津川市茄子川坂本

北緯

35

28

04.1

東経

137

27

08.7

詳細不明

此処より少し離れたところのご案内

ハナノキ自生地

4月の開花・9月の紅葉が美しい
美乃坂本駅より約300m程東の中学校近くの湿地に、ハナノキの群生地があります。
大正元年に自生地と確認されたもので、全部で約30株ほどあります。
ハナノキは春の芽だしは、若葉も赤く、小さい花がたくさんつくのでとても美しい。
そのためハナノキの名がつきました。
ハナノキは東濃地方木曽川流域に分布しています。
国指定の天然記念物です。
◆中津川市千旦林1386-2(中洗井)

坂本橋から約130m、往時の面影をとどめた民家が連なる道を行くと石柱が立っています。
実際は少し手前の民家の裏手で、現在は畑。

白木改番所跡

中津川市千旦林坂本

北緯

35

28

04.5

東経

137

27

04.5

木曾からの材木は、原木は木曽川を流していましたが、軽量材の白木製品などは牛馬による陸送でした。
白木番所は中山道に数箇所設けられて、抜け荷の監視などを行いましたが、明治四年(1872年)、廃藩置県の祭に廃止されました。

木曽五木の見張り番
中津川宿は東濃の商業中心地でしたが、木曽谷ばどからの白木、白木製品の取扱高も大きなものでした。
なかでも木曽の白木製品は京や大坂方面へ売り出され、大きな利益をあげました。
それだけに、尾州藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、そのための番所が「白木番所」で、
中津川宿には宿の東端と西端に2ヶ所ありました。

番所の設置時期
この番所がいつ設けられたか詳しい記録はありませんが、尾張藩が享保十六年(1731年)
茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるので、
これに対応して設けられたのではないかと言われています。
寛政元年(1789年)の「中山道筋道之記」には「番所錦織役所支配」とあります。
尾張藩の直轄地であった木曾山から伐採した材木の輸送は重量材(丸太類)は木曾川を利用して流送し、
軽量材の槫木(くれ)、土居(どい)等白木類は牛、馬による駄送の方法が採られていました。

幕府の厳しい統制
木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、
抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていました。
これらの施設は明治4年(1871年)廃藩置県の措置によって廃止されました。

尾張白木改番所跡から430mほどくると「栗きんとん」の美味しいお店があります。

栗きんとんの美濃屋

中津川市茄子川中1208

TEL 0573-68-2038

北緯

35

27

57.5

東経

137

26

51.6

このお店のお菓子には食品添加物などは使用されていません。
中山道美濃路散策の折には是非寄ってみてください。(お勧めです!)

中津川市内の「すや」より少々お値打ちです。
地方発送もしてくれます。お勧めします。

栗きんとんの美濃屋の一軒置いた隣り(30m)が茶屋本陣の篠原家です。
茄子川の御小休所とも言われています。

茶屋本陣篠原家

茄子川御小休所

中津川市茄子川中町

北緯

35

27

57.5

東経

137

26

51.7

篠原家は、酒造業を営み、茄子川小休本陣として参勤交代の大名の休息所も勤めてきました。
記録に残された中では、皇族、公家の姫の降嫁による中山道の通行は八度ありますが、
このうち三度がこの小休所で休息しています。
明治天皇巡幸は、明治十三年(1880年)で、池の鯉を目にとめ、蚕のさなぎを与えられたと言います。

茄子川・和宮休憩所
茄子川村は,尾張家家臣山村家、千村家、それに旗本八家の入会支配地でした。
また,大井宿から1里(約4km)、中津川宿から1里23町(約6km)の地点にあったので、御小休所が設けられていました。
「御」の名の通り、庶民の旅人が利用できる施設ではなく、上級武士やお公家さんが休む場所でした。

中山道から分かれる秋葉道の手前の篠原家門前に「明治天皇茄子川御小休書附御膳水」と書かれた石柱があります。

篠原家は、加賀前田家の重臣篠原一孝の子、弥右衛門が、17世紀の初め頃当地に移り住んだことに由来します。
篠原家之当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川村の村方役人、尾張領の庄屋、戸長などを歴代にわたり務めていました。
篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をにない、様々な文人、墨客の利用も見られました。

篠原家の西(20m)に秋葉神社参道の分岐道があり道の両側に常夜灯があります。

秋葉山常夜灯

中津川市茄子川中町

北緯

35

27

57.8

東経

137

26

50.5

秋葉神社常夜灯には安永五年(1776年)の文字が見えます。
ここが遠州秋葉道の分岐点となっていました。

広久手坂の上とふもとに「石拾いの茶屋」があり、上の茶屋は茄子川焼の茶碗や皿も作っていました。
石拾いの茶屋まで400mです。

石拾い茶屋
茄子川焼き

中津川市千旦林鯉ケ平

北緯

35

27

56.8

東経

137

26

45.9

茄子川焼きの発祥は1600年前後と言われますが、発展したのは弘化二年(1845年)ころ、
篠原利平冶が五室の連房式登り窯を築いてからと言われています。
中山道を通る御岳参りの人々が帰りの土産に買い求め、愛されていましたが、明治24年(1892年)の濃尾地震で
ほとんどの窯が崩壊し、大正十二年(1923年)に閉窯しました。

茄子川村
江戸初期の茄子川村は、幕府御三家筆頭の尾張徳川家・給人の山村氏(木曾方)・千村家(久々利方)・旗本馬場氏ら八名の
入相支配地で、村高千三百六十八石余は、この付近でも大きな村の一つでした。

石拾い茶屋から280mほどで右手の石垣の上に地蔵様があります。

広久手の地蔵

中津川市広久手

北緯

35

27

49.1

東経

137

26

12.0

詳細不明

広久手の地蔵さまから110mほどの右手に馬頭観音があります。

広久手の馬頭観音

中津川市広久手

北緯

35

27

52.2

東経

137

26

20.8

馬頭観音から110mほどきた坂の途中に「広久手坂」碑があります。

広久手坂碑

中津川市広久手

北緯

35

27

49.7

東経

137

26

16.3

詳細不明

広久手坂碑から100mほどで恵那市との境へ来ます。

中仙道碑恵那市境碑

恵那市大井町岡瀬沢東

北緯

35

27

49.7

東経

137

26

15.1

ここが市町村境です。

行政区域

「中津川市」から「恵那市」へ

中津川市茄子川広久手 

恵那市大井町岡瀬澤東 

ここまで、中津川市落合新茶屋から13.9km      
長野県境から13.9kmです。  

 

 

ここから中津川市から恵那市となります。

境界石から500mほどくると広い交差点へでます。

岡瀬沢常夜灯

恵那市大井町岡瀬沢東

北緯

35

27

39.8

東経

137

25

55.9

画像準備中

中山道岡瀬澤の発展
慶長七年(1602年)に中山道伝馬制度が定められて以来、岡瀬澤はこの中山道によって村つくりが進み、
元禄郷帳に「岡瀬澤新田村」とあるように、その頃までに「大井村支村岡瀬澤」として成立し、
中仙道に沿った約三十戸がその中心集落となった。
幕末から明治中期にかけては木曾からの運送業者の宿屋や茶屋などもあった。
中央線開通後は養蚕業と桑苗つくりの村として恵那郡内で著名となり、大正から昭和と村は拡大した。
戦後の移り変わりの内、特に昭和50年代に入って中山道と交わる大規模農道つくりと
圃場整備が実施されました。

交差点から60mほどで濁川に架かる筋違橋があります。

筋違橋と濁川
(すじかいばし)        

恵那市大井町岡瀬沢中

北緯

35

27

39.4

東経

137

25

53.3

筋違橋(すじかいばし)
この橋は長さ六間・幅二間で、欄干付きの仮橋であった。
川に斜めに架けてあったので筋違橋の名が付きました。

岡瀬澤と濁川
この岡瀬澤は江戸時代の初めころには、岡瀬澤新田と大井村枝郷と言っていましたが、
次第に中山道沿いに家が集まり、茶屋や馬宿もできたといわれています。
それ以来東西につらぬく中山道と、保古山山系から流下する濁川によって、生活と生産を発展させてきました。

筋違橋から60mほど西に岡瀬澤観音堂への参道があります。

岡瀬沢観音堂

恵那市大井町岡瀬沢中

北緯

35

27

39.6

東経

137

25

50.9

詳細不明
観音堂前に並ぶ石仏郡

岡瀬澤の観音堂から290mほどの左に庚申塚があります。

岡瀬沢の庚申塚

恵那市大井町岡瀬沢中

北緯

35

27

39.9

東経

137

25

41.0

庚申塔(こうしんとう)
この地では、今も庚申講があり、庚申の日ごとに講元に集まって
無病息災を祈っています。

中山道は岡瀬沢から恵那市内に入る途中にある坂が甚平坂で坂の頂上左に根津神社があります。
岡瀬澤庚申塚から180mほどです。

甚平坂

恵那市大井町岡瀬沢西

北緯

35

27

34.4

東経

137

25

32.4

坂の由来になった鎌倉時代の武将、根津甚平を祀った神社で、
墓標の高さ2.24mの関戸宝篋印塔はぎ府県の文化財に指定されています。
根津甚平は家臣や犬と信州桔梗が原に棲む「八重羽のきじ」という旅人を苦しめる怪鳥の退治に向かい西へ追いかけたが
この坂に到達したところで馬、犬とともに力尽きて倒れました。
「八重羽のきじ」も土岐の日吉まで行って倒れ死んだと言います。
村人が甚平を埋葬し、中腹には馬塚、犬塚も残っています。

甚平坂は、歌川広重の中山道六十九次の大井宿もモデルになった場所といわれています。

坂の途中に馬塚碑と犬塚碑が見えます。

子供が授かる大井の長興寺の妊観音
甚平坂は根津甚平是行に由来する名称です。
根津甚平は鎌倉時代頼朝の家臣で信濃の国 根津の郷の城主でありました。
その頃大井に長興寺という寺があり、一体の観音佛をまつっていました。
この観音様は昔聖徳太子が百済の香木に彫ったといい、太子は法隆寺にまつっていましたが、
ある日突然に空に舞い上がり当方に飛び、大井の里へ来ました。
里人はこれを寺に移しましたが、「総ての願いに御利益があるが特に子供に恵まれない人が祈ると、すぐに子宝が授かる」
と評判になり、人々はこの観音を「妊観音」と呼びました。

信濃根津城主と大井のつながり
根津甚平は数々の勲功がありましたが40歳になっても子供がなかったので、この話を聞いて、さっそく妻と共に
大井の長興寺へやってきて妊観音に七夜の祈りを続けました。
そして観音の霊光を得て長子根津子治郎を授かることが出来ました。
喜んだ甚平は長興寺の和尚と相談して、「昔、行基が創建したと言う長谷教寺を再興する」ことにし、
寺の名を稲葉山長国寺としました。
そして甚平の守り本尊の運慶作の地蔵菩薩と夫人の聖観音などを寄進したと言います。
今も長国寺には根津甚平の位牌と乗馬の鞍と鐙画残っています。

化け鳥退治
むかし信濃の国の桔梗が原に「八重羽のきじ」と言う化け鳥がいました。
口ばしは槍のようにとがり、羽根は刃のように鋭く、羽風に当たると災いが起きるといい、里人や旅人が命を奪われる。こともありました
困った鎌倉幕府は鷹を上手に使う根津甚平に化け鳥退治を命じました。
甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、多くの家臣と背子を引き連れて「きじ」を追いました。

馬塚と犬塚
きじは羽音高く飛び立って西の空に姿を消しましたが、数日の後この地に追い詰めました。
しかし、馬は此処で倒れ、犬と鷹はなおも追い続けましたが、犬は日吉(現瑞浪市日吉)で力尽きてしまった。
そこで里人はこの坂に馬と犬のなきがらを葬ったと言われています。

甚平坂上り口近く左にある「馬塚」

甚平坂の途中(右)にある犬塚
源頼朝の家来で鷹を使うのが上手な根津甚平の伝説が残る坂です。
源頼朝の家臣だった甚平は、ききょうが原(塩尻市)に出没し村人を苦しめる八重羽のきじという怪鳥を追ってきて、
ここで倒れ、乗ってきた馬や犬も亡くなったといいます。きじは日吉(瑞浪市)まで逃れた後やはり死んだとか。
また、この坂から見る景色は安藤広重の『木曽海道六拾九次』のモデルにもなりました。
明治天皇行幸の際、険しかった坂の上部の土をけずってなだらかにしたなど様々な逸話が残っています。

甚平坂上り口からから160mほどに甚平坂石仏群が中山道右側にあります。

甚平坂石仏群

恵那市大井町岡瀬沢西

北緯

35

27

34.2

東経

137

25

30.4

詳細不明

虵塚(じゃつか)

詳細不明

詳細不明

甚平坂石仏群の20mほどの向かいに根津神社があります。

根津神社

恵那市大井町岡瀬沢西

北緯

35

27

33.3

東経

137

25

30.7

根津甚平が眠る根津神社
長国寺で子宝を願い、授かった甚平が、後に没し、民人によって祖霊に崇められ葬られた場所。
本尊の宝きょう印塔は約1.8メートルの花こう岩で造られ、根津甚平の墓といわれています。
根津神社の近くにある長国寺は、僧・行基の創建による寺。
大井ゆかりの根津甚平が後に再興し、甚平の位牌、鞍が残されている。

根津の宝篋印塔

甚平坂から220m程来ると関戸で、ここに一里塚跡の碑があります。

関戸一里塚碑

恵那市大井町南関戸

北緯

35

27

26.6

東経

137

25

21.8

江戸から八十七番目の一里塚で、北側の塚にはエノキ、南塚には松が植えられていました。
南北の塚とも明治時代に開墾のため、取り壊され、今では跡形もありません。

関戸の一里塚から180mほどくるといよいよ大井宿の入口です。
恵那の町が見下ろせる場所え来ます。中山道は左のガードレールの向こうです。

此処に大井の鬼子母神があります。

大井の鬼子母神

恵那市大井町日光坊

北緯

35

27

22.1

東経

137

25

16.1

正善寺と思われる廃屋がありますが、無人です

「大井鬼子母神尊神」碑
「明治天皇行在所御舊址」碑

石仏群

「明治天皇行在所御舊址  是より三丁」と西を指しています。
上本町の伊藤家(次頁で紹介)のことを指しています。

廃屋のような正善寺ですがバス停は正善寺前です

長石塔は蓮花寺の名号碑の中の長い塔のこと。

長石塔のある「蓮花寺の名号碑」へは鬼子母神から恵那峡公園線(県道401号線)へ出て、左へカーブして
170mほど坂を下ると左側にあります。

蓮華寺の名号碑
(長石塔)

恵那市大井町日光坊

北緯

35

27

19.8

東経

137

25

16.7

高さ3.6mの塔
長国寺、四世丹山和尚が大乗妙典を読み終わり、村内安全を祈念して延宝八年(1680年)春の彼岸に立てました。
蓮華寺の名号碑から中山道は下り坂です。70mほど進むと中央自動車道の上を渡ります。

次はいよいよ大井宿です。

街道コラム

【庚申様】

 60日に一度めぐってくる庚申(かのえ、さる)の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う中国の道教(黄帝・老子を教祖と仰ぐ宗教)からきた信仰です。
 庚申信仰の人々が建てたのが庚申碑(塔)ですが、塔型には、石祠、自然石、石幢、燈籠などいろいろな型があります。

               

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。