中津川宿を出て石屋坂の名号碑を通り、旧国道19号を渡り大井宿へ向かいます

六十九次
のうち
四十六宿と
四十七宿間

岐阜県中津川市

美濃国

JR中央本線中津川駅下車

「双頭一身道祖神」巻は、、「駒場村の高札場跡」、「東山道坂本駅跡」、「中山道駒場村碑」、「小手ノ木坂碑」、
「設楽牧童句碑」、「双頭一身道祖神」、「上宿の一里塚」、「会所沢の石碑」、「小石塚の立場跡」、「小石塚の馬頭観音」、
「六地蔵」、「仲平(坂本神社)の常夜灯」、「千旦林の高札場跡」、「かじや平の石仏群(東巣橋の馬頭観音)」、
「中平の常夜灯」、「将監塚」、「三津屋の一里塚」、「三津屋の馬頭観音」、などを、ご案内します。

            

旧国道19号線横断
↓160m
信州境から6.5km(江戸から=329.5km
今須(近江国さかい)まで113.7km
駒場の間違いやすい辻へ
↓ 70m
駒場の高札場跡
↓160m
東山道 坂本駅
↓ 50m
中山道駒場村碑
↓ 10m
上 宿 橋    
↓ 90m
小手ノ木坂碑  
↓100m
設楽牧童句碑
↓ 60m
双対道祖神
↓ 60m
上宿一里塚跡
↓560m
会所沢の石仏群
↓420m
会所沢の交差点
↓ 50m
小石塚立場跡
↓ 20m
小石塚の馬頭観音
↓ 10m
中山道消滅区間 450m
↓420
六 地 蔵   
↓480m
  坂本神社の常夜灯 →

↓ 90m
千旦林高札場跡
↓190m
東巣橋馬頭観音
↓210m
旧道分岐点
↓380m
中平の常夜灯
↓290m
中平の神明神社
110m
三津屋の石仏
↓200m
三津屋の将監塚
↓110m
三ツ家一里塚跡
↓190m
三津屋の馬頭観音
160m↓(区間計4.9km)
















一里塚情報(美濃路3番目、 江戸から85番目(八十五里)
 (子野一里塚から3,810m



 


徒歩者迂回路480m
車の方→U字ループで19号線を越え、19号線に合流する
中央自動車道 消滅部分 約450m           
30mほどで中山道←19号線を西へ進む最初の信号を右折


参道を北へ
60m 松風義校跡→北へ190m 坂本神社本殿















一里塚情報(美濃路4番目、 江戸から86番目八十六里)
 (上宿一里塚から3,990m

信州境から12.9km(江戸から=335.2km
坂本の立場跡へ 今須(近江国さかい)まで108.0km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・双頭一身道祖神、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

旧国道19号線を横断して西へ160mほど進むと三叉路へ出ます。
道幅の太いほうは南へ進みますが、中山道は細い道を西へ進みます。

間違いやすい辻

中津川市駒場

北緯

35

29

10.0

東経

137

29

49.8

角の駐車場に小さな道標がありますから見落とさないように右へ曲がりましょう

間違いやすい辻から中仙道に沿って、更に西(正確には西南)に進みましょう。
70m程進むと「駒場村の高札場跡」へ出ます。

駒場村の高札場跡

中津川市駒場

北緯

35

29

09.0

東経

137

29

48.7

高札場跡は中山道沿いの民家の軒下にあります。
車の方は見落とさないように気を付けて下さい。

高札場を出て160mほど進むと坂本駅跡の碑があります。

東山道坂本駅跡

中津川市駒場青木

北緯

35

29

04.9

東経

137

29

43.5

駅は四里(16km)ごとに置かれる官用の人馬の継ぎ立て施設で、東山道は土岐駅から大井駅を経て、
坂本駅に入り、神坂峠を越えて、信州阿智駅へ向いました。

坂本駅の場所は諸説ありますが、駅には必ず枡形が残り、豊富な湧き水の井戸や駒場、
大道上、町裏などの地名、駅の費用を支えるための駅田として広大な耕田等があることから有力とされています。

坂本駅碑から50mほどに駒場村碑があります。

中山道駒場村碑

中津川市駒場青木

北緯

35

29

03.5

東経

137

29

42.0

詳細不明

駒場村碑から10m程に上宿橋があります。

上宿橋

中津川市駒場青木

詳細不明

上宿橋から90mほどで小手ノ木坂ふもとへ出ます。

小手ノ木坂碑
(こでのきさか)

中津川駒場青木

北緯

35

29

02.2

東経

137

29

39.5

坂本駅(中津川市駒場 こまんば)
古代、近江と陸奥を結ぶ官道として拓かれた東山道は、
都から美濃の国・坂本駅を経て信濃の国・阿智駅へと通じていました。
この二駅間は、距離が長い上に急峻な神坂峠越え(標高1595m)を控え、道中でも名の知れた難所でした。
このため両駅には特例として通常の二〜三倍、三十疋の駅馬が用意され、
また、輸送にあたる駅子にも免税の恩典が与えられていました。
その坂本駅が置かれていた場所は現在特定されていませんが、この辺りであったと思われるそうです。

つづら折れの坂を100mほど上ると牧童句碑があります。

設楽牧童句碑

中津川駒場青木

北緯

35

28

58.9

東経

137

29

39.0

坂の途中に碑はあります。

水車まで 箕をかむり行く 春の雨 牧童

更に坂を60mほど上り詰めると石仏群があります。

双体道祖神

中津川市駒場397

北緯

35

29

00.4

東経

137

29

37.8

駒場下町を過ぎると「こでの木坂」があり、上りきると苗木城へ通じる脇道があり、
ここに馬頭観音、地蔵などの石仏が数多くあますが、その中に双頭一身道祖神があります。

道祖神は村境などに立てられ、道の邪気を払い、通行人の安全を守る神ですが、縁結びの神でもあります。
(道祖神は道路の悪霊を防いで行人を守護する神で、この像は中山道から苗木道(飛騨街道)への
分岐点に建てられています。

双頭一身道祖神
美濃地方には道祖神は数少ないといわれますが、特に身体が一つで男女別々の頭を持つ
双頭一身は岐阜県内にはここしかありません。 中津川市文化財になっています。
右肩に「是より苗木道」とあるので、実際は現在地より東、苗木道側にあったはずです。

この碑は文化13年(1816年)3月、
藤四郎ほかによる建立です。
道祖神は男女相愛の柔和な表情や
抱擁などの像形から、
現在は愛の神としての信仰が深いようです。

中山道から苗木道(飛騨街道)への分岐には津島神社常夜灯があります。

双頭一身道祖神から60mほど中山道を西へ進むと上宿一里塚跡があります。

上宿(かみしゅく)一里塚跡

中津川市駒場上宿道上

北緯

35

28

50.1

東経

137

29

28.8

里ごとに置かれている一里塚は、街道の両側に建っていることが多く、ここにもそれぞれ一里塚を示す碑が1つずつ立っています。
江戸から数えて八十五番目の一里塚です。

昭和9年(1934年)に地元に人たちによって北塚だけ復元され、大きさは元のものより小さくなりました。
そこに書かれた一里塚の名が違っている。
塚の前のものは「上宿の一里塚」,昭和10年の碑は「中津一里塚跡」となっています。

ここらあたりの中山道は街道らしい舗装がされていますので間違えないでしょう。

上宿の一里塚跡から560mほどで会所沢の石仏群へ出ます。

会所沢の石仏群

中津川市駒場会所沢

北緯

35

28

44.2

東経

137

29

26.4

この石仏群は中山道を東から来ると気付き難い場所にあります。
たぶん道路改修で道路が低くなったためでしょう。

会所沢の石仏群から420mほどで会所沢交差点東交差点へ出ます。

会所沢交差点
東の交差点

中津川市駒場会所沢

北緯

35

28

34.0

東経

137

29

18.0

横断して50mほどで小石塚の立場跡へ出ます。

小石塚立場跡

中津川市駒場会所沢

北緯

35

28

32.3

東経

137

29

17.2

小石塚の立場跡から20mほどで道路に挟まれて窮屈そうな石仏群があります。

小石塚の馬頭観音

中津川市駒場会所沢

北緯

35

28

31.7

東経

137

29

15.5

中山道は画面手前から白い軽トラの先10mで消えています。

この馬頭観音は昔からこの場所にあったと思われます。
横にある木が証明しています。

ここから中山道は450mほど消えています。
国道19号線と中央自動車道建設のために無くなったのでしょう。

中山道美濃路通行不能区間第4号

 

No. 中山道車両通行不能区間420m

 
 

中津川市会所沢

 

中津川市駒場会所沢

国道19号線東

画像準備中

中津川市千旦林

国道19号線西

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

画像準備中

 

車での迂回路

中津川市駒場会所沢

北緯

35

28

33.9

東経

137

29

19.0

まず、19号線を越えるU字ループを上ります

19号線を越えて19号線に合流するよう西へ向います

19号線と合流して西へ進み最初の信号を右折します。

右折して30mほどで中山道と合流します。

中山道合流点から19号線へ戻る

国道19号線迂回先

中津川市千旦林

北緯

35

28

23.9

東経

137

28

59.5

国道19号線を越えた先へ到着

再度、ここから中山道を辿ります。

国道19号線を越えた地点から420mほどで六地蔵橋を渡ると右側に六地蔵があります。

六地蔵

中津川市千旦林旭

北緯

35

28

18.3

東経

137

28

45.8

大林寺への入り口を示すと同時に、水害除けと旅人の道中安全を祈ってきた地蔵です。
六面に地蔵が六体刻まれた石灯籠の形をしています。

六地蔵石幢
寺院や墓地の位置口に置かれる石仏がこの六地蔵です。
此処から南へ100mほどにある大林寺の入り口として寺の創建24年後の明暦三年(1657年)に造立されました
中山道から寺の分岐に立てられたのは、その入り口としての役割と共に、当時しばしば見舞われていた水害を
仏にすがって避けることと、極楽往生を願うものでした。
その上中山道を行き交う旅人の道中の安全を祈り、心の安らぎを得ていくものでした。

地蔵菩薩信仰
古くから多くの庶民に親しまれ、広く信仰されている仏像で、釈迦入仏後、
無佛の間この世に現れて衆生を救済する菩薩とされ、
常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるよう力を貸してくれると信じられていました。
更に六つの分身を考え六地蔵としての信仰が平安末期に始まったと言われています。
石幢は六地蔵信仰と結びつき龕部(がんぶ)に六地蔵を彫るものが多く、
室町末期から普及していますが、この地方では数少ないもののひとつです。

六地蔵から480mほどの右側に坂本神社の参道が見えてきます。

坂本神社常夜灯

中津川市千旦林与ケ根

北緯

35

28

25.0

東経

137

28

26.9

常夜灯は参道工事中のため

次回まで未掲載

   

中山道から神社参道へ曲がり坂本神社本殿へ進むと90mほどに松風義校跡があります。

松風義校
(千旦林学校)

中津川市千旦林与ケ根

北緯

35

28

26.5

東経

137

28

26.8

明治新政府による学校
明治六年(1873年)明治新政府の学制にもとずいて
開業された学校の跡です。

参道を更に190m程北へ進むと本殿が見えてきます。

 坂本神社

中津川市千旦林与ケ根

北緯

35

28

32.5

東経

137

28

27.2

参道脇にある神社

参道の途中のJR中央本線を横断します。

詳細不明

坂本神社参道から中山道へ戻り90mほどの右側に千旦林高札場跡があります。

 千旦林高札場跡

中津川市千旦林与ケ根

北緯

35

28

25.6

東経

137

28

24.6

車の方は気を付けてみてください見落とします。

千旦林高札場跡から190mほどの東巣橋のたもとに馬頭観音があります。
車の方は橋を渡ったすぐ左にありますので見落とさないように気を付けて下さい。

 東巣橋馬頭観音
(かじや平石仏群)

中津川市千旦林藪下

北緯

35

28

25.9

東経

137

28

15.7

隠れたような場所にあるので見落とさないようにしてください。

更に中山道を西へ210mほど進むと新道との分岐点を来ます

旧道分岐点

中津川市千旦林中平

北緯

35

28

25.1

東経

137

28

06.7

左の細い道が中山道です

分岐点から380mほどの右手の畑の中に常夜灯が見えます。

 中平の常夜灯

中津川市中平

北緯

35

28

24.4

東経

137

27

57.1

画面の右手の民家に重なって見にくいですが常夜灯があります。

常夜灯には弘文三丙午(ひのえうま)年(1846年)の文字が見えます。

中平の常夜灯から330mほどに中平の神明神社があります。

 中平神明神社

中津川市中平

北緯

35

28

22.2

東経

137

27

44.0

神明の森
神明には、津島神社と妙見社がお祀りしてあります。
かっては坂本八幡宮別当寺大智山願成寺塔頭(わき寺)にありましたが、明治時代の神仏分離により、
闇夜に密かに神明沢から、この地に移されたと言います。

神明の森から110mほど西へ進むと三津屋の石仏へ出ます。
石仏は道路改修により石垣の上の奥にあります。車の方は気を付けて下さい。

三津屋石仏

中津川市三津屋

北緯

35

28

22.0

東経

137

27

35.1

石仏は東から来ると見え難い場所にありますから気をつけて見つけてください。

石垣の上にあります。

三津屋の石仏から200mほどで将監塚へ来ます。

 三津屋将監塚

中津川市三津屋

北緯

35

28

21.0

東経

137

27

26.0

みんなkの手前の空き地に小さな塚が草木に埋もれてありました。

将監塚
岡田将監善同は慶長十八年(1613年)より寛永八年(1631年)まで二代目美濃代官でありました・
善同は織田信長に仕え、加藤清正に従って加藤姓を名乗ることもありましたが、関ヶ原戦では東軍(徳川方)に属して戦いました。
慶長六年(1602年)六月采地五千石を与えられ可児郡姫村に住み慶長十年から初代美濃代官であった大久保長安の
配下でありましたが長安の死去により二代目美濃代官になりました。

もうひとつの将監塚
当時大井村には名古屋築城の際の「材木番所」があり、木曾材持出奉行として当地方に駐在していたようです。
善同の子「義政」も寛永八年(1631年)、父の死後、美濃代官を勤め正保二年(1645年)には幕府の命により、
美濃国図を調整して提出しました。
恵那郡史には、坂本村千旦林に岡田将監の墓と伝えるものが間地三ツ屋地内にあって、
旧中山道の北の一小丘で五輪の石塔が建っています。
これを「ショウグン塚」と呼んでいるが、この付近には将監乗馬の塚といのがあり、
地名を岡田と言うことも記されているそうです。

将監塚から110mほどで「三ツ家一里塚跡」へ来ます
中山道の右側の民家横の奥の方にあるので車の方は気を付けて下さい。

 家一里塚跡

中津川市三津屋三津屋

北緯

35

28

20.0

東経

137

27

21.4

この辺りを三津屋といいますがなぜか一里塚は「三ツ家」です。

三ツ家一里塚跡から190mほどで三津屋の馬頭観音へ来ます。

 三津屋の馬頭観音

中津川市三津屋

北緯

35

28

16.8

東経

137

27

17.8

大きな民家の横に小さな祠があるだけなので見過ごしそうです。

馬頭観音から160m程で坂本の立場跡へ出ます。

以下3件調査中

◆常夜燈◆ 

街道筋の目印
旧街道の宿場の出入り口には石燈籠を建て、夜灯りをつけて旅人の目印、宿場や道中の安全を祈願しました。 石燈籠の4面には「永代常夜燈」「宿中為安全」「秋葉大権現」「文化三丙寅正月」などの文字が刻まれています。中津川宿の常夜燈は 茄子川のもと坂本の立場があった所の道の角に大きな「秋葉山道」道標のそばに、常夜燈2基があり、また茶屋坂にもあります。
◆中津川市茄子川、茶屋坂

会所沢の石碑

北緯

35

28

44.1

東経

137

29

26.7

◆会所沢の石碑◆ 

石碑より花
会所沢のシデコブシ群生地は岐阜県指定の天然記念物となっていますが、このあたりに石碑が建っています。
◆中津川市手賀野

次は坂本から茄子川を経て大井宿へ向います。

街道コラム

【中山道の起源-1】

 江戸時代の街道の起源は大化の改新

 七世紀の頃、大化の改新が進む中で交通制度が系統化され、官人のための駅馬および伝馬の設備が定められた。      
令義解(りょうげぎ)』のなかに「凡諸道 須 置駅者、毎三十里 置一駅」(おおよそ、諸道には三十里ごとに一駅を置くこととする)
当時の一里は六町であったので三十里は今の五里(20km)である。
 当時、美濃地方には古東山道が中路山道として通り、官人および都へ納税に赴く脚夫(律令時代に官物を歩いて運搬した人夫)が
泊まる宿駅が整えられていた。  
 平安時代の『延喜式(えんぎしき)』には東山道の宿駅が明記され、坂本駅(中津川市駒場)、大井駅(恵那市大井)、土岐駅(瑞浪市釜戸)、可児(かに)駅(可児郡御嵩町上之郷辺り)、各務駅(各務原市鵜沼)、方県駅(岐阜市方県=かたがた)、大野駅(揖斐郡大野町川合辺り)、不破駅(大垣市青墓)、が設置された。

鎌倉街道
 鎌倉時代になると、鎌倉中心の道路が整備され、当時の東海道は京都〜鎌倉間120余里に63宿を置いた。
近江より美濃に入り、居益(います)(不破郡関ヶ原町今須)、山中(不破郡関ヶ原町山中)、垂井(不破郡垂井町)、赤坂(大垣市赤坂)、
墨俣(すのまた)(安八郡墨俣町)をへて尾張へ出て鎌倉に通じていた。

              

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。