中山道六十九次のうち四十六宿目で中山道美濃十六宿の二番目の宿「中津川宿」をご案内します

六十九次
のうち
四十六宿

岐阜県中津川市

美濃国

JR中央本線中津川駅下車

「中津川宿」巻は、宿の入り口茶屋坂の中津川宿高札場と常夜灯、正善院、中津川名物栗きんとんの老舗すや
その向かいにある前田青邨生誕地、間家大正の蔵、中津川宿場町を再現した往来庭、
四ツ目川橋から川沿いに上って勤王の志士中津川宿脇本陣跡、脇本陣裏の桂小五郎の隠れ家、中津川宿旧庄屋屋敷、
最近取り壊された中津川町の郷倉跡、表具屋松霞堂、中津川名物柿きんとんの川上屋、
中山道街道脇に立つ恵奈山道標、うだつのある町並み、中津川橋から川沿いに下り桃山公園の女夫岩、
中津川宿はずれの石屋坂追分から津島神社と大岩薬師、石屋坂の名号碑、苗木城(またの名赤壁城)跡、
護山(もりやま)神社などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

              

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)

国道257号横断
↓ 100m  

信州境から5.5km(江戸から=328.5km
今須(近江国さかい)まで114.7km

中津川宿   
茶屋坂の高札場跡
   
↓20m   
正 善 院
↓210m
栗きんとんの「すや」 
前田青邨生誕地  

↓300m
間家 大正の蔵
往 来 庭   

↓ 50m
   四 ツ 目 川  →
  中山道案内板   →
↓ 90m
本 陣 跡    
脇 本 陣 跡 

↓ 50m
旧庄屋屋敷  
↓ 90m
   三 叉 路     →

↓ 30m
表具屋 松霞堂
↓ 30m
柿きんとんの川上屋
↓ 40m
恵奈山道標  
↓ 10m
蔵元 恵那山
↓ 40m
下町の常夜灯
↓ 70m
中 央 橋  

     ↓ 70m     
    中津川橋      →
↓380m
    石屋坂の追分   →
↓ 40m
石屋坂の銘号碑
↓ 80m
旧国道19号線横断

160m↓(区間計1.8km)

美濃路二宿目 江戸より四十六宿目










南へ 1,360m 勤皇の志士 横田元網の墓
50m 常夜灯と秋葉神社

信州境から6.1km(落合宿から3,960m)




北へ 80m 大泉寺跡











                           大岩薬師
                           ↑
中津川橋袂から川沿いに北へ550m 桃山公園の女夫岩

石屋坂の追分から北へ 500m 津島神社




信州境から7.3km(江戸から=330.3km

駒場の間違いやすい辻へ 

今須(近江国さかい)まで112.9km

凡例:宿=ピンク、  一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                 

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・中津川宿、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

中津川宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 一千三百三十四石、 人口 928人、 家数 228軒、 

旅籠 二十九軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、宿の長さ十町七間          

落合宿から 一里五町(子野の一里塚)

大井宿まで 二里半(上宿の一里塚、三ツ家の一里塚、関戸の一里塚)

「岐蘇路安見絵図」による当時の中津川宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

中津川

苗木の城、小高き山の上に有。遠山佐渡守領地(今は苗木城は石垣だけで此処からははっきりと見えません)

一万三千石。中津川より一り。(中津川から約4kmです)

中津川、水出れは。往来とまる。(本町と駒場の間を流れる中津川が大水となると通行は禁止となりました。)

かち山、竹の名産也。旗竽・指物竿出る。尾州より御留山なり。(かち山は調査中、)

此辺、皆山の峰を通る也。(中山道も尾根道が多い)

「岐蘇路安見絵図」宝暦六年(1756年)に出版されたもので
当時、それ以前に出版されて人気だったガイドブックの誤りを正したガイドブックとして有名です。
(この「岐蘇路安見絵図」の掲載については所蔵元を明記することで、
2002.10.25に岐阜市歴史博物館から了承を得ました)

      歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 中津川」(大判錦絵)
       岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                               説  明
 なぜかこのシリーズで「中津川宿」は全く違った図柄が存在します。この錦絵は錦樹堂から出された初版物で世界的に見ても数点しかない貴重なものである。                                           
 画面後方の黒いシルエットを見せる山は恵那山であろう。
 恵那山の後ろの空は明るく、してみるとやがて雨は上がるだろう。
 本図は画面中央に垂直に配された松の木によって二分され、画面に変化を持たせている。画面左には、恵那山を背景にして沼に憩う白鷺のみが描かれており、変わった右では、明かりのついた立場茶屋には女性の姿、街道筋には馬や旅人が散見され、一本の松の木を境に自然と人間が対照的に配される。
         (財)中津川広重美術館 平成14年11月8日 撮影許可証(許可番号第2002-46号)済

      歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 中津川」(大判錦絵)
       岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵 (許可番号2002−46号)
説  明
 一方、「異版」とされる上絵は「木曽路名所絵図」に「この間(註・落合と中津川の間)難所なく旅人の苦労なし」と記される通りの田園地帯が描かれている。
 中津川橋を渡ったところから宿場を見た図とされる。遠方には恵那山と、その後ろに連なる木曽の山々が描かれている。
 丸頭巾をかむり結袈裟のようなものを身に着けた人物が橋を手前に渡りつつある。
 一方、中津川の宿場に向かうのは、天秤を担いだ農夫である。
 傍らの土堤には柳が配され、このゆったりとした感情こそ、広重の風景画の真骨頂であろう。
      
(財)中津川広重美術館 平成14年11月8日 撮影許可証(許可番号第2002-46号)済

追記)「木曽海道六拾九次之内 中津川が2枚ある理由
「開運なんでも鑑定団(傑作集再放送)」でこの2枚が出品され、鑑定団の渡邊章一郎氏(渡邊木版美術画舗)が
『「雨の中津川」と「晴れの中津川」が2枚ある理由は不明ですが、現在この「雨の中津川」は世界に点が確認
されています。 ヨーロッパに点、ハワイに点、中仙道広重美術館に点、由比町の東海道広重美術館に1点の
5点です。 今回出品されたこの1点はプライベートで所有の望月さん(東京都在住)が唯一でしょう』と説明され  
1千5百万円の評価額が付けられました。                                            
2011。11.15(火)19時54分「テレビ愛知」放送より

               中津川宿
 宿の家数は中山道でも群を抜いて多く周辺の商業の中心地として栄えていました。
 奈良・平安時代から東山道の要衝の位 置にあり、古くから穀物、塩、味噌、溜(たまり=醤油のこと)、酒、小間物、呉服、紙などの商業活動が盛んで、 周辺の人々を集めた六斉市(月の3と8のつく日)を開くなど、江戸時代には中山道でも有数の宿場として賑わっていました。
  安政元年(1854)日米通 商条約が結ばれたとき、いち早く外国貿易で中津川商人が活躍したのはあまり知られていません。

 中津川宿の町並みは十町七間(1.1km)、元禄十一年の時には戸数百七十五戸、人数は九百八十人と記録されています。
 横町、本町、新町、淀町、茶屋坂と続き、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、大きく本陣、脇本陣、(共に問屋を兼務)のある本町と、商家が多い新町に分かれていました。

寺坂を下り国道257号線を横断して中津川宿へ入ると「高札場」があります。

江戸時代に付け替えられた中山道も国道工事で分断
中津川宿に入る茶屋坂へ下る道は最初、東側へぐるっと回る道で、緩やかな坂が続いていましたが、
遠回りになるため寛文三年(1663年)に茶屋坂の道に切り替えられました。
しかし、この付替え道も旧国道19号が中津川高校の下を通るようになり二つ切れてしまいました。

坂を下りきった北側に高札場があり石仏や石碑もあります。

茶屋坂の高札場

中津川市東町

北緯

35

29

49.0

東経

137

30

36.5

茶屋坂
落合宿から中津川宿へ入り口にある、飛騨街道と交わるところの急坂です。
常夜燈、庚申塚、三十三夜塔が並んでいます。移設復元された高札場で往時を偲ぶことができます。

  キリシタンを見つけたら銀100枚
各宿場町には法度や掟などを板に大書し、人目につきやすい場所に高く掲げました。
これが高札と呼ばれるもので、立てたところを高札場と言います。
中津川宿の高札場は茶屋坂に近年復元されていますが、もとはそこから10mほど坂を上った北側の街道沿いにありました。
享和元年(1801年)には高さ二間一尺(約4m)、幅一間余(約2m)で8枚の高札が掲げられていたという記録が残っています。
現代の広報板とは違い「官報」だったでしょう。 
この高札場は公儀高札で、幕府統治の基本姿勢や違反者への罰などが示されていました。
また、高札場は各宿場間の里程を測るポイントともなっていたため、
領主の許可なく移転や墨入れ(字が薄くなり読みにくくなって、もう一度上書きすること)することはできませんでした。

詳細不明

高札場から本町へ中山道は真っ直ぐに続きます。

高札場から20m程左に正善院があります。

正善院

中津川市東町

北緯

35

29

48.0

東経

137

30

36.5

高札場から西へ20mほどの左(南)側

とおりより30mほど入ったところに本堂があります。
詳細不明

正善院から210m程で「駅前通り」へ出ます。 駅前通りを横断して新町へ入ります。
車の方は一方通行のため付近の大型スーパーの駐車場などを利用して新町通りの栗きんとん
の「すや」から四ツ目川橋まで散策を楽しんでください。

中津川駅前通り横断

中津川市新町

北緯

35

29

 

東経

137

30

 

新町は一方通行ですから車での方は迂回してください

駅前通りのJR中津川駅方向を

新町通りへ入ってから左2軒目に栗きんとんで有名な「すや」があります

栗きんとんは季節ものですがシーズンオフには栗羊羹があります。

中津川名物

栗きんとん

すや

中津川市新町2-40

北緯

35

29

41.9

東経

137

30

31.2

老舗らしい見せの造りです
店内も風情のある造りになっています。

お勧めは季節ものですが「栗きんとん」です。

詳しくはHPでどうぞ
http://www.suya-honke.co.jp

「すや」の向かいの金融機関の場所が「前田青邨画伯の生誕地」です。

前田青邨生誕地

中津川市新町

北緯

35

29

42.3

東経

137

30

31.6

詳細不明

「すや」から300m程すすむと間家大正の蔵があります。

間家大正

中津川市新町7−39

北緯

35

29

36.4

東経

137

30

25.1

中山道一の豪商が遺したもの
中津川宿は中山道周辺の経済の中心地で、間家は白木、白木製品、塩の販売で当時東濃随一の豪商といわれ、
尾張徳川家の御用商人となっています。
新町に屋敷を構え宿の年寄り役をつとめるなど、宿の経済と文化の興隆に大きな役割を果たしています。
この地で俳諧交流や、民衆の唯一の娯楽であった人形浄瑠璃や地芝居が活発であったのは、
間家をはじめとする宿の「旦那衆」の貢献があったればこそでしょう。
間家の屋敷は母屋や庭園つきの座敷、茶室、土蔵など現在の中津川郵便局を中心に千坪近くありました。
この「間家大正の蔵」は従来の土蔵づくりと明治以来のコンクリート工法が混在した珍しい建築(大正三年)で、
古さでは岐阜県有数の建物です。
蔵の建築様式や赤煉瓦張りの外観、庭園の織部燈籠を鑑賞したあとは、三層にわたって展示されている間家ゆかりの品々が圧巻です。
とくに代々の所蔵品、文献は江戸から明治を経て大正、昭和に至る豪商の経済活動や地域への
社会・文化貢献ぶりが手にとるようにわかります。入場無料

庭には織部灯篭もあります

間家の大正蔵の向かいには江戸時代を模した「往来庭」がります。

中津川宿
往来庭

中津川市新町

北緯

35

29

35.5

東経

137

30

24.0

中山道PR用庭

「往来庭」から50mほどで四ツ目川に架かる「四ツ目川橋」へでます。

四ツ目川橋

中津川市東町

北緯

35

29

34.2

東経

137

30

23.4

四ツ目川橋の袂を左(川上)へ曲がり1、360m程進むと横田元綱の墓があります。

勤王の志士
横田元綱の墓

中津川市実戸

北緯

35

29

03.4

東経

137

30

39.7

四ツ目川の堤防を上流へ1,100mほど進むと三菅橋へ出ます。

この橋を渡り西へ80mほど進み第1用水へ出るとさくら幼稚園が見えます。
更に西へ50mほど進み幼稚園の角まで来て北へ(右)へ曲がります。

80mほど北へ進むと国道19号のガードへ来ます。
ガード手前を左(西)へ曲がると50mほどの所に「横田元綱」の墓があります。

幕末の悲劇と近年の美談

勤王の志士
横田藤三郎元綱は下野国真岡(現在の栃木県真岡市)の人で、藤四郎祈綱の三男。
父とともに平田門人下の勤王の士。
十八歳の時、父と筑波山に兵を挙げた武田耕雲斎の義軍に加わったが、和田峠で敵弾をうけ、ここで割腹した。
中津川宿に入った父はその首級を平田同門の秀矩らに頼んだが、幕府の詮議が厳しく、秀矩らは死を覚悟して
ひそかに、この実戸の地に埋葬しました。
(現在地は国道19号中津川バイパス工事のため移転されたところです)

墓には近年、栃木県の遺族いとこ会が建てた碑もあります。

横田元綱の墓近くを流れる第1用水の歴史

今から三百四十年前の寛文二年(1662年)に古橋源次郎が開いた用水です。
中津川から取水し尾崎、中村、実戸、一色、上金の土地を潤し地蔵川に流れ込むまでの、実に4,470mの
水路です。

再び四ツ目川堤防道路を下り四ツ目川橋まで戻ります。

四ツ目川橋を渡ると左手に中山道案内板があります

本町入り口常夜灯

中津川市本町

北緯

35

29

34.2

東経

137

30

23.4

常夜灯
この石灯篭は、中津川宿本町にあったもので、嘉永元年(1848年)に建てられたものです。
常夜灯は一晩中灯りを灯して旅人を導き、宿場屋道中の安全と祈願したものです。

その横には秋が神社があります。

秋葉神社

中津川市本町

この辺りが中津川宿の中心地
四ツ目川には水面近くに板橋が架かっており、東から来た旅人は
この橋を渡って、本町までの急な坂を登りました。
登りつめると、街道の真中を用水が流れていました。
この用水は、野中の黒沢川から取水した第三用水(大桶用水)
で、宿内の火災に備えて敷設されました。
用水はものを流すことも、洗うことも禁じられていました。

秋葉講
この用水の街道中央、東端に祀られたのが秋葉神社でした。
秋葉神社は火伏せの神様で、火の用心についての幕府からの
注意、火災の恐れなどから幾つかの秋葉講がつくられ、
秋葉山本社への代参を毎年行っていました。

四ツ目川橋を渡り90mほどで中津川本陣跡へ出ます。

中津川宿本陣は現存しておらず、その跡は現在、NTT中津川営業所前の駐車場となっています。

中津川宿本陣跡

中津川市本町

北緯

35

29

33.3

東経

137

30

19.1

中津川宿本陣は市岡家
かっての本陣の入り口には五軒続きの長屋が建ち、その中央の一軒分が門となっていました。
門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、
その奥に建坪二百八十三坪の本陣がありました。

本陣内の模様
表庭(赤い部分)の右手に長屋があり、その奥が厩(うまや=馬屋)
になっており、表門の正面は内玄関と縁三間半の荷置場がありました。

表庭の左手に中門があり、その右に番所・も置かれ、庭は高塀で囲まれ
ていました。
玄関の奥には玄関の間、ついで三の間、次の間、中の間、上段の間
へと続きます。

この本陣は、建坪283坪の広大な屋敷で、参勤交代の諸大名、勅使、公家、幕臣が宿泊し、皇女・和宮も降嫁の際にここを利用しました。
代々市岡家がその任に当たり、本陣で使われていた欄間、正門の扉、古文書などの遺品が現在の市岡家に伝わっています。

また、その向かいにあった脇本陣は代々森家が勤めていました。

中津川宿
脇本陣跡

中津川市本町

建坪百二十八坪代々森家が務めましたが建物は現存していません。

脇本陣はNTT中津川営業所の一部にあったといわれています。

本陣跡裏にあったそうです。

桂小五郎隠れ家

中津川市市本町。現在はNTT中津川営業所の駐車場裏

倒幕の中津川会議
文久二年(1862年)、江戸の長州屋敷から中山道で京都に向かった藩主毛利敬親を桂小五郎(木戸考允)が中津川宿本陣で待ち、
公武合体から尊皇攘夷に藩論を変更する方針を説得しました。
この中津川会議で長州は幕府から朝廷方に大きく方向転換、倒幕運動の中心勢力となりました。
小五郎は中津川宿本陣にかくまわれていました。

本陣裏にありましたが今はありません

中山道を50mほど進むと左側に旧庄屋屋敷があります。

中津川宿
旧庄屋屋敷

中津川市本町(本陣跡の筋向かい)

北緯

35

29

32.7

東経

137

30

18.1

本陣跡の筋向かいに、中津川村庄屋・肥田九郎兵衛が住んでいた家があります。
よく保存されており、卯建を持つ風格は往時の庄屋屋敷を偲ばせ、本町かいわいでは当時の面影を最もよく残している建物です。

中津川村は七つに分かれ、それぞれの郷村には小庄屋がおかれ、それを総括する大庄屋がありました。
これが中津川村の庄屋で肥田家(現曽我家)でした。

旧庄屋宅(旧肥田家)
享保三年(1718年)から明治五年(1873年)までの155年の永い間、庄屋を
勤めた肥田家之家敷で、建物もそのままです。
裏には風雅な庭園が残されています。

庄屋の役割
庄屋は中津川代官所のもとで、年貢の収納、農民の統率、
村内の治安の維持などを村の長でした。

島崎藤村「夜明け前」
幕末の庄屋であった肥田九郎兵衛通光は、「夜明け前」に
小野三郎兵衛の名で登場する平田門人で、
岩倉具視とも交友がありました。
また号を馬風と称する中津川俳諧の宗匠でありました。
「菊折って すててまた折る 山路かな」
の句碑が旭ヶ丘公園にあります。
(「子野の石仏群」遍で紹介)

中津川本陣跡に「郷倉」がありました

中津川宿郷蔵

中津川市本町(旧庄屋屋敷そば)

旧庄屋屋敷とともに昔から残るものの一つでしたが、痛みがひどく平成のはじめには取り壊されています。
「郷倉」とは、中津川村の年貢米の保管や飢饉に備えて米麦などの穀物(囲米)を貯蔵していた倉で、
宿の本陣または村の庄屋が管理していました。
郷倉の跡は今は駐車場になっていて、かっての名残は「倉前町」と言う町名だけです。
(以上、庄屋 肥田九郎兵衛の直系 菅井敬二氏 談)

(郷倉跡画像)
近日 掲載予定

今は駐車場になっています

中津川と木曽ヒノキの山守(やまもり)

盗伐は木一本に首一つ

 江戸幕府の体制が整う前から木を暮らしの糧としてきた木曽
・裏木曽の村民には幕府成立後の数々の制約は村民の死活問題だった。このため禁を破っての盗伐も後を絶たなかった。
しかし見つかれば死罪となり、「木一本に首一つ」と恐れられた

 中津川村加子母(かしも)には寛文の改革(1665)で、従来、入山伐採の禁止は鷹狩り用のタカの幼鳥を捕獲する「巣山(すやま)」だけだったが、江戸初期の大量伐採によって、ヒノキが枯渇する「尽山(つきやま)」があちこちに出現したため、新たに資源保護を目的とした「留山(とめやま)」制度が導入され、山林を管理する「山守(やまもり)」職が享保の林政改革(1720)により設けられネズコなども「停止木(ていしぼく)」となった。
 中津川市加子母には代々「山守」職を勤めた内木家がありヒノキとサワラ、アスナロなど区別のつかない武士に代わって、状況をよく知る地元有力者として管理責任を負い木曽ヒノキを明治まで守った。(内木家に残る掛け軸 読売新聞より

今も江戸時代のままの町名

昔は大きな商家でしたが今は

卯建のある町並み
卯建とは商家や街道筋の旅籠などに見られる屋根部分の飾りで、屋根や棟よりも高く上げた小屋根つきの袖壁のことをいいます。
当時宿場町は火事が多かったため、類焼を防ぐため隣家との間に建てましたが、
防火の目的より富を象徴する装飾の側面の方が強く、「うだつがあがらない」という言葉は、
裕福な家でなければ卯建を上げられないことから転じたといわれます。
中津川宿はじめ各宿の卯建も年々少なくなっています。
中津川宿では本町・横町・下町に、旧庄屋屋敷、はざま酒蔵などで見ることができます。

本陣跡から90mほど中山道を歩き、最初の三叉路(横町の最初の角手前約70m)を北へ入ると大泉寺跡があります。
坂を下った小路の突き当たりにあり、本陣に宿泊した大名に万一のことがあった時の避難場所になっていました。

大泉寺跡

中津川市本町

天正四年(1576年)に、中津川の有力地侍だった市岡長右衛門が下町の瑞慶寺を本町(旧泉町)に移し、中山道大泉寺としました。
境内は東西約35m、南北約60mあったと言われるが、文久二年(1862年)四月、落雷によって焼失し、明治六年(1873年)
北野大西に移されました。跡地には江戸中期の墓石が数多く残っています。

横町通りの枡形

横町通りの枡形
道が直角に左、右と続いて折れ曲がっている
場所を枡形と言います。
人為的に作られたもので、その目的は通行する旅人の足止め策、あるいは警備上、
街の中心部を直線で見通せないようにするためと
言われています。
中津川宿本陣跡の少し先にその枡形があり、
こうした枡形は落合宿にも残っています。

宿場の枡形役割
本陣は武家が常に軍旅にあるとの考えから、主人が宿泊するところを「本陣」と言います。
家臣が宿泊するところを下宿と言いました。
本陣のおかれている場所は水害など自然災害にも遭わない場所に置かれるとともに、
常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、まちまちには自身番も
置かれていました。枡形はこのためのもので、本陣や脇本陣のある宿駅の中心部が直線的に
見通すことが出来ないように造られていました。

大泉寺跡三叉路から30m程来た最初の枡形右側にあります。

表具 松霞堂

中津川市本町三丁目

北緯

35

29

30.1

東経

137

30

13.6

松霞堂
江戸時代から続いている可児家です。 江戸時代は傾斜地を利用して米を搗(つ)く米屋だったそうです。
家の作りも雨戸は二つ折りにして上へ持ち上げこていするもので、柱や梁とともに今も残っています。
また、屋根裏には隠し部屋が残っており、賭博部屋だったといわれています。
裏庭には川上川(中津川)の氾濫に備えたもので、ここら辺りの字名を川下原といわれる証です。

松霞堂の由来
元は苗木藩士であった家柄で、裏庭には樹齢百五十年以上の松ノ木があり、この松ノ木に霞が
かかった様から、松霞堂と呼ばれる表具店を営むようになったと言われています。

松霞堂から枡形を曲がって数軒目(30m)に柿きんとんで有名な川上屋があります。

北緯

35

29

28.8

東経

137

30

14.0

干柿で造られた「きんとん」は少々高いですが高いだけのことはあります。

川上屋の屋号は川上川(中津川)にちなんで
名付けられました。

詳しくは川上屋のHPでどうぞ
http://www.kawakamiya.co.jp/

川上屋の向かいの商店

天満屋(古井家)
格子や軒先の低さ、かわらのない屋根など中津川宿の商家の
造りで、築後150年以上は経ている建物です。

古井家は馬籠の出で、天満屋という小間物を商ってきました。
天満屋の謂れは、当家の裏庭に天満宮が
祀られていたことによるとされています。
今も裏庭には円い大きな切石づくりの
天満宮井戸が残されています

十八屋(間家)
江戸時代中期に岡田大学が建てられたと伝えられており、
上がり框(かまち)や天井の梁などは当時のままです。

屋号を十八屋山十と言い、中津川の豪商であった間武右衛門家
の流れをくむ家で、そこより分家した間五兵衛家から出た
間武右衛門が移り住み、旅籠を営んでいました。
当時の記録によると、旅籠は宿役人しか営むことが
出来なかったようです。

十八屋と水戸の天狗党
元冶元年(1864年)十一月水戸天狗党が中津川を通行した際、和田峠の戦いで負傷した若き武士を、
武右衛門が当家の隠し部屋に匿うが、病没した。
当家にはその若者野遺品が今も残されています。

旧中川家 (杉本屋)
中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛野屋敷の一部。
中川家之屋敷はここより南東一帯にあり、
広大な屋敷であったものと言われます。
歌舞伎絵の著名な「中川とも」画伯は、この中川家のであるそうです。
この屋敷は南に向って西生寺下の土蔵がある辺りまで建っていました

映画「青い山脈」
明治の代になってから原作吉が購入し呉服商を営んでいましたが、
大正年間には薪炭、荒物商となり、現在に至っています。
昭和30年代の初めま頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、
これを舞台に映画「青い山脈」のロケが行われたことは有名です。

柿きんとんの川上屋から40m、この近辺の二つ目の枡形に恵奈山道標はあります。

中山道
恵奈山道標

中津川市横町

北緯

35

29

27.9

東経

137

30

14.9

酒造りの水は恵那山から
はざま酒蔵の角は枡形になって左に折れるところに、恵那山への道標があります。
ここから恵那山へ通じます。

式内恵奈山上道

慶応九年の文字も見えます。

恵奈山道標から10mほどで地酒「蔵元恵那山」があります。

蔵元 恵那山

中津川市本町4丁目

新酒が出来たことを知らせる杉玉

恵奈山参道道標からちなんだ屋号

今年の新酒「蔵出し一番」

四町目とおりを店や蔵が続きます

40mほど進むと本町を過ぎ下町へ入ります。

中津川宿
下町かいわい

中津川市東町

北緯

35

29

34.2

東経

137

30

23.4

下町かいわい
中津川宿の西口に当たる下町から広重が描いた「中津川」(旧川上川)まので
中山道の道筋は現在はなくほとんど姿をとどめていません。
時の道中奉行により、文化三年(1806年)に完成した「分間延絵図」には見られませんが、
それ以前にはここらあたりも高札場があったと伝えられています。

下町の常夜灯から70mほどで下町の中央に橋がありますが下には川が流れていません。

中津川
中央橋

中津川市下町

北緯

35

29

25.9

東経

137

30

09.9

王子製紙引込線跡
江戸時代から宿場として栄え財政も豊かだった中津川宿の町衆は新時代の明治になって、
周囲の豊富な材木を利用した製紙事業を興そうと、東京から時の企業家「渋沢栄一」を招き、中央製紙を創業させました。
そして国鉄中央線も完成し津川駅から製紙工場まで引込線を完成させました。
その後製紙工場は「王子製紙」、「本州製紙」再び王子製紙と発展し工場も2ケ所となりました。
近年道路も整備されトラック輸送が発展し昭和47年頃、引込線は廃線となり、跡地は自転車歩行者専用道路になりました。
(中津川村庄屋 肥田九郎兵衛 直系の菅井敬二氏 談)

中央橋から60m程で中津川橋にさしかかります。

中津川橋

中津川市本町と駒場町の間

北緯

35

29

24.6

東経

137

30

07.9

中津川橋を渡った所で
此処から少し離れた中津川沿いの桃山町にある女夫岩をご案内します。
橋の袂から550mほど下流へ下ります。
徒歩の方はバス停「中津川橋」(橋の少し下流にあり)から「女夫岩前」で下りてください
車の方は堤防上の道を下ってください。JR中央線ガード下をくぐり「桃山大橋」を横に見ながら
「桃山橋」が見えたら左に「桃山公園」があります。

車の方は駐車場がないので困ります。何とか探して下さい。

中津川
桃山公園の女夫岩

中津川市駒場桃山町

北緯

35

29

46.0

東経

137

30

03.2

「女夫岩」は桃山公園の中にあります。

公園に入るには後田川に架かる橋を渡ります。
公園内には「女夫岩」の他にも大岩が散在します。
女夫岩由来
天照大神の胞衣(産着)を御弟子「恵守」をしてこの地に埋納せられ霊峰を恵那山と名付けられる。
その記念に、この地に鎮座まします。
元正年代に「養老」の地と共に山上憶良(やまのうえのおくら)の手により、
この女夫岩をして御二神を祭り祠を選作し女夫神社と名付けられた。

「女夫岩」のある公園裏(西のゲートボール場奥)に大岩薬師があります。

駒場の大岩薬師

中津川市駒場桃山町

北緯

35

29

48.1

東経

137

30

04.8

薬師如来由来
薬師如来は薬師瑠璃光如来で大医王仏医王善逝といいます。
菩薩の衆生中に衆生もろもろの病を除き身心を安楽にして無上菩薩を証得せしめ十二の大誓願を発したと言います。

大岩薬師
名のごとく大岩薬師の本尊は立ったお姿の石造で、右手に与願印、左手に薬壷を持っておられます。
岩窟の壁には享保七寅(1722年)歳八月十六日の朱書きがあり、石柱には享保十八丑(1733年)七月七日と刻まれています。
そのころにはここに僧庵があり常に数人の僧侶が居住していましたが、文化年間に焼失し、その後は無僧だそうです。

参道の階段脇の手洗いも大きな石に彫られています

境内は石垣の代わりに大石で作られています。

境内に秋葉神社がお祀りされています。

小さなお社ですが、大切にされています。
小さなお社ですが、大きな石に囲まれています。

境内にある地蔵様も大きな石の下に祭られています。

再び中津川橋袂の中山道まで戻り中山道を西へ進みます。

中津川橋から380mほどで駒場(こまんば)の津島神社参道の入り口石屋坂の追分に出ます。

石屋坂の追分

中津川市駒場町

北緯

35

29

18.1

東経

137

29

53.7

左が中山道です。右が津島神社参道(駒場=こまんば街道)です。

「津島神社参道」碑

ここで中山道かはずれ津島神社をご案内します。
分岐を右へ曲がります。

中津川津島神社
石碑と参道

中津川市津島町

北緯

35

29

17.8

東経

137

29

53.8

分岐を右へ曲がり50m程で左後ろへ曲がる急坂があります。
これが参道入口ですが本殿は此処から500mほど離れています。

車の方は下の道を進み新道へ迂回してください。

津島神社 本殿

中津川市津島町

北緯

35

29

23.1

東経

137

30

39.5

津島神社と脇にある大岩薬師のお参りをお勧めします。

広い境内に沢山の建物が散在します。
津島神社 おいでん祭
中津川の夏まつり「おいでん祭」は毎年8月13-16日、郷土芸能、みこし、風流おどり、津島神社例祭、ギオンバ、
各地域のおまつり、商店街まつり、納涼大花火大会など、郷土芸能が披露される13日を中心に、
期間中は市内全体がおまつりムード一色、20万人の人出があります。是非参加してください。

再び中山道の津島神社参道口へ戻ります。

左が中山道、右が津島神社参道(駒場こまんば街道)

津島神社参道碑

分岐を左折し坂を40mほど上がると石屋坂の名号碑前を通ります

石坂の中ほど右手に四つの石仏があります。

石屋坂の名号碑

中津川市駒場町

北緯

35

29

16.3

東経

137

29

53.8

四つのうち三つが馬頭観音で、農作業の労働力はもちろん、交通の重要な手段であった馬と当時の人日の密接なつながりが偲ばれます。

名号碑のほかに石仏が並んでいます。

更に石屋坂を上ると国道257号線と県道6号線連絡道を横断します

銘号碑から80mほどで19号国道へ出ます。

旧国道19号線横断

中津川市駒場

信号がないのでチャンスを見て横断します。
ここで久19号線を北へそして国道257号線で「苗木城跡」をご案内したいと思います

またの名「赤壁城」  
苗木城址

中津川市苗木

北緯

35

30

34.3

東経

137

29

14.8

苗木城跡へは中山道の石屋坂の名号碑の交差点を国道257号線に
のり城山大橋(有料)を通りすぐです

国道257号線の有料「城山大橋」料金所を通ります ゲートを過ぎると「赤壁城(苗木城)の伝説」説明板があります
「城山大橋」を渡ります 橋の上流に苗木城の城山が見えます
赤壁城(苗木城)の伝説
苗木城は木曽川のぜんぺきに建てられた立派な城で合った。 白壁が夕日に輝いて綺麗な城であった。
ところがある日耳をつんざくような雷鳴が轟き、激しい雨が降り、昼間であったが夜のように暗くなり木曽川は怒涛さかまき
白い牙をむくように荒れ狂った。 まる一日吹き荒れた嵐も治まり城を見ると、驚いた!真っ白であった城の壁が何かで
引っかいたような爪のあとで赤くはげてしまっていた。
大勢の左官が集められ修理されたが白い壁になると嵐が来て、また赤くなってしまう。何度塗り替えても駄目でした。
殿様も城下の人々も白壁に塗ると木曽川から白い色を嫌う竜が来て、かきむしってしまうのだと信じ、それ以降は赤壁に塗り
城の東に竜神様を祀り竜神を鎮めました。 それ以来「赤壁城」というようになった。現在も城址東の岩屋に竜神様が祀ってある

「城址入り口」「四十八曲り上り口入り口」とは違います

「四十八曲り」  
   上り口入り口

中津川市苗木

北緯

35

30

31.6

東経

137

28

41.5

何の目印のない三叉路です 看板と木杭があります
城坂四十八曲り道
城山の麓にあった大手門から本丸までの登城道です。
別名「大手口道」とも言われ領主の参勤交代には、この道が使われました
三の丸までの標高差150mを一挙に登りきるつづら折の難所で、
道の延長は約600mです。 本丸までの道が48回折れ曲がっていることから、その名前が付けられました。

城址入り口

中津川市苗木

北緯

35

30

34.9

東経

137

28

44.5

城址入り口は標識があります

城址への途中に「青邨記念館」があります

城への上り口は公園として整備されています

その奥横には歴代の城主の墓地があります

更に坂道を登ると城の入り口に差しかかります
最初に目に入るのが「風呂屋門跡」です
苗木城には沢山の「門跡」が残っていて、城下町がある麓から本丸まで、全部で「18の門」がありました。
【@上ノ町門、A風呂屋門、B竹門、C風吹門、D北門、E駈門、F大門、G台所門、H不明門、I清水口門、J仕切門、K綿蔵門、L坂下門、M菱櫓門、N本丸口門、O玄関口門、P竹門、Q大手門】
大矢倉は堅固な造りです
天主台はかなりの広さがあります
眼下の木曽川
天主台の遠望 天主台からの遠望

もう一つ寄り道をします。

護山(もりやま)神社

中津川市付知町

尾張藩が勤皇・倒幕に加わった要因
11代将軍徳川家斎(いえなり)は将軍職を家慶(いえよし)に譲った後も、大御所として江戸城西の丸で権威を振るった。
1838年3月、その西の丸が炎上し、家慶は父のために西の丸御殿再建を天下に号令する。通常は普請手伝い免除の御三家も対象となり、資金・資材の提供を命じられた。尾張藩は、率先して「白鳥貯木場に木曽のヒノキがたっぷりございます。良木をご随意に選んでください」と申し出た。これを受けて派遣された幕府勘定吟味役の川路聖謨(としあきら)は「貯木場野8万本のうち、使えるのは1万本のみ。主柱に使えるような大木はない」と報告し、尾張藩をあわてさせた。            
 尾張藩はやむなく裏木曽にある「お囲い山、出之小路(いでのこうじ)」と言う神木の山ががあることを明かす。川路は直ちに裏木曽に出向き調査を実施し樹齢1000年以上のヒノキを確認し伐り出すことを命じた。このひどい仕打ちに尾張藩は幕府への不満が膨れ上がった。                                                         
火事や妖怪騒ぎ
 この頃「天保の飢饉」と言われるほど凶作続きのところへ、川路一行の受け入れをはじめ、伐採や搬出作業を村人は強いられた。直径が人の丈ほどあるあるヒノキを切り、搬出する様子が、今も付知町に残る絵巻に描かれています。 また地元にとって「神木の山」だけに、作業小屋の火事や妖怪騒ぎが続発し、「山の神のたたり」といわれた。このうわさは江戸城にも届き、大奥での不審火も重なったため幕府は「山の神の怒りを鎮める」ため、尾張藩に命じ、地元に護山神社を創建させたのが、この「護山神社」です。                                                           
尾張藩財政悪化
 また、このときの木材供出は尾張藩に大きな財政負担を強い藩財政を悪化させ、そのため尾張藩は藩士に石高百石につき2両を上納させ財政を立て直した。こうした諸事が幕末に尾張藩が勤皇・倒幕に加担する要因になったと言われています。
(読売新聞より)

では再び 中山道へ戻り駒場村の高札場跡へ行きたいと思います。

下は調査中

地蔵堂

中津川市

中山道は横断して真っ直ぐに進みます

旧国道19号線横断

中津川市駒場

北緯

35

29

14.4

東経

137

29

53.0

信号がないのでチャンスを見て横断します。

次の頁は中津川宿を出て大井宿までの道中をご案内します。
旧国道19号線を横断し160m程進むと駒場村の高札場跡の手前にある
間違いやすい辻へ出ます。

街道コラム

【本陣と脇本陣と定宿本陣】

 「本陣(ほんじん)」というのはもともと戦場において大将の位置する本営のことを言ったものだったが、室町幕府の将軍足利義詮が上洛の際に、その宿舎を「本陣」と称したときからと言われています。
それから武将の宿泊する所を指すようになり、宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿舎の名となりました。

 江戸時代には、大名・宮家などの休泊する施設として宿場に置かれた施設で、本陣が真にその職能を発揮するのは、参勤交代の制度が実施されてからでした。本陣は主として公家、大名など身分の高い人の宿泊所だったので、門、玄関、上段の間などを備えていました。本陣がふさがっている時に使用するのを脇本陣といいます。

  本陣を勤める者は宿役人の問屋や村役人の名主などを兼ねている者が多く、そこの主人は苗字帯刀を許され、門や玄関、上段の間等を設けることが特権のようになっていた。 

  しかし、原則として一般の者を泊めることはできず、大名が泊まることもそう多くはなかったので、江戸時代も後期になると経営難に陥る所も少なくなく、他の仕事を兼業している場合もあった。

脇本陣
 本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれないときとか、宿場で藩同士が、鉢合わせになったとき、格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供した。規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めた。

定宿本陣(指定本陣)
 本陣・脇本陣以外に大名などが田戸を指定して常に宿泊する旅籠屋。

               

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。