落合宿から子野(この)橋を渡り、子野の石仏群を通り中津川宿へ向かいます

六十九次
のうち
四十五宿と
四十六宿間

岐阜県中津川市落合

美濃国

JR中央本線落合口駅下車

子野の石仏群巻は、子野の石仏群、子野の馬頭観音、上神の秋葉権現、旭ヶ丘公園と石仏群、
はだか武兵の石碑、すみれ坂の芭蕉句碑、寺坂,を下り、天井画で有名な南林寺
後ろ向き薬師で名高い東円寺などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

                        

 子 野 橋   
↓230m 

信州境から4.5km(江戸から=327.5km)
今須(近江国さかい)まで115.7km

子野の石仏群
   
↓150m   
地蔵堂橋
↓ 70m
中山道消滅区間(20m)  
↓ 220m
上神の秋葉権現
↓150m
   尾張白木改番所
↓ 90m
  旭ケ丘公園石碑群  →
↓ 110m
↓     
寺坂の芭蕉句碑
↓110m
   国道257号横断  →
      
100m↓(区間計1,0km)




徒歩の方横の地下道で横断。車の方左折し19号線を南へ
国道19号線 横断部分16m(消滅区間No.3)    
←    西へ戻り中山道に合流 ← 一つ目の信号を右折



        三井寺観音    天神碑
石仏群内容 経王書写塔    蝶哉句碑  馬風句碑
        芭蕉句碑(月塚) 秀矩歌碑  旭岡神社
→70m はだか武平の石碑
            
    
前田青邨画伯の天井絵の    うしろ向き薬師の
南へ → 220m  南林寺 → 240m 東円寺

信州境から5.5km(江戸から=328.5km

中津川宿入り口 

今須(近江国さかい)まで114.7km

凡例:宿=ピンク、  一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                 

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・子野の石仏群、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

子野橋を渡り坂を登り230m進むと左手のしだれ桜の元に石仏群があります。

子野の石仏群

中津川市子野

北緯

35

30

03.2

東経

137

31

10.9

昔、この辺りに地蔵堂があったと言われていますが、所在は明らかではありません。
石仏の表情がそれぞれに異なり、旅の疲れを忘れさせてくれたことでしょう。

ここは無縁仏を集めたところとも伝えられています
このほかにも元禄7年(1694年)寛延三年(1750年)などの年号のある庚申塚や地蔵
、観音像など、数多くの石仏があります。
この地蔵堂のしだれ桜の下には無数の石仏が並んでいます。

特異な文字で「南無阿弥陀仏」と書かれた文政五年(1822年)の徳本上人の念仏塔は高さ2.2mもあります。
文化年間(19世紀初め)この地に逗留して恵那、益田一帯で念仏講などを布教した名僧です。

石仏群を過ぎても下り坂は続きます。

子野のあたりは考古道
馬とともに生活する人々の中に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり、また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり,
そんな理由で馬頭観音は作られたと考えられます。

子野の石仏群から150mほどで地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ります。
地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ると国道19号線へでます。中津川宿はもうすぐです。

詳細不明

地蔵橋を渡って70mほど坂を登ると国道19号線へ出ますが中央分離帯があるため渡れません。

国道19号線上金新田北

中津川市上金

北緯

35

29

56.1

東経

137

31

00.7

歩行者は右にある地下道を利用して向こう側へ
車の方は左折して19号線を南へ向い次の信号を右折し中山道と合流します。

中山道美濃路消滅区間第3号

 

No.4 中山道通行不能区間16m

 

中津川市上金

国道19号線南

中津川市上金

国道19号線北

 

中山道=青車迂回ルート(緑)
歩行者迂回ルート(ピンク)

 

ガード下をくぐり左へ曲がると中山道へ出ます。

中山道と合流

中津川市上金

北緯

35

29

55.7

東経

137

30

59.2

地下道をくぐり左折するし坂を上ると
中山道案内板があります

案内板を右(西)へ曲がり進みます。

歩行者は右の地下道を利用して19号線を横断します。
車の方は19号線を左折して南へ向います。

車で来られる方へ
迂回ルート案内「No.2」

中津川市上金の国道19号
「東」
「西」まで
の迂回ルート

青色:迂回ルート  緑色:徒歩ルート

19号線の次の「上金新田」信号で右折

右折したら30mほどで又右折します。

車で来られる方へ

迂回ルート案内「No.2]

小石の混じった舗装がしてある中山道を進みます

合流点から220m程で上神の秋葉権現が左手にあります。

上神秋葉権現

中津川市上金

北緯

35

29

53.2

東経

137

30

52.1

宿場の強敵は火事
秋葉権現は火伏せの神として祀られます。宿場では火事が多く、防火の願いを込めて建立されました。
美濃16宿のあちこちにあります。

中山道の南側にあります。

廿三夜塔

秋葉大権現

文政六年

そばに池がありました。

秋葉権現から150mほど来た右側に番所跡があります

尾張藩白木改番所跡

中津川市上金

北緯

35

29

51.8

東経

137

30

44.8

白木製品は二度改める
与坂立場の東に延享二年(1745年)から天明二年(1782年)に上金に移るまで
「尾州藩白木改番所」ありました。
白木とは桧(ひのき)など木の皮を削った木地のままの木材で、
屋根板、天井板、桶板などに利用したのです。
村人達はこれらと、桧細工で生計を立てましたが、尾州藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、
そのための番所が「白木改番所」でした。

白木改番所跡から90mほどで旭ヶ丘公園へ着ます

旭ヶ丘公園石碑群

中津川市字上金往還上地内

北緯

35

29

50.2

東経

137

30

38.6

中津川を見下ろす高台の公園
中津川市の全体が眺望できる樹木の多い公園で、一隅に天満宮があり、「天神の森」と親しまれたいます。
周辺には数多くの灯籠、庚申塔、石仏、芭蕉句碑、「はだか武兵衛」など江戸時代からの石造物、石仏群が残されています。

公園の向かいにある「たこやき屋」さん、味は中津高校の生徒さんが保証済み!

公園内の石碑群をご案内します。

公園の入り口には東屋があります。 その横に経王書写塔があります。

経王書写塔
この台石の下には、法華経の経文を一字づつ約3cmの丸い小石360個に
墨で書いたものが納めてあります。
江戸時代は文盲が多く、この塔を拝むと読経したのと同じ功徳があるとされ、信仰されました。

建立者
愛知県稲武町の古橋源六郎義伯に嫁いだ、三代 菅井嘉兵衛の長女、伊志が夫の死別後、
盲目になり、髪をおとし仏門に入り一字一石心をこめ法華経を書き上げ実家所有の中山道沿いの
土地に安永八年(1779年)に建立したものです。

銘文は、手賀野 松源寺の八世 菴礼和尚がしたためたものです。

蝶哉句碑

蝶哉句碑
「無為にして 祖田を守る 案山子かな」 八十三叟 蝶哉(ちょうさい) 
昭和29年4月建立 この句は昭和21年(1946年)農地改革直後の作で整然の地主の心境を自ら碑に託したもの。
蝶哉は、明治4年(1871年)市内中村の素封家に生まれ、名を成木長治郎といい、俳句は、はじめ美濃派であったが
菅井馬良(ばりょう)に次いで正岡子規の日本派ホトトギスに参加、 子規なきあと高浜虚子、吉田冬枼らと交わり
かたわら青年時代、京都で学んだ漢詩、印刻、日本画にも打ち込み秀作を残しております。

馬風句碑

馬風句碑
菊折て すててまた折る 山路かな
馬風は、美濃以哉派中津川の四世宗匠の俳名で、
旅籠田丸屋十代目主人、名を肥田九郎兵衛といい、中津川宿最後の庄屋を
勤めた、かたわら俳諧をよくし門人も多く、自らは平田門人になり、市岡殷政
(しげまさ)門秀矩(かずのり)らとともに水戸浪士横田元綱の首埋葬および
東山道軍の先鋒隊にも加わり、明治13年(1880年)67歳で死去。
なお、馬風は「中津川にその人ありと知られた、小野三郎兵衛・・・」
の名で小説「夜明け前」に登場しているそうです。

芭蕉句碑 月塚

芭蕉句碑 月塚
「三井寺の門 敲はや けふの月」 指月亭糸甘拝
元禄4年(1691年)8月15日に近江の国、義仲寺の無明庵にて、
中秋の明月を吟じた句であり、糸甘(しかん)はもと上金台地にあった
茶屋「指月」にかかわりのある女性らしく、
その亭内に建てたものであろうとおもわれる。
これも、大津を思い浮かべて建てられた「すみれ塚」、三井寺観音と
一連のもので、馬風句碑を建てた菅井馬良が園内の淋しさを補うために、
明治15年「指月」への登り坂の現在地へ移建したものです。

秀矩歌碑

秀矩歌碑
「くにのため 死におくれとる 老いの身は
書の林に すむとぞ思う」
 秀矩

広い園内には各所に碑が立っています。

火袋のない灯篭

火袋のない灯篭

 

旭岡神社

中津川市字上金往還上地内旭ヶ丘公園内

北緯

35

29

48.8

東経

137

30

38.4

公園の上には鳥居が並び旭岡神社があります。

本殿の横には絵文字の碑もありました。

標示石
この石は判読もつかないくらい摩滅していますが、貴重なことを伝えています。
はじめに「 石 相和房」、「雪石 囲三」、「涼石 藤朴」、「木賊石 藤井氏」、
「萩石 赤井氏」、「揃石 大島氏」、「右三ケ口、六歌仙塚、とあり6個の石
それぞれの形容を詠んだおかしみのある句が刻まれています。

詳細不明

歯観音

三井寺観音
この変哲のない石仏は、むかしから土地の人には俗に歯観音といって虫歯の痛みを治す
仏と伝えられ、今でも参拝者がいるそうです。
この容姿は滋賀県大津市の天台宗総本山 円城寺にある観音堂の本尊を菅井家の先祖が、故郷をしのぶよすがとして文化年間に彫らせたもので、背を大津に向けて拝顔できるように安置してあるそうです。 ちなみに三井寺は地名が三井と呼ばれていたので広久呼ばれるようになったのでしょう。

公園内のは数多くの石碑があります。

碑石ばかりでなく墓地もあります。

天神碑

間秀矩が茶屋坂、淀川、新町の天神氏子有志に図り、慶応三年(1867年)
儒学者 菅原為栄に依頼し、維新の大綱が定まった翌年に除幕しました。
文のあらましは、江戸時代に起こった各論に対して、
「純粋な日本独自の国学論が必要。それには和歌国の奥深くに、あるのではないか・・・」

天満宮

 

はだか武兵石碑

中津川市字上金往還上地内旭ヶ丘公園内

北緯

35

29

48.8

東経

137

30

38.4

駕籠人足武兵の伝説
武兵衛は鵜沼宿出身の駕籠かきで、ある夜、疫病神と一夜をすごし、兄弟の縁結んだことで秘伝を授かり、
疫病が退散する神通力を身に付けました。
武兵が出向くと疫病が治ると評判になりました。
大湫宿で熱病に苦しむ長州候の姫を一夜で全快させなど、病気を治し、
それ以来各地から頼まれ疫病の人びとを救ったという伝説があります。

石碑の前にはたたくといい音がする「チンチン石」があり、
健康を祈願しお参りするときは、自分の歳の数だけたたくと、悪病退散のご利益あるといわれています。

旭ケ丘公園から中津川宿へ下る坂を「寺坂」と言います。

上金寺坂

中津川市上金

大津出身の菅井家はこの眺めを大津に見立てたのでしょう

寺坂を110m程下ると芭蕉碑があります。

寺坂にある芭蕉句碑

すみれ塚 芭蕉句碑
「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連(すみれ)草」  はせを
松尾芭蕉の句、貞享(じょうきょう)二年(1685年)三月二十七日ころの吟、
前書きに「京都より大津に出る道山路をこえて」と「甲子(かのえね)吟行、別名 野ざらし紀行」にある句で、碑は大津出身の
菅井家先祖が、ここから見た宿場のたたずまいが近似していることから常に、その情景を孫子に語り伝えてきました。

中山道は折れ曲がって(110m)中津川宿へと進みます

三代 菅井嘉兵衛高伯(たかとき)のとき郷愁にふさわしい、この句を選び安永二年(1773年)芭蕉の八十回忌に父祖の
慰霊を兼ね、中山道に面して建てられましたが、30年前に保護するため、道筋からはずし、この場所に移されました。

中津川宿入り口の高札場へ行く前に国道257号線を横断します。

国道257号線横断

中津川市上金

北緯

35

29

49.0

東経

137

30

37.5

国道257号線は信号機はありませんが横断できます。横断して右へ道が曲がり坂を下ります。

この辺りが中津川宿の入口だったのでしょう。中津川高札場が復元されています。

その前に前田青邨(せいそん)画伯の天上絵で有名な「南林寺」へご案内します。
旭ケ丘公園から下ってきた道を真っ直ぐに南へ220mほど向うと南林寺があります。

前田青邨画伯の天井絵
南林寺

中津川市東宮町

北緯

35

29

39.8

東経

137

30

49.4

案内看板が見えたら鋭角に左の参道へ上がります。
100mほどで山門が見えてきます。

こちら側には山門はありません

前田青邨画伯の天上絵は本堂にあります

お願いすれば気軽に拝見させていただけます。
いろいろ工夫しましたが上手く撮影できませんでした。是非訪れてください。

境内には千躰地蔵尊がお祭りしてあります

千躰地蔵尊縁起
地蔵菩薩は釈迦如来が出生するまでの間の五濁悪世無仏世界を救うようゆだねられた菩薩です。

お社もお祀りしてあります。

   

再び先ほどの街道まで戻り更に南へ180m程すすむと右手へ急な坂で下る道があります。
その道を60mほど下ると東円寺があります。

うしろ向き薬師
東円寺

中津川市東宮町8-12

北緯

35

29

36.2

東経

137

30

50.7

後ろ向きにされた薬師如来像
「後ろ向き薬師」と呼ばれる由来は、馬に乗った旅人がこの薬師如来の前を通りかかるとどうしたことかみんな落馬します。
何かの「たたり」を心配した村人が、薬師の「前」を通らないように後向きに安置し、それから落馬することがなくなったとか。

境内から中津川宿の眺め

薬師様の信仰
薬師信仰は今も盛んで、本尊の祭礼は毎年4月8日に心願成就の祈祷が行われており、
耳病などの治癒を願う人々が参詣に訪れます。
安産、母乳授け、出世薬師としても知られています。
城のような立派な石垣の上に東円寺はあります。

本尊の東方出世薬師瑠璃光如来坐像は弘仁五年(814年)最澄の作と言われる、
すぐれた平安仏で国重要文化財です。
この像の前を馬に乗って通ると必ず、落馬したと言われ、
後ろ向きに安置したため「後ろ向き薬師」とも呼ばれています。
東円寺は元和元年(1615年)に創建され、寛文年間(1661〜73年)に現在の場所に移されました。
本尊の薬師信仰は今でも盛んで、耳病、母乳の預け、授けなどで参詣者が訪れます。

岐阜県で最も貴重な薬師如来
千年以上も前に東山道の難所を旅した最澄が祀った薬師如来像で、
岐阜県で最も貴重な古典仏像の一つで国の有形文化財に指定されています。

薬師像は境内の防火蔵に
安置されています。

後ろ向きでなく前向きに
安置されていました。

木造薬師如来坐像
本像は約1mの高さで右手を上げ、左手を膝の上に置き
薬壷を載せていますが、この壷は跡に作られたものです。
造像の様式は寄木造り眼像で、面貌は満月のように円く、
胸部以下はやや扁平の感があり依文の刃法は浅く、
膝も低くなり、藤原時代独特の手法です。

この他に「銅造誕生仏」があります。

詳細不明

先ほどの国道257号線横断箇所まで戻り110mほどで中津川宿内へ入ります。

街道コラム

【一里塚-1】

 昔、街道の両側に1里(約4km)ごとに土を盛り、樹木を植えて、旅人の目印としたものであるが、すでに、戦国時代末期に存在していて、織田信長や豊臣秀吉が作ったとも言われている。

 しかし、慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として、東海、東山、北陸の三道の両側に築いて、制度化されたと考えられている。

 その後、明治時代以降しだいに荒廃し、明治政府により一里塚を売り出し、今日でも原形をとどめているものは少ない。

 旧東海道でも残っているのはわずかで、錦田(静岡県三島市)、大平(愛知県岡崎市)、阿野(愛知県豊明市)、野村(三重県亀山市)の4カ所が国の史跡に指定されている。

 一般的に榎(えのき)を植えた一里塚が多いが、19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、榎(えのき)が一番多くて、過半数を占め、次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱で他の栗(くり)、桜(さくら)、檜(ひのき)、樫(かし)は数本程度しか植えられていない。

             

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。