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中山道六十九次のうち四十五宿目で中山道美濃十六宿の一番目の宿「落合宿」をご案内します

六十九次
のうち
四十五宿

岐阜県中津川市落合

美濃国

JR中央本線落合口駅下車

落合宿巻は、宿入り口の落合宿高札場跡、上町常夜灯、落合宿本陣、落合宿脇本陣跡、見つからない俳人嵩左坊生家
善昌寺の常夜灯、下町角道標、落合村役場跡、向坂地蔵、落合五郎兼行の城跡、杉松稲荷神社、天狗党水戸浪士熊谷三郎の墓、
与坂の立場跡、三五沢橋、子野の一里塚跡、まき坂の覚明神社、などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

              

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
落合宿高札場跡子野橋までの0mを案内します

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)

 滝場の馬頭観音   
↓240m

信州境から1,.9km(江戸から=324.9km)
今須(近江国さかい)まで118.3km

落合宿入り口   
落合宿高札場
↓100m
上町の常夜灯
↓180m
落合本陣  
脇本陣跡   

↓130m
善 昌 寺  
落合役場跡 
下町の道標 
↓ 150m
向坂地蔵  

↓120m
国道19号線横断橋分岐 →
↓ 20m
中山道消滅区間   
↓ 4m
  中山道    ←
↓136m
   杉松稲荷入り口  →
↓ 40m
横 手 橋   
↓110m
中山道消滅区間
     ↓ 20m   →
    中山道     ←
↓530m
与坂の立場跡
↓310m
三五沢橋   
↓ 30m
子野の一里塚跡
↓ 70m
まき坂の馬頭観音
↓ 80m
まき坂の覚明神社
↓ 30m
子野の馬の水のみ場
↓270m
子 野 橋   

230m↓(区間計2.6km)

落合宿(美濃路1番目の宿、江戸から四十五番目)




信州境から2.2km






        落合五郎兼行城址
            ↑
北へ→迂回路この橋を渡り西へ曲がる     →    ↓
                                  ↓
国道19号線横断部分16m(消滅区間No.1)     
                                  ↓
迂回路(終り)←   ← 20mほどで中山道へ     ← 

北へ 70m 杉松稲荷神社



国道19号線 横断部分16m(消滅区間No.2)
西へ(迂回路)途中北側の墓地に熊谷三郎の墓あり
←国道19号線ガード下くぐって左(東へ)        ←





一里塚情報(美濃路2番目、江戸から84番目八十四里)
 
落合一里塚から3,760m







信州境から4.5km(江戸から=327.5km)

 子野の石仏群へ

今須(近江国さかい)まで115.7km

凡例:宿=ピンク、  一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                 

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・落合宿、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

落合宿

落合宿場の概要

尾張藩領、 宿高 四百八拾石、 人口 370人、 家数 75軒、 

旅籠 十四軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、宿の長さ三丁三十五間          

馬篭宿から 一里八町(長野との県境に「落合の一里塚」)

中津川宿まで 一里五町(子野の一里塚)

「岐蘇路安見絵図」による当時の落合宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

落合

左の方 城山あり。 落合五郎兼行居住の跡也
(木曾義仲に仕えた四天王の一人で、地元では「おがらん様」と親しまれています)

火縄名物。(????)

よ坂の台に、尾州より曲物・木類番所あり。
(木曾名物の木製品の移送を取り締まる番所があったのでしょう)

落合より西、猶所猶所坂あれども、既に深山の中を出て、嶮難なくして心やすくなる。
(落合から先は峠があっても木曾よりは安心)

木曽路を出て爰(ここ)に出れば、先ツ我家に帰り着たる心地する。
(木曽路を出れば我が家に着いたような気分になれる)

苗木の城見ゆる。
(苗木城址も、この頁でご案内の予定)

「岐蘇路安見絵図」宝暦六年(1756年)に出版されたもので
当時、それ以前に出版されて人気だったガイドブックの誤りを正したガイドブックとして有名です。
(この「岐蘇路安見絵図」の掲載については所蔵元を明記することで、
2002.10.25に岐阜市歴史博物館から了承を得ました)

江戸から323km
落合宿は、江戸へ八十二里十二町(約323km)、京へ五十二里九町(約205km)の位置にあります。
宿場の長さは三町三十五間(約390m)で家数は七十五軒を数えました。

宿の町筋の中央には用水が流れ、町の中ほどに本陣と脇本陣(共に問屋兼務)があり、本陣 井口家は
尾張徳川家給人の千村氏(久々利方)、脇本陣塚田家は同給人の山村氏(木曾方)の
庄屋も兼ねていました。

二度の大火
江戸方町筋の入り口には、道が直角に曲げられた枡形がつくられ、往還の真中に常夜灯もありました。
文化元年(1804)・十二年(1815)の二度の大火は宿に大きな打撃を与えました。

       歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 落合」(大判錦絵)
         岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号200246−号)
                            説      明 
 馬籠宿と落合宿の間にある十曲(じっこく)峠を越えると、中山道は美濃国に入る。険しい山道が続いた木曽路を終えて、平坦な美濃路へと旅は進む。 十曲峠から長い坂道を下り切ったあたりに落合川があり、落合橋が架かっている。
 本図は、その辺りを描いたものろう。  橋を今渡っているのは大名行列の一行である。 
 はるか遠方に見える青い山は恵那山であろう。 

 

                     落合宿の情景
 落合宿は中山道六十九宿の一つで、江戸板橋の起点から四十四番目で美濃東端の宿場町です。
その昔難所と言われた勾配のきつい十曲峠を下った落合川に架かる大橋(現在は下桁橋しもけたばし)を渡って落合宿に入ります。
 通 りには二百年近くたった古い家が状態よく残されており、いかにも中山道宿場町の雰囲気が漂って、
あたかも旧街道の旅人になった気分になること請け合いです。
 家々の軒下には防火用水を兼ねたきれいな水が勢いよく流れています。
 当時の旅人が手足を洗ったり馬の飲み水として使っていた情景が浮かんでくるようです。

滝場の馬頭観音からこの辻まで来ると落合の高札場跡はすぐです。

落合宿入口辻から30mほどで県道7号線「馬籠線」と交差します。
そこに高札場跡があります

落合宿高札場跡

中津川市落合上町

北緯

35

30

26.0

東経

137

32

11.8

「高さ二間二尺、長さ三間、横七尺で高札六枚を掲げた」と言われています。
落合では高札のことを「御判形(ごはんぎょう)」といい「御判形場」と呼びました。

高札場跡碑への坂

下桁橋から来た道と中央自動車道の落合橋

画面の向こうが下桁橋から来た道
手前が宿場内への道

高札場跡碑

ここからが落合宿です

高札場跡から100mほど宿場内へ入り枡形を曲がった右側に上町の常夜灯があります

落合宿上町常夜灯

中津川市落合上町

北緯

35

30

26.2

東経

137

32

07.9

宿場の出入り口には、一晩中灯りを絶やさず旅人の目印としました。上町の常夜燈は復元されています。

落合宿には昔、防犯を兼ね、各戸順廻りの燈明番により火の災難から救われようと祈願しながら
四基の常夜灯がありました。
文化年間(十八世紀はじめ)に二回も大火に見舞われたことは、落合の宿に多くの常夜灯があったことが要因と
考えられています。

上町の常夜灯
落合宿には四基の常夜灯があり道の中央にあったと言われています。
現在は四基とも移設されています。

上町の常夜灯は寛政四年(1792年)の年号があります。
あとの三基のうち一基はあとで紹介する「善昌寺」の境内にあります。
もう一基は「おがらん様」の愛宕神社にあります。

上町の常夜灯から180mほど宿場内へ進むと落合本陣があります。

落合宿本陣

中津川市落合中町840−1

北緯

35

30

30.7

東経

137

32

02.6

美濃16宿に唯一残る本陣建築
落合宿の本陣は中町にあり、本陣井口家は上り(京都)への荷物を扱う問屋も兼ねていました。
中山道全域に現存する本陣のうちでも当時の姿をとどめた、最も状態がよい建物の一つです。
現在は住宅になっています。

加賀藩から贈られた表門
文化元年(1804年)と同十二年(1815年)の二度、宿大火にあい、その後に改築されました。
母屋(おもや)と入り口は明治天皇行幸(ぎょうこう)のあと改造されていますが、
上段の間は和宮(かずのみや)が休憩されたときのままで、
この部屋からの十曲峠や木曽の山々の眺望はたとえようのないほど美しいそうです。
本陣の表門は文化12年3月の大火の後に、定宿としていた加賀藩前田家から火事見舞いとして贈られた格式高い門です。
七世市川団十郎と追いはぎ
本陣前庭に「七世市川団十郎と雲助」、と書かれた説明板があり、
嘉永四年(1852年)追いはぎに跡をつけられた、七代目市川団十郎が本陣に助けを求め、
難を逃れ、江戸へ帰ってから礼状と品がおくられたとあります。

本陣には商人も泊まっていた。
上の例ばかりでなく落合宿の本陣は商人も泊めていたようです
(定本 中山道美濃十六宿 郷土出版社)

内部は非公開
門構えと玄関の間口は3.1m全体の巾8.2m、扉は欅(ケヤキ)板が4枚。
建物の広さは約440uで中津川市の文化財に指定されています。
一段と高くなっている上段の間は、大名などの居室で、庭との間にある畳をあげると、
三尺(約90cm)四方の非常用抜け穴があり、50m離れた善昌寺裏へ出られると言われていました。

また、壁にはのぞき穴があり、腰板が無く外の様子がわかる仕組みや、
隠れて警護できるよう小姓の間天上の隅が上に開くなど、敵襲に備えた工夫が随所に施されています。

いざというときの避難口
本陣、脇本陣、旅籠14軒という小さな宿場だったので、大通行の時には一般の民家が宿となり、
高福寺、善昌寺も宿方を務めたとされています。本陣の上段の間には畳を上げると抜け穴があり、善昌寺裏に逃れることができました。

二度の大火
本陣母屋はすべて漆喰で塗り固められています。

中津川市内には約15kmの中山道が東西に延び、中津川と落合の二つの宿場町がありました。
両宿の距離は中山道の宿場の中では、一番短く約一里(約3.9km)しかありませんでした。
中山道六十七宿全部が整備されたのは十七世紀の終りとされたていますが、
両宿場とも新たに造られた宿場でなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。

落合宿脇本陣跡

中津川市落合中町

北緯

35

30

30.1

東経

137

32

03.0

本陣の向かいにあります。

江戸から数えて四十四番めの落合宿は信濃国から美濃国へ入る最初の宿場町で、宿の長さは三町三十五間(約390m)
宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約七十戸ほどでした。

以下の2件は調査中

泉屋卯建(うだつ)

中津川市落合中町

島崎藤村『夜明け前』の稲葉屋
落合宿本陣の東隣にある、卯建と格子窓の民家は、『夜明け前』の主人公青山半蔵の内弟子林勝重の生家でした。
作品では稲葉屋として登場するが、泉屋という酒造業を営んでいた。
勝重は落合村戸長もつとめていました。

俳人嵩左坊生家跡

中津川市落合中町

本陣近くに蕉門美濃派の俳人嵩左坊の生家がありました。
家屋は現存しませんが、泉屋と名乗り代々造り酒屋を営んで、村の年寄役も務めていました。
父由清も俳人で、左坊は父を助けて医王寺の再建などを行い、千村家に俳諧の指南役として勤めていました。

天保六年(1835年)に入り婿に家督を譲り、信州から江戸、東北へと、回る旅に出て、句集「花雪集」を刊行しました。

本陣から130mほどで善昌寺へ出ます。

善昌寺

中津川市落合下町

北緯

35

30

35.5

東経

137

31

58.3

「門冠の松」
山門にある老松は門冠の松とも路上の松とも呼ばれ根回り2m30cmの名木です。
曹洞宗の善昌寺は慶長五年(1600年)の創建で武士儀郡関村にある龍泰寺の末寺です。
明治24年(1892年)の道路拡張工事で寺の一部が道路となり、寺は東へ移設されました。
境内にあった松はそのまま残されましたが、創建当時は山門を覆っていたことから「門冠の松」と呼ばれています。

中山道は、ここで左へ折れ曲がり、真直ぐの道はありませんでした。
明治24年(1892年)に山口街道が開かれたため、
今の道路上にあった寺の山門は現在の位置に移築されました。

山門の碑には宝暦五年乙亥(きのとゐ)の年号があります。

境内には御膳水の井戸があり明治天皇が明治十三年御巡幸の途中使用されました。
慶長五年(1600年)の創建と伝えられ、享保十年(1725年)の名号碑や元禄八年(1695年)の弥靭像などの石造物があるそうです。
また、明治天皇行幸時の御膳井戸があり、上町の道路の中央に四基並んでいた常夜灯の一基と寺前には老松があります。

善昌寺前に落合村役場跡があり、今は公園になっています。

落合村役場跡

中津川市落合下町

北緯

35

30

35.7

東経

137

31

58.0

   

善昌寺と落合役場跡で中山道は西へ曲がります。
その角に下町の道標があります。

落合宿下町道標

中津川市落合下町

北緯

35

30

35.6

東経

137

31

58.1

旅の交通標識
街道には旅人の目につきやすい場所に、方向や行先などを印した道標が立てられました。宿場内にもおかれました

明治中頃の道標と西京
「右至 中山道中津町 一里」は明治になってからの道標です。
中山道に或る多くの道標は明治24年頃に整備されたものが多いようです。
これは、東海道線も全通せず、まだ江戸時代からの街道による物流が主体だったためです。
江戸が東京に変わったので、京は西京と表現されてるものが多いようです。

ガイドブックによると向坂あたりに地蔵尊がお祀りしてあるとのことですが坂の途中にあるものでしょうか
下町の道標から150mほどです。

向坂地蔵

中津川市落合向町

北緯

35

30

33.5

東経

137

31

53.4

地蔵仏は新しいようですが作り直されたのでしょうか。

ガイドブックによる説明 向町の地蔵尊向町の馬頭観音
町なかの観音様
馬とともに生活する人々の中に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり、また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり,
そんな理由で馬頭観音は作られたと考えられます。
中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。
中津川市落合向町)

さらに向坂を120mほど登りきると国道19号線上に出ます。

19号線手前

中津川市落合向町

北緯

35

30

31.8

東経

137

31

49.6

中山道は真っ直ぐに坂を下りますが国道は横断できません。 右折して橋を渡り国道19号線を横断します。 

中山道美濃路消滅区間第一号

 

No.2 中山道車両通行不能区間16m

 
 

中津川市落合向町

 

中津川市落合
向町
国道19号線南

中津川市落合
向町
国道19号線北

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

国道19号線を横断すると「おがらん(御伽藍)様」があります。

落合五郎兼行の(おがらん)城跡

中津川市落合向町

北緯

35

30

33.6

東経

137

31

49.2

木曽義仲に仕えた落合五郎
木曽義仲の家臣で“四天王”のひとりといわれた落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされます。

 父義兼が源義平に殺され、3歳だった木曽義仲は母に抱かれて木曽に逃れ、信濃守中原兼遠に育てられました。
その三男であった落合五郎兼行は義仲に仕え落合に居城を構え、美濃口を固めました。
しかし、 義仲と共に討ち死にした兄「兼平」の弔い合戦に臨み、戦死しました。
地元では「おがらん様」と親しまれています。
平安時代の終りの頃、木曾義仲の家来であった落合五郎兼行は、平安物語巻七寿 永二年(1183年
五月の「火打ち合戦」の頃に名を連ねているが、出自は中原兼遍の末子ある説や
中原一族説などがあるが、木曾義仲に仕えていたことは事実と思われます。
館跡とされている所は、「オガラン」と呼ばれ「伽藍」(大きな寺)という言葉からきたと推定されます。
ここからは、縄文土器をはじめ8世紀から9世紀のものと思われる幣の石製模造品、
古代掘立柱建築遺構などが発見され、
東山道と深いかかわりがあった場所であると推定されます。
また、天神社、愛宕神社、山ノ神神社などもあり、江戸時代の石造物も残されています。

一部消えた中山道を迂回して「おがらん様」前の道を下り中山道へ合流します。

国道19号線の北側

中津川市落合向町

北緯

35

30

32.6

東経

137

31

49.2

「おがらん様」から道を下り中山道と合流し北へ曲がります。
道はカーブしながら西へ向い140mほど進むと杉松稲荷神社の道へ出ます。

杉松稲荷神社

中津川市落合向町

北緯

35

30

33.1

東経

137

31

41.5

住宅と住宅との間の狭い道が参道です

参道は住宅の軒下を通り畑の間の道へと続きます

分岐してから70mほどで稲荷の鳥居があります

 

参道の両側には沢山の墓石があります

稲荷から中山道に戻り40m程進むと道標を兼ねた「横手橋」を渡ります。

落合与坂横手橋

中津川市落合与坂

北緯

35

30

33.1

東経

137

31

41.5

西 美濃、京都方面   東 木曾、東京方面 の文字が欄干にあります。

横手橋から110mほどで坂に差し掛かります。

国道19号線手前

中津川市落合与坂

北緯

35

30

31.9

東経

137

31

39.4

急なS字カーブを上がると国道19号線に出ます。

国道は中央分離帯があり横断できません

国道19号には合流できますが、横断は出来ません。
迂回路は真っ直ぐに西へ進みます。

迂回路を西に70mほど進むとすぐ北(右)に「西山墓地」があり

この墓地に幕末の攘夷派天狗党の水戸浪士、熊谷三郎の墓があります。

天狗党水戸浪士
熊谷三郎の墓

中津川市落合西山墓地

北緯

35

30

32.8

東経

137

31

37.7

水戸浪士が眠る
筑波山で挙兵した天狗党は、京都に向う途中、元治元年(1864年)、馬篭宿と落合宿に分宿しました。
水戸浪士で隊員の一人、熊谷三郎は隊の規律を乱したかどで仲間に斬首されました。
墓は昭和6年(1931年)、善昌寺十二代住職と落合宿有志4人がに建立したものです。

迂回路

西へ進んで坂を下ると国道19号の下をくぐる道に出ます

中山道美濃路消滅区間第2号

 

No.3 中山道車両通行不能区間16m

 
 

中津川市西山与坂

 

中津川市落合
与坂
国道19号線北

中津川市落合
与坂
国道19号線南

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

60mほどで左折し国道19号線下のガードをくぐり左折します。
迂回路は全長で160mほどです

国道19号線南側

中津川市落合与坂

北緯

35

30

31.1

東経

137

31

39.3

ガードをくぐって上がると中山道へ出ます

ヘヤピンカーブを曲がり与坂を上がります

国道19号線の地下道を抜けると急に坂になり、これが「与坂」です。

与坂の番所跡

 位置や規模については明らかでないが、延享二年(1745)に置かれた与坂番所はこの近くである。
 この番所は天明二年(1782)に中津川の上金に移された。

 

 

19号線ガードをくぐり530mほどの北側(右)に与坂の立場跡があります。

与坂立場跡

中津川市落合与坂

北緯

35

30

23.1

東経

137

31

23.6

              黄金が出る越前屋の井戸
 
坂の頂(いただき)に人足が駕籠や馬を止めて休む場所があり、越前屋という茶屋がありました。
名物は米粉のもちに黒砂糖を塗った三文餅で、越前屋の裏の井戸から黄金が湧き出ると言う噂が出るほど、よく売れたと言われています。
                          落合宿の名物
 そのころ、落合宿の名物として与坂の三文餅、横手のわらじに田中の馬のくつ、扇屋膳めしゃ盛がええ   櫻屋豆腐に此吉(このよし)こんにゃく板屋寿司、青膏(せいこう)吸出し、金創(刀きずのこと)は狐膏薬山中薬師、水に消えない鉄砲の火縄」と唱えられてた。

与坂の立場跡の向かいに地蔵堂があります

この地蔵堂の下に馬の水飲み場らしき跡があります。

 ここから急な坂が続きます。

三五沢が中津川村との境
310m
ほど急な坂を下ると三五沢を渡ります。 この沢が落合と中津川の境になります。

三五沢橋

中津川市落合と旧中津川の境

北緯

35

30

16.4

東経

137

31

19.3

与坂の急坂を下りると落合と中津川の境をへだてる三五沢川を渡ります。
ここから中津川宿までの約2kmは、地蔵などの石造物が立ち並び、「石仏の道」といわれたいます。

三五沢橋から30mほどの左に一里塚跡碑が見えます。

子野(この)の一里塚跡

中津川市子野(この)

北緯

35

30

15.2

東経

137

31

18.9

江戸から84番目八十四里(326km)。 美濃路では2番目 信州国境から一里(4km

振り合えると一里塚の向こうの与坂の山が見えます。

一里塚を過ぎて、登る坂を「まき坂」と言います。

まき坂

中津川市落合子野

北緯

35

30

05.9

東経

137

31

12.7

子野の一里塚から70mほどのまき坂の途中に馬頭観音があります

まき坂の馬頭観音

中津川市落合子野

北緯

35

30

09.9

東経

137

31

14.7

中山道の左側の石垣の上にあります。

中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。

 

元禄八年と読めます

馬頭観音碑は文字が読めません

「子野一里塚」から80mほどの「まき坂」を登りきった右手にある神社が「覚明神社」です。

覚明神社

中津川市落合子野

北緯

35

30

14.1

東経

137

31

16.9

御岳開山
その後行者は御嶽山への通路を開き、頂上にて大往生を遂げたと伝えられています。
開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭ったといわれています。

尾張の行者「覚明」
天明5年(1785年)5月5日に尾張の人覚明行者は、木曽御嶽山を開くため中山道を通り、まき坂の茶屋で泊まり、
主人佐次兵衛のもてなしを受けました。
その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈りました。

覚明神社を30m程下ると左側に井戸があります。その横に古い石垣で出来た枡があります。
昔の馬の水のみ場ではないでしょうか。

子野の
「馬の水のみ場井戸」

中津川市落合子野

北緯

35

30

13.3

東経

137

31

16.8

「馬の水のみ場」から270mほど中山道を西へ進むと子野橋を渡ります。

子野橋

中津川市落合子野

北緯

35

30

11.3

東経

137

31

15.8

詳細不明

子野橋を渡り230mほど進むと子野の石仏群へ出ます。
もうすぐ中津川宿です

街道コラム

【宿場】

宿場の起源は奈良・平安時代
 宿駅ともいい、古代、奈良・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって整備されていったが、江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取扱うため設定された町場をいいます。
 近世の宿場の整備は徳川家康によって、関ヶ原の合戦後に始められ、先ず東海道、続いて中山道と順次進められていきました。

 東海道では、慶長6年(1601)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道53次が始まった。
 しかし、全部が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて一番最後に庄野宿ができたのは、寛文元年(1624)でした。
 宿場では公用人馬継立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴するようになりました。

 又、公武の宿泊、休憩のため問屋場、本陣脇本陣などがおかれた。これらの公用のための労役、業務については利益を上げることは難しかったが、幕府は地子免除、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることによって、宿場の保護育成に努めました。
 ほかに一般旅行者を対象とする旅籠屋、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげました。

「宿場制廃止」令
 明治三年(1870年)閏10月、民部省布告による「宿場制廃止」令により宿場の歴史は閉じられました。

 その後も旅人は、歩いての旅でしたので宿場制は廃止されても宿場は必要とされていましたが、鉄道開通などによって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなりほとんどの宿場は衰微していきました。

             

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。