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中山道六十九次のうち四十五宿目で中山道美濃十六宿の一番目の宿「落合宿」をご案内します
六十九次 |
岐阜県中津川市落合 美濃国 JR中央本線落合口駅下車 |
落合宿巻は、宿入り口の落合宿高札場跡、上町常夜灯、落合宿本陣、落合宿脇本陣跡、見つからない俳人嵩左坊生家、
善昌寺の常夜灯、下町角道標、落合村役場跡、向坂地蔵、落合五郎兼行の城跡、杉松稲荷神社、天狗党水戸浪士熊谷三郎の墓、
与坂の立場跡、三五沢橋、子野の一里塚跡、まき坂の覚明神社、などをGPS位置情報と共に、ご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください) |
滝場の馬頭観音 ↓240m |
信州境から1,.9km(江戸から=324.9km) |
落合宿入り口 落合宿高札場 ↓100m 上町の常夜灯 ↓180m 落合本陣 脇本陣跡 ↓130m 善 昌 寺 落合役場跡 下町の道標 ↓ 150m 向坂地蔵 ↓120m 国道19号線横断橋分岐 → ↓ 20m 中山道消滅区間 ↓ 4m 中山道 ← ↓136m 杉松稲荷入り口 → ↓ 40m 横 手 橋 ↓110m 中山道消滅区間 ↓ 20m → 中山道 ← ↓530m 与坂の立場跡 ↓310m 三五沢橋 ↓ 30m 子野の一里塚跡 ↓ 70m まき坂の馬頭観音 ↓ 80m まき坂の覚明神社 ↓ 30m 子野の馬の水のみ場 ↓270m 子 野 橋 230m↓(区間計2.6km) |
落合宿(美濃路1番目の宿、江戸から四十五番目) |
子野の石仏群へ |
今須(近江国さかい)まで115.7km |
凡例:宿=ピンク、 一里塚=青、 石畳=茶、 トイレ情報=黒 車不通情報=赤、 中山道消滅区間=赤 |
上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・落合宿、印刷用)”で
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。
落合宿 |
落合宿場の概要 尾張藩領、 宿高 四百八拾石、 人口 370人、 家数 75軒、 旅籠 十四軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、宿の長さ三丁三十五間 馬篭宿から 一里八町(長野との県境に「落合の一里塚」) 中津川宿まで 一里五町(子野の一里塚) |
「岐蘇路安見絵図」による当時の落合宿の解説は
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落合 左の方 城山あり。 落合五郎兼行居住の跡也 火縄名物。(????) よ坂の台に、尾州より曲物・木類番所あり。 落合より西、猶所猶所坂あれども、既に深山の中を出て、嶮難なくして心やすくなる。 木曽路を出て爰(ここ)に出れば、先ツ我家に帰り着たる心地する。 苗木の城見ゆる。 「岐蘇路安見絵図」は宝暦六年(1756年)に出版されたもので |
江戸から323km 宿の町筋の中央には用水が流れ、町の中ほどに本陣と脇本陣(共に問屋兼務)があり、本陣
井口家は 二度の大火 |
歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 落合」(大判錦絵) |
落合宿の情景 |
滝場の馬頭観音からこの辻まで来ると落合の高札場跡はすぐです。
落合宿入口辻から30mほどで県道7号線「馬籠線」と交差します。
そこに高札場跡があります
落合宿高札場跡 中津川市落合上町 |
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「高さ二間二尺、長さ三間、横七尺で高札六枚を掲げた」と言われています。
落合では高札のことを「御判形(ごはんぎょう)」といい「御判形場」と呼びました。
高札場跡碑への坂 |
下桁橋から来た道と中央自動車道の落合橋 |
画面の向こうが下桁橋から来た道 |
高札場跡碑 |
ここからが落合宿です
高札場跡から100mほど宿場内へ入り枡形を曲がった右側に上町の常夜灯があります
落合宿上町常夜灯 中津川市落合上町 |
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宿場の出入り口には、一晩中灯りを絶やさず旅人の目印としました。上町の常夜燈は復元されています。
落合宿には昔、防犯を兼ね、各戸順廻りの燈明番により火の災難から救われようと祈願しながら |
上町の常夜灯 落合宿には四基の常夜灯があり道の中央にあったと言われています。 現在は四基とも移設されています。 上町の常夜灯は寛政四年(1792年)の年号があります。 |
上町の常夜灯から180mほど宿場内へ進むと落合本陣があります。
落合宿本陣 中津川市落合中町840-1 |
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美濃16宿に唯一残る本陣建築
落合宿の本陣は中町にあり、本陣井口家は上り(京都)への荷物を扱う問屋も兼ねていました。
中山道全域に現存する本陣のうちでも当時の姿をとどめた、最も状態がよい建物の一つです。
現在は住宅になっています。
加賀藩から贈られた表門 文化元年(1804年)と同十二年(1815年)の二度、宿大火にあい、その後に改築されました。 母屋(おもや)と入り口は明治天皇行幸(ぎょうこう)のあと改造されていますが、 上段の間は和宮(かずのみや)が休憩されたときのままで、 この部屋からの十曲峠や木曽の山々の眺望はたとえようのないほど美しいそうです。 本陣の表門は文化12年3月の大火の後に、定宿としていた加賀藩前田家から火事見舞いとして贈られた格式高い門です。 |
七世市川団十郎と追いはぎ 本陣前庭に「七世市川団十郎と雲助」、と書かれた説明板があり、 嘉永四年(1852年)追いはぎに跡をつけられた、七代目市川団十郎が本陣に助けを求め、 難を逃れ、江戸へ帰ってから礼状と品がおくられたとあります。 本陣には商人も泊まっていた。 |
内部は非公開 門構えと玄関の間口は3.1m全体の巾8.2m、扉は欅(ケヤキ)板が4枚。 建物の広さは約440㎡で中津川市の文化財に指定されています。 一段と高くなっている上段の間は、大名などの居室で、庭との間にある畳をあげると、 三尺(約90cm)四方の非常用抜け穴があり、50m離れた善昌寺裏へ出られると言われていました。 また、壁にはのぞき穴があり、腰板が無く外の様子がわかる仕組みや、 |
いざというときの避難口
本陣、脇本陣、旅籠14軒という小さな宿場だったので、大通行の時には一般の民家が宿となり、
高福寺、善昌寺も宿方を務めたとされています。本陣の上段の間には畳を上げると抜け穴があり、善昌寺裏に逃れることができました。
二度の大火 本陣母屋はすべて漆喰で塗り固められています。 |
中津川市内には約15kmの中山道が東西に延び、中津川と落合の二つの宿場町がありました。
両宿の距離は中山道の宿場の中では、一番短く約一里(約3.9km)しかありませんでした。
中山道六十七宿全部が整備されたのは十七世紀の終りとされたていますが、
両宿場とも新たに造られた宿場でなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。
落合宿脇本陣跡 中津川市落合中町 |
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本陣の向かいにあります。 |
江戸から数えて四十四番めの落合宿は信濃国から美濃国へ入る最初の宿場町で、宿の長さは三町三十五間(約390m)、
宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約七十戸ほどでした。
以下の2件は調査中
泉屋の卯建(うだつ) 中津川市落合中町 |
島崎藤村『夜明け前』の稲葉屋
落合宿本陣の東隣にある、卯建と格子窓の民家は、『夜明け前』の主人公青山半蔵の内弟子林勝重の生家でした。
作品では稲葉屋として登場するが、泉屋という酒造業を営んでいた。
勝重は落合村戸長もつとめていました。
俳人嵩左坊生家跡 中津川市落合中町 |
本陣近くに蕉門美濃派の俳人嵩左坊の生家がありました。
家屋は現存しませんが、泉屋と名乗り代々造り酒屋を営んで、村の年寄役も務めていました。
父由清も俳人で、左坊は父を助けて医王寺の再建などを行い、千村家に俳諧の指南役として勤めていました。
天保六年(1835年)に入り婿に家督を譲り、信州から江戸、東北へと、回る旅に出て、句集「花雪集」を刊行しました。
本陣から130mほどで善昌寺へ出ます。
善昌寺 中津川市落合下町 |
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「門冠の松」 山門にある老松は門冠の松とも路上の松とも呼ばれ根回り2m30cmの名木です。 曹洞宗の善昌寺は慶長五年(1600年)の創建で武士儀郡関村にある龍泰寺の末寺です。 明治24年(1892年)の道路拡張工事で寺の一部が道路となり、寺は東へ移設されました。 境内にあった松はそのまま残されましたが、創建当時は山門を覆っていたことから「門冠の松」と呼ばれています。 |
中山道は、ここで左へ折れ曲がり、真直ぐの道はありませんでした。 山門の碑には宝暦五年乙亥(きのとゐ)の年号があります。 |
境内には御膳水の井戸があり明治天皇が明治十三年御巡幸の途中使用されました。 慶長五年(1600年)の創建と伝えられ、享保十年(1725年)の名号碑や元禄八年(1695年)の弥靭像などの石造物があるそうです。 また、明治天皇行幸時の御膳井戸があり、上町の道路の中央に四基並んでいた常夜灯の一基と寺前には老松があります。 |
善昌寺前に落合村役場跡があり、今は公園になっています。
落合村役場跡 中津川市落合下町 |
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善昌寺と落合役場跡で中山道は西へ曲がります。
その角に下町の道標があります。
落合宿下町道標 中津川市落合下町 |
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旅の交通標識
街道には旅人の目につきやすい場所に、方向や行先などを印した道標が立てられました。宿場内にもおかれました
明治中頃の道標と西京 |
ガイドブックによると向坂あたりに地蔵尊がお祀りしてあるとのことですが坂の途中にあるものでしょうか
下町の道標から150mほどです。
向坂地蔵 中津川市落合向町 |
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地蔵仏は新しいようですが作り直されたのでしょうか。 |
ガイドブックによる説明 向町の地蔵尊向町の馬頭観音 |
さらに向坂を120mほど登りきると国道19号線上に出ます。
19号線手前 中津川市落合向町 |
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中山道は真っ直ぐに坂を下りますが国道は横断できません。 右折して橋を渡り国道19号線を横断します。 |
中山道美濃路消滅区間第一号
No.2 中山道車両通行不能区間=16m |
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中津川市落合向町 |
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中津川市落合 |
中津川市落合 |
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迂回ルート(青)、中山道=緑 |
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国道19号線を横断すると「おがらん(御伽藍)様」があります。
落合五郎兼行の(おがらん)城跡 中津川市落合向町 |
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木曽義仲に仕えた落合五郎 木曽義仲の家臣で“四天王”のひとりといわれた落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされます。 父義兼が源義平に殺され、3歳だった木曽義仲は母に抱かれて木曽に逃れ、信濃守中原兼遠に育てられました。 その三男であった落合五郎兼行は義仲に仕え落合に居城を構え、美濃口を固めました。 しかし、 義仲と共に討ち死にした兄「兼平」の弔い合戦に臨み、戦死しました。 地元では「おがらん様」と親しまれています。 |
平安時代の終りの頃、木曾義仲の家来であった落合五郎兼行は、平安物語巻七寿 永二年(1183年) 五月の「火打ち合戦」の頃に名を連ねているが、出自は中原兼遍の末子ある説や 中原一族説などがあるが、木曾義仲に仕えていたことは事実と思われます。 館跡とされている所は、「オガラン」と呼ばれ「伽藍」(大きな寺)という言葉からきたと推定されます。 |
ここからは、縄文土器をはじめ8世紀から9世紀のものと思われる幣の石製模造品、 古代掘立柱建築遺構などが発見され、 東山道と深いかかわりがあった場所であると推定されます。 また、天神社、愛宕神社、山ノ神神社などもあり、江戸時代の石造物も残されています。 |
一部消えた中山道を迂回して「おがらん様」前の道を下り中山道へ合流します。
国道19号線の北側 中津川市落合向町 |
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「おがらん様」から道を下り中山道と合流し北へ曲がります。
道はカーブしながら西へ向い140mほど進むと杉松稲荷神社の道へ出ます。
杉松稲荷神社 中津川市落合向町 |
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住宅と住宅との間の狭い道が参道です |
参道は住宅の軒下を通り畑の間の道へと続きます |
分岐してから70mほどで稲荷の鳥居があります |
参道の両側には沢山の墓石があります |
稲荷から中山道に戻り40m程進むと道標を兼ねた「横手橋」を渡ります。
落合与坂横手橋 中津川市落合与坂 |
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西 美濃、京都方面 東 木曾、東京方面 の文字が欄干にあります。 |
横手橋から110mほどで坂に差し掛かります。
国道19号線手前 中津川市落合与坂 |
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急なS字カーブを上がると国道19号線に出ます。 |
国道は中央分離帯があり横断できません |
国道19号には合流できますが、横断は出来ません。 |
迂回路を西に70mほど進むとすぐ北(右)に「西山墓地」があり
この墓地に幕末の攘夷派天狗党の水戸浪士、熊谷三郎の墓があります。
天狗党水戸浪士 中津川市落合西山墓地 |
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水戸浪士が眠る 筑波山で挙兵した天狗党は、京都に向う途中、元治元年(1864年)、馬篭宿と落合宿に分宿しました。 水戸浪士で隊員の一人、熊谷三郎は隊の規律を乱したかどで仲間に斬首されました。 墓は昭和6年(1931年)、善昌寺十二代住職と落合宿有志4人がに建立したものです。 |
迂回路
西へ進んで坂を下ると国道19号の下をくぐる道に出ます |
中山道美濃路消滅区間第2号
No.3 中山道車両通行不能区間=16m |
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中津川市西山与坂 |
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中津川市落合 |
中津川市落合 |
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迂回ルート(青)、中山道=緑 |
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60mほどで左折し国道19号線下のガードをくぐり左折します。
迂回路は全長で160mほどです
国道19号線南側 中津川市落合与坂 |
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ガードをくぐって上がると中山道へ出ます |
ヘヤピンカーブを曲がり与坂を上がります |
国道19号線の地下道を抜けると急に坂になり、これが「与坂」です。
与坂の番所跡 |
位置や規模については明らかでないが、延享二年(1745)に置かれた与坂番所はこの近くである。 この番所は天明二年(1782)に中津川の上金に移された。 |
19号線ガードをくぐり530mほどの北側(右)に与坂の立場跡があります。
与坂立場跡 中津川市落合与坂 |
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黄金が出る越前屋の井戸 |
与坂の立場跡の向かいに地蔵堂があります
この地蔵堂の下に馬の水飲み場らしき跡があります。
ここから急な坂が続きます。 |
三五沢が中津川村との境
310mほど急な坂を下ると三五沢を渡ります。 この沢が落合と中津川の境になります。
三五沢橋 中津川市落合と旧中津川の境 |
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与坂の急坂を下りると落合と中津川の境をへだてる三五沢川を渡ります。 ここから中津川宿までの約2kmは、地蔵などの石造物が立ち並び、「石仏の道」といわれたいます。 |
三五沢橋から30mほどの左に一里塚跡碑が見えます。
子野(この)の一里塚跡 中津川市子野(この) |
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江戸から84番目八十四里(326km)。 美濃路では2番目 信州国境から一里(4km) |
振り合えると一里塚の向こうの与坂の山が見えます。
一里塚を過ぎて、登る坂を「まき坂」と言います。
まき坂 中津川市落合子野 |
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子野の一里塚から70mほどのまき坂の途中に馬頭観音があります
まき坂の馬頭観音 中津川市落合子野 |
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中山道の左側の石垣の上にあります。 |
中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。 |
元禄八年と読めます |
馬頭観音碑は文字が読めません |
「子野一里塚」から80mほどの「まき坂」を登りきった右手にある神社が「覚明神社」です。
覚明神社 中津川市落合子野 |
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御岳開山
その後行者は御嶽山への通路を開き、頂上にて大往生を遂げたと伝えられています。
開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭ったといわれています。
尾張の行者「覚明」 天明5年(1785年)5月5日に尾張の人覚明行者は、木曽御嶽山を開くため中山道を通り、まき坂の茶屋で泊まり、 主人佐次兵衛のもてなしを受けました。 |
その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈りました。 |
覚明神社を30m程下ると左側に井戸があります。その横に古い石垣で出来た枡があります。
昔の馬の水のみ場ではないでしょうか。
子野の 中津川市落合子野 |
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「馬の水のみ場」から270mほど中山道を西へ進むと子野橋を渡ります。
子野橋 中津川市落合子野 |
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詳細不明 |
子野橋を渡り230mほど進むと子野の石仏群へ出ます。
もうすぐ中津川宿です
街道コラム
【宿場】宿場の起源は奈良・平安時代 東海道では、慶長6年(1601)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道53次が始まった。 又、公武の宿泊、休憩のため問屋場、本陣、脇本陣などがおかれた。これらの公用のための労役、業務については利益を上げることは難しかったが、幕府は地子免除、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることによって、宿場の保護育成に努めました。 「宿場制廃止」令 その後も旅人は、歩いての旅でしたので宿場制は廃止されても宿場は必要とされていましたが、鉄道開通などによって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなりほとんどの宿場は衰微していきました。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。