いよいよ「新茶屋の一里塚」と「信濃国・美濃国境界碑」のある新茶屋から中山道美濃路へ入ります
六十九次 |
岐阜県中津川市落合 美濃国 JR中央本線落合口駅下車 |
落合の石畳巻は、信濃・美濃国境碑、江戸から83番目の新茶屋の一里塚と石碑群、十曲(つづらおれ)峠、
落合の石畳、お寺の鐘を鋳込んだと言われる「かねいり場跡」の馬頭観音、刀傷によく効く狐膏薬で有名だった山中薬師の医王寺、
見当たらない山中の馬頭観音、馬頭観音と飯田道の道標がある滝場、広重の中山道「落合」の浮世絵の舞台「下桁橋」、
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。..
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
新茶屋には句碑群のほかに御宿「新茶屋」と旅館と喫茶店兼業の「梅の家」があります。
昔は茶屋があったところからこの地名がつきました。 |
長野県側のもう一軒は旅館兼喫茶店です。是非ひと休みしてください |
まず信州側の新茶屋付近をご案内します。
振り返って見る信濃路
国境碑の信州側に松尾芭蕉句碑と島崎藤村の木曽路碑があります。
信濃(長野県)側 長野県木曽郡山口村新茶屋 |
松尾芭蕉碑 | ||||
「送られつ 送りつ果ては 木曾の穐(あき)」 | ||||
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島崎藤村の木曽路碑
是より北木曽路石碑
昭和十五年(1940)七月、当時68歳だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものです。 この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して、昭和32年(1957)11月に建立されたものです。 |
現代道標や水洗トイレも整備されています。
中山道・美濃路トイレ1 |
ここには休憩所と綺麗に掃除がされた無料水洗トイレがあり このHPでは、これ以降「今須宿」までの間にある中山道用 |
馬籠宿まで1.9km 落合宿まで2.1km |
「新茶屋」の由来 この辺りの地名を「新茶屋」と言うのは、かっての茶屋は、ここから岐阜県側に 数百mほど入った場所にありましたが、あまりにも急な坂を解消するため、 明和八年(1771)に新道に付け替えられ、茶屋を移し変え、新しい茶屋が できこの地名になりました。 |
美濃路はこの国境碑から始まります。
信州・美濃国境の碑 中津川市落合新茶屋 |
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ここが信濃国(長野県)と美濃国(岐阜県)の国境です。
ここから西が美濃国となります。
国境碑は比較的新しく平成六年建立です。 |
国境碑手前の道路舗装の右が長野県、左が岐阜県 |
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「新茶屋」の美濃国側には「新茶屋の一里塚」があります。
美濃(岐阜県)側 中津川市落合新茶屋 |
「新茶屋一里塚」
ここから美濃
一里塚は街道に1里(4km)ごとに立てた里程標。
ここからが岐阜県の中山道「美濃路」のはじまりです。
新茶屋の一里塚
天保〜安政時代(1830〜1860)には右(江戸より京に向き)松、左は無しでしたが
復元された一里塚は本物よりは小ぶりで「右 松」、「左 榎」が植えられています。
自然石の表面に「一里塚古跡」と刻まれていますが、 |
「御分間御延絵図」写し |
「一里塚古跡」碑は比較的新しく昭和32年(1957)の碑です。 |
徳川秀忠の宿駅制度
一里塚とは慶長九年(1604)二月、徳川秀忠が諸街道を整備する際、日本橋を起点とする
東海道、中山道、甲州街道などの各街道の一里ごと(約3.9km)に築かせた塚のことです。
これは街道の左右に「方五間(約9.1m四方)の塚」を築き、榎か松を植え、
旅の行程や駄賃・運賃の目安となるようにするとともに、休息の場所ともなるようにしました。
左塚 |
右塚 |
では中山道美濃路の旅に出発しましょう
信濃との国境いから落合宿東口までの中山道沿いの案内図
本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください) |
馬篭宿 ↓2100m |
江戸から四十四宿目 |
国 境 碑 新茶屋一里塚 無料トイレ ↓120m 落合の石畳分岐点 → ↓ 10m 車両通行止め(始まり) 落合の石畳 660m 車両通行止め(終り) ↓ 50m かねいり場跡 ← ↓260m 山中薬師の医王寺 ↓520m 下 桁 橋 ↓ 20m 滝場の馬頭観音 240m↓(区間計1.9km) |
今須(近江国さかい)まで120.2km |
落合宿 落合宿高札場 |
江戸から四十五宿目 |
凡例:宿=ピンク、 一里塚=青、 石畳=茶、 トイレ情報=黒 車不通情報=赤、 中山道消滅区間=赤 |
上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・落合の石畳、印刷用)”で
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用下さい。
平成17年に越県合併を記念して新たに整備された石畳が生まれました。
落合の石畳 中津川市落合1447 |
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新しい石畳は「新茶屋の一里塚」すぐから始まります(もちろん車両通行止めです) | |
落合石畳遊歩道(全長120m) 平成17年2月、当市(中津川市)は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により新中津川として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬込宿の三宿場となりました。 この場所から久長野県境までの焼く120m間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備いたしました。(この事業は、岐阜県からの補助金を受けて整備したものです) (平成17年10月中津川市 現地説明版より) |
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120mほどの石畳を下ると「新茶屋の一里塚」からのバス道へ出ます。 バス道を横断すると、今までの石畳へ出でます。 |
この付近から落合宿までの難所を十曲峠と云われています。
十曲(つづらおれ)峠 中津川市落合新茶屋 |
美濃の難所といわれた十曲峠は、旧中山道の行く手に背の高い樹木がたちはだかっているところです。
車の方はバス道を下ります。
バス道は「新茶屋一里塚」を出発して120mで新石畳と旧石畳の交差しているところへ出ます。
三叉路(中山道分岐点) 中津川市落合山中 |
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標識に従って左折して下さい。(左に旧石畳が見えます。車の方は真っ直ぐに下ります。)
三叉路に黄色い標識が左側にあります。 |
標識に従って左折し10mくらい進むとに「落合の石畳」が始まります。 |
落合の石畳 中津川市落合1447 |
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落合の石畳 十曲峠(つづらおれとうげ)をつつむ鬱蒼(うっそう)たる森林木立を縫って、昔日の面影を今にとどめた石畳が続きます。 峠道は大雨で土砂が流されるので、旅人や荷駄(にだ)の便を図るために幕府が自然石を敷き詰めて通りやすくしたのです。 長年、木の葉や土砂に埋まっていた石畳を補修し復元した全長838m(うち70m余が岐阜県の史跡)の街道は、往時(おうじ)の中山道そのものです。 (現地説明板から) |
石畳の入口には案内板や駐車場もあります。 |
(中山道美濃路車乗り入れ禁止第1号)
「落合の石畳」(ここから約1km) 車両乗り入れ禁止 |
No.1 中山道車両通行不能区間800m |
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中津川市落合1447 |
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中津川市落合 |
中津川市落合 |
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迂回ルート(青)、中山道=緑 |
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石畳保護のため車両乗り入れ禁止になっています。そのための駐車場もあります。 |
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落合の石畳終点 |
中山道は真っ直ぐに落ち合い宿に向っています。 |
落合の石畳 中津川市落合山中 |
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車両乗り入れ禁止 ここまで |
車で来られた方への「落合の石畳」迂回ルート案内
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「落合の石畳」から南へ向っている道が中山道です。
各種の案内書にはこの付近に「かねり場の馬頭観音」があると書かれていますが
「かねいり場」と呼ばれる地名は「落合の石畳から50m程の場所です
かねいり場馬頭観音 中津川市落合山中 |
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地元の人の話
「かねいり場」とは昔、お寺の鐘を鋳た場所のことで、落合の石畳終点地点から中山道を50m程進んだ左の杉林あたりのこと。
しかし、此処には昔から馬頭観音などは無かったとのことです。
「落合石畳」終点地点から中山道を50m程進んだ左手の杉林が 「かねいり場」跡 |
ちょっと寄り道
ただし、地元の方の話によるとこの近辺に点在していた石仏で道路拡幅工事などで邪魔になった石仏は
「落合消防第2分団」近くに集めてお祀りしてあるとのことで探すことにしました。
車で落合の石畳を迂回した道路のを戻り県道に合流した点から250mほど西へ道を下ると
「落合消防第2分団小屋」があります。
落合消防第二分団消防小屋 付近の石仏群 中津川市落合大久手 |
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「落合消防第2分団小屋」の斜向かいに付近から集められた石仏がお祭りしてあります。 |
馬頭観音様は二仏ありました。 |
「庚申(こうしん)塔」 |
目印のバス停 |
再び中山道へ戻ります。
もう一度「かねいり場跡」(金鋳り場と書くのでしょう)へ戻って中山道を「落合宿」へ向いましょう
かねいり場跡から260m程進むとこの辺りでは有名な山中薬師と呼ばれる「医王寺」へ出ます。
狐が教えてくれた刀傷に良く効く膏薬の 中津川市落合山中 |
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日本三大薬師 中山道脇にひっそりと佇む古寺が「医王寺」です。 三河の鳳来寺、御嵩(みたけ)の蟹薬師とともに日本三大薬師の一つで、古来より虫封じの薬師として広く信仰を集め、各地に講が出来ていました。 本尊の薬師如来(やくしにょらい)は行基(ぎょうき)の作と伝えられます。 江戸時代刀傷によく効く狐膏薬を売っていたことでも有名で、十返舎一九の「木曽街道 続膝栗毛」に狐膏薬が出てくるが、今も看板が残っています。 |
山中薬師の狐膏薬伝説
狐膏薬の看板
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山中薬師(浄土宗瑠璃山医王寺) |
三薬師の一つ |
「紙こうやく」 |
広い庭には色んな碑があります。 |
芭蕉句碑 |
小さな池によく似合う 境内にある庭の池の畔には、芭蕉が更科紀行で詠んだ「梅が香にのっと日の出る山路かな」と、 春の香りがただよう中山道を詠んだ句碑が立ちます。 |
医王寺境内の石碑群 |
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念仏を広めた徳本上人の名号碑などあり往時の面影をとどめています。文化十四年(1817)の文字が見えます。 |
医王寺 瑠璃山医王寺といい、浄土宗、京都智恩院の末寺であります。 古くは天台宗末寺でしたが天正十三年(1585)に再興されたといわれたいます。 本尊の薬師如来像は行基の作と伝えられ山中薬師といい虫封じ薬師として 各地に講が出来るほど名が知られていました。 本堂は大正五年に改築されたいますが、境内には文化十四年(1817)の徳本行者の名号碑や 寛永六年(1617)建立の芭蕉句碑、 |
医王寺を出ると道は少し下り坂になっています。
山中の馬頭観音がこの辺りにあるはずですが見当たりません(調査中)
山中の馬頭観 中津川市落合山中 |
馬とともに生活する人々の中に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり,また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり、
そんな理由で馬頭観音は作られたと考えられます。中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。
(山中付近を探しましたが、馬頭観音は見つけることが出来ませんでした)
医王寺から520mほど坂を下ると落合川に架かる下桁橋にきます
広重が描いた 中津川市落合山中 |
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歌川広重の中山道「落合」はこの辺りを描いたとされています。 |
岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵
収集家 田中春雄氏旧蔵 |
(下の画面の下桁橋が暗いですが広重と同じ場所から撮影したものです)
広重が描いた橋 |
医王寺から下桁端までの難所
江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、 この橋は長さがが洪水により度々流失していたこと、
またこの橋から医王寺までの登り坂が
しかし、この道も悪路で、今までより約1.8km
このときにつづら折れの道を廃し、 |
安藤広重の浮世絵にも描かれた下桁橋と上流の景色 |
落合川 中津川市落合山中 |
「飛騨は山の国、美濃は川の国」といわれます。 |
街道には旅人の目につきやすい場所に、方向や行先などを印した道標が立てられました。
下桁橋から20mほどで伊那谷へ通じる飯田道との分岐に出ます。
ここには馬頭観音や道標があります。
滝場の馬頭観音飯田路 中津川市落合滝場 |
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昔はこの付近に滝があり滝場と呼ばれていました
落合宿に入る手前、下桁橋をすぎた辺りは滝場と呼ばれ、北側の下の方に落合川が低く流れ、
反対側は山になってあり、滝があったと伝えられています。
馬頭観音
馬とともに生活する人々の中に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり、また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり,
そんな理由で馬頭観音は作られたと考えられます。
中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。
馬頭観音 |
左 善光寺・御岳道 |
右 飯田道 |
右飯田道 |
建立年号不明 |
左 山中薬師の |
右 神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ |
ここから神坂峠を経て伊那谷に通じていました。道しるべや石仏が往時を語ってくれそうです。
石仏群は風雨により磨耗が激しくほとんど文字が読めません。まん中の観音様がかろうじて享保十五年(1730)と読めます。 |
滝場道標を振り返ってみると |
海老蔵からの礼状 |
滝場の馬頭観音と道標を過ぎると町並みが見えてきます。
振り返ると中央自動車道の大橋が見えます。 |
240mほど進むと高札場、手前の分岐点へ出ます。
此処は間違いやすい分岐ですが、左の狭い登り坂が中山道です
県道中津川・南木曾線 中津川市落合上町 |
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間違えやすい辻 |
「落合宿」入口の高札場の手前20mへ来ました。
次の頁は落合宿です。
脇道:車で国道19号線から「国境の新茶屋」へ行かれるる方へのご案内
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【茶屋と立場】 街道沿いにあって、旅人が休憩するところで、お茶、一膳飯、お酒などを売っているところを茶屋と言っていました。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。