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いよいよ「新茶屋の一里塚」と「信濃国・美濃国境界碑」のある新茶屋から中山道美濃路へ入ります

六十九次
のうち
四十四宿の
四十五宿間

岐阜県中津川市落合

美濃国

JR中央本線落合口駅下車

落合の石畳巻は、信濃・美濃国境碑、江戸から83番目の新茶屋の一里塚と石碑群、十曲(つづらおれ)峠、
落合の石畳、お寺の鐘を鋳込んだと言われる「かねいり場跡」の馬頭観音、刀傷によく効く狐膏薬で有名だった山中薬師の医王寺、
見当たらない山中の馬頭観音、馬頭観音と飯田道の道標がある滝場、広重の中山道「落合」の浮世絵の舞台「下桁橋」、
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。..

                     

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
木曽路・美濃路境の新茶屋落合宿東口高札場跡までの1,830mを案内します

新茶屋には句碑群のほかに御宿「新茶屋」と旅館と喫茶店兼業の「梅の家」があります。

昔は茶屋があったところからこの地名がつきました。
長野県側のもう一軒は旅館兼喫茶店です。是非ひと休みしてください

まず信州側の新茶屋付近をご案内します。

振り返って見る信濃路

国境碑の信州側に松尾芭蕉句碑と島崎藤村の木曽路碑があります。

信濃(長野県)側
新茶屋の句碑群

長野県木曽郡山口村新茶屋

松尾芭蕉碑
送られつ 送りつ果ては 木曾の穐(あき)」

芭蕉が門人の越智、越人を伴って、信州姨捨山の月見と善光寺参りを兼ねて
中山道を旅したのは貞享五年(1688)のことでした。


その旅を「更科紀行」として世に出しこの句も詠まれました。

この碑が建てられたのは天保十三年(1842)のことで、
このころ岐阜県の美濃地方には芭蕉を師とする「美濃派」の俳人が多くいて、
これらの人々によって芭蕉の供養として建てられたものです。

島崎藤村の木曽路碑

是より北木曽路石碑
隣の馬籠宿で生まれた明治の文豪島崎藤村の筆になる美濃と木曽の国境の碑です。

昭和十五年(1940)七月、当時68歳だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものです。
藤村は60際頃から自らを「老人」と記するようになりました。

この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して、昭和32年(1957)11月に建立されたものです。

現代道標や水洗トイレも整備されています。

中山道・美濃路トイレ1

ここには休憩所と綺麗に掃除がされた無料水洗トイレがあり
冬季も利用できます。

このHPでは、これ以降「今須宿」までの間にある中山道用
のトイレを順次紹介します。

馬籠宿まで1.9km  落合宿まで2.1km

「新茶屋」の由来
この辺りの地名を「新茶屋」と言うのは、かっての茶屋は、ここから岐阜県側に
数百mほど入った場所にありましたが、あまりにも急な坂を解消するため、
明和八年(1771)に新道に付け替えられ、茶屋を移し変え、新しい茶屋が
できこの地名になりました。

美濃路はこの国境碑から始まります。

信州・美濃国境

中津川市落合新茶屋

北緯

35

30

43.6

東経

137

33

11.5

ここが信濃国(長野県)と美濃国(岐阜県)の国境です。
ここから西が美濃国となります。

国境碑は比較的新しく平成六年建立です。

国境碑手前の道路舗装の右が長野県、左が岐阜県

行政区域

「山口村」から「中津川市」へ

長野県木曽郡山口村

中津川市落合新茶屋

ここから始まります。
長野県木曽郡山口村境から0.0km      
長野県境から0.0kmです。  

「新茶屋」の美濃国側には「新茶屋の一里塚」があります。

美濃(岐阜県)側
新茶屋の一里塚

中津川市落合新茶屋

「新茶屋一里塚」
ここから美濃

一里塚は街道に1里(4km)ごとに立てた里程標。
ここからが岐阜県の中山道「美濃路」のはじまりです。

新茶屋の一里塚
天保〜安政時代(1830〜1860)には右(江戸より京に向き)松、左は無しでしたが
復元された一里塚は本物よりは小ぶりで「右 松」、「左 榎」が植えられています。

自然石の表面に「一里塚古跡」と刻まれていますが、
建立年などは不明です。
横に「歴史の道中山道・新茶屋の一里塚」の案内板があります。

「御分間御延絵図」写し
字新茶屋立場、信州国境杭、一里塚(両側)、
落合宿水抜等の文字が見えます

「一里塚古跡」碑は比較的新しく昭和32年(1957)の碑です。

徳川秀忠の宿駅制度
一里塚とは慶長九年(1604)二月、徳川秀忠が諸街道を整備する際、日本橋を起点とする
東海道、中山道、甲州街道などの各街道の一里ごと(約3.9km)に築かせた塚のことです。

これは街道の左右に「方五間(約9.1m四方)の塚」を築き、榎か松を植え、
旅の行程や駄賃・運賃の目安となるようにするとともに、休息の場所ともなるようにしました。

左塚

右塚

では中山道美濃路の旅に出発しましょう

信濃との国境いから落合宿東口までの中山道沿いの案内図

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)

馬篭宿    
↓2100m

江戸から四十四宿目
江戸から八十二里323km

国 境 碑   
新茶屋一里塚  
無料トイレ 
↓120m
  落合の石畳分岐点  →
↓ 10m
車両通行止め(始まり)
落合の石畳 660m
車両通行止め(終り)
↓ 50m
  かねいり場跡    ←
↓260m
山中薬師の医王寺  
↓520m
下  桁  橋   
↓ 20m
滝場の馬頭観音 
240m↓(区間計1.9km)

今須(近江国さかい)まで120.2km
一里塚情報(美濃路1番目、江戸から83番目八十三里)
トイレ情報(美濃路1号トイレ)冬季使用可能



車の方の迂回路 北へ→※
車両通行不能情報(不可区間1号)
石畳情報(美濃路1号)

← 車の方の迂回路  ←※






今須(近江国さかい)まで118.3km

落合宿 
落合宿高札場

江戸から四十五宿目

凡例:宿=ピンク、  一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                 

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・落合の石畳、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用下さい。

平成17年に越県合併を記念して新たに整備された石畳が生まれました。

落合の石畳
(中山道美濃路石畳第零号)

中津川市落合1447

北緯

35

30

44.3

東経

137

33

12.0

新しい石畳は「新茶屋の一里塚」すぐから始まります(もちろん車両通行止めです)
                落合石畳遊歩道(全長120m)
 平成17年2月、当市(中津川市)は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により新中津川として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬込宿の三宿場となりました。
 この場所から久長野県境までの焼く120m間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備いたしました。(この事業は、岐阜県からの補助金を受けて整備したものです)
                        (平成17年10月中津川市 現地説明版より)
120mほどの石畳を下ると「新茶屋の一里塚」からのバス道へ出ます。
バス道を横断すると、今までの石畳へ出でます。

この付近から落合宿までの難所を十曲峠と云われています。

十曲(つづらおれ)
(じっこく峠ともいう)

中津川市落合新茶屋

美濃の難所といわれた十曲峠は、旧中山道の行く手に背の高い樹木がたちはだかっているところです。

車の方はバス道を下ります。

バス道は「新茶屋一里塚」を出発して120mで新石畳と旧石畳の交差しているところへ出ます。

三叉路(中山道分岐点)

中津川市落合山中

北緯

35

30

41.5

東経

137

33

08.2

標識に従って左折して下さい。(左に旧石畳が見えます。車の方は真っ直ぐに下ります。)

三叉路に黄色い標識が左側にあります。
標識に従って左折し10mくらい進むとに「落合の石畳」が始まります。

落合の石畳
(中山道美濃路石畳第一号)

中津川市落合1447

北緯

35

30

39.7

東経

137

33

06.2

                落合の石畳
 十曲峠(つづらおれとうげ)をつつむ鬱蒼(うっそう)たる森林木立を縫って、昔日の面影を今にとどめた石畳が続きます。
 峠道は大雨で土砂が流されるので、旅人や荷駄(にだ)の便を図るために幕府が自然石を敷き詰めて通りやすくしたのです。
 長年、木の葉や土砂に埋まっていた石畳を補修し復元した全長838m(うち70m余が岐阜県の史跡)の街道は、往時(おうじ)の中山道そのものです。     (現地説明板から)

石畳の入口には案内板や駐車場もあります。

(中山道美濃路車乗り入れ禁止第1号)

「落合の石畳」(ここから約1km)

車両乗り入れ禁止

 

No.1 中山道車両通行不能区間800m

 
 

中津川市落合1447

 

中津川市落合
向町
国道19号線南

 

中津川市落合
向町
国道19号線北

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

 (先に紹介したように、現在は更に上部が整備され、新茶屋までほとんどつながっています。)

石畳保護のため車両乗り入れ禁止になっています。そのための駐車場もあります。

 

 

 

 

落合の石畳終点

中山道は真っ直ぐに落ち合い宿に向っています。

落合の石畳
終点

中津川市落合山中

北緯

35

30

32.2

東経

137

32

40.6

車両乗り入れ禁止

ここまで

車で来られた方への「落合の石畳」迂回ルート案内

車で来られる方への
迂回ルート案内「No.1」

「落合石畳」始点「終点」まで
の迂回ルート

青色:迂回ルート  緑色:徒歩ルート

落合石畳「始点駐車場」

中津川市落合新茶屋

北緯

35

30

39.7

東経

137

33

06.2

落合石畳駐車場から坂を上り、先ほどの三叉路まで戻り左折して、道を下ります。

三叉路から290mほどで広い道と合流し左折します。

広い道を100m程進むと右側に「こだまいし公園」があります。

GPS位置情報 北緯35°51′51″ 東経137°32′58″
途中「こだまいし公園」の言われは分かりません

「こだまいし公園から580mほど下ると「落合の石畳」終点へ向う道があり左折します。

GPS位置情報 北緯35°51′51″ 東経137°32′43″

左側へUターンします

進行方向側の標識の朽ちて読めません

反対側の標識は読めます。

下の道へUターンします。

Uターンしたところ大きな石があります。

Uターンしてから960m程で「落合の石畳」終点へ

石畳終点から右折し中山道を進みます

車で来られる方へ

迂回ルート案内「No.1]

「落合の石畳」から南へ向っている道が中山道です。
各種の案内書にはこの付近に「かねり場の馬頭観音」があると書かれていますが
「かねいり場」と呼ばれる地名は「落合の石畳から50m程の場所です

かねいり場馬頭観音

中津川市落合山中

北緯

35

30

30.4

東経

137

32

38.5

地元の人の話
「かねいり場」とは昔、お寺の鐘を鋳た場所のことで、落合の石畳終点地点から中山道を50m程進んだ左の杉林あたりのこと。
しかし、此処には昔から馬頭観音などは無かったとのことです。

「落合石畳」終点地点から中山道を50m程進んだ左手の杉林が
「かねいり場」跡

ちょっと寄り道
ただし、地元の方の話によるとこの近辺に点在していた石仏で道路拡幅工事などで邪魔になった石仏は
「落合消防第2分団」近くに集めてお祀りしてあるとのことで探すことにしました。

車で落合の石畳を迂回した道路のを戻り県道に合流した点から250mほど西へ道を下ると
「落合消防第2分団小屋」があります。

落合消防第二分団消防小屋

付近の石仏群

中津川市落合大久手

北緯

35

30

53.2

東経

137

32

32.0

「落合消防第2分団小屋」の斜向かいに付近から集められた石仏がお祭りしてあります。
馬頭観音様は二仏ありました。

「庚申(こうしん)塔」

目印のバス停

再び中山道へ戻ります。
もう一度「かねいり場跡」(金鋳り場と書くのでしょう)へ戻って中山道を「落合宿」へ向いましょう
かねいり場跡から260m程進むとこの辺りでは有名な山中薬師と呼ばれる「医王寺」へ出ます。

狐が教えてくれた刀傷に良く効く膏薬の
山中薬師(医王寺)

中津川市落合山中

北緯

35

30

26.0

東経

137

32

33.2

           日本三大薬師
 中山道脇にひっそりと佇む古寺が「医王寺」です。
三河の鳳来寺、御嵩(みたけ)の蟹薬師とともに日本三大薬師の一つで、古来より虫封じの薬師として広く信仰を集め、各地に講が出来ていました。
 本尊の薬師如来(やくしにょらい)は行基(ぎょうき)の作と伝えられます。
 江戸時代刀傷によく効く狐膏薬を売っていたことでも有名で、十返舎一九の「木曽街道 続膝栗毛」に狐膏薬が出てくるが、今も看板が残っています。

           山中薬師の狐膏薬伝説
 昔、山中の医王寺の和尚さんが庭掃除をしていると、狐が苦しそうにしているのを見つけました。
足には大きなトゲが刺さっていたのです。
 和尚さんが抜いてやると、狐は喜んで山の中へ消えました。
ある晩、戸をたたく音がして、そこにはこの間の狐がいて、助けてもらったお礼にと、よく効く膏薬の作り方を教えに来たのでした。
 教わったとおりに膏薬はとてもよく効きました。
さっそく、「御夢想 狐こうやく」という看板を掲げて膏薬を売ると、村人はもちろん、遠くからわざわざ買いに来る人が絶えなかったといいます。

                狐膏薬の看板
 とくに刀傷によく効くとの評判でしたが、その看板が医王寺に保存されています。

山中薬師(浄土宗瑠璃山医王寺)
当山はもと天台宗の名刹として栄え戦国時代兵乱にあい法灯は一時中絶しましたが、
天文十三年(1544)当時新興の浄土宗の寺として中興開山し俗に山中薬師といいます。

三薬師の一つ
 本堂に安置されている「薬師如来は天平時代の名僧行基菩薩の作と言われ三河の宝来寺、御嵩の蟹薬師と並び三薬師の一つとして住民の新興が厚い。

「紙こうやく」
 中山道落合の宿の名物「狐膏薬」は薬師如来の夢のお告げにより作られたと伝えられ、当時の看板が残されています

広い庭には色んな碑があります。

芭蕉句碑

小さな池によく似合う
境内にある庭の池の畔には、芭蕉が更科紀行で詠んだ「梅が香にのっと日の出る山路かな」と、
春の香りがただよう中山道を詠んだ句碑が立ちます。

医王寺境内の石碑群
医王寺境内には故事来歴の定かでない石碑群がひっそりと立ちます。

念仏を広めた徳本上人の名号碑などあり往時の面影をとどめています。文化十四年(1817)の文字が見えます。
医王寺
瑠璃山医王寺といい、浄土宗、京都智恩院の末寺であります。
古くは天台宗末寺でしたが天正十三年(1585)に再興されたといわれたいます。
本尊の薬師如来像は行基の作と伝えられ山中薬師といい虫封じ薬師として
各地に講が出来るほど名が知られていました。
本堂は大正五年に改築されたいますが、境内には文化十四年(1817)の徳本行者の名号碑や
寛永六年(1617)建立の芭蕉句碑、

医王寺を出ると道は少し下り坂になっています。

山中の馬頭観音がこの辺りにあるはずですが見当たりません(調査中)

山中の馬頭観

中津川市落合山中

馬とともに生活する人々の中に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり,また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり、
そんな理由で馬頭観音は作られたと考えられます。中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。

(山中付近を探しましたが、馬頭観音は見つけることが出来ませんでした)

医王寺から520mほど坂を下ると落合川に架かる下桁橋にきます

広重が描いた
下桁橋
(落合大橋)

中津川市落合山中

北緯

35

30

23.4

東経

137

32

19.7

歌川広重の中山道「落合」はこの辺りを描いたとされています。

岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵
(許可番号200246−号)

(下の画面の下桁橋が暗いですが広重と同じ場所から撮影したものです)

広重が描いた橋
十曲峠から長い坂道を下ったところの落合川に架かる橋は、当時落合橋あるいは落合大橋と呼ばれていました。
橋は長さが十八間(約32m)もあり、橋杭がなくて増水の度に流され、通行に差し支えていました。
広重の「落合」に描かれているのがこの橋でした。

医王寺から下桁端までの難所

江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、
少し下流にあった言われています。

この橋は長さがが洪水により度々流失していたこと、

またこの橋から医王寺までの登り坂が
つづら折れの難所であったため、
道筋を変更することになり、
寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の
新道が中山道となりました。

しかし、この道も悪路で、今までより約1.8km
も遠回りになったことから、明和八年(1771)
再び十曲峠を通る道筋に戻りました。

このときにつづら折れの道を廃し、
現在の北側に大きく曲がって緩やかに
上る道に付替えられました。

安藤広重の浮世絵にも描かれた下桁橋と上流の景色

落合川

中津川市落合山中

「飛騨は山の国、美濃は川の国」といわれます。
中津川市は川に恵まれたまちで北部を木曽川が東から西に流れ、
南東の山々から流れ下った落合川、中津川、阿木川(あぎがわ)、
四ッ目川(よつめがわ)などが木曽川に合流します。

街道には旅人の目につきやすい場所に、方向や行先などを印した道標が立てられました。
下桁橋から20mほどで伊那谷へ通じる飯田道との分岐に出ます。
ここには馬頭観音や道標があります。

滝場馬頭観音飯田路
滝場
道標

中津川市落合滝場

北緯

35

30

22.2

東経

137

32

17.6

昔はこの付近に滝があり滝場と呼ばれていました

落合宿に入る手前、下桁橋をすぎた辺りは滝場と呼ばれ、北側の下の方に落合川が低く流れ、
反対側は山になってあり、滝があったと伝えられています。

馬頭観音
馬とともに生活する人々の中に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり、また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり,
そんな理由で馬頭観音は作られたと考えられます。
中山道に沿って、あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。

馬頭観音

左 善光寺・御岳道

右 飯田道

右飯田道

建立年号不明

左 山中薬師の
弘法四十一番札所

右 神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ

ここから神坂峠を経て伊那谷に通じていました。道しるべや石仏が往時を語ってくれそうです。

石仏群は風雨により磨耗が激しくほとんど文字が読めません。まん中の観音様がかろうじて享保十五年(1730)と読めます。

滝場道標を振り返ってみると
右が飯田路、左が中山道

      海老蔵からの礼状
 市川海老蔵一行が名古屋興行を終え、江戸への帰路に中山道を選んだのは嘉永四年(1851)の夏のことである。七代目団十郎は長男に八代目を襲名させ、自分は五代目海老蔵を名乗って旅興行に出ていたのである。
 先程からうさん臭い雲助どもに後をつけられていると察した海老蔵は、落合宿へ入るとすぐ年寄役の上田豊蔵に窮状を話した。
 豊蔵は事情を調べた上で本陣井口家と相談し、すぐさま落合宿を離れることをすすめた。
 だが、十曲峠は追はぎや人殺しも珍しくない難所であり、雲助に追われては危険である。
 それで、道案内と警護を兼ねて二人を付け、神坂峠から伊奈路への道をとらせた。
 やがて無事江戸に着いた海老蔵から礼状やお礼の品が送られてきた。
 今もその品は、上田家と本陣井口家に保存されていある。
 (この伊那路が写真の右側の道である)

滝場の馬頭観音と道標を過ぎると町並みが見えてきます。

振り返ると中央自動車道の大橋が見えます。

240mほど進むと高札場、手前の分岐点へ出ます。
此処は間違いやすい分岐ですが、左の狭い登り坂が中山道です

県道中津川・南木曾線
合流点手前

中津川市落合上町

北緯

35

30

25.9

東経

137

32

12.4

間違えやすい辻
画面では間違えることはなさそうですが、
現場は右の道が広くてそちらえ行きそうです。
まっすぐの細い道が中山道です。

「落合宿」入口の高札場の手前20mへ来ました。
次の頁は落合宿です。

脇道:車で国道19号線から「国境の新茶屋」へ行かれるる方へのご案内

車で「新茶屋」へ来られる方への

国道19号線〜落合「新茶屋」まで

のルートガイド

下図の青色のルート

国道19号線「沖田交差点」

中津川市落合沖田

北緯

35

30

39.9

東経

137

32

01.2

B点中津川市落合大久手

県道中津川・南木曾線
から「馬籠」標識分岐点

北緯

35

30

29.5

東経

137

32

13.9

国道19号線「大久手」交差点を南東へ曲がり400m程進むと「馬篭」標識があり曲がります。
遠くに中央自動車道の赤い大橋が見えます。

C点 「馬籠」標識から1650m進むと大きな標識があり右折します。

D点 右折してから900m進むと「馬篭宿」と「落合石畳」分岐に差し掛かります。
此処で右折し細い道に入ります。
E点 細い道を230mほど進んだところで三叉路へ出ますが此処は真っ直ぐに

三叉路には標識もあります。

三叉路を90m「新茶屋」へ出ます。

この頁のTOPへ戻って出発してください。

このあと中山道案内で車通行不可の

場所が多数出てきます。

都度、ガイドを入れます

 

【茶屋と立場】

 街道沿いにあって、旅人が休憩するところで、お茶、一膳飯、お酒などを売っているところを茶屋と言っていました。
季節や土地の名物を出すので、街道で有名になっていた茶屋もいくつかありました。 宿場の中の端のほうにあるものと宿と宿
の間の立場と呼ばれる所にあるものとがありました。

           

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。