平成17年の市町村合併により長野県から岐阜県中津川市に合併された馬籠宿をご案内します。

六十九次
のうち
四十三宿

岐阜県中津川市馬籠4300-1

信濃国

JR中央本線落合口駅下車

馬籠宿巻は、馬籠峠、熊野神社、正岡子規句碑、峠之御頭頌徳碑、十返舎一九碑、水車小屋、水車塚、
梨ノ木坂石畳、陣場跡、馬籠宿高札場跡、馬籠宿脇本陣跡、藤村記念館と馬籠宿本陣跡、島崎家墓地、馬籠宿永昌寺、
木曽義仲の妹菊姫の墓、馬籠宿水車小屋の枡形、水車坂碑、石屋坂碑、馬籠城址、島崎正樹翁碑、正岡子規碑
などをGPS位置情報と共に、新茶屋までご案内します。..

              

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
馬籠新茶屋口までの4,380mを案内します

馬籠宿

馬籠宿場の概要

 人口 717人、 家数 69軒、 

旅籠 十四軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、宿の長さ三丁三十三間          

妻籠宿から 二里(「岐蘇路安見絵図」によると途中2か所一里塚があるが名称不明)

落合宿まで 一里五町二十一間(長野との県境に「新茶屋の一里塚」

「岐蘇路安見絵図」による当時の馬籠宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

馬籠(落合まで一里五丁 問屋 ××× 茂助)

 木曽は北より南に向、其水南に流れ、大河にて石大に水早し。

 故に船なく、魚少し。

 立岩、通りの中にあり。

 木曽は安曇郡なり。

 境橋 信濃と美濃のさあひのはし也。

 うすひ峠より此所迄、四十七里余。

「岐蘇路安見絵図」宝暦六年(1756)に出版されたもので
当時、それ以前に出版されて人気だったガイドブックの誤りを正したガイドブックとして有名です。
(この「岐蘇路安見絵図」の掲載については所蔵元を明記することで、
2002.10.25に岐阜市歴史博物館から了承を得ました)

江戸から八十三里六町四十七間(326、7km)

       歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 馬篭 」(大判錦絵)
         岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号200246−号)
                            説      明
 
妻籠から海抜800メートルの馬籠峠を越え、狭い峠道を下りると馬込の宿に入る。 図は、その馬籠峠の情景を描いたものである。 峠を登りきって草鞋を締め直す人。空の山篭を担ぐ駕籠かき、牛方など、英和泉の目は、人物の仕草に親しく向けられている。 遠くに見える山は恵那山か。 画面左手にある滝は、峠より妻籠寄りにあった男滝。 女滝を配置したものであろう。実際には、この滝は峠の頂上にはない。 

木曽街道 馬籠駅 図は馬籠峠の情景を描いたものである。

馬籠宿は、妻籠宿から馬籠峠を越えて入ります。

馬籠峠と子規句碑

中津川市馬籠 馬籠峠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

32

07.9

東経

137

35

15.2

馬籠峠から見た信州の山々

カーブを曲がると長野県から岐阜県へ入る。しかし新茶屋までは信濃路である。

子規句碑
「白雲や青葉若葉の三十里」とありこれより馬込宿の入口となります。

 

 地元の中学生が課外授業で馬籠宿から賑やかに登って来て妻籠宿方面へ下って行った。

「右旧中山道」の碑の奥に妻籠宿へ抜ける旧道がある。先ほどの中学生はあっという間に下って行った。

                  南木曽町妻籠宿保存地区
◎ 制定年月日 昭和五十一年九月四日
◎ 制定理由   妻籠宿は、宿場の建物を中心に、田中山道に沿った在郷および周囲の自然環境が一体と
             なって、歴史的 風致を形成しており江戸時代の宿場の姿をよく伝えている。
◎ 説   明  妻籠宿は室町時代末期には、すでに宿場として形成されていた考えられ、慶長七年
             (1602)に幕府が中山道に六十七宿を定めたとき妻籠もその宿になった。
             保存地区は東西約3.8km、南北約5.5km、面積約1、245fで地区内に233棟の伝統的
             建物があり、地域的に宿場など下郷の三地区に分けられる。
             宿場は上、中、下を中心とし、本陣、脇本陣、問屋がおかれた。建物は出梁により二階を張
             り出した切妻造、平入が特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大
             規模な建物が多い。
             寺下は光徳寺の門前町の形態となし一般に間口が狭く建物は小規模である。
            在郷には旧中山道に面した町屋風の建物中心に点在する農家がある。
             妻籠宿では昭和43年から町並保存会が発足し53棟の復元を完了し、今後も整備を行なう
            予定である。
            宿場保存の中心は住民の総意で宣言し「妻籠宿を守る住民憲章」といえよう。

      昭和52年3月          文部省・南木曽町

                       中山道の標高差
 中山道には江戸日本橋から途中いくつかの峠があるが、大きな峠は17番目の坂本宿から一気に600m以上の標高差を持つ碓氷峠
 笠取峠の次は江戸から28番目の和田宿から一気に800m差の和田峠
 最後に控える馬籠峠と木曽路は旅人にとって大変な街道だったと思われます。
              馬籠峠を越えればやれやれ
 ここを過ぎればあとは京までは殆ど下り道。旅人の足取りも軽くなったと思われます

これからご案内する場所の現在の住宅地図です

では馬籠宿目指して岐阜県側へ県道7号線(中津南木曽線)を下りましょう

県道7号線から中山道は分岐
馬籠峠から50mほど下ると県道から中山道は右へ分かれ坂を下ります。

峠から230mほどの中山道左に熊野神社があります。

馬籠熊野神社

中津川市馬籠 宮前
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

32

07.7

東経

137

35

15.1

県道から分岐して100mほどの左側に熊野神社があります

神社脇に碑がありましたが何の碑か確認しませんでした。

中山道から何段も石段を上がって左へ折れると本殿があります。

熊野神社については特に由来書きはなし。

明冶天皇が明治13年の巡幸の際休憩された記念碑

熊野神社を過ぎ中山道の下り坂は続きます。

下沢地区
熊野神社から下沢地区を通って「峠之御頭頌徳碑」へ向かいます

熊野神社から260mほどの峠地区の右手に「峠之御頭頌徳碑」があります。

峠之御頭頌徳碑

中津川市馬籠 峠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

52.2

東経

137

35

06.4

               峠之御頭頌徳碑の由来
 峠(この地区の名前)の集落は江戸時代までは牛で荷を運んで生計を立てた集落でした。
 牛に荷をつけ、松本、長野、美濃の今渡(いまわたり)へ運び、舟に荷を移し名古屋方面までも輸送していた。
 安政三年(1856)、中津川の問屋賃金の上前(うわまえ)はねをめぐって論争となり、八月六日から二十五日までの十五日間運送拒否をし、荷主たちが中津川に新しい問屋を立てることになって、牛方の勝利に終わったが、このときの牛行司(御頭)が今井仁兵衛であった。 この今井仁兵衛を讃えた碑です。
                           (現地説明板より)

「峠之御頭頌徳碑」から280mほど下ると「十返舎一九の碑」があります。

馬籠峠をふりかえる

碑のある広場は休憩所

十返舎一九の碑

中津川市馬籠 峠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

51.4

東経

137

34

56.6

             名物 栗こわめし十返舎一九
 古くから峠の名物は栗こわめしであった。
 江戸期の戯作者十返舎一九は文政二年(1819)に木曽路を旅して「岐蘇街道膝栗毛」の馬籠のくだりで、このような狂歌を詠んでいる。

渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物
の碑がここにあります。

「十返舎一九の碑」から「梨ノ木坂石畳」を通り「水車塚」まで00mほど下ります。

十返舎一九碑の休憩所から120mほどすすむと県道7号線を横断します。

県道を横断して100mほどすすむと、県道が左手から来るので合流します

県道を数十m進むと道は二手に分かれます、中山道は右手に進みます。
途中橋があり川を越え県道と合流しますが、また、すぐに中山道は右手へ分かれます。
これが「梨ノ木坂」の始まりです。

「梨ノ木坂」を下ると県道が左手から合流します。

馬籠梨ノ木坂石畳

中津川市馬籠 峠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

46.4

東経

137

34

48.3

「梨ノ木坂」の石畳を楽しむと県道へ出ます。

「梨ノ木坂」から県道へ出て右折し井戸沢川に架かる岩田橋を渡ると「水車小屋と水車塚」が見えてます。

中山道は「梨ノ木坂」を出てから国道を横断して向こうへ渡ると石畳が続きます

水車小屋水車塚

中津川市馬籠 峠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

45.1

東経

137

34

43.7

             峠の集落の家業は「岡船」
 この坂を上りつめると、峠集落がある。宝暦十二年(1762)に集落のほとんどが消失する大火があった後、火災が無いことから、この集落はの家屋は江戸時代中期以後の姿を今にとどめている。
 江戸時代、この集落の人々は民間の荷物を運搬する「牛方」を家業としており、俗に「岡船」と呼ばれ、美濃の今渡(いまわたり)から遠くは長野の善光寺あたりまで荷物を運んだ。
 安政三年(1856)八月の、この牛方と中津川の問屋の間に起きたストライキは、藤村の「夜明け前」にも登場する。
 ストライキの結果、牛方衆が勝ちピンはねをする中津川の問屋に代わり、自分たちの問屋を中津川に置いた。                        (現地説明板より)

             水車塚の碑
   山家にありて 水うもれたる 蜂谷の家族四人の記念に
                              島崎藤村しるす

 明冶三十七年(1904)七月水害のため、ここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家四人が惨死した。
 難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものがこの「水車塚」である。
 碑の裏には「信濃の国」の作詞者である浅井冽の撰文が刻まれている。
                    (現地説明板より)

水車小屋から塩沢橋まで県道を進みます。

中山道は県道の向こう側に続きます
岩田橋上流側から石畳の中山道が下流へ伸びているが途中で消えます。

県道塩沢橋を渡って50mほど進むと右側に「中山道」碑と石段が見えます

。この石段を進みます

石段を進むと石畳の道に変わります。更に進むと民家が見えてきます。
なぜか中山道の上に家が建っています。この家の軒下を迂回すると中山道が続きます。

家の前を通ると中山道があります。

ここを過ぎると目の前が急に開けて「陣場」跡の上に出ます。

ここからの恵那山の眺めは抜群でした

ビックリします。小牧長久手の戦いで徳川方の軍勢はここまで攻めてきたのです。

馬籠宿陣場跡

中津川市馬籠 峠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

33.1

東経

137

34

26.5

                    陣場の由来
 「陣場」とは、小牧・長久手の合戦(天正十二年・1584)尾張の小牧と長久手で行なわれた、豊臣秀吉と徳川家康との合戦の時、徳川勢の菅沼・保科・諏訪の三武将が馬籠城を攻めるために、ここに陣を敷いたのでこの名が付いたと言われている。
 馬籠城は、馬込宿の南西の入口荒町の中ほどの左手の小高いところにあった。
 木曽義昌が島崎重通(島崎藤村の祖)に守らせたが、徳川三武将に攻められ妻籠城に逃れた。
 その後ののち、島崎重通が馬籠をひらいたといわれる。
                               (現地説明板より)

島崎藤村碑
心を起さうと思わば先ず身を起せ

ニイイチェの言葉より   島崎藤村

恵那山を望む
越県合併記念碑 島崎正樹碑

高札場から見た陣場

県道から見た陣場

陣場下に車で観光の方の駐車場と展望台があります。

車でこられた方の展望台

中津川市馬籠 茶屋
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

31.3

東経

137

34

26.2

陣場から見た県道と展望台と駐車場

陣場から宿のほうへ下ると左側に高札場跡があり馬籠宿へ入ります。

馬籠宿

古い絵図からの宿内の位置

中山道分間延絵図(東京国立博物館蔵)の文字を判読してみました

      現在の住宅地図からの位置
 現在の住宅地図にこれから、ご案内する場所を表示してみました。
 以降の案内の参考にしてください。
         馬籠宿の成り立ち
江戸幕府成立前
 当時すでに中津川から馬籠を経て三留野(みどの)に通じる道があり美濃から奥州米沢などへの街道として使われていた。
江戸幕府成立後(慶長六年=1601
 関ヶ原戦後の慶長六年正月、家康は大久保十兵衛・彦坂元正等に命じて、東海道や中山道を整備し、同三月には大久保十兵衛から木曽路の上松宿の塚本家に朱印状が渡された。
 この翌年慶長七年には、家康より山村道祐宛に伝馬朱印状が渡された
 そして同年六月には大久保十兵衛外三人の連署による「定書」と「人馬賃銭の定め」が通達され、36疋の伝馬を常備することとなった。
 このような史料は馬籠宿には火災などで焼失したのか、ないのが、木曽十一宿とともに同様にして成立したものと考えられる。
          (定本 中山道美濃十六宿 郷土出版社)

馬籠宿高札場

中津川市馬籠 茶屋
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

31.5

東経

137

34

22.4

 

                         高札場
 江戸時代には、村人たちに法令などを徹底遵守させる目的で、板に墨書したものを掲示する場所を定めたが、それは村の入口や庄屋宅の近くなど人目に付きやすい場所が選ばれ、藩の厳重な管理下におかれていた。
 村人たちはその場所を「こうさつば」とか「ごはんぎょうば」といった。
 文字が読めない人が多いその当時、正月になると庄屋は村人をこの場所に集めて読んで聞かせ、これを守るように言い聞かせた。
 現在復元されているものは、正徳元年(1711)に公布された「御朱印、毒薬等の定書き」や、明和七年(1770)の「徒党禁止」の札などで、復元の際に読みやすいように楷書に書き直した。
                                    (現地説明板より)

高札場から県道を横断すると宿場へ入り、宿場へ入って500mほどで脇本陣跡へ来ます。

馬籠宿脇本陣跡
山口誓子
句碑

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

24.7

東経

137

34

13.8

              馬籠脇本陣史料館
 宿場で、大名や身分の高い人の宿泊に備えた家を、本陣脇本陣などといい、藩の保護を受けていた。
 馬籠脇本陣はこの場所にあったが、明冶28年の大火で建物は焼失した。
 脇本陣史料館は、脇本陣の最高位の部屋である「上段の間」を当時の場所に復元してある。
 ここには焼失を免れた脇本陣の貴重な汁器や衣服などが展示してあるり、江戸期における上流社会の文化を知ることができる。
 また、地域の人たちが使った民具からは、農村の生活を通じて、きびしい街道政策などが理解できる。

(現地説明板より)

脇本陣の隣が本陣跡です

馬籠宿本陣跡
藤村記念館

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

24.02

東経

137

34

12.4

               馬籠宿本陣跡は藤村記念館
 太平洋戦争が終結した当時、本陣は明治の大火に類焼して隠居所と物置が残るばかりで、敷地は隣の大黒屋(脇本陣)の畑となっていた。
 戦中にこの隠居所に疎開していた英文学者菊池重三郎氏の発案で、藤村を顕彰するため記念館を建設することになった。
 現在「藤村記念館」が開設され多数の資料が展示してあります。
                馬籠宿の問屋場は二軒あった
 馬籠宿の問屋は本陣と道を隔てた向かい側の2ヶ所あった。
 本陣にある問屋場は本陣と土間を隔てた押入付きの六畳間で表に板縁が付き、奥に六畳間と勝手があった。
                         (定本 中山道美濃十六宿 郷土出版社)
                 問屋場の宿役人
 宿役人は問屋二人・年寄四人・帳付二人・人足指二人・馬指二人であったが、各役一人ずつの二組に別れ、月を二分して十五日ごとに、二箇所の問屋場で交互に勤務していた。
                      (定本 中山道美濃十六宿 郷土出版社)
                馬籠宿宿人場数
 馬籠宿で常備すべき宿人場数は、中山道が50人50疋(寛文5年以降)の時代でも、木曽十一宿とともに特例によって25人25疋であった。
 しかしこの宿人馬数では不足する通行者の場合は、下四か宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)が合宿した人馬を備えて継立てした。
                     木曽路十一宿の特有の制度
 木曽十一宿はこれを三分して上(かみ)・中(なか)・下(しも)に分けた。
 すなわち上四か宿(贄川=にえかわ・奈良井・薮原・宮越)・中三か宿(福島・上村・須原)・下四か宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)に三分した各宿が合宿して人馬を揃えて継立てをした。
 しかし、それ以上多数の人馬を必要とする御用通行の場合は、木曽十一宿を二継から六継にして、二ないし五宿が合宿して輸送したのである。
 なお、宿人場あるいは合宿しても継立て人馬数が不足す場合は、宿以外の指定された近在の村方から人馬を集めて継立て輸送を行なったが、これを木曽寄人馬とよんだ。
                      (定本 中山道美濃十六宿 郷土出版社)

本陣前の馬籠郵便局

馬籠郵便局

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

23.3

東経

137

34

11.7

郵便局近くの永昌寺への分岐道案内標識

馬籠宿永昌寺と藤村家墓地への近道

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

22.5

東経

137

34

05.8

馬籠郵便局を過ぎると左手に道路標識があり、標識の向かいの細い路地が永昌寺への近道です。
少し下り坂を入ると向こうに寺が見えます

細い道を抜けると正面に永昌寺があります。

左へ折れて坂を上るとひだりのに島崎家の墓が見えます。

馬籠宿永昌寺
島崎家墓地

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

24.9

東経

137

34

05.8

寺の参道の途中に右へ降りる墓地への道がある

                  島崎藤村
 島崎藤村は明冶五年、馬籠の島崎家(旧本陣)に生まれ、10歳で上京し明冶学院を卒業後教師となったが、その間「若菜集」「落梅集」などの詩集を出し、小説「破戒」「春」「家」「夜明け前」などを発刊した。
 昭和18年大磯の地にあって「東方の門」を執筆中に倒れ、その地の地福寺と馬籠の永昌寺の島崎家墓地に分骨埋葬された。72歳でした。
墓の上方に永昌寺があります

寺と墓の間の道を寺の裏へ登ると広い道へ出ます。
左手の分岐に比丘尼の五輪塔の道案内版があります。

比丘尼の五輪塔

広い道を上方へ入り数十m進むと、また案内板があります。

案内板の左の田圃の中に五輪塔が見えます。

法明寺跡五輪塔群

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

32.9

東経

137

34

04.9

                    比丘尼の五輪塔群
 法明寺は木曽義仲の異母妹の菊姫がここに住み建てた寺では内科と推定され、比丘尼寺(びくにじ)いもいった。(菊姫は恵那市大井町御所の前に住んだという説もある)
 今この地には比丘尼の地名と鎌倉様式の五輪塔七基が田の中の土手に並んで建っています。

再び宿場内の中山道へ戻ります

宿内の街道を下ります。

馬籠観光案内所

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

21.4

東経

137

34

09.9

                 馬籠の宿場
 中山道六十九宿のうち、木曽谷には十一の宿場が置かれていた。馬籠は板橋を一番目とすると四十三番目の宿場になり、江戸からの距離は八十三里六町余りとなっていた。
 宿場は尾根に沿った急斜面を通っているので、その南側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴となっている。
 宿場の中央には高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」、荷物の運搬を差配をする「問屋」が置かれ、旅人が利用する「旅籠」が十八軒、このほか「飯屋」や「茶屋」があって、行き交う旅人で賑わった。
 明冶二十五年(1892)には国道が開通し、さらに明冶四十五年(1912)には国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えた。
 明冶28年(1895)と大正四年(1915)の二度の大火で江戸時代の遺構は殆ど焼失した。
                           (現地説明板より)

馬籠観光案内所を過ぎると清水資料館があります

清水資料館

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

20.8

東経

137

34

08.5

                 清水資料館
 清水屋は、島崎藤村の作品「嵐」にでてくる「森さん」(原一平)の家です。
 この清水屋には藤村の書簡、掛軸、写真などをはじめ江戸時代に宿場として栄えた頃よりの文書、書画、陶器、漆器などをはじめ宿場「馬籠」の生活文化史ともいえる数々の遺品が展示してあります。
                        (当家案内文より)

清水史料館を下ると宿内唯一の枡形へ来ます。

馬籠宿水車小屋枡形

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

20.5

東経

137

34

07.4

馬籠宿唯一の枡形道路が残してあります。

明冶後期まで中山道は軍事目的に適合するよう「桝形」が作られていました
しかし明冶35年に物流を主体とした階段の道から荷車が通れる道に改修されました

                 宿場の中の枡形
 こうした宿場の中にも枡形があるのは、宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。
 明冶38年(1905)の道路改修にあたり消失したが、その後昭和60年代になって復元された。
                           (現地説明板より)

枡形を過ぎると水車坂碑があります。

馬籠宿水車坂

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

18.5

東経

137

34

08.4

さらに南へ下ると宿場南口へ出ます。

馬籠宿南口

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

16.6

東経

137

34

06.0

この付近には、駐車場やお土産店・食堂・トイレなどが揃っています

馬籠宿からさらに南へ下り新茶屋を通り落合宿へ向かいます。

宿を出ると石屋坂へ差し掛かります

石屋坂

中津川市馬籠 荒町 
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

16.2

東経

137

34

05.2

石屋坂を下り更に南へ下り坂は続きます

馬籠宿から350mほどの右側に馬籠城址があります。

馬籠城址丸山坂

中津川市馬籠 荒町 
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

04.6

東経

137

33

56.0

                  馬籠城
 このあたりの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から五百年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。
 戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるとことなる。
 天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻めあがることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。
 義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。
 馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。
 天正十二年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。
 三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。
 馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。
 このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。
 この三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北辺りを「陣場」という。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)尾張徳川家の領地となり、以降戦火のないまま馬籠城は姿を消した。
                          (現地説明板より)

中山道を更に進むと馬籠諏訪神社と島崎正樹翁碑が左(東)側にあります。

馬籠諏訪神社
島崎正樹翁碑

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

31

04.6

東経

137

33

56.0

由来は調査中

ぽちぽちと民家が点在する中山道をさらに南下します。

路傍の石仏

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

30

54.4

東経

137

33

35.7

いわれは不明

周りがかなり開けた頃正岡子規碑が右(西)側に見えてきます。

馬籠正岡子規句碑

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

30

54.6

東経

137

33

34.7

正岡子規の句碑を過ぎると新茶屋が見えてきます

馬籠新茶屋口

中津川市馬籠
(旧長野県木曽郡山口村神坂)

北緯

35

30

47.8

東経

137

33

17.3

新茶屋がかっては長野県と岐阜県の県境でした。
新茶屋までが木曽路で、その先は美濃路と呼ばれていました。
次頁から美濃路を順次紹介します。

街道コラム

【中山道の特徴】

 中山道は東海道と違い、山岳地帯を通り、夏は涼しく夏の道とも言う。交通量も東海道の二分の一で余裕もあった。
 参勤交代で江戸へ下る大名、将軍に嫁ぐ姫宮の大行列。例年の日光例幣使やお茶壺道中、中でも多いのは善光寺や御嶽山、谷汲山への社寺参詣の庶民の旅などに使われた道である。

 日光例幣使は美濃中山道中編「太田の渡し」の巻末の街道コラムに、お茶壺道中は同じく中編の「加納宿ー2」の巻末の街道コラムに詳しく掲載してあります。

           

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。