姫街道400年祭を記念してmori@silverが開設した中山道美濃路十六宿紹介の導入編です
六十九次 |
岐阜県 美濃国 JR中央本線 |
中山道とは 関ケ原合戦後、徳川幕府によって 江戸を中心に全国各地を 結ぶ五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街 道)がつくられました。 その一つである中山道は、江戸「日本橋」から美濃を横断し 途中東海道と合流して京都「三条」にいたる 六拾九次 約 132里(540キロ)の街道です。 東海道とともに日本の主要道路として多くの農産物や加工品 が流通しましたが交通量は東海道の半分ほどだったようです。 |
中山道の標高差 |
美濃中山道とは 江戸日本橋から武蔵国(埼玉県)、上野 国(群馬県)、信濃国(長野県)、美濃国 (岐阜県)を通り 近江国(滋賀県)の草津 で東海道と合流します。 この間の4分の1が岐阜県を通り美濃街道と呼ばれています。 |
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姫街道と呼ばれるのは? 中山道は木曽路を通るため険しい山道もありまし たが河口や海を渡らないため風雨の影響も少なく、 行程が大幅にずれないため旅費などが安心だった などで、姫君の興しいれなどにも利用され姫街道 と呼ばれたとされています。 |
宿駅制度とは 1601年に徳川家康は、東海道で公用文書の郵送や人の通行を安全 に行うため、宿駅伝馬制を導入しました。 中山道に宿駅制がしかれたのは1602年でした。 通常、宿場には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が25軒程度、馬など荷役 を用意する問屋場、木戸、各種の御触れを張り出す高札場などが決めら れました。 |
「宿場制廃止」令
明治三年(1870年)閏10月、民部省布告による「宿場制廃止」令により宿場の歴史は閉じられました。
当時の旅籠が現存します 長い道のりを歩いてきた旅人の疲れを癒したのが、宿に置かれた旅籠でした。 垂井宿の「亀丸屋」、細久手宿の「大黒屋」、大井宿の「角屋」(現在「いち川」) などが、昔の面影を残している現役の老舗旅館です。 加納宿の「二文字屋」はうなぎ料理で営業中です。 これらの旅籠はこれから、ご案内するHPで紹介をして行く予定です。 |
各宿場の解説には江戸時代に出版されたガイドブック
「岐蘇路安見絵図」(きそじあんけんえず)の解説も加えます。
「岐蘇路安見絵図」は宝暦六年(1756年)に出版されたもので
当時、それ以前に出版されて人気だったガイドブックの誤りを正したガイドブックとして有名です。
(この「岐蘇路安見絵図」の掲載については所蔵元を明記することで、
2002.10.25に岐阜市歴史博物館から了承を得ました)
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右文の内容
岐蘇路を委く記せる書は、貝原先生の木 曽路の記と千鐘坊の木曾懐宝鑑の両書の み也、今此二書によって誤りを正し、もれた るを益し、猶また見安からん為に宿より宿の 間を一紙の一ト面に絵図に顕し、題して岐 蘇路安見絵図と号するのみ。 |
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また、中山道美濃十六宿の浮世絵は中山道広重美術館(岐阜県恵那市大井町)が所蔵する、
収集家田中春雄氏「木曾海道六拾九次之内」
を許可番号2002−46号により許可を得て掲載してあります。
では美濃中山道へGPS位置情報と共にご案内します。
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。