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伏見宿を出て今渡まで来ると木曽川の渡しに懸かります。川を渡ると太田宿に入ります。

六十九次
のうち
五十一宿

岐阜県美濃加茂市

美濃国

名鉄広見線
日本ライン今渡駅下車

「太田の渡し跡」巻は、今渡浅間神社、「土田(どた)一里塚跡」、桜井の泉、土田の渡しと土田宿、
土田の渡し跡、今渡の渡し跡・旅人の下り口、渡しの弘法様の錦江水、今渡の渡し場跡、今渡の渡し荷駄下り口
(津島神社)、太田の渡し跡、太田の渡し場跡、化石林公園、古井(こび)一里塚跡、岡本一平(岡本太郎の父)終戦の地、
太田宿入口桝形付近などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

          

赤実線:中山道 緑点線:江戸中期以降中山道 赤点線:江戸前期までの中山道

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
 龍 洞 寺   
↓90m
信州境から56.8km(江戸から=379.8km
今須(近江国さかい)まで 66.4km
[土田の渡し]
今渡富士浅間神社
↓460m
カヤバグランド横二股道
↓600m
氏神様二股道  

↓210m
土田一里塚跡
↓ 50m
  
弘 法 堂   
↓370m
土田の渡し跡 


 

[今渡の渡し]
今渡富士浅間神社
↓170m
 旅人渡しへの下り道口→
↓210m
  
今渡の渡し下り口  
   (津島神社)    
↓110m
渡しの石畳 140m 
   
今渡の渡し跡   
↓    
渡し船(220m)
可児市・美濃加茂市境

↓    
太田の渡し跡
(石畳10m
 
↓110m
化石林公園
↓410m
古井一里塚跡
  
↓ 50m

美濃加茂市文化会館
公衆トイレ
↓260m
古井の神明水神 
宿入り口枡形
80m↓(区間計 1.8km)



旧中山道は右(北)へ

旧中山道は右(北)へ

一里塚情報(美濃路16番目、 江戸から98番目(九十八里)
 (中恵土一里塚から
3,730m
50m 桜井の泉

旧中山道はここ(土田)から対岸の太田宿へ渡っていました。





川へ→→
     ↓50m
   庚申塚
      ↓50m
  
渡し弘法堂(名地水・錦江水)
100m←
流れが変わりこの渡しから太田宿へ渡ることになりました


可児市境(御嵩町から
4,240m

可児市中恵土新田から3.9km長野県境から58.8kmです 





一里塚情報(美濃路16番目、 江戸から98番目(九十八里)
 (中恵土一里塚から
3,980m

公衆トイレ情報(6ケ所目)



信州境から56.6km(江戸から=379.6km
太田東口道標(神明堂) 今須(近江国さかい)まで 63.6km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・太田の渡し、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

江戸方面から太田宿へ入るには「御嵩宿」から「伏見宿」を出て木曽川を渡らなければなりません。
木曾川の急流とともに発達した交通の要衝「太田宿」へ入口、木曽川の渡しですが

この渡しは中山道の中で難所の一つで
「木曾のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」
とうたわれほどでした。

上の文句にある「木曾の掛け橋」は木曽路六十九次の四十一番目宿の「野尻」の橋ではないかと思います。
「碓氷峠」は同じく十八番目宿の「坂本」(現在の群馬県碓氷郡松井田町)からうかがい知ることが出来ます。

渡し場の変遷

木曽川の急流を渡るのに昔の人は苦労しました。

現在でも美濃太田市から鵜沼への国道は時々水の被害にあいます。
岐阜県可児市今渡から愛知県犬山市栗栖への道は岩石と山にさえぎられていますが
江戸時代初期はこの間を中山道が通っていたとの記述もあります。

1、内田の渡し=- - - -線のルート 寛永18年(1641)以前
2、土田の渡し=------線のルート 寛永18年(1641)以後
               宝暦六年(1756)ころまで
3、太田の渡し=下図の赤線のルート  天明年間(1781ころ)

木曽川の渡し(点線)の移り変わり図
(木曽川の流が上手く表現できませんでした)

 いずれにしても中山道が最初に制定された頃は、中山道は御嶽宿、伏見宿から土田を通り犬山市内田へ至り、内田の渡し(鵜沼の渡し)から鵜沼南町、古市場町、小伊木町の鵜沼宿に通じていた。
 そして小伊木町から各務野を西へ加納宿に向かっていた。
 現在でも小伊木町には「木戸」という地名が残っている。 
                  (定本中山道美濃十六宿より)

その頃の「内田の渡し跡」は今でも残っています。(美濃・鵜沼宿に掲載してあります)

「太田の渡し」を案内する前に今渡(いまわたり)の下流の土田(可児市土田=どた)の渡し」をあご案内します。

土田(どた)の渡し土田宿

「土田宿」には本陣問屋場などがあり賑わいました。
下の絵図のように一里塚もありました。

木曽川の流れが変わる前の土田宿

「岐蘇路安見絵図」宝暦六年 1756年)出版された30年後の天明年間(1781〜1785年)
に木曽川の流れが変わり「土田宿」は衰退し「太田宿」へ人の流れも変わりました。

(参考文献:岐阜新聞社発行の「岐蘇路安見絵図」より)
宝暦六年(1756年)
に出版された「岐蘇路安見絵図」(きそじあんけんえず)の「伏見宿」の後半に

 ひだ川、木曽川と落ち合うところ河合といふ。(現在の可児市河合のことです。)
 川下は尾越川也。おこし川は中仙道の内也。夫より桑名の海へ落ちる也。(この頃は一つの川も名前を幾つも変えたようです)
 名古屋道、犬山へも道有。(現在の国道248号線のことで、絵図によると、今渡村から名古屋に向かっている道です。)
 太田川大河。瀬早し。舟渡し。

 (上の絵図によると今渡村=可児市今渡町=を過ぎ、名古屋道追分=現在の国道248号線=を過ぎると、一里塚=土田の一里塚=が道の両側にあり木曾川の渡しへ出ます。
  これが、「土田」の渡しで、昭和まであった「太田の渡し」より約3キロ下流でした。

龍洞寺から190mほどで富士浅間神社前に出ます。

今渡
富士浅間神社

可児市今渡八幡

北緯

35

25

53.3

東経

137

02

15.0

富士浅間神社

今渡富士浅間神社を過ぎると道は二またに分かれています。
中山道は真直ぐに進みます。

 「名古屋道」を西へ進むと太田橋と旧街道への分岐へ出ます。
 直進が中仙道で旧一里塚跡を経て旧土田(どた)宿

昭和2年に太田橋が架かるまでの街道は中仙道とは真っ直ぐ進み太田の渡しを利用して対岸の
美濃太田(現在の美濃加茂市)へ渡っていました。

今渡浅間神社から460m程進むとカヤバ工業北町グランドが右に見え道が二俣に分かれます。
道を真直ぐ(右)に取り西へ進みます。

更に600mほど進むと道は二俣に分かれます。

210mほど西へ進むと土田公民館(渡しクラブ)が右に見えます。
此処に「一里塚跡」があります

土田一里塚跡

可児市土田(どた)渡

北緯

35

25

46.9

東経

137

01

21.7

一里塚跡は消防小屋になり地域のお役に立っています。

土田公民館(渡しクラブ)の一隅に
「土田(どた)一里塚跡」の碑があります。

土田の一里塚
「土田宿」、「土田の渡し」「中山道」があった名残です

「土田一里塚跡」碑の西50mに弘法大師堂があります。
弘法堂から川(北)の方へ50m進むと桜井の泉があります。

(青枠の画像はクリックすると大きくして見られます)

桜井の泉

可児市土田(どた)渡

北緯

35

25

42.9

東経

137

01

20.5

「土田の一里塚」を過ぎ「弘法大師堂」が右手に見えその向こうの道を
木曽川のほうへ曲がると、歌枕で有名な「桜井の泉」があります。

桜井の泉の入り口には弘法堂があります
可児郡新四国50番札所

弘法堂に西側の道を北へ50m程入ります。

桜井の泉由来
東山道が都から奥州への官道として今渡、土田、帷子(かたびら=可児市長坂台団地付近)を通っていた頃に、
涸れることなくこんこんと湧き出ている清水があり、その周辺には桜が繁っていたので、いつの頃からか
「桜井の泉」といわれるようになりました。
旅に疲れた人は、美味しい清水を飲み、木陰で休んだりしたと言われています。

 

今は河川改修のためコンクリートや石垣に囲まれ見る影もありませんが
泉は湧き出ています。 しかし、飲んでみる気は起きません。

散れば浮き 散らねば底に 影見えて なお面白し 桜井の池 (藤原定家)

桜井の泉弘法堂からさらに西へ370mほど進むと八幡宮がありその前を川の方へ進んだところが
土田の渡し跡と思われます。

「土田宿」の跡は何もうかがう事は出来ません。
本陣脇本陣もあったはずです。

土田の渡し跡

可児市土田(どた)渡

北緯

35

25

53.3

東経

137

01

10.0

現在の可児市土田にあった「土田宿」「土田の渡し」元禄7年(1694年)に他の宿より90年遅れ設けられましたが
宿泊する旅人も少なく、農業を兼業とする家が多かったようで、これでも宿が維持できず
毎年助成金三十両、問屋給五両が支給されていました。

土田の渡し跡らしきものを探しましたが見つかりませんでした。
土田の向かいに庄屋風の大きな門構えの家があり、そこを木曽川のほうへ出ると
小さな祠があり「土田の渡し」の名残らしきものが伺えました。

土田の八幡宮前に大きな門構えの家があり、この付近が「土田の渡し跡」だったと思われます。

木曽川の堤防への道に祠があります。

ではその後に変わった「太田の渡し」のご案内へ進みます。

上流右岸から見た「土田の渡し」付近の木曽川

宿としても賑わいがなかった土田は、江戸中期の明年間(1781〜1785年)に川の流れが変わり
上流の今渡付近が流れも緩やかで渡しに適したため、自然に「今渡の渡し」を荷駄や旅人が利用するようになり
「土田宿」
廃宿となり「太田に宿」が置かれ本陣、脇本陣、高札場、も移されたようです。
「今渡の渡」
しと「太田の渡し」が確立され、この渡しは昭和初期まで利用が続きました。

土田の渡しが廃止され新たに造られた新太田の渡しをご案内します。

現在の国道248号線は右へカーブして太田橋を渡りますが
中山道は真っ直ぐ「土田の渡し」方向へ進みます。

昭和2年に太田橋が完成するまで利用された渡しです。
今渡富士浅間神社前から170m程に川へ下りる道があります。

今渡の渡し場
旅人下り口

可児市今渡 西浅間町

北緯

35

25

52.2

東経

137

02

03.0

旧中山道を「土田」(どた)へと西に進むと「今渡弘法大師旧跡」の石碑があります。

 

石碑から川方面へ50m程下るとの庚申碑があります。

庚申碑から50m程進むと弘法堂があります

旅人はこの下り口から下の渡しへ下りました。

渡し弘法様
錦江水

可児市今渡、西浅間町

北緯

35

25

56.6

東経

137

02

06.9

弘法堂本堂

木曽川へ下りる橋

錦江水(きんこうすい)
境内には可児の名地水「錦江水」が沸いています。

地元の人は利用しているようです。

境内から階段を下りると渡しへの石畳が見えます。

石畳新旧
手すりの影あたりの左は古い石畳、右は新しい石畳。
江戸の頃はこの階段から下流(左)に渡しがあったようです。
明治以降は上流側(右)に渡しが移り、御嵩で産出される「亜炭」を船積みしていました。

江戸時代(下流側)からの石畳
角が丸くなっています。

明治以降(上流側)の石畳
角も面も磨り減っていません。

上流側が亜炭などを出荷していた渡し場跡

毎時時代の渡し場跡には石垣などの面影が残っています。

弘法様から左に見える渡し場が中山道時代の渡し場跡です。

今渡の渡し場跡

可児市今渡、西浅間町

北緯

35

25

56.6

東経

137

02

06.9

 

渡し場付近には道標と説明板もあります
道標の向こうに見えるのが
「太田の渡し場跡」
です。

昭和2年までこの渡し場は使われていました。
当時3人家族が30円あれば暮らせた時代の渡し賃1銭は
高かったのではないでしょうか。

対岸の太田の渡し

今も残る「今渡の渡し跡」

対岸に「太田の渡し跡」が見えます

旅人は先ほどの下り口から渡し場へと下りましたが荷物はさらに西へ210m程にある津島神社脇の道を川へ下ります。

今渡の渡し
荷駄の下り口
津島神社

可児市今渡、西浅間町

北緯

35

25

56.6

東経

137

02

06.9

土田の渡しより手前の「津島神社」手前を木曽川へおりると渡し場跡へ出られます。

「津島神社」の手前を右へ曲がり木曽川の方へ下ります。

津島神社は小さな祠にお祭されています。

川へ110mほど進むと右へ曲がります。

江戸時代の石畳の手前は最近敷かれた石畳が続きます。

荷駄を運んだ古い石畳が渡しまで140mほど続きます。

木曽川に突き当たり、右へ曲がると道は荷駄を運んだ
石畳が残り渡し場へ下ります。
中仙道の街道幅は普通二〜三間です。

しばらくみ道を下ると渡し場跡が見えてきます。
かなり高い位置の中仙道から川面まで重い荷駄を下ろすには
路面がしっかりしていなくては大変だったのでしょう。

今渡の渡し
中仙道の三大難所の一つに歌われた木曾の渡し場の跡です。
木曽川の出水ごとに川止めとなったので、今渡地区は旅人のための宿屋、茶屋などが立ち並び、湊町として繁栄しました。

明治34年5月には両岸に鉄索を張り、船を滑車で繋ぎ革の流れを利用して進める「岡田式渡船」となって、
渡し賃も無料となっていました。
1日に何回も往復し、乗客が程よく乗り合わせるようになると出し、夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、
船を出してくれたといいます。 
昭和二年二月に太田橋に完成と共に廃止されました。

手前が亜炭などを運んで昭和まで使われていた渡し跡
上方の石垣付近が江戸時代の渡し跡

「太田の渡し跡」側から見た「今渡の渡し跡」

対岸の太田の渡し場

左の道路が見える渡し場は明治の頃、亜炭を
積み出していた渡し場、右の石積みが中山道渡し場

今渡りの渡し場から対岸の太田の渡し場までは約120間220m
平水でもとうとうとした流れが早く小さな船では不安だったでしょう。

太田の渡し
亜炭を渡していた昭和まで使われていた渡しと石垣と石畳のある古い渡し。

現在は太田橋を渡って対岸の太田宿(美濃加茂市)へ行きます。

では国道21号線太田橋を渡って「太田の渡し跡」へ行きましょう。

橋の上は歩道がないので、仕方なく橋の隅を堂々と歩くことになります。

「太田橋」は歩道のない車専用の橋です。本流側橋と袂橋の間に車を止められます。
左が本流橋で今渡方面を  右が袂橋で太田町を

太田橋の真中が市町村境です。

行政区域

「可児市」から「美濃加茂市」へ

可児市今渡          

美濃加茂市御門町(みかどちょう)

ここまで、可児市中恵土新田から4.2km      
長野県境から55.6kmです。  

太田橋の上流側に「日本ライン観光」(日本ライン下り乗船場)があります。

下流側に「今渡の渡し跡」と「太田の渡し跡」が見えます。


美濃加茂市御門町1丁目

今渡の渡しの対岸の渡しです。
国道248号線の太田橋を渡るとすぐに左折する道路がありそこを堤防したへ下ります。

「太田の渡し」には石垣の渡し場も残っています。

国道248号線に沿って太田橋を渡り、最初の信号の手前を
鋭角に左へ曲がる道があります。

その道は堤防下へ降りる道で、木曽川へり近くまで降りて行くと
「太田の渡し」の案内板
が目に入ります。

美濃太田市は中仙道などの保存に努力していますので渡し場跡もわかりやすいですが
近年 この近くで古生代の化石が出て「化石林公園」として整備されています。

太田橋たもと 化石林公園の碑

太田の渡し案内板
中仙道は、江戸時代に五街道(東海道・中仙道・日光街道・奥州街道・甲州街道)
の一つとして開かれました。
信濃の国(今の長野県)を通るので木曽街道、岐蘇路等とともよばれています。
江戸日本橋を起点に六十七の宿場が整備されており、岐阜県内には、
十六の宿がおかれました。
この地には太田宿があり行き交う旅人で賑わいました。

渡し場跡を見下ろす

江戸から京都までの距離およそ136里の間に、幾つ物とげや皮を渡る難所がありました。
木曽川を行き来する渡し場は
「太田の渡し」と呼ばれ、中仙道の難所のひとつとして「木曾の掛け橋、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と歌われました。

渡船は時代によって何度も場所や姿を変えてきました。
当地の渡し場跡は、昭和二年(1927年)に太田橋が完成するまで使われてきましたが、
今では木曽川の流れと石畳だけが往時を忍ばせています。

太田の渡し場跡

北緯

35

26

06.2

東経

137

02

02.6

太田の渡し場跡

石畳は一時コンクリートで舗装されていましたが、今はコンクリートを剥ぎ取り元の石畳に戻してあります。

太田の渡しは太田橋が出来る昭和2年まで使われていました。

当時の石畳が船着場まで続きます

船着場の石垣 石畳 対岸の船着場付近を

太田の渡しから120m程西へ進むと最近発見されて話題になった化石林公園があります。

化石林公園

美濃加茂市御門町1丁目

北緯

35

26

10.5

東経

137

02

03.4

 平成6年、木曽川の河床から、約1900万年前の樹木の化石群が発見されました。
これをきっかけに、整備されたのが「化石林公園」です。

「太田の渡し」付近に散策道も整備され、傍らを流れる木曽川から吹く風にあたりながら、

太古歴史と江戸時代のに思いをはせ、自然を満喫できる公園です。

化石林とは

 太古の昔の樹木の根元の部分が化石となり林のように連なっている事を言うようです。

 美濃加茂市付近を流れる木曽川には、この化石林が多く見られます・

 木曾川の今渡ダム下流の河川床は特に多く、渇水期になると樹木の根のような形をした岩石が現れます,

 樹木の根の部分がそのまま残されており,当時は壮大な森林であったことを裏付けています。

 この付近だけでも数百本ほどの樹木の根の化石が確認されています。

 また、可児市春里付近のの可児川にも「鬼が島」と呼ばれる奇岩の化石群が見られます。

 興味のある方は、是非お立ち寄りください

木曽川河畔の化石林

この日は増水していて、ほとんどが水没していました。

 
 

もしかして、恐竜の足跡があるかも?!

渡船場から川下に沿って堤防の上へと上がり太田宿へ向かいます

堤防に沿って川下へ 途中車留めがあって車では
いけませんが道は続きます
この辺りに「一里塚」跡が
あるはず

さて、つぎは「太田宿」へはいります。
太田宿入り口までの中山道は河川改修などで跡形もありませんが、昔も堤防上が中山道だったと思われます。

化石林公園から410m程堤防上を西へ進むと右手に美濃加茂市文化会館が見えてきます。
そのあたりが新中山道の古井一里塚跡があったと思われます。

古井(こび)一里塚跡

美濃加茂市島町

北緯

35

26

04.9

東経

137

01

45.7

土田にあった一里塚も宿場の「土田宿」廃宿になってから街道も太田の渡しと共に「太田宿」側へ移り
宿場の入り口近く(美濃太田市古井町)が一里となるため移せれましたが、
この「古井の一里塚跡」も度重なる河川改修による堤防補強で場所が定かでありません。

古井の一里塚跡から50mほど西の美濃太田市文化会館の西角あたりに公衆トイレがあります。

古井の公衆トイレ
(美濃加茂市文化会館)

美濃加茂市島町二丁目

北緯

35

26

04.9

東経

137

01

45.7

美濃加茂市文化会館トイレから160m程西へ進むと北側に「岡本一平終焉の地碑」があります。

岡本一平終焉の地

美濃加茂市神明西町1丁目

北緯

35

26

05.8

東経

137

01

10.5

       岡本一平(1886〜1948)
 漫俳という新しい文芸をこの地方に広めた漫画家。
 崎先の白川町から美濃加茂市古井(こび)町に移住し、最後はそこで急逝。
 芸術家岡本太郎の父。

更に西へ堤防の上の道を進み次の三叉路から宿内(北)へ入ります。

神明水神様石仏群手前を北へ曲がると太田宿の入り口枡形へ来ます。

太田宿入り口の枡形

美濃加茂市島町

北緯

35

26

09.6

東経

137

01

33.7

さらに木曽川右岸堤防を下り総合庁舎を過ぎた所で堤防から街道へ出ます。此処が太田宿入り口の「枡形」です。
(枡形については、あとで説明予定)

 説明

 

枡形

 

 

 枡形とは街道をクランク状に曲げ見通し

 が利かないようにし防備を図るもの。

 語源は城などの一の門から二の門へ

 進む時、枡状の四角い広場を作り兵の

 勢い止めるように作られた事から由来

 します(右の画像は宿場の枡形の模型)

宿入り口枡形から80mほどで善光寺街道追分へ出ます

街道へ出ると、そこは神明堂交差点です。
ここは国道21号線善光寺街道の追分で、左(西)へ曲がれば、そこはもう太田宿です。

.

「左 飛騨高山 右 善光寺 道」の道標 

国道21号線から分岐して

県道へ

北緯

35

26

12.4

東経

137

01

34.6

上の交差点を国道21号線東側から見ると、
信号を真っ直ぐに進む道が21号線
常夜灯側へ進むのが「中山道」
左側からグレイ色の車が出てきた道が「太田の渡し跡」からきて
枡形道を来た中山道

.........

次は「太田宿」へ入りましょう

街道コラム

【日光例幣使の旅】

 徳川家康を祀る日光東照宮の例大祭の四月十六日に、京都の公卿が勅使として日光へ差遣わされ、これを日光例幣使といった。
その始まりは元和三年(1617)四月からで、行きは中山道高崎から日光へ、帰りは江戸に出て東海道を京都へ戻った。
 例幣使一行は天保十一年(1840)で50人、翌年は46人、安政二年(1855)が69人で、小藩の参勤交代並みであるが携行荷物が多く、元治元年(1864)の梅園宰相(さいしょう)の時になると、日光廟へ奉納する長持一棹と一行用の12棹、それに輿(こし)三艇(てい)で、継立て人馬は、馬よりも人足を多く必要とした。

 例幣使が美濃を通行する時期は旧暦の四月上旬で、農繁期に入り、農家では大事な時に助郷などで労力を奪われ、大変困ったようです。

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。