謡坂から、西洞の和泉式部の霊廟わきを通り御嶽宿を目指します

六十九次
のうち
四十九宿
五十宿間

岐阜県瑞浪市日吉町細久手

美濃国

名鉄広見線御嵩駅下車

「和泉式部廟所」巻は、「耳神社」、「寒念仏の馬頭観音」、「牛の鼻欠け坂」、「中切古墳」、「和泉式部廟所」、
「中街道道標」、「八幡神社」、「丸山」、「御嶽城址(権現山城址・本陣山城址)」
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

        

車で来られる方への詳細の案内は”ここ(中山道・和泉式部廟所)”をクリックしてください

本頁のルート概要(各距離は概数ですので、おおよその見当に使用してください)
町道合流   
↓250m
信州境から41.8km(江戸から=364.8km
今須(近江国さかい)まで 78.4km
  西洞(さいと)の耳神社
↓ 80m
二又分岐(右へ)
↓150m
   
西洞(さいと)   →
車両通行止め(始まり)
↓100m
寒念仏の馬頭観音
↓120m
牛の鼻欠け坂
↓ 70m
車両通行止め(終り)
民家の軒下 
↓170m
町道合流  
↓1,070m
   国道21号線   →
↓ 30m
和泉式部廟所
↓ 10m
中街道道標
 
↓50m
八幡神社  
↓230m
丸  山   
↓400m
 信号「長岡」交差点  →
480m↓(区間計 3.0km)




車迂回→
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
←車迂回     



東へ600m 
中切古墳









南へ380m 
「御嶽城址(権現山城址・本陣山城址)
信州境から44.8km(江戸から=367.8km
御嵩宿入り口道標 今須(近江国さかい)まで 75.4km

凡例 : 宿=ピンク、    一里塚=青、  石畳=茶、  トイレ情報=黒        
車不通情報=赤
、   中山道消滅区間=赤                

上の案内図とルート概要の印刷は”ここ(中山道・和泉式部廟所、印刷用)”
印刷サイズに合わせてありますので、ご利用ください。

謡坂石畳終点

北緯

35

25

54.0

東経

137

10

21.5

石畳の車止めから20m程で石畳は終り細独活売れヘ出ます。
舗装道路を30m程進むと県道へ出ます

県道へ出て250mほどで右側に耳神社があります。

西洞(さいと)の
耳神社

可児郡御嵩町西洞

北緯

35

25

47.1

東経

137

10

12.1

県道の山側の岩の階段の上に祭られています。

全国でも珍しい耳と安産の神を祀る神社。

錐を耳にあてる
平癒の願をかけ、お供えしてある錐を1本かりて耳にあてます。
願いが叶ったら自分の年齢の数だけ竹で編んだすだれを作り奉納する慣わしがあります。

水戸の天狗党が抜刀
幕末の元治元年(1864年)武田耕雲斎が尊王攘夷を掲げて率いた水戸の天狗党(明治政府に対する水戸藩の反乱軍)が
中山道を通ったとき耳神社の祭礼の大幟を敵軍の布陣と勘違いし、
刀を抜いて通ったと言う逸話が残っています。

奉納する錐は本物でも竹などで真似て作ったものでもよく、紐で編んですだれのようにしてお供えします。

耳神社を過ぎ80mほどで二また分岐へ差し掛かります。

この分岐の右の狭い道が中山道です。

新しい道標があります。 御嶽宿へ一里三十二丁  細久手宿へ二里2丁

二また分岐から150mほどで西洞の車両通行止めへ差し掛かります

西洞(さいと)車通行不可区間

始点

北緯

35

25

43.8

東経

137

10

03.2

県道の分岐から60mほどで、また道は二つに分かれます。
この道も右へとります。

ここから先は車止めもありませんが、道が狭くて通れません。

 

中山道は右から左、石垣上の道です。

 

No.14 中山道車両通行不能区間

場所

可児郡御嵩町西洞

場所

可児郡御嵩町西洞

東口から

   
   
   

 

 

可児郡御嵩町西洞

西口まで

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

 

車の人はここで車を置いてまた戻ってくるより手はありません。
中山道は約500mで車通行可能な道へ出ます。
途中「寒念仏馬頭観音」までは約100m
「西洞の牛の鼻こすり坂」までは150m
車の人はここからは「寒念仏馬頭観音」まで行き、引き返してから向こうへ回り「西洞の牛の鼻こすり坂」
行くしかありません。

西洞の入り口にある碑と薄暗い山道

牛の鼻欠け坂の途中に三面六臂(さんめんろっぴ)の馬頭観音が安置されている石室があります

寒念仏供養塔
馬頭観音

可児郡御嵩町西洞

北緯

35

25

42.6

東経

137

09

54.1

明和二年(1765年)の建立(文化13年建立の文献もあります)で傍らには旅人が献じた小石が山積されています。

   

天領西洞部落
広い視野の広がる美濃路がここで初めて山間部に入ります。
徳川幕府は中山道のこの地点を軍事上の要地として幕府が直轄し天領とし称しました。

この付近には茶屋が立ち並び街道往来の旅人で賑わったといいます。

山道を200m程進むとつづら折れの道に差し掛かります。

西洞(さいと)坂
牛の鼻欠け坂

可児郡御嵩町西坂

北緯

35

25

02.5

東経

137

09

51.3

牛の鼻欠け坂の説1
西洞に来ると急坂に差し掛かるため、岩を削った急な曲がり坂のため、中仙道を往来する牛や馬の鼻が、
擦り切れて欠けるほどの難所と言う意味から、この名が付きました。

「牛坊 牛坊 鼻欠けた 西洞(さいと)の坂で、欠いた」

牛の鼻欠け坂の説2
牛や馬がここを通るときに自分の鼻を地面にこすり、鼻が傷つき欠けてしまうほど急な坂道であるということから名がつきました。

西洞(さいと)出口近くになると道も明るくなりホッとします。

薄暗くて気味の悪い街道がやっと広いところへ出てホットします。

車通行不可道から町道へ

北緯

35

25

42.0

東経

137

09

45.1

この先からは車も通れます。

振り返ると西洞(さいと)の山道の出口が見えます(左の森から民家と小屋の間へ出てきます)

山道から140mほどで中切の街道へ出ます。

山道分岐点

北緯

35

25

43.1

東経

137

09

45.2

細久手宿へ二里八丁

御嶽宿へ一里二十八丁

中切の街道には道標がしっかりと立っています

山すその道を1、160mほどたどると国道21号線へ出ます。

やっと国道21号線と中山道が合流しました。

国道21号線合流点

北緯

35

25

30.4

東経

137

09

14.9

合流点にも道標があります。

ここで国道21号線を東へ600m戻り「中切信号交差点」を北へ曲がり「中切古墳」へ行ってみましょう。

中切古墳の遠景

中切古墳

可児郡御嵩町中切

北緯

35

25

27.5

東経

137

09

40.8

「中切信号交差点」を北へ曲がり100mほどで変則四叉路へ出ます。
この四叉路をの一番右の道へ曲がると古墳の標識が見えてきます

美濃国最東端にある全長42mの前方後円墳で、横穴式石室もほぼ完全に残され、
奥行10m、高さ3.4m、幅2.3mの石室の中へ入ることも出来ます。

「中切古墳」から再び国道21号線へ出て、西へ600m戻ると西洞(さいと)から出てきた先ほどの出会いへ来ます。

「和泉式部の墓」は中仙道が西洞の耳神社から出てきて国道21号線と合流する30mほどの北側にあります

和泉式部廟所

可児郡御嵩町井尻

北緯

35

25

30.8

東経

137

09

13.2

廟所は民家の奥にあり民家の物置の間を通らなくてはなりません。

これが廟所への通路です。

本当に和泉式部の墓?
平安時代中期の情熱的な歌人で、生涯を貴族たちとの恋愛に終始し、有名な歌集や日記を残しています。
平安三大女流歌人で恋多き女性でもある和泉式部が歌を詠みながら東山道をたどって御嵩まで訪れた際に、
病となったため、鬼岩温泉で湯冶したが、寛仁三年(1019年) ついにこの地で没したと伝えられています。

しかし、和泉式部の墓と言われるものは他県にもあります。
廟所に立てられた石碑は天文五年(1563年)に建立されたと言われ、式部の歌
「ひとりさえ 渡れば沈む浮橋に あとなる人は
 しばしとどまる」
の歌のほかに
「いずみ式部廟所 寛仁三巳未天」
と記されています

廟所へ入る道の10m西に中街道道標があります。

中街道道標

可児郡御嵩町井尻

北緯

35

25

31.1

東経

137

09

12.4

     

中街道道標から西へ50mほどの道の北に大きな八幡神社碑が立っています。

八幡神社

可児郡御嵩町井尻

北緯

35

25

31.2

東経

137

09

10.0

鳥居は上の画像の青色の屋根の間に小さく見えます。
ここから約150m先です。

鳥居までは田の間の参道です。
しかし鳥居から約200m山すその道を進みます。そこから更に坂道を登り、階段下までたどり着き。
更に石段を数百段登って本殿へ着きます。(今回はたどり着きませんでした)

八幡神社碑の前を過ぎ230mほど進むとそれが丸山です。

丸山

可児郡御嵩町井尻

北緯

35

25

30.8

東経

137

09

01.0

八幡神社碑から230m程西へ進むと中山道(国道21号線)南に赤い鳥居があります。

正一位稲荷神社の碑

山道を70m程階段を上ると本宮があります。(今回は登りませんでした)

丸山から国道21号線を約400m西へ進むと「長岡」の信号交差点を通ります。

この信号を過ぎて80mほどで南へのびる道がある三叉路へ出ます。
南へ300m程進むと可児川に架かる「新川橋」があるので渡ってすぐに権現山麓への道を進みます。

御嵩城
(権現山城と本陣山城)

可児郡御嵩町城町

御嵩城とは、この本陣山城と東の権現山城を合わせた呼称です。

権現山城の金峰神社

可児郡御嵩町城町

北緯

35

25

18.2

東経

137

08

38.5

権現山之麓には金峰(きんぷ)神社参道があります。
これが権現山城址への道です。

現在「金峰(きんぷ)神社」の本殿となっている山頂には戦国時代、城が構築されていました。

城町から参道を登る道は急峻でひと汗かきます。

南山団地沿いの道からは車で上がれます。

城の防御はなかなかしっかりしていがます落城しました。

難攻不落に思える地形を利用しています。

参道には栗が沢山落ちていました。

権現山の山頂(権現山城本丸跡)には金峰(きんぽ)神社がお祭りしてあります。

次は本陣山城へ
可児川に沿って堤防を約700m下ると「門前橋」があります。
これを南へ曲がり700mほど団地沿いの道を上るか、または、
蟹薬師の願興寺前の道を南へ進み可児川に架かる「門前橋」を渡り約1km団地脇の道を登ると標識が見えてきます。

本陣山城址
(御嵩城址)

可児郡御嵩町城町

北緯

35

25

12.1

東経

137

08

16.8

標識の沿って城址公園の駐車場まで上ります。

駐車場には説明板があり城上り口があります

権現山城は古い形式の城
この城は、天文年間(1532〜54年)に御嵩を拠点としていた戦国武将「」が築城した山城で、
石垣による構造物(土塁など)の使用が見られない古い形式の城に入ります。
小栗信濃守は、この城を築く以前には東に隣接する権現山に城(遺構現存)を構えていたが、度重なる戦いにより、
今後の戦いに更に万全を期することを目的とし、より防御の堅いこの地に城を移築したとされています。

階段を上がると広場と展望台があります

敵を攻めて返り討ち
しかしながら天文二十一年、土岐郡高山(玄土岐市土岐津町高山)にあった高山城の攻略をもくろんだ小栗信濃守の軍勢は、
勢い城に攻め入ったものの形成は不利となり、遂に土岐郡小里(おり)(玄瑞浪市稲津長小里)に拠点を置いていた
武将「小里出羽守光忠」と恵那郡明智(現恵那郡明智町)に城を構えていた武将「遠山与助」らの軍勢に攻め込まれ、
ついに小栗信濃守は敗戦、御嵩城は落城しました。

上から見下ろすと城の遺構が良く分かります。

戦国 御嵩城物語 

 戦国時代小栗氏が御嵩城を修築して本拠とし、関城主長井道利に属してこの地方を領有していた

 天文年間頃、土岐郡高山城の城主に後嗣が絶えたとき小栗信濃守がこれを押領しようと考え土岐郡に侵入し、高山城救援の信州勢平井頼母は後藤庄助を将として大富山において対戦した

 庄助は討死し、退却する信州勢を追撃して高山城に迫り土岐川を隔てて対戦した

 今度は信州勢の逆襲に遭い、小栗出羽守は捕らえられ小栗信濃ロ守は御嵩城に逃げ帰り守備を固めたが追撃する信州勢は小原城を築き御嵩城と対立しついに小栗信濃守は敗戦し御嵩城は落城した

 この戦功で小笠原の臣平井頼母は高山城主になった

 永禄7年美濃侵略を謀り稲葉城を攻めた信長は翌8年さらに東方外郭の猿啄城・鵜沼城・堂洞城・関城を落とし、森可成を金山城主に封じ東濃地方に制圧に乗り出したが肥田・長谷川・小栗・奥村・斎藤氏ら在地部将は織田勢力(森氏)に抵抗した

 しかし、金山に至近距離にある小栗氏はまっさきに降伏し他の部将も圧服した

 元亀3年(1572年)武田信玄が岩村城主遠山影任を降し、秋山春近ら武田勢が東濃全域を席捲しその先鋒は小原城に拠って御嵩城下に及び御嵩城金山城とともに美濃勢反撃の最前線拠点となった

 天正3年(1575年)長篠の戦いでの武田軍の敗北を機に信長の反撃が始まり岩村城も攻略し東濃を回復した

 豊臣時代は平穏に過ぎ、慶長4年(1599年)金山城主森忠政が信州川中島海津城へ移封となり金山城廃城となり、合わせて御嵩城廃城となった

本丸跡(奥に見えるのが展望台) 全景

娘も奮戦及ばず自害
城主小栗信濃守は自害し、配下の者も四散しました。このとき小栗信濃守には、二十歳になる娘があり、
この戦いに娘も果敢に参戦し小里・遠山の軍勢と刃を交えたが、敗北と「父信濃守死す」の訃報に直面し、
父の跡を追って城の北側の断崖より見を投げて自害したと伝えられています。
自害したとされる場所は今も「廿ケ平」(はたちがひら)と呼ばれ今に伝わっています。

城が構えられた本陣山の地形は東西が峻険な斜面となり、北は可児川に面した崖という地理的にあり、
自然の要害として城を築くのに最適地であったといえます。
城本来の規模は今に至っても明確ではありませんが、本丸、二の丸、三の丸の各曲輪(くるわ)、
これを区切り更に防御の施設となる空掘、そして本丸などの施設を設けた山頂部より枝状に延びた尾根には、
人工的に造りだされた小平部の帯曲輪(おびくるわ)、腰曲輪(こしくるわ)物見などがかなり広範囲に設けられていたようです。

山すそには「愚渓寺」の二重塔、町の中には蟹薬師で有名な願興寺本堂が見えます。

次は「御嶽宿」へご案内します。

長岡交差点からから約480mで「御嶽宿」入口道標へ

街道コラム

【参勤交代制度の確立と改正】

武家諸法度の改正
 寛永十二年(1635)、武家諸法度が改定され、そのなかで参勤交代が確立された。「第二条 大名小名在 江戸 交替所相定也 毎年四月中可 致参勤」と参勤交代の時期や公役が定められ、このとき譜代大名は「別儀もて滞在」となって参勤交替からは除外されていたが、同十九年(1642)になり、6月あるいは8月の交代と定められた。
 ただし関東の譜代大名は2月と8月の半年交代と定められた。

費用節約のため法度を破る
 大名が参勤交代のために往来する街道は宝永元年(1704)三月に指定され、勝手に通行路を変えることは出来なかった。しかしその後指定された路を帰らない大名もいて、延享二年(1745)再度お御触れが出て、文政五年(1822)四月にも各街道の旅行分が
定められた。 それによると、中山道旅行の大名は行列三十疋で、東海道旅行大名の百四十六疋二比べて大きく開きがあり五分の一と少なく財政的に助かった。

        

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。